夜風から、刃物のような鋭い寒さはすっかり和らいだが、心地よい、といえる程度のひんやり感はまだ感じる季節。
 世間の酒好き様がひとしきり呑み終わって、終電に乗り帰路についた頃であろうこの時間になると、柚那(ゆな)の住んでいる街はすっかり人通りもまばらになる。柚那(ゆな)はいつも慣れた道を、冬から春へと変わりゆく季節の空気を感じながら、ゆったりと歩いていた。

「まさか、香散見草(かざみぐさ)の丘をアプリコットの納品場所に指定するなんてね」

 柚那(ゆな)の緯線の先には、濃いピンク色の花を盛大に咲かせている、あの大きな香散見草(かざみぐさ)の樹が見えた。
 香散見草(かざみぐさ)の丘は、近所では有名なデートスポットらしいが、さすがにこの刻限ではカップルの姿もない。時間的にも、いわゆるお楽しみタイム真っ盛りの時間だろう。
 ――そういえば、アプリコットも香散見草(かざみぐさ)も、バラ科サクラ属の親近種だったわね。
 ふとそんなことを思い、柚那(ゆな)は自然と静かに笑った。
 風が運ぶ、濃厚な芳しい甘い香りを感じながら、柚那(ゆな)は丘の頂上へと続く階段を登ってゆく。そして、柚那(ゆな)は階段を上りきり、見慣れたその頂上へと到達した。
 見慣れた香散見草(かざみぐさ)の丘で、いつもと違うのは、その巨木の側にひとりの人影があることだった。
 上等なドレスシャツにスラックス身につけ、少し線は細めだが、骨格がしっかりしたその姿……たとえ10年の時が過ぎても、そのかつて見慣れた後ろ姿を柚那(ゆな)が見間違えることはない。

梓真(あずま)様?」

 納品には苺香(まいか)ではなく、代わりの者が香散見草(かざみぐさ)の丘に向かうとは聞いていたが、あまりにも予想外の人物に、柚那(ゆな)は半信半疑の様子で誰何する。

「探した。10年」

 静かな……静かなひと言とともに振り向いた男性は、十分に大人の姿へと成長した、かつて柚那(ゆな)が仕えた和気宮(わけのみや)家の長男、和気宮(わけのみや)梓真(あずま)だった。

「なんで、梓真(あずま)様が……?」
苺香(まいか)君は和気宮(わけのみや)家の、今の当主たる私の使用人だから……彼女が持ち帰った柚那(ゆな)の名刺を見て、目を疑うと同時に、ほっとしたというか、何より生きていてくれたことが……」

 梓真(あずま)は感情を抑え、言葉を選びながらも詰まらせながら、柚那(ゆな)の誰何に応えてゆく。
 とりあえず、梓真(あずま)がここにいる理由は分かったが。

梓真(あずま)様、このアプリコットは、梓真(あずま)様が?」

 柚那(ゆな)は、小さな手提げアルミケースからタブレットを取り出す。

「ああ。どうしても、この電書魔術を贈りたい相手がいるから。無理を言ったね」

 梓真(あずま)柚那(ゆな)に歩み寄ると、アプリコットのみがインストールされたタブレットを受け取る。そして、すぐに電源を入れてタブレットを起動させた。

柚那(ゆな)、使い方は?」
「はい、ドレスは一種類のみしか入っていません。発動のさせ方は、一般的なePUGと同じですが、この電書魔術の性質上、最上級MANA大量消費型ePUBよりも、さらに3倍のMANAを一気に使用しますので、発動できる環境は限られると思います」

 電書魔術を発動させるには、空中浮遊させているMANAと呼ばれる物質をエネルギーとして消費するのだが、そこまで来ると、一ブロック当たりのMANAを全て一瞬消費してしまうような量といっていい。
 人為的に、MANAの濃度を高くした空間を作って発動させない限り、自然環境下ではうまくアプリコットは発動しないと思われた。

「そうなのか……しかし、この香散見草(かざみぐさ)の丘は、気流の流れの影響かMANAの濃度が地上よりもかなり濃い。発動させるには問題ないと思う」

「えっ……?」

 梓真(あずま)の言葉に、柚那(ゆな)は一瞬驚いた声を上げた瞬間、梓真(あずま)はタブレットを操り、アプリコットを発動させた。
 タブレットの画面には、香散見草(かざみぐさ)の花の色に輝く魔方陣が描かれ、伸びた光の粒子は柚那(ゆな)を強く包み込む。
 香散見草(かざみぐさ)の丘が、数秒にわたり光り輝いたその後には。
 紫と紅をベースにした派手な和風柄カラードレスを身に纏い、呆然と今起きた事態が呑み込めないままの柚那(ゆな)がいた。

 そう。

 柚那(ゆな)が選んだ、シンデレラのような素敵なドレスの実物は、16歳のあの日に梓真(あずま)と見て纏いたいと望んだ、あのとても華やかな和柄のカラードレスだった。
 今は、ある皇室系の施設の奥で非公開展示になっているらしい、という所まで突き止めた柚那(ゆな)は、こっそり施設に忍び込んでカラードレスを侯爵家の遺した電書魔術を使い取り込んだのだが、そんな立派な不法侵入行為は秘密である。

「え……?」

 柚那(ゆな)は両手を交互に見て、さらに自分の姿を見渡しながら、自ら作った電書魔術を、自らの身にかけられた事態を把握する。

柚那(ゆな)。私の側にすっと、永遠にいてくれないだろうか」

 香散見草(かざみぐさ)の咲く丘で、芳しい恋を思わす香りに包まれながら、その香散見草(かざみぐさ)にも劣らぬ華やかに咲いた一輪の花に、男は10年の時を越えた思いの丈を口にした。

「でも、私、私……あのお屋敷に戻るのは……」
「大丈夫。もう柚那(ゆな)を傷つける者は和気宮(わけのみや)家にはいない」

 梓真(あずま)は、柚那(ゆな)を優しく抱き寄せる。

「いつか今この瞬間が来ることを信じて、柚那(ゆな)を傷つけた者を此の世から消すという、私もひとつの人には言えない罪を背負ったから」

 強く、先ほどよりも冷たさがある春風が吹き、香散見草(かざみぐさ)の枝と花は、優しく揺れて音を立てる。

「汚れた手の私でも、柚那(ゆな)は私と添い遂げてくれるだろうか?」

 梓真(あずま)は、柚那(ゆな)の瞳を見つめながら再度問う。

「汚れた体の私でも、梓真(あずま)様は私を伴侶にと望まれるのならば」

 柚那(ゆな)は、梓真(あずま)をまっすぐ見上げながら、心の奥に十年間囚われていたその想いを解き放った。
 香散見草(かざみぐさ)の丘の頂上で、ひと組の男女が強く抱き合う姿は、誰の目にも止まることはなかった。

「それにしても、梓真(あずま)様」

 香散見草(かざみぐさ)の樹の下にあるベンチに並んで座る柚那(ゆな)は、うっとりふわふわとした心持ちに身を任せながら、隣に座る梓真(あずま)に問いかけた。

「私にプロポーズするためだけに、わざわざ私にアプリコットを作らせたんですか?」

 いじわる、と最後に小さく言いながら、柚那(ゆな)梓真(あずま)の太ももに「の」の字を人差し指で書く。

「私は凝った演出が好きなんだ。柚那(ゆな)も知ってるだろう?」

 梓真(あずま)はいけしゃあしゃあと言い放つ。

「なんてね。柚那(ゆな)はePUGとか電書魔術について、あまり言い感情を持っていないと思ったんだ」
「電書魔術の総本山たる電魔局にもかつて勤めて、ePUGカスタマイズの仕事をしている私が、ですか?」

 柚那(ゆな)は可笑しそうに笑いながら、穏やかに答える。
 しかし、「の」の字を書く柚那(ゆな)の指の力は、自然と強くなっているのに梓真(あずま)は気づいていた。

梓真(あずま)様には敵いませんわ。そう、私は電書魔術が憎たらしい」

 柚那(ゆな)からうっとりとした声色は消えていた。
 確かに和気宮(わけのみや)家を出てから、自分の生きる道を切り開いてくれたのは電書魔術ではあった。
 しかし同時に、柚那(ゆな)の女としての清浄と幸せを断ち、梓真(あずま)とを未来を引き裂いたのもまた電書魔術の力だったのだから。
 捕縛用の電書魔術をかけられたときのあの恐怖は、いまだに柚那(ゆな)から消えてはいない。

「だから、柚那(ゆな)に自分の力で、電書魔術で、自分の幸せへの扉を再び開いて欲しかったから」

 梓真(あずま)は、ePUGの力でシンデレラのごとく変身した柚那(ゆな)の肩を抱き寄せる。

「いま、柚那(ゆな)は幸せ?」

 柚那(ゆな)は、かつて夢見たドレスに身を包んだ自分自身を見渡してから、梓真(あずま)に上半身をゆっくりと預けた。

「ええ。だって梓真(あずま)様と再び一緒になれたのですもの」

 移りゆく長い時を見つめてきた香散見草(かざみぐさ)の樹は、愛する2人を包むように優しく見つめているようだった。