「珍しい来客だな」
初老の男性は、本が散乱しているテーブルとソファを軽く片付けながら、柚那を手招きする。
「先生の研究室、相変わらずですね。モノ散らかりすぎです」
「研究者とはそういうものなのさ」
教え子の言葉を、意に介する様子もない初老の男性。柚那の母校でもある電魔局付属大学校の手狭な教官用研究室は、古書や学術論文でびっしりと占有されていた。
「去年電魔局は退官したと聞いたが、まああれか、いわゆる寿退官かね」
「いいえ、色々ありまして、自分で今はePUGカスタマイズ職をやっています」
柚那と初老の男性は、ソファに向かいになって腰掛けると、お互い缶コーヒーのプルタップを開けながら答える。初老の男性こと柚那の学生時代の指導教官は、昔からこの缶コーヒーを愛飲していた。
「そうかそうか、自立したか。まあ風美草君の生活ができているなら、それはそれでいいことだ」
教官は缶コーヒーをひと口飲む。
「それで。この年の瀬に、缶コーヒーを奢りに遠路はるばる会いに来たわけではあるまい」
「もちろんですわ。先生、実は、『シンデレラのように、一瞬で女性が素敵にドレスアップできるePUGを作って欲しい』という案件に出くわしちゃいまして、それで技術面のご相談に……」
そう。
柚那はePUGの組み方に困った挙げ句、和気宮家を飛び出してから逃げ込むように入学した、電魔局付属大学校時代の指導教官を訪ねたのだった。
依頼の内容を聞いた教官は、実におもしろそうに声を上げて笑う。
「こりゃまた、なかなか珍奇なePUGの依頼を受けたな」
「そりゃ笑うに値するシロモノですが、実際作る方としては笑いごとではありませんわ先生」
柚那は缶コーヒーを一気にあおる。
「然り。召喚系ePUGの流用ではなく、物質を無から構成するならその難易度は極めて高いな……どれどれ」
教官は落ち着いた雰囲気で柚那の愚痴に答えると、ソファを立ち上がり奥から数枚のコピー紙を手にして戻ってきた。何やら白黒で古文書がプリントアウトされているようだった。
「つい先日、欧州で18世紀中頃のものと見られる、非常に興味深い手記の一部が見つかってな」
言いながら教官は、そのプリントアウトされたコピー文書をテーブルの上に並べていく。
「ある侯爵家の手記のようなものだろう、と推定されておる。火災に遭ったらしく伝存したのはごく一部らしいのだが……その頃は当然ながら、電書魔術のデの字も存在しない時代だ……気づいたかね、風美草君」
5枚のコピー紙を並べ終えると、再び教官は余裕の表情で、ゆったりとソファに座り柚那に問いかける。
柚那はじっとコピー紙を見ることコンマ1秒。
「先生、私ラテン語読めません。英語とイスパニア語はできますけど」
「……」
一瞬の気まずい沈黙は、ほんの数秒だったか。
「そ、そうか……まあ風美草君は、飛び級するほど優秀な教え子ではあったが、ラテン語は履修科目にないから、さもありなんか」
教官は気を取り直すと、3たび缶コーヒーをそっとひと口。
「不思議なことに、この侯爵家手記に書かれているのは、解読したところePUGのプログラミング言語の一部ではないかという推論が、先日欧州の学術論文で発表された。この時代に何でこのようなものが……というのがちょっとした話題になった」
「ミステリーやオーパーツの都市伝説としては興味深いですが……」
柚那は名前も知らないコウシャク家の書いた、読めもしないラテン語の怪文書を眺めながら、気のない様子を見せる。
「肝心なのはここからでな。
この侯爵家手記の内容、私も研究してePUG用の言語にしてみたのだが、取り込んだ物質をコピー生成し、ePUG内にひとつだけ封じ込めることができる、ということができそうなのだよ。まだ実験はしてないがね」
「それって……」
柚那は顔を上げて、恩師の表情を見やる。
「うむ。そのシンデレラのような素敵なドレスの実物は、別途必要なのだろうが、それを取り込んでePUGの中に封じ込めることができれば」
「あとは、それを召喚できるように構成すれば……」
柚那の言葉に、教官は穏やかな表情で頷く。
「あとで翻訳したものはメールで送ろう。
まあ、頑張りなさい。その電書魔術を必要とする者がいる限りは、それに応えるのが我々技術者の矜持なのだから」
「もしもし、式野さん?」
教官と会ってさらに2ヶ月後。
柚那は、リビングで依頼主の使用人こと苺香へ、ビジュアルフォンを繋いでいた。
「ご無沙汰していますわ、風美草さん」
白い女性用ワイシャツに黒いスラックスという、よくある華族の使用人の平服に身を包んだ苺香は、穏やかな表情で優雅に会釈をする。
しかし、その格好の苺香を見る柚那の内心は、あまり穏やかではない。苺香に罪はないのだが。
「ご依頼いただいていたePUGだけど、ようやく完成したわ」
「まあ」
ビジネスライクな柚那の冷ややかな声に、苺香は嬉しそうに顔をほころばせる。
「ePUGの名前は《アプリコット》としたわ」
「アプリコット、ですか?」
「ええ。今回のePUGを作るに当たって、その基礎を築いたいにしえの侯爵家に敬意を表して、ね」
教官から解析結果とともに送られてきた、侯爵家手記の翻訳の最後の単語は、「アプリコット」で途切れていた。本当はその先があったのか、あるいは書きかけで絶命したのか。その侯爵家が記した最後の単語から、柚那は名前を取ったのである。
「それで、このePUGはオンライン回線経由でインストールができない特殊構造になってしまったから、アプリコットを直接プリインストールした、市販の新品端末ごと納品させていただくわ」
柚那は、市販品ながら傑作機として知られる小型タブレットを右手に持ち、苺香へ見せる。
「わかりました。問題はないと思います。
それで、納品の期日と場所なんですが……こちらから指定させていただいてもよろしいですか?」
苺香が指示した場所は、柚那にはかなり意外なところだった。
初老の男性は、本が散乱しているテーブルとソファを軽く片付けながら、柚那を手招きする。
「先生の研究室、相変わらずですね。モノ散らかりすぎです」
「研究者とはそういうものなのさ」
教え子の言葉を、意に介する様子もない初老の男性。柚那の母校でもある電魔局付属大学校の手狭な教官用研究室は、古書や学術論文でびっしりと占有されていた。
「去年電魔局は退官したと聞いたが、まああれか、いわゆる寿退官かね」
「いいえ、色々ありまして、自分で今はePUGカスタマイズ職をやっています」
柚那と初老の男性は、ソファに向かいになって腰掛けると、お互い缶コーヒーのプルタップを開けながら答える。初老の男性こと柚那の学生時代の指導教官は、昔からこの缶コーヒーを愛飲していた。
「そうかそうか、自立したか。まあ風美草君の生活ができているなら、それはそれでいいことだ」
教官は缶コーヒーをひと口飲む。
「それで。この年の瀬に、缶コーヒーを奢りに遠路はるばる会いに来たわけではあるまい」
「もちろんですわ。先生、実は、『シンデレラのように、一瞬で女性が素敵にドレスアップできるePUGを作って欲しい』という案件に出くわしちゃいまして、それで技術面のご相談に……」
そう。
柚那はePUGの組み方に困った挙げ句、和気宮家を飛び出してから逃げ込むように入学した、電魔局付属大学校時代の指導教官を訪ねたのだった。
依頼の内容を聞いた教官は、実におもしろそうに声を上げて笑う。
「こりゃまた、なかなか珍奇なePUGの依頼を受けたな」
「そりゃ笑うに値するシロモノですが、実際作る方としては笑いごとではありませんわ先生」
柚那は缶コーヒーを一気にあおる。
「然り。召喚系ePUGの流用ではなく、物質を無から構成するならその難易度は極めて高いな……どれどれ」
教官は落ち着いた雰囲気で柚那の愚痴に答えると、ソファを立ち上がり奥から数枚のコピー紙を手にして戻ってきた。何やら白黒で古文書がプリントアウトされているようだった。
「つい先日、欧州で18世紀中頃のものと見られる、非常に興味深い手記の一部が見つかってな」
言いながら教官は、そのプリントアウトされたコピー文書をテーブルの上に並べていく。
「ある侯爵家の手記のようなものだろう、と推定されておる。火災に遭ったらしく伝存したのはごく一部らしいのだが……その頃は当然ながら、電書魔術のデの字も存在しない時代だ……気づいたかね、風美草君」
5枚のコピー紙を並べ終えると、再び教官は余裕の表情で、ゆったりとソファに座り柚那に問いかける。
柚那はじっとコピー紙を見ることコンマ1秒。
「先生、私ラテン語読めません。英語とイスパニア語はできますけど」
「……」
一瞬の気まずい沈黙は、ほんの数秒だったか。
「そ、そうか……まあ風美草君は、飛び級するほど優秀な教え子ではあったが、ラテン語は履修科目にないから、さもありなんか」
教官は気を取り直すと、3たび缶コーヒーをそっとひと口。
「不思議なことに、この侯爵家手記に書かれているのは、解読したところePUGのプログラミング言語の一部ではないかという推論が、先日欧州の学術論文で発表された。この時代に何でこのようなものが……というのがちょっとした話題になった」
「ミステリーやオーパーツの都市伝説としては興味深いですが……」
柚那は名前も知らないコウシャク家の書いた、読めもしないラテン語の怪文書を眺めながら、気のない様子を見せる。
「肝心なのはここからでな。
この侯爵家手記の内容、私も研究してePUG用の言語にしてみたのだが、取り込んだ物質をコピー生成し、ePUG内にひとつだけ封じ込めることができる、ということができそうなのだよ。まだ実験はしてないがね」
「それって……」
柚那は顔を上げて、恩師の表情を見やる。
「うむ。そのシンデレラのような素敵なドレスの実物は、別途必要なのだろうが、それを取り込んでePUGの中に封じ込めることができれば」
「あとは、それを召喚できるように構成すれば……」
柚那の言葉に、教官は穏やかな表情で頷く。
「あとで翻訳したものはメールで送ろう。
まあ、頑張りなさい。その電書魔術を必要とする者がいる限りは、それに応えるのが我々技術者の矜持なのだから」
「もしもし、式野さん?」
教官と会ってさらに2ヶ月後。
柚那は、リビングで依頼主の使用人こと苺香へ、ビジュアルフォンを繋いでいた。
「ご無沙汰していますわ、風美草さん」
白い女性用ワイシャツに黒いスラックスという、よくある華族の使用人の平服に身を包んだ苺香は、穏やかな表情で優雅に会釈をする。
しかし、その格好の苺香を見る柚那の内心は、あまり穏やかではない。苺香に罪はないのだが。
「ご依頼いただいていたePUGだけど、ようやく完成したわ」
「まあ」
ビジネスライクな柚那の冷ややかな声に、苺香は嬉しそうに顔をほころばせる。
「ePUGの名前は《アプリコット》としたわ」
「アプリコット、ですか?」
「ええ。今回のePUGを作るに当たって、その基礎を築いたいにしえの侯爵家に敬意を表して、ね」
教官から解析結果とともに送られてきた、侯爵家手記の翻訳の最後の単語は、「アプリコット」で途切れていた。本当はその先があったのか、あるいは書きかけで絶命したのか。その侯爵家が記した最後の単語から、柚那は名前を取ったのである。
「それで、このePUGはオンライン回線経由でインストールができない特殊構造になってしまったから、アプリコットを直接プリインストールした、市販の新品端末ごと納品させていただくわ」
柚那は、市販品ながら傑作機として知られる小型タブレットを右手に持ち、苺香へ見せる。
「わかりました。問題はないと思います。
それで、納品の期日と場所なんですが……こちらから指定させていただいてもよろしいですか?」
苺香が指示した場所は、柚那にはかなり意外なところだった。