いろんな思いを抱えたまま、その日の最後の授業を迎えた。
最後の授業は、生物だった。
授業前に生物室へ移動するよう放送がかかり、俺たちはいそいそと生物室に向かった。
ギリギリで教室について席の方を見ると、もう坂井さんはそこにいた。
その背中は元気がなくて、時間を持て余すように机をなでている。
その姿がはかなげだった。
俺が席に着くと、坂井さんの体が一瞬びくっとなった。
目が合うと、彼女はすぐに目をそらした。
目が合って不意にそらしたというより、目を合わせないようにしているのがわかって内心ショックだった。
生物室での授業は顕微鏡で植物の葉脈や茎の断面を観察する内容だった。
また観察だ。
生物という科目はなぜこうも観察を好み、絵を描かせたがるんだろう。
ただ、顕微鏡は俺たち男子のかっこうのおもちゃだった。
植物以外にも、授業と関係ないものを何かと見つけてはのぞき込んで興奮していた。
その合間にちらりと盗み見る坂井さんは、視線を下げてやはり俺と目を合わせないようにしていた。
それどころかこの至近距離でさらに距離をとろうともしていた。
顕微鏡を交代で見るタイミングがかぶろうものなら、わかりやすくそのタイミングをずらす。
少しでも触れそうになると、ささっと移動する。
まるで俺から逃げるかのように。
なんだか、気まずい空気。
そもそもなぜ気まずくなるのだろう。
だって、俺たちの間にははじめから何もないんだから。
シャープペンをくるくる回しながら書きかけのプリントに目を落とす。
時々花瓶に刺さった植物の方に目をやると、どうしても坂井さんの姿が目に入る。
偶然目が合うと、また慌てて視線をそらされる。
そんな坂井さんの姿に、だんだん苛立ってくる。
下を向いていた彼女の顔に、髪がさらりと落ちる。
柔らかなその髪を、彼女は手ですくいあげる。
そこでまた目が合った。
でもすぐにお互い目をそらした。
なぜか俺までそう反応してしまう。
__あー、もう、何やってんだよ。
どんどん苛立ちが隠せなくなってくる。
終業のチャイムが鳴って、書いた人から提出して終わり。
今日最後の授業だから、書き終わるまで帰れない。
俺のプリントは途中で止まっている。
このままでは部活にも行けない。
でももう、部活に行きたい気分でもない。
目の前には坂井さんがいる。
彼女はやっぱり苦戦しているようだ。
彼女はプリントとにらめっこしている。
難しい顔をして唇を突き出している。
そんな顔が、急に愛おしくなる。
イライラして張りつめていた気分が、急に緩んでくる。
数学の問題が解けないでいるときのあの顔。
もうすでに懐かしく感じる。
そんな記憶に浸りながら、俺はいつの間にか、坂井さんのことをじっと見ていた。
少し眺めていただけなのに、時間はずいぶん経っていたのか、机には俺と坂井さんしかいない。
ふと目が合った。
だけど彼女は、目をそらさなかった。
突然の行動の変化に、一瞬戸惑った。
女子って難しい。
これは、どういう意味なんだ。
目をそらしたり、合わせてきたり。
何かを待っているのか?
俺も目を合わせたまま止まっていた。
これから、どうするのが正解なのだろう。
その視線に俺の方が耐えられず、ふと彼女の手元に視線を落とすと、仕上がった観察記録が目に入った。
頬杖をついたまま首を伸ばすと、それに合わせてプリントが逃げていく。
「な、なに?」
不審そうに彼女が聞いた。
「見せてよ」
「今回は本当にダメ。我ながらひどい」
「そうだろうね」
「うるさいなあ。
勝見君だってそんなに変わんないでしょ」
「俺のも見せようか?」
「別に見せなくてもいいよ」
彼女は機嫌を損ねたのか、よっぽど俺と絡むのが嫌なのか。
今日は手強かった。
「まあまあ、そう言わずに」
こんなことをしたら嫌われるだろうか。
俺は前のめりになって彼女のプリントを覗き込もうとした。
彼女はどんどん離れていく。
そのうち、彼女はもう逃げられないところまできていた。
気づいたら、彼女の顔が信じられないほど近いところにあった。
俯いた彼女の顔を覗き込むような体勢で俺は彼女に迫っていた。
__ヤバい。
でも、ここで引けない。
彼女の顔の輪郭を目でなぞっていると、彼女の耳元でふわふわと揺れる柔らかそうな髪の毛が、俺を呼んでいるような気がした。
__えっと、何だろう、次の言葉は……。
「また、数学教えてあげるから」
とっさに出たのは、そんなズルい言葉だった。
その言葉に彼女が一瞬息を止めたのが分かった。
ゆっくりと視線が上げられた。
その目の表面がうっすらと潤いをまとっている気がした。
それは気のせいではない。
彼女の思わぬ表情に、一瞬たじろいだ。
坂井さんは口元をゆがませて、しばらく何かをこらえていたけれど、ようやく振り絞るように声を出した。
「よかったあ。
また、数学当てられてたんだよね」
表情は笑っているように見えたけど、ほんの少し声が震えていた。
緊張の糸がほぐれて、何かに安堵したように、彼女から力が抜けていくのが分かった。
__よっぽど深刻なのか、数学。
何はともあれ、自分の選んだ言葉が正しかったようで、俺もほっとした。
俺が書き上げるのを待って、プリントを交換した。
「せーの……」も言わず裏返す。
「下手だなあ」
意見の一致は気持ちがいい。
俺たちの間には何もなくても、俺の中では、彼女への気持ちが確実に育っていた。


