「納品完了っと」

 柚那(ゆな)は、残り少ないコーヒーの入ったマグカップを傾けながら、右手でキーボードのエンターキーを押した。
 送信完了の画面表示を確認してから席を離れると、今度は食事テーブルの上に置かれていたタブレットを操りにかかる。

「電魔局、開発部の内線一番へ」

 柚那(ゆな)の声とともに、タブレットから筒状に光が伸び、男性の顔が浮かび上がった。ビジュアルフォンePUGである。

「どうもです、風美草(かざみぐさ)元次長」
「前の肩書きは余計よ。それより送ったわ。届いているかしら、現開発室次長どの?」

 皮肉たっぷりでのたまう柚那(ゆな)だが、ホログラフィに映る男性はどこ吹く風といった様子だった。

「はい、無事に。今確認させています。すいません、お世話かけちゃって……あ、残りの代金は私の個人口座からさっき振り込みましたので」
「ま、同期からの頼みだからね……確かに振り込まれてるわ。
 しっかし、嘘を言うと手に持ったグラスの氷の色が白くなる仕掛けを施すePUGなんて、そんなの開発部の機材でこっそりと作ればいいじゃない。どうせ合コンとか(やま)しいデートで使うんでしょ?」

 柚那(ゆな)は、見事なほどの呆れ顔とジト目を披露しながら頬杖を突く。

「いやぁ、この前合コンで捕まえた女にすっかり騙されちゃったもんで、再発防止用ってやつです」
「ざまぁないわね。ちょっとは女遊びを控えなさいっていう神のお告げよ」
「いやいや、開発部のモテない独身貴族部たるもの、このぐらじゃめげませんよ……っと、別の外線入ってるみたいなんで、この辺で」

 そそくさとした表情の同期のホログラフィは、フェードアウトするようにフツッと消えた。

「ヘンタイ。新婚の分際で何が独身貴族なんだか。そろそろ奥さんにチクった方がいいところかしらねぇ」

 柚那(ゆな)は呆れ声を上げながら、改めて口座の金額を確認する。相場よりもそこそこ多めに振り込まれているのは、間違いなく自分の新妻への口止め料込みに相違なかった。

「ま、あちらのご家庭の問題はあちらで解決してもらいましょう」

 ePUGカスタマイズの仕事は、最安値案件でも1本で3ヶ月程度なら衣食住費に困ることはないのが相場だが、それほど案件が多いわけでもなければ、開発期間から日割りすると、依頼料が莫大というわけでもない。いい金づるを手放すのも気が引けた柚那(ゆな)は、そっと電子通帳ePUGを閉じると、手際よく着替えて外へと出た。

「今日もよく晴れてるわ」

 自宅から歩いて30分ほど。途中にあるファーストフード店でサンドイッチとドリンクを買うと、柚那(ゆな)は小高い丘のある公園へとやってきた。
 香散見草(かざみぐさ)の古い巨木が一本そびえ立つ丘の頂上からは、街の様子をよく見渡すことができた。柚那(ゆな)が住む住宅街とは対照的に、丘の下には高級住宅街が広がっている。ただの家ではなく、敷地が広い華族の豪邸もちらほら。
 そして、街の奥には晩秋で雪化粧が始まった、見事な山々の姿が見える。昔に比べて温暖化が進んだ昨今、平野の都市部でコートやダウンジャケットなるものが絶滅してからしばらく経つが、高山部はまだ昔のような寒さが残っているのだ。

「いただきます」

 柚那(ゆな)にとって、自分の名字と同じ読みの香散見草(かざみぐさ)の樹がある絶景の丘は、こだわりのある大のお気に入りだった。依頼がひとつ無事に終わると、この丘でランチを食べるのが柚那(ゆな)の自分へのご褒美のようなものだ。

「あら、貴女(あなた)様はもしや」

 背中から声をかけられ、慌てて口の中のサンドイッチを飲み下す柚那(ゆな)
 振り向くと、先だってひったくり犯から助けた少女が立っていた。

「あら、こんなところで出会うなんて偶然ね」
「はい、ここから見える景色は好きなので。風美草(かざみぐさ)さんもですか?」
「まあ、ね。たまにしか来ないけど。貴女(あなた)、この辺に住んでるの?」

 柚那(ゆな)は食べ終えたサンドイッチの袋を片付けながら言う。

「電車で数駅離れていますので、近くとは言えませんが、あるお屋敷に住み込みで働かせていただいています。この丘は好きなので、用事の帰りに寄り道するのが好きで……」
「そうなのね。細かな仕草の独特の上品さから、そうかなとは想像してたけど」
「まあ、よくお分かりですね、ほんの少しのやりとりでしたのに」

 少女は目を丸くして柚那(ゆな)を見つめる。

「私も若い時に、とある華族の家で住み込みやっててね。貴女(あなた)の歳まで続かなかったけど」

 柚那(ゆな)は少し物寂しそうな顔をしたかと思ったのも一瞬、いつもの笑顔で香散見草(かざみぐさ)の樹の下にあるベンチから立ち上がった。

「お邪魔したわね。私はこれで」

 右手をひらひらと振りながら、足早に丘を降りる階段へと姿が消えてゆく柚那(ゆな)に、少女は見送るような視線を送っていた。