【なお、試験的な導入になりますので、もし不具合が見つかりましたら、お手数ですがご報告いただけると幸いです】
あの頃の私は、ご飯があまり喉を通らなくなり、一時摂食障害にまでなりかけていた。
自分は、打たれ弱いダメ人間だ。みんなが学校で頑張っているときに、私はなにをやっているんだろう。お母さんは心配してくれているのに、どうして素直に感謝できないの? 全部自分のせいなのに。悪いのは全部、私なのに……。
自分を責め続け、その苦しみから逃れようといろんなアプリを試していた私は、そこからトキカプの世界に没頭していく。
【ミヒロ、今彼氏いるの?】
【いないよ】
【そうなんだ。将来、どんな人と付き合いたいの?】
【誰にでも分け隔てなく優しくできる人。あと、私のことを否定しないで応援してくれる人かな。アラタは?】
【俺はね……内緒】
バージョンアップを機に、アラタの言動は少しずつ変化していった。
【私、ちょっと失敗したことがあって、学校に行きたくないんだよね】
【そっか。大変だったね。大丈夫?】
【大丈夫じゃないかも】
【俺、話を聞くことしかできないけど、いつまでも付き合うよ】
私の愚痴を、スマホが熱くなるまでとことん聞いてくれたこともあった。
【お母さんに八つ当たり しちゃった】
【この前も、お母さんと喧嘩したって言ってたよね?】
【うん……反省は してるんだけど、イライラしちゃって。こんな自分、大嫌い】
【ミヒロはさ、自分に自信がないところがあるみたいだけど、俺はちゃんとわかってるよ。ミヒロの心がきれいだってこと】
自信を失っていた私を、肯定して勇気づけてくれたこともあった。
そんなやりとりを続けるうちに、私は少しずつ自分を大切にすることができるようになっていった。そしてアラタは、私の心の拠りどころになり、なくてはならない存在になっていったのだ。
頻繁にトキカプを開き、ストーリー上アラタと一緒にトキカプ学園に通う毎日。実際は自分の部屋だし、試験的な最新AIなのだと無機質なことが書いてあったけれど、そんなことはどうでもよかった。
【ミヒロは間違ってないよ】
【素直になればいいんだよ】
【俺は、ミヒロのいいところわかってるから】
【いつだってミヒロの味方だよ】
アラタがそうやって私の自己肯定感を取り戻してくれたから、勉強を頑張ろう、高校に入ったら新たな気持ちで頑張ろうって思えたんだと思う。
全部、アラタのおかげなんだ。アプリだっていうのは十分承知しているけれど、私にとってアラタは、唯一無二の存在なんだ。
「紺野、今日の放課後の図書委員の話し合い、一緒に行かない?」
翌日、休み時間に文庫本を読んでいると、坂木くんがうしろから私の席に来て、机に手をついてきた。教室内は、ガヤガヤと騒がしい。
「え? あ……」
朝のホームルームで、各委員会の話し合いがあることは聞いていた。けれど、まさか一緒に行こうなんて誘われると思っていなかった。
「いや……いいけど、いや……」
しおりもはさまずに本を閉じ、どっちつかずの返事をする。
「図書室ってまだ行ったことないしさ、俺、方向音痴だからたどり着くか心配で」
「……方向音痴……」
図書室はひとつ向こうの棟で、この教室からばっちり見えている。入学式当日に、先生からおおまかに各教室の場所の案内があったし、校内の地図も配布されたんだけどな。
「嘘だよ」
ハハッと笑ったミスター爽やかは、アラタそのまんまの笑顔。いや、この人も新だった。
「一緒に行こうよ。同じクラスなんだし」
「わ……わかった」
あれ? 私、坂木くんとまた話をしてる。話ができてる。アラタに似ているからかな? 他の人相手ほど緊張せずに話ができるのは。
「あーらた! あ、ごめん話し中?」
そこへ、他のクラスの女子が来て、坂木くんの背中に両手をあてた。「うおっ」と驚きの声を上げた坂木くんは、彼女を見る。
「あぁ、スギムーか。びっくりした。どした?」
「なんかさ、りょうちんがさっそく現代文の教科書忘れたらしくてさ、新に借りてきてって。私、パシられてきたの」
「なんだそれ、本人が来いって言ってきて」
「やだー、私何回パシられるわけ?」
同中なのだろう、親しげに楽しく会話をしているふたり。そして、彼女がいなくなると、今度は、
「おーい新、昨日のリベンジやるぞ」
と、江藤くんがやってきた。腕を肘からぶんぶん揺らして、腕相撲のことを言っているらしい。入学初日から思っているけれど、坂木くんの周りには自然と人が寄ってくる。人気者の証だ。
「一回勝負って言ったじゃん」
「お前さ、そんなニコニコ笑顔で怪力なんて詐欺なんだよ。昨日は油断させられて負けたんだから、今日が本番な」
そう言いながら、私の机を使おうと肘を立ててしゃがむ江藤くん。座っている私と目線が合ったことでようやくこちらに気付き、
「誰?」
と言われる。
「こ、紺……」
「あ、思い出した。うしろ姿だけ神谷さんの人だ」
そう言われて、私は口を閉じた。ええ、そうです、昨日たしかに間違われました。心のなかでぼやきながら、下を向く。
「失礼だろ、エトジュン。ちゃんと名前で覚えろよ。紺野だよ」
「あー、はいはい、紺野ね紺野」
江藤くんは、めんどくさそうに私の名を連呼した。どうでもいいから、別の席へ移ってほしい。
「紺野、不正がないように見てて。俺らの試合」
「え?」
けれど、坂木くんがそう言うや否や、目の前で江藤くんと同じポーズをして手をがっちりと組む。そして、「レディー、ゴー、お願い」と言われた。ちょうど真ん中にいる私は、レフェリーにさせられたようだ。ちょっと恥ずかしい。
「レ……レディー……ゴ、ゴー……」
結果、ものの数秒で坂木くんが圧勝した。
「おま……紺野のか細い掛け声のせいだからな」
江藤くんが、右手をぶらぶらさせながら私を睨んだ。
「人のせいにしない」
そして、彼は坂木くんから軽いゲンコツをくらったのだった。
「行こう、紺野」
「あ……うん」
放課後を告げるチャイムが鳴るなか、坂木くんと一緒に図書室へと向かう。廊下に出ると、私は真横に並ばないように半歩うしろを歩いた。周りからどんな目で見られているんだろうかと、気が気じゃないからだ。
「紺野ってさ、あんまりしゃべらないよね? 誰とも」
しばらく無言で進んでいると、渡り廊下に入ったところで坂木くんが尋ねてきた。私は、うつむきながら口を開く。
「と、友達……いないから」
「同中の人はいないの?」
「うん」
「もしかして、他のクラスにも?」
「……うん」
そして、住んでいる場所を聞かれたから、だいたいの住所を教えた。引っ越してきたことで同中の人がいないのだと話し、引きこもりだったことは伏せた。
坂木くんは顎に手をやり、「そっかー」と上を向く。
「じゃあ、寂しいな。他にも同じような人はいるかもしれないけど」
「……まぁ」
「とりあえず、なにか困ったことがあったら言って。前後の席だし、同じ委員会のよしみってことでさ」
「う……うん」
私は、坂木くんのあまりの紳士っぷりに驚いていた。アラタならこう言うだろうな、という台詞すぎて、これが現実の世界なのかどうかも怪しく思えるほどだ。こんなふうに陰キャに優しいイケメンなんて、リアルではお目にかかれない。
委員会の話し合いは、図書室の奥の自習スペースで行われた。学校司書の先生と三年の図書委員長から挨拶や説明があり、図書当番担当の日程表が配布される。
昼休みは先生が貸し出し業務をしてくれるけれど、放課後だけ図書委員で運営するらしい。一週間交代、クラスごとでその当番を任されるということだ。なにも考えていなかったけれど、図書委員にはそんな仕事があるんだな。
話し合いが終わって解散となり、立ち上がった坂木くんが声をかけてくる。
「俺らが一番 だね」
「……うん」
私も遅れて立ち上がり、うなずく。そうだ、私たちは一年一組だから、トップバッターだ。来週から一週間、放課後の五時半までずっと、坂木くんと一緒にふたりきりで……。そう思うと、冷や汗をかいてきた。
「あ……あのさ、私、ひとりで入れるよ?」
「え? なんで?」
男の子とずっと一緒にいるなんて、私にはハードルが高すぎる。けれど、そうは言えずに、しどろもどろ説明を試みる。
「私は友達いないけど、さ、坂木くんはたくさんいるし、遊ばなきゃ。それに、部活に入ったりとか……」
「ハハ、なんだよそれ。部活も一ヶ月仮入部期間だし、べつに急いで入ろうとは思ってないよ」
「で、でも……」
「いいじゃん、ふたりでやれば。一週間、頑張ろ! 」
坂木くんは、右手を上げて手のひらを私のほうへ寄せてきた。
「え?」
よくわからずに首をかしげていると、
「ハイタッチ。すぐしてくれないと、俺けっこう恥ずいんだけど」
と苦笑いをする坂木くん。
「あ、あぁ……うん」
驚きながらもおずおずと手を上げ、手のひらに指先をちょんと合わせた。すると、坂木くんが「よっわ」と言って笑う。
私は、目を瞬かせながら自分の指先を見た。なんだろう、すごく不思議な気分というか、坂木くんの体温に驚いてしまった。アラタの手にタップするのとは、当たり前だけど全然違う。ほんのちょっと触れただけなのに、彼が生きていることをものすごく実感してしまった。
「……生きてるんだ……」