「今日レタス高っ」

 |柚那(ゆな)は、山積みされているレタスの棚に貼り付けてある値札タグを見て、思わずそう漏らした。
 籐で編んだシックなデザインの買い物かごには、鶏肉やらトマトやら食パンやらが詰め込まれて顔を覗かせているが、今日は珍しく、買い物かごの常連食材がその仲間入りを果たすことはなかった。

「仕方ないか……レタスは新鮮なのがおいしーのにね」

 柚那(ゆな)は口をへの字にしながら、バッグからハンディタイプのタブレット端末を取り出しつつ、お店の出口へと向かう。

「家計簿っと」

 画面に『家計簿』と書かれたアイコンをなぞりながら、家計簿の電子魔術書を発動させると、画面からにゅるっと這い出るように淡い光が伸び、買い物カゴを包み込んだ。
 タブレットの画面には、買い物かごの中に入れた商品が、次々と余すことなく価格や生産情報とともに書き出されてゆく。

「ちょっと買い過ぎちゃったわね。まあいいか、次の仕事入ってるし。家計簿閉じて」

 画面に決済終了の文字とともに合計金額が映し出されると、柚那(ゆな)はタブレット画面を触りながら家計簿を閉じて店を出た。
 ボブショートの艶やかな髪に、化粧なしでもそれなりに整った顔立ち。背は平均的ながらスラリとした歩き姿は、吊し売りのTシャツに長袖シャツを腰に巻きジーンズを穿いた、清潔感はあるがごく目立たない、普通の成人女性だった。
 しかし、この今やほとんどの主婦が用いているという、決済機能つき自動家計簿電子魔術書を、単機能の家計簿ePUGを組み直して作り上げたのが、他ならぬ柚那(ゆな)本人だったりする。
 宙に浮遊するMANA(マナ)を力の源に、電子書籍化した魔法の書をタブレットに組み込んで、各種の不思議な力を発動させることができる、電書魔術こと電子魔術書ePUGが普及したこの世界で、そのアレンジ改造をするのが柚那(ゆな)の生業だった。

 食料品マーケットから柚那(ゆな)の自宅アパートまでは、歩いて15分とかからない。大通りを抜けると、一気に人通りが少なくなる路地へと入ってゆく。
 路地に入り、やや歩みを早める柚那(ゆな)。比較的新しめのアパートやマンションが並ぶ、閑静な下町と言えば聞こえはいいが、ひったくりからタチの悪いカスタムバイクピープル。さらには痴漢まで徘徊している、大部分が軽犯罪とはいえ、お世辞にも治安がいい地区とは言えないのだ。

 ぶぉおんっ、ぶぉおんっ……

「きゃあっ、あ、カバンが……!」

 そして柚那(ゆな)の見ている前で、今日もまた起きる、常習犯によるひったくり。ただの原付ならいいのだが、ライディングが巧みで逃げ足が早いため始末が悪い。

「そんなにサーキットで走るお金に困ってるのかしら」

 常習ひったくり犯がこっちに正面向かって現行犯でやってくる好機など、そうそうない。柚那(ゆな)は買い物かごをアスファルトの地面に置くと、正面から猛スピードで逃げてくるスクーターにタブレットを取り出して向き直る。
 柚那(ゆな)はタブレットを操り、画面に青白く発光する魔法陣が出現したのを確認すると、左手に持ったタブレットをスクーターに突き出すように向けた。

「GO!」

 ぎぃぅんっ!

「うわっ」

 タブレットから微妙な空気の歪みが発生したかと思うと、スクーターに乗っていたひったくり犯は、思わず右手に持つひったくった女物の赤いカバンを放り捨て、ハンドルから左手も離して、ヘルメットの上から両耳を塞ぐような仕草をするが……二輪車の上でバランスを崩したのは致命的だった。
 一気にバランスを崩したスクーターは、そのまま派手に横転し、勢いで滑りながら大通りの歩道まで転がり出る。
 柚那(ゆな)の後ろの大通りから、ガードレールにぶつかったと思しきドガシャンとド派手な金属音が聞こえてきた。

「……私、しーらないっと」

 柚那(ゆな)は買い物かごを拾い上げ、近くに落ちていた赤いカバンも拾い上げて、へたりこんで呆然としている女性の方へと歩を進める。ともあれ、近所迷惑がまたひとつ滅びたのはいいことだ。

「はい、貴女(あなた)のでしょう? どうぞ。
 ……あ、くれぐれも犯人は自分で操作を誤って転倒したことで、警察にもし聞かれたら口裏合わせよろしく」

 柚那(ゆな)が使ったのは、タブレットの前にある2メートル四方にのみ聞こえるよう指向された、140デシベルの精神不快音を一瞬だけ発する、護身用の音圧弾。たとえヘルメットを被ろうが耳栓をしていようが関係ないほどの大音量で、聞いた者の動きを少しの間だけ封じ込め、その隙に逃げたりするのが本来の使い方である。
 大昔にあった護身用防犯ブザーなるものの攻撃機能強化版として、今や市販の電書魔術用タブレット全機種にプリインストールされているePUGだが、柚那(ゆな)が持つのは、聞こえる範囲が6メートル四方で音量も190デシベルまで強化された、違法改造仕様の強化音圧弾なのは、彼女だけが知る秘密だった。

「あ、ありがとうございます……助かりました」

 まだ十代後半であろうか、柚那(ゆな)よりも明らかに年下と分かる女性というより少女は、立ち上がるとカバンを受け取り、深々と頭を下げた。

「いえいえ、気になさらなくて結構よ」
「本日は急用で急いでおりますので、後日改めてお礼にお伺いさせていただきます。よろしければ、ご連絡先を」
「そうですか、それならありがたく……っと、では名刺はこちらです」

 柚那(ゆな)はごそごそとポケットから名刺入れを取り出し、『元電魔局勤務 風美草柚那(かざみぐさゆな) ePUGのカスタマイズお値打ちに承ります☆』と、連絡先ともどもファンシーなフォントで書かれた、商魂たくましそうな笑顔の顔写真入りの名刺を手渡した。