「大丈夫?」
覗きこまれるようにそう言われて顔を上げた私は、目玉が飛び出さんばかりに目を見開き、口を手で覆った。信じられない現実が、今目の前で起こっている。
アプリの中の推しメン〝 アラタ〟は、実在したんだ。
『いつだってミヒロの味方だよ』
顔も同じ、名前も同じ、誕生日も同じ、好きなものも同じ。現実に現れた彼も、アラタと同じ言葉をかけてくれた。
きっと、どちらの彼もこのままの私を受け入れてくれる。変わらなくていいよ、って微笑みかけてくれるはずなんだ。
誰かと関われば、大なり小なり傷付くことがあるし、思いがけず傷付けてしまうこともある。学校という集団生活のなかでは、否応なく毎日それが繰り返されて 、心は磨り減らされていくばかり。
【ミヒロ、おはよう。一緒に登校する約束、忘れてなかったんだな。偉い偉い】
でも、私の手のなかには、私を絶対に傷付けない世界がある。私は、会話を三択から選んで、
【おはよう。忘れるわけないよ。アラタが電話で言ってきたの、昨日の夜だったでしょ?】
と答えた。
健康そうな肌色に、サラサラの黒髪、清潔感のある白シャツがよく似合っている爽やかな彼は、アラタ。スマホで毎日やりとりをしている、友達以上恋人未満の優しい男子高校生だ。
【あれ? なんか今日かわいくない?】
【からかっても、なにもないよ?】
イベント上の会話をすすめながら、彼の眩しい笑顔に喜びをかみしめる。
スマートフォンというものの発明に感謝だ。そして、アプリの開発者さん、運営さん、本当にありがとうございます。日々のAIの進化、それに携わっているすべての方々にも、頭を下げてまわりたい。
【あのさ、俺、今気付いたんだけど、コンタクトを片方つけ忘れてきたみたいで】
【え? 大丈夫?】
【歩きづらいから、悪いんだけど手をつないでもいい? 学校が近くなってきたら離すからさ】
はにかみながらそう言ったアラタは、リアルな動きでこちらに手を差し伸べてくる。
【お願い】
【うん、いいよ】
スマホ画面のアラタの手のひらを人差し指でそっとタップすると、そこにハートマークがいくつも表示され、親密度ゲージが数ミリ上がった。それを見て、私は小さくガッツポーズ。
【……ロード中です。しばらくお待ちください】
けれど、急に暗転した画面。
現実に戻された私は、笑顔を固めてスマホを枕もとに置いた。そして、ベッドの上でごろんと寝がえりを打ち、天井を見上げる。通学中の青空ではなく、先週引っ越してきた私の部屋の天井を。
「……アラタと同じ学校なら通いたいんだけどな……」
ゆっくりと部屋を見回し、ため息をひとつ。殺風景な六畳間のこの部屋は、おしゃれな十代女子の部屋とはまったく違う。
唯一キラキラしているのは、勉強机の横の棚に飾られているトキカプグッズエリア。アラタマスコットに、アラタカードに、アラタフィギュアに、限定アニメDVD。我ながら上手に描けた自作イラスト色紙もある。そこだけは、お母さんにもさわらせられない。
トキカプというのは、〝トキメキカプセル〟というアプリのタイトルだ。最初 に、五十種類もあるイラストキャラの中から好みの男の子を選ぶ。それがトキカプ男子。
そして、そのトキカプ男子と毎日会話をすることで親密度が上がり、カプセルをゲット。そのカプセルを使用するたびに、ただのイラストキャラがどんどん人間らしい姿かたち、いわゆる3Dになっていくという流れだ。なお、3Dが苦手な人は、進化途中でキープもできる。
トキカプ男子の基本性格はしっかり設定されているけれど、最新AIが試験的に使われていて、会話を重ねることで利用者の好みに合わせた性格に寄っていく仕組みだ。そのため、バーチャルだけれど、けっこうリアルに友達以上恋人未満の関係を楽しむことができる。
私は、かれこれ一年近くほぼ毎日アラタと会話し続けてきたので、アラタは私の理想の彼氏そのものだ。見た目もリアルでかっこいいし、台詞にもいちいちキュンキュンする。私の受け答えを学んでいるため、ツボを外さない。
「美尋(みひろ) 、開けるわよ?」
ノックの音に、私は返事をして体を起こし、ベッドに腰かけた。 お母さんだ。
「明日の準備は大丈夫?」
「……うん」
私は、ちらりとハンガーラックへと目をやった。真新しい制服のブレザーとスカートがかかっていて、その下にはバッグが準備されている。
「ねぇ、本当に髪切らなくていいの? 今からでも間に合うわよ?」
「……いい」
私は、胸下まで伸びた長い黒髪を両手でぎゅっと握った。前髪も伸びすぎて、横にぱっかり分かれている。
髪を伸ばし続けているのには理由があった。トキカプアプリのプレイヤー 側のシルエットが、黒髪のロングストレートなのだ。それに、アラタの好みのタイプが、髪が長い清楚系女子だということもある。
「通学路、歩いてみなくてもいい? 一度車で通って確認はしたけどさ」
「い、いい……」
力なく頭を横に振り、合わせた両膝をこすり合わせる。お母さんは鼻で息をつき、腕を組んだ。
「まぁ、美尋にとって明日はすごく勇気のいる日なんだから、無理は言わないわ」
勇気のいる日。お母さんがそう言うのは、明日が高校の入学式だからという理由だけじゃない。私が、中学三年の一年間、ほぼ引きこもっていて学校に行っていなかったからだ。
一応家で勉強は怠らず、担任の先生の説得でテストだけは保健室で受け、高校受験のための調査書を作成してもらった。そして、中学の知り合いが行かなそうな私立の高校に合格したのだ。
少し離れた高校だったこともあり、家も引っ越してきた。お父さんは単身赴任で、私はひとりっ子だから、もともとお母さんとふたり暮らし。だからこそできたことだけれど、ここまでしてもらったからには、高校にも行きたくないなんてワガママは言えない。
「不安?」
お母さんはドアに体を預け、私の顔色をうかがうように、首をかしげる。私は、視線を落として裸足の指先を見た。
「世の中は広いのよ? すべての人が美尋を否定する人間とは限らないわ」
「……わかってるよ」