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「はい、じゃあ今日はここまで。今配ったプリントは復習に使っていいやつなー。提出はなしにするが、各自復習はしておくように。明日は英語は1限目だからな、寝坊しないように」
11時45分。既定の時間より5分だけ早く授業を終えてくれた木下先生の言葉に、「やったー」とか「疲れた」とか「はらへったー」とか、生徒がぱらぱらと返事をしている。
私は、配られたプリントをファイルにしまいながら、ちらりと隣の席に目を向けた。
机に突っ伏して眠る男子生徒。透き通るような金髪は、校内じゃ類を見ない。髪の隙間から覗く耳たぶには、シルバのフープピアスがひとつ。枕替わりにしている両腕には、血管が綺麗に浮き出ていた。長袖のワイシャツを3回ほど捲っている腕で、ルーズリーフが下敷きになっているようで、端の折れた紙が少しだけ飛び出ていた。
今日は英語が3限目だったから、他の補習科目があったとしても今日は終わりなはず。あとは帰るだけだし、早いところ起こした方が良いだろうか。
生徒たちが徐々に帰って行く音を耳にしながら、私はひとり、その金髪を見つめて迷っていた。
「いつまで寝てんだ、相馬」
直後のこと。呆れたような声色とともに現れた木下先生が、丸めたプリントで金髪頭をぺしっと叩いた。あ、と心の中で声をこぼす。男子生徒がもぞ…と身体を動かし、ゆっくりと顔を上げた。その拍子に、彼の下敷きになっていたルーズリーフやプリントがカサカサと動く。
「……体罰っすよぉキノセン」
「補習に来てるんだから寝るなよおまえは」
「来たくてこんなクソあちいとこ来てるわけじゃねえよ。居るだけで褒めてくんねーとモチベない」
「はいはい偉い偉い。あと6日休むなよー」
「フラグあり」
「初日から諦めるな。ほら、帰った帰った。帰って素麺でも食いなさんな」
くしゃくしゃと金髪頭を撫でると、木下先生は「八月朔日も気ぃ付けて帰れよ」と私にも一言そう声をかけて教室を出て行った。返事が追い付かず、慌ててその背中にぺこりと頭を下げる。気付けば教室にいた十数人の生徒たちはあっという間に下校していたようで、姿はすでに見えなかった。
私と、隣の席の男子生徒――相馬夏芽くん。
取り残された空間が絶妙に気まずくて、私も急いで身支度を整える。
5月に行われた席替えで隣の席になってから、相馬くんとまともに話した試しはない。悪い人とつるんでるとか欠席が多いとかそんなことは一切なくて、金髪であることに加え相馬くんは目つきが少々悪いので、単にクラスメイトの一部から怖がられている、というだけ。
人見知りなのか、相馬くんは仲良い人としか会話をしないのだ。私も然りなので、隣の席とは言え、まともなコミュニケーションを取らないまま夏休みに入り、今に至る。
「なぁ」
不意に声をかけられた。恐る恐る視線を向けると、1枚のルーズリーフを差し出された。数十分前、私が目を奪われた、それである。
「やるわ」
「え」
「要らないなら、適当に捨てといて」
相馬くんの指先がルーズリーフから離れ、滑り落ちる。反射的に手を伸ばしそれをキャッチすると、ふっと軽く笑われたような声が降って来たので、ぱっと顔を上げると、視線が交わった。その日初めてのことだった。
「結構、似てるっしょ」
「へ、あの」
「腹減ったし、俺帰るわ。あんたも気を付けて」
自然に隠された時、見てはいけなかったのかもしれないと思っていた。まさかこんなにまじまじともう一度見ることができるとは、思ってもみなかった。
渡された横顔の落書きと相馬くんを交互に見つめるしかできない私を差し置いて、彼は机上に広げていた教科書やプリント、筆記用具を乱雑にスクールバックの中に詰め込むと、じゃーね、と言って席を立った。あ、とか え、とか、言葉になりきれない音が先走る。
蝉の鳴き声がうるさかった。遠のいていく足音に、脈を打つ心臓。視界に映る金髪は、太陽の光よりもずっとずっと眩しい。
「ほっ、ほづみれい!」
ようやく出た声を、彼の背中にぶつけるように叫ぶ。数か月隣の席に座って過ごしたクラスメイトに自分の名前を叫ぶ機会なんて、そうあることではない。
相馬くんと関わったためしはなかった。隣の席になってから窓の外を眺める機会が増えたのは、右側にいる相馬くんと目を合わせるのが怖かったから。シャープペンを落とした時も、拾わないでほしいとすら、少しだけ願っていたのだ。
私はこの時まで、君の名前しかまともに知らなかった。
「知ってるよ」
けれどそれは、君も然りだろうか。
「また明日な、八月朔日 鈴」
八月朔日 鈴。漢字までちゃんと理解しているように紡がれた自分の名前は、まるで自分のものではないと錯覚してしまうほど、美しい響きだった。
握りしめたルーズリーフに描かれた男性の横顔は、どこか遠くを見つめていて、何かを漕がれているようにも感じ取れる。とても繊細であり、美しい。
そしてそれは───木下先生によく似ていた。