空気に潮の香りが漂い始めた。

空の色はわずかにその色調を変える。

海岸線に沿ってたくさんの樹が植えられていた。

この向こうには海があるんだってことが、何となく分かる。

防潮堤代わりの国道を乗り越えた。

 あたしが鬼の姿をはっきりと見たと覚えているのは、やっぱり小学生の時だ。

二年生くらいだったと思う。

友達数人と自転車で遠出をしていた。

ちょっとした冒険のつもりだったのに、道に迷ってすっかり帰りが遅くなってしまった。

太陽は沈み空は真っ赤に燃え上がり、すぐそこまで夕闇が迫っていた。

あたしたちは自分が今どこにいるのかも分からなくて、誰もが焦っていた。

本当に家まで帰り着けるのか、それすら信じられずにいた。

このまま世界から取り残されてしまうような気がして、ちゃんと言いつけを守らなかったことを、黙って遠くに行かないという約束を破ってしまったことを、後悔し始めていた。

 互いに非難をする余裕もなくなっていて、ただただペダルをこぎ続けた。

次第にハンドルを握る指先は冷たくなり、足も疲れてくる。

どうしてこんなことをしちゃったんだろう。

家から出なければよかった。

こんな冒険、言い出したのは誰だっけ? 

「自分は行かない」って、どうして断らなかったんだろう。

 見つけた公園で一休みした。

トイレに行きたいという子たちが連れだって行ってしまい、一人でベンチに座っていた。

背後から伸びてきた醜い手が、あたしの腕をつかむ。

引きずりこまれそうになるのを、なんとか踏ん張った。

「違うよ。こっちだよ。何してるの? ちょっとここで休憩していかない? お菓子あるよ。食べる? 大丈夫だから」

 そんな声が聞こえた。

叫びたくても恐怖で声が出ない。

「この道、来るときも通ったよね!」

 やっと戻ってきたみんなの姿が見えた。

仲間の誰かがそう言って周囲を見渡す。

鬼の腕はスッと姿を消した。

「あそこの病院、おばあちゃんが入院してるとこ!」

 遠くに見えたその建物には、確かに見覚えがあった。

車でいつも通る道沿いにある病院で、もう知っているところまで近い。

「近道しよう」

 自転車にまたがったみんなのところへ、あたしは駆けだした。

ただでさえ不安で一杯のところに、何も言えなかった。

目印となった病院を目指して進路を変えようという話しになった。

川沿いの遊歩道をずっと走ってきたのだから、そのまま道に沿って進んでいればよかったのに、あたしたちは方向転換した。

まだ鬼がこちらを見ていることに、気づいているのはあたしだけのようだった。

「そのまままっすぐ行こうよ」

「絶対こっちの方が近道だって!」

「どうして? この道を通ってきたのに……」

 一人にされるのが怖かった。

走り出したみんなの後に結局ついて行った。

低く唸るような鬼の声が聞こえ、背筋が凍る。

 結局その時の彼女たちの提案は正しくて、今になって地図をながめてみると、川沿いを行くより随分とショートカットされていた。

あたしたちは完全に真っ暗になる前にそれぞれに家にたどり着き、誰からも怒られずママも何も言わなかった。

「おかえりー。楽しかった?」なんてキッチンに立つママに言われて、「うん!」と元気よく答えた。

あたしはもう見えなくなった鬼の影におびえて、腕についた真っ赤なアザのことを誰にも言えずにいた。

 それ以来、鬼の存在を感じる度にこのアザは痛みだす。

反発なのか抵抗なのかは知らない。

成長するにつれその感覚は次第に大きくなり、ついに恐ろしいその姿を目撃してしまった。

 真っ赤に腫れ上がった顔に潰れた目。

太く短い角は何よりも禍々しく、吐く息は甘い異臭を放ち、その人を見下ろした。

伸ばされた筋肉質な腕とかぎ爪は彼女の腕をつかむ。

捕まったその人が喰われ、潰されていくさまを、怯えながら陰に隠れ息を殺し目も耳も塞いでやり過ごした。

もう二度とあんなものは見たくもないし、誰かを犠牲にさせるつもりもない。