心臓がどきどきしたまま校舎に入った。
多少早歩きではあったけど、それでもありえないくらい息が切れていた。
下駄箱で息を整えた。
__どうして急にそんなこと聞くんだよ。
こちらに向けられたあいつの顔を思い出して、僕はぞっとした。
嫌な汗が出てくる。
呼吸が落ち着かないまま教室に向かった。
教室に着くと、まだ残っている人がいた。
その人が坂井さんだとすぐに気づいて、教室に入るのがためらわれた。
坂井さんが窓際で外をぼんやりと眺めていた。
すぐそばの机の上には、あいつのかばんが無造作に置かれている。
外を見ていた彼女の頭がわずかに動いて、あいつのかばんを見下ろしている。
そして、手をそっとそのかばんに置いた。
指先で何かを慈しむように、かばんの表面をそっと撫でた。
僕は意を決して、ふらりと教室に入った。
別に意を決することなんて何もないんだけど、心臓の高鳴りを少しでも抑えようと必死だった。
僕が教室に入る気配に彼女が気づいて振り返った。
少し嬉しそうな表情を浮かべていたのに、入ってきたのが僕だと分かったからか、その表情が曇った。
僕たちは何も言葉を交わさなかった。
何も言わないままゴミ箱をもとに戻した。
それを見た彼女はぽつりと言った。
「あれ、園田君、掃除当番じゃないでしょ?」
「え、あ、うん。勝見が」
「勝見君も、掃除当番じゃないでしょ?」
「うん、まあ、ちょっといろいろあって」
言葉を濁す僕を、彼女は不思議そうな顔で見た。
でもその目は、もっと何か情報を求めている目だった。
彼女が何を聞きたいのか、僕はその目を見てわかっていた。
__「勝見君は?」
そう聞きたそうな目だった。
彼女の目にはかなわない、1年の時から。
だから、もっと何か答えないといけない。
彼女が求めている答えを。
「あいつのこと、待ってるの?」
それが図星だったからか、それとも、僕がそんなこと聞くとは思わなかったからか、彼女の瞳が大きくなる。
僕だって、いつもの僕ならそんなこと聞かない。
聞きたくても、聞かない。
だけど、今日の僕は、いや、今の僕は、ちょっと違った。
「あいつのこと、好きなの?」
「え?」と彼女はさらに目を大きくして後ずさった。
「そんなんじゃ……」
「じゃあなんで待ってるの?」
彼女の言葉を遮るように、僕の言葉が棘のように放たれた。
否定されたところで、それは嘘だってわかっている。
「ああ、そうなんだ」って納得して気が済むほど、僕はお人好しじゃない。
彼女はしばらく何も言わなかったけど、窓際にもたれかかって静かに話し始めた。
「勝見君は、私のこと、どう思ってるんだろう」
僕の質問に対する答えが返ってきたわけではないけど、その問いが答えだということぐらい、僕にもわかる。
「園田君にこんなこと聞いても、わかんないか」
へへっと彼女は照れたように笑う。
「坂井さんは、どうなの?」
彼女は下を向いてやっぱり答えなかった。
「あいつのことが、好きなの? それとも、まだ、本田のことが好きなの?」
その名前に、彼女が一瞬体をこわばらせたのが分かった。
でも、すぐにふーっと鼻から息を吐いて、肩を落として言った。
「そうだよねえ、みんな知ってるよね、私が本田君好きだったこと。
加奈子、声大きいからなあ。いやんなっちゃう」
彼女は参ったなあという感じで、明るく言った。
下を向いたときにはらりと落ちた横髪を、そっと耳にかけなおして、はあっと大きくため息をついた。
「カッコ悪いとこ見られちゃったなあ。
もう放っといてほしいよね。とっくにフラれてるんだから。
わざわざ彼女ができた報告なんてしてくれなくていいし。
どんだけ私をみんなの前で惨めにするのよ。
クラス中っていうか、学校中の笑いものだよ。
いつまでも追いかけてる、未練たらたらのイタイ子だって」
彼女はおかしそうに話すんだけど、自分で発するその言葉のひとつひとつに傷ついているのが僕にもわかった。
「そりゃあまだフラれたばっかだし、本田君見るとやっぱかっこいいなあって思うよ。
彼女までできちゃって、ショックというか悔しいというか。
未練みたいなのは、確かにあるのかもしれないけど。
でも、まだ好きかって聞かれたら、それも違う気がするし。
っていうか、そもそももう好きでいたってしょうがないし。
フラれちゃったんだから」
彼女は終始おかしそうにそう話した。
「自分でもよくわからないんだよね。自分のことなのにね」
最後の言葉だけは、ちょっと調子が変わった。
彼女は僕と視線を合わせず、教室の天井に、何か切ない思いを描きながら話しているようだった。
その表情は難しそうな、寂しそうな、おかしそうな、とにかくいろんな感情を絵の具でぐちゃぐちゃに混ぜているようだった。
「でもね、今は、本田君のことが好きかどうかなんて、もうどっちでもいいんだ」
うん、うんと黙って聞いていた僕も、その言葉を聞いて「え?」と思わず小さく声が出た。
「別に強がりじゃないよ」と彼女は念を押すように言った。
「今追いかけたいのは、本田君じゃなくて、勝見君だから」
その言葉は、僕の耳を突き抜けて全身を震わせた。
僕の体からすべての力を奪っていくようで、立っているのもつらかった。
わかっていたけれど、彼女の口から直接聞くのは、やっぱり、きつい。
「それにしても、勝見君には本田君のこと知られたくなかったなあ。
はあ、もう最悪。
勝見君にも、かわいそうとか思われてるのかなあ。
ほんとかっこ悪いなあ、私。
せっかく新しい恋が始まったと思たんだけどなあ」
「あいつに、はっきりそう言えばいいじゃん。
本田のことは、もうそんなんじゃないって」
「そんなこと、言えないよ。
園田君もさっきの私の話、聞いてて思ったでしょ?
それは強がりだって。
本田君のこと忘れるために、勝見君のこと好きになってるって。
言ってる自分がそう思うんだもん。
正直私もどっちかよくわかんないし」
彼女は努めて明るく言うんだけど、僕に背を向けていた。
だけど、その震える声から放たれる言葉は、だんだん夕日が落ちて薄暗さが増していく空の中に吸い込まれて消えていくばかりだった。
「もうこんな自分、嫌だなあ」
彼女の小さな声は、薄暗い教室の中を静かにわたっていく。
「こんな私を、勝見君は好きになってくれないよ」
その声に誘われるように足が動いた。
ぐすん、ぐすんと洟をすするたびに、寂しそうな背中が揺れる。
僕はその背中に近づきたくて、触れたくなって、そう思ったら、また足を一歩、二歩と踏み出していた。
「こんな私じゃ、ダメだよね」
彼女は「ははっ」と無理に声を出して笑う。
そんな彼女の姿に、僕の胸は張り裂けそうだった。
それに耐えられなくて、眉間に力がこもって目をぐっとつぶった。
鼻から大きく息を吸い込んで、ふーっと吐きだして、顔を上げた。
「僕は、それでもいいよ」
「え?」
彼女は驚いた表情でゆっくりと僕の方を振り向いた。
僕は、振り絞れるだけの声を出して言った。
「それでも僕は、坂井さんのことが、好きだよ」
情けなく声が震えていた。
走ってもいないのに呼吸が乱れて、小さく息が切れていた。
時間が止まったように静かだった。
だけど心臓は大袈裟に脈打ってうるさかった。
大きく見開かれた彼女の目に、僕はどう映っているんだろう。
想像したら、笑いがこみあげてきた。
__はあ、だめだ。
僕には全然、似合わない……
僕は真剣に彼女を見つめる表情をふっと緩めた。
「……って、言うんじゃない。あいつだったら」
僕は笑顔で言ったつもりだった。
笑顔でいられただろうか。
こんな切ない気持ちを抱えたままで。
「そう、かな」
彼女は肩を落として、まだ不安そうな表情をしていた。
「あいつの気持ちには、もう気づいてるんでしょ?」
「うーん……」って彼女は微妙そうな顔をする。
でも、何となく口元が緩んでいるのがわかる。
素直で、わかりやすい。
「自信ないんだあ。また、一目惚れだから」
「え?」
「一目惚れから始まる恋なんて、上手くいきっこないんだもん。
今までもそうだったし、本田君のことも、そうだったから。
わかってるのに、懲りずに一目惚れから始まる恋ばっかりしてるんだよね、私。
面食いだから。
でも、ひとつもうまくいったことなんてなくて。
勝見君のことも…………そんなだから、怖いん、だよね」
僕の口から、ふーっとため息のようなものが漏れた。
他人の恋の後押しなんて、そんなキャラじゃないから。
ましてやこの恋の後押しなんて、そんな役割を僕に任せるって、ほんとヒドイ。
「あいつは……」
僕は覚悟を決めて口を開いた。
「あいつは、イケメンじゃないよ。
それに、口悪いし、意地悪だし、下心だって満載だし、面倒なことから逃げるのが上手くて、ただのサッカー好きなサッカー部員で、パイオニアでもカリスマでもない。
本田とも、広瀬とも全然違う」
僕の口から勢いよく吐き出される悪口を、彼女は呆気にとられた感じでぽかんと聞いていた。
だけど僕はかまわず続けた。
「恋愛とか彼女とかに縁のない奴だからさ、さっき坂井さんにあんなこと言われて、落ち込んで、今もテニスコートの前でひどい顔しながら女子と一緒に、本田のこと見てんだよ。
その情けない姿、坂井さんにも見せてあげたいよ。
そんなあいつ見たら、坂井さんもきっと……」
__なあ広瀬。
あいつの背中は押せないけど、彼女の背中なら、押してあげたい。
「きっと、放っておけないと思うよ」
喉をぐっと締め付けようとする力に、僕は必死で抵抗しながら言った。
「あいつ、坂井さんのこといつも目で追ってるんだよ。
見てるこっちが恥ずかしいくらい。
よく飽きずに見てられるねって言うくらい。
それがどういう意味か、坂井さんには、わかるよね?」
ここで「うん」なんてはっきり即答されたら、きっと僕は今すぐにでも足からボロボロと音を立てて崩れ落ちていくだろう。
そうなる前に、僕は彼女から目をそらして、言葉を継いだ。
「あいつさ、情けないとこはいっぱいあるけど、かっこいいとこなんてひとつもないよ。
地味で、存在感薄くて、本当に空気みたいなやつで」
「……空気……」
そうぽつりと唱える彼女の声が、かすかに聞こえたような気がした。
「空気ってさ、目には見えないけど、そこには必ずあるじゃん。
あいつは、そういうやつなんだよ。
坂井さんのそばにいられなくても、坂井さんに好きな人がいても、坂井さんがその人のこと諦められなくても、忘れられなくても、あいつを好きかどうかわからなくても、あいつの気持ちはいつだって、坂井さんの近くにあるんだよ。
空気みたいに、無条件でそばにいて、どんな坂井さんのことも、受け止めて、包み込んでくれるよ」
__はあ、何言ってんだろう。
言ってて恥ずかしい。
途切れ途切れに僕の口から出た言葉たちが、ぽろぽろと落ちていくのを僕は見ていた。
言えばいうほど、僕の目には、今にもあふれんばかりの液体が並々とたまっていった。
顔を上げた瞬間、溢れてしまいそうなほどだ。
それならもうこれ以上、言わなきゃいいのに。
「ああ、そういう意味なんだ」
彼女の思いのほか明るい声が放たれて、「え?」と僕は思わず顔を上げてしまった。
「ありがとう、園田君」
ほんの一瞬だけ見えた彼女の表情は、先ほどよりもずっとすっきりしているように見えた。
そして、彼女はまた背を向けて、窓から見える残りわずかとなった夕焼け空を仰いだ。
「わかってるんだあ、私だって」
ぐすんと、彼女が洟をすするのが分かった。
「ああ、ダメだあ……、私、やっぱり、勝見君好きだなあ」
声が震えていたけど、僕にはわかる。
坂井さんは、笑って言ったんだ。
流す涙は、嬉し涙だってことを。
彼女は窓の外を見つめたまま、こちらを振り返ることはなかった。
僕には、その窓から見える消え入りそうな夕焼けさえまぶしすぎて、見ていられないほどだったのに。


