「うーん、思ったより難しいわねこれ」
依頼を受けてから2ヶ月。
柚那は作業用コンピュータの前で、渋い声を上げながらホットココアを桜色の唇に持っていく。飲み慣れた味のホットココアまで、いつもよりビターっぽく感じる。
歌手や舞台俳優が使う、早着替えePUGをベースにして作ることにしたのだが、通常の早着替えePUGは、着ている衣装を脱衣してから、あらかじめ用意された衣装を装着させていく方式。現物がありもしない衣装を用意して着替えさせるのは、簡単ではなさそうだ。
「どうしたものかしらねー……うん、こういう時はさっさと寝るが一番。また明日」
もうすぐ日付が変わる時刻になっていた。柚那はうーんと背伸びをすると、バスルームに向かい沸かしてあったお風呂に入る。
風呂上がりにレモン水を飲み、桃色ストライプのパジャマに着替えてベッドに直行する柚那。いつも寝付きは早いほうだったが、今日はePUGのことで悩みがあるからか、なかなか睡魔は襲ってこなかった。
「素敵な衣装、ねぇ……」
外は季節外れの夕立なのか、大きな雨粒が無機質な街並みをしたたかに打ちつけている。単調なリズムを刻むその音を聞きながら、仰向けになっている柚那は、いつの間にか昔のことを思い出していた――
――紫と紅をベースにした派手な和風柄カラードレスを見て、柚那は目を輝かせていた。
「わあ、何て綺麗で素敵な衣装なのでしょう」
「ただの和風柄じゃなくて、織り込みとか、この国のあらゆる伝統工芸の技法の粋を結集して作ったのだってさ……完成に1年以上かかったらしいから、気が遠くなるような話だよ」
柚那の隣を歩く男性は、感心半分、呆れ半分といった様子で話す。歳は柚那と同じ16歳ぐらいだろうか。上等なドレスシャツにスラックスを身につけたその姿は、少し線が細めだが、骨格がしっかりしている。短めの髪に意志の強そうな瞳が、心地よい印象を与えるイイ男だった。
皇族関係のパーティーに呼ばれたその会場で、2人が見たのは有名デザイナーが作ったらしき、とても華やかな和柄のカラードレスだった。実際に着るものではなく、いわゆるコレクション品らしいが、実際に着用するにしても、あまりにも豪華すぎる仕様で着用シーンも限られるので、実用性には乏しいだろう。
乳児院からこの和気宮家に拾われ、使用人として育てられながら仕えて15年。16歳になったばかりの柚那は、和気宮家の長男こと梓真にとって、同い年で誰よりも信頼できる側近といえた。
「柚那はこんな派手なもの着たいの? 重そうだし暑そうだし、いいことなさそうなのに」
梓真は完全に呆れた様子で、動きやすさ重視のピシッとしたスーツ姿の柚那に聞く。その佇まいはまるで小さな秘書そのものだ。
「はい、素敵なドレスを纏うのは、多くの女性の憧れなのは必然です。可愛いは正義とも申します。梓真様、余所の女性の方には、無神経な発言は慎まれますように」
柚那は静かな表情となり、梓真に少し語気強く注意する。
「そうか、無神経な内容だったか。それは悪かった柚那」
「私には謝らなくとも結構です」
「いや、僕にとっては柚那にこそ謝らなくてはいけない」
梓真は柚那の腹部に組まれた手を握り、カラードレスの方に視線をやる。
「いつか、着せてあげるから。約束するよ」
「……わたし、ただの使用人ですから」
柚那はうつむきながら、弱く消え入りそうな声で答えた。
あのようなカラードレスを着るような機会といえば、ひとつしかないのだから――
……私の幸せの絶頂って、26年生きてきたけど、今思えばあの日だったわね。
激しさを増す雨音を聞きながら、柚那にまだ睡魔は襲ってこない――
――パーティーの翌日の夜のこと。
「旦那様、お呼びでございましょうか」
柚那は夜遅くに呼び鈴で、和気宮家の主人、つまり梓真の父親に呼ばれた。
ほぼ梓真専属の使用人のようになっていた柚那だが、和気宮家の使用人である以上、普通に家全般のことをきちんと行うのも彼女の大切な役目なので、呼ばれることは毎日普通にあるのだが、こうも夜遅くというのは珍しかった。
既に入浴済みだった柚那だが、白い女性用ワイシャツに緩めの紺色のスラックスという、屋敷内で指定されている平服をきちんと着てきている。
「柚那。まあ、こちらに来なさい」
「はい」
すると、梓真の父親は傍らのタブレットを手にすると、何かしらの電書魔術を使ったようだった。柚那には何を使ったのは見えなかったが、いずれにせよ今日は様子がおかしい……柚那が眉をひそめた刹那。
「!?」
突然、柚那は関節の力が抜けて床に崩れ落ち、尻餅をつきながらも一瞬両腕で体を支えようとしたが、すぐに脱力して仰向けに倒れ込んでしまった。
正確には、両肩と股関節の4つの球関節に力が入らなかった。教育は通信で受けており、とりわけ電書魔術とくにePUG分野でずば抜けた才能があった柚那は、これが警察や軍の憲兵が使う、捕縛用の電書魔術であることはすぐに理解できた。
「だ、旦那様、何をなさるのですか……」
柚那は震える声で梓真の父親を見上げるが、その凶人めいた様子を見て柚那は恐怖を覚える。そこにいるのは華族の主人ではなく、ただの何かに取り憑かれた獣にしか映らなかったのだ。
「柚那ぁ、ここまで美しいカオで姿形のいい、旨そうな女になるとは……赤子の頃から手塩にかけて栽培した甲斐があったものよ。さあ、収穫してやるからなぁ」
「さ、栽培って……」
住み込みで育てられた召使いである以上、つまりは和気宮家の所有物同然であることは柚那も頭では理解しているが、育てたではなく栽培した、という柚那の人間としての尊厳を全否定するそのひと言に、柚那は大きな衝撃を受けた。
関節の力が入らず何の抵抗も出来ない柚那に、獣から逃れる術はもはやなかった――
「やだ……やだ……」
悪夢の記憶から我に返ったとき、柚那は背中を丸めた姿勢で枕を強く抱いて、体中が汗でびっしょりとなっていた。
街を打ち付けていた雨音は、少しずつ弱まっている。柚那は大きな溜息をつくと、ベッドから起き上がり汗を拭いて、乾いたパジャマに着替えようと思ったが、しかし悪夢の破片のせいか、パジャマを脱いで裸になることが怖くて仕方がなかった。
柚那は体が自然に乾くのをベッドの上で待ちながら、眠れぬ一晩を過ごした。
依頼を受けてから2ヶ月。
柚那は作業用コンピュータの前で、渋い声を上げながらホットココアを桜色の唇に持っていく。飲み慣れた味のホットココアまで、いつもよりビターっぽく感じる。
歌手や舞台俳優が使う、早着替えePUGをベースにして作ることにしたのだが、通常の早着替えePUGは、着ている衣装を脱衣してから、あらかじめ用意された衣装を装着させていく方式。現物がありもしない衣装を用意して着替えさせるのは、簡単ではなさそうだ。
「どうしたものかしらねー……うん、こういう時はさっさと寝るが一番。また明日」
もうすぐ日付が変わる時刻になっていた。柚那はうーんと背伸びをすると、バスルームに向かい沸かしてあったお風呂に入る。
風呂上がりにレモン水を飲み、桃色ストライプのパジャマに着替えてベッドに直行する柚那。いつも寝付きは早いほうだったが、今日はePUGのことで悩みがあるからか、なかなか睡魔は襲ってこなかった。
「素敵な衣装、ねぇ……」
外は季節外れの夕立なのか、大きな雨粒が無機質な街並みをしたたかに打ちつけている。単調なリズムを刻むその音を聞きながら、仰向けになっている柚那は、いつの間にか昔のことを思い出していた――
――紫と紅をベースにした派手な和風柄カラードレスを見て、柚那は目を輝かせていた。
「わあ、何て綺麗で素敵な衣装なのでしょう」
「ただの和風柄じゃなくて、織り込みとか、この国のあらゆる伝統工芸の技法の粋を結集して作ったのだってさ……完成に1年以上かかったらしいから、気が遠くなるような話だよ」
柚那の隣を歩く男性は、感心半分、呆れ半分といった様子で話す。歳は柚那と同じ16歳ぐらいだろうか。上等なドレスシャツにスラックスを身につけたその姿は、少し線が細めだが、骨格がしっかりしている。短めの髪に意志の強そうな瞳が、心地よい印象を与えるイイ男だった。
皇族関係のパーティーに呼ばれたその会場で、2人が見たのは有名デザイナーが作ったらしき、とても華やかな和柄のカラードレスだった。実際に着るものではなく、いわゆるコレクション品らしいが、実際に着用するにしても、あまりにも豪華すぎる仕様で着用シーンも限られるので、実用性には乏しいだろう。
乳児院からこの和気宮家に拾われ、使用人として育てられながら仕えて15年。16歳になったばかりの柚那は、和気宮家の長男こと梓真にとって、同い年で誰よりも信頼できる側近といえた。
「柚那はこんな派手なもの着たいの? 重そうだし暑そうだし、いいことなさそうなのに」
梓真は完全に呆れた様子で、動きやすさ重視のピシッとしたスーツ姿の柚那に聞く。その佇まいはまるで小さな秘書そのものだ。
「はい、素敵なドレスを纏うのは、多くの女性の憧れなのは必然です。可愛いは正義とも申します。梓真様、余所の女性の方には、無神経な発言は慎まれますように」
柚那は静かな表情となり、梓真に少し語気強く注意する。
「そうか、無神経な内容だったか。それは悪かった柚那」
「私には謝らなくとも結構です」
「いや、僕にとっては柚那にこそ謝らなくてはいけない」
梓真は柚那の腹部に組まれた手を握り、カラードレスの方に視線をやる。
「いつか、着せてあげるから。約束するよ」
「……わたし、ただの使用人ですから」
柚那はうつむきながら、弱く消え入りそうな声で答えた。
あのようなカラードレスを着るような機会といえば、ひとつしかないのだから――
……私の幸せの絶頂って、26年生きてきたけど、今思えばあの日だったわね。
激しさを増す雨音を聞きながら、柚那にまだ睡魔は襲ってこない――
――パーティーの翌日の夜のこと。
「旦那様、お呼びでございましょうか」
柚那は夜遅くに呼び鈴で、和気宮家の主人、つまり梓真の父親に呼ばれた。
ほぼ梓真専属の使用人のようになっていた柚那だが、和気宮家の使用人である以上、普通に家全般のことをきちんと行うのも彼女の大切な役目なので、呼ばれることは毎日普通にあるのだが、こうも夜遅くというのは珍しかった。
既に入浴済みだった柚那だが、白い女性用ワイシャツに緩めの紺色のスラックスという、屋敷内で指定されている平服をきちんと着てきている。
「柚那。まあ、こちらに来なさい」
「はい」
すると、梓真の父親は傍らのタブレットを手にすると、何かしらの電書魔術を使ったようだった。柚那には何を使ったのは見えなかったが、いずれにせよ今日は様子がおかしい……柚那が眉をひそめた刹那。
「!?」
突然、柚那は関節の力が抜けて床に崩れ落ち、尻餅をつきながらも一瞬両腕で体を支えようとしたが、すぐに脱力して仰向けに倒れ込んでしまった。
正確には、両肩と股関節の4つの球関節に力が入らなかった。教育は通信で受けており、とりわけ電書魔術とくにePUG分野でずば抜けた才能があった柚那は、これが警察や軍の憲兵が使う、捕縛用の電書魔術であることはすぐに理解できた。
「だ、旦那様、何をなさるのですか……」
柚那は震える声で梓真の父親を見上げるが、その凶人めいた様子を見て柚那は恐怖を覚える。そこにいるのは華族の主人ではなく、ただの何かに取り憑かれた獣にしか映らなかったのだ。
「柚那ぁ、ここまで美しいカオで姿形のいい、旨そうな女になるとは……赤子の頃から手塩にかけて栽培した甲斐があったものよ。さあ、収穫してやるからなぁ」
「さ、栽培って……」
住み込みで育てられた召使いである以上、つまりは和気宮家の所有物同然であることは柚那も頭では理解しているが、育てたではなく栽培した、という柚那の人間としての尊厳を全否定するそのひと言に、柚那は大きな衝撃を受けた。
関節の力が入らず何の抵抗も出来ない柚那に、獣から逃れる術はもはやなかった――
「やだ……やだ……」
悪夢の記憶から我に返ったとき、柚那は背中を丸めた姿勢で枕を強く抱いて、体中が汗でびっしょりとなっていた。
街を打ち付けていた雨音は、少しずつ弱まっている。柚那は大きな溜息をつくと、ベッドから起き上がり汗を拭いて、乾いたパジャマに着替えようと思ったが、しかし悪夢の破片のせいか、パジャマを脱いで裸になることが怖くて仕方がなかった。
柚那は体が自然に乾くのをベッドの上で待ちながら、眠れぬ一晩を過ごした。