全開にした窓の向こう側では、照り付ける太陽の元ミンミンと蝉が鳴いている。吹き抜ける風は無く、教室の一角では対象者が曖昧なまま業務用扇風機が首を振っている。時折背中に来る微風が、やけに涼しく感じるのだった。


「じゃあ10分あげるのでー、配ったプリントの問3、一旦自力で解いてみてくださーい」



8月1日、午前11時15分。

世の高校生は夏休み真っ只中であるこの時期に、白い半そでブラウスと紺色のスカートを身に纏い木製の机に向かう私と、教室内にいる十数人の生徒。共通点は『補習対象者』であること。


夏期補習は、前期期末試験で国数英の3教科6科目のうちふたつ以上赤点を取ったものが対象となる。私は国語と数学は平均点より上――いやむしろ成績上位者であるにも関わらず、英語が壊滅的であり、コミュニケーション英語と英語表現の2科目でしっかり赤点を取ってしまったがゆえに対象者に値している。

8時50分から、50分ごとに3教科ランダムで時間割が組まれている。期間は一週間。私は英語のみが対象なので、一日50分耐えれば解放されるけれど、3教科すべて補習対象になっている生徒は、扇風機の微風しかない空間で午前中を過ごさなければならないという地獄ぶりである。


補習初日の今日、英語は3限目に組まれていた。英語教師の木下先生の指示で、各自で長文読解をする時間を与えられた今、教室内は静まりかえっていて、シャッシャッとシャープペンシルで紙を擦る音やぱたぱたと襟元を扇ぐ音さえもが聞こえる。


左手にシャープペンを持ち、机に肘を立てながら、一文字たりとも読み取れそうにない英文をぼんやりと見つめる。私は将来英語を使う仕事に就きたいわけでもなければ、海外旅行への願望もない。使いどころのない科目の学びに費やす時間ほど要らないものはないよなと、典型的な言い訳を思い浮かべていた矢先。


ブーン、と、黒い何かが目の前を過った。



「ぅ、わぁっ」


反射的に声が洩れた。身体を揺らした反動で机上に置いていたペンケースは滑り落ち、カラカラと渇いた音を立てて床を転がっていく。40人の机と椅子に対して使用者が十数人の教室にはやはり音が響きやすく、その場にいた生徒全員の視線が一斉に私に集まった。


八月朔日(ほづみ)、大丈夫かー」


夏の嫌いなところである。虫が多発する。教室内が静かすぎることもあり、羽の音が鮮明だ。気持ち悪さが3割増し。おまけに、今私の目の前を過った物体は割と大きめだった。ぐるりと一周してすぐに窓から出ていったのかは分からないが、辺りを見渡すも虫の姿はもう捉えることはできなかった。


「だ、大丈夫です、すみません」


木下先生にそう言って私は首を振り、紅潮していく頬を髪の毛で隠すように俯いた。

考えていた英語への不満は忘れ去り、散らばったペンケースの中身を拾うべく席を立ち、周りに散らばったそれらを急いで回収する。全て拾って再び席に着こうと顔を上げると、「はい」と目線の高さにシャープペンを差し出された。隣の席の男子生徒のもとにまで転がってしまっていたらしい。


「あ、ありが……」


シャープペンを受け取りお礼を言おうとして、言葉が途切れた。


​───言葉を失うほど、彼の机上から覗いた男性の横顔があまりにも美しく繊細だったのだ。B5のルーズリーフの下半分を使って描かれたそれは、授業が退屈で描いた落書きにすぎないのかもしれない。それでも、私はその横顔から目が離せなかった。


そんな私に気づいたのか、男子生徒は何食わぬ顔で英語のプリントでサッとそれを隠した。目は合わず、言葉もかけられなかった。ただ、もう見るなと、そう訴えられていたのだけは確かだったように思えた。








「はい、じゃあ今日はここまで。今配ったプリントは復習に使っていいやつなー。提出はなしにするが、各自復習はしておくように。明日は英語は1限目だからな、寝坊しないように」


11時45分。既定の時間より5分だけ早く授業を終えてくれた木下先生の言葉に、「やったー」とか「疲れた」とか「はらへったー」とか、生徒がぱらぱらと返事をしている。


私は、配られたプリントをファイルにしまいながら、ちらりと隣の席に目を向けた。


机に突っ伏して眠る男子生徒。透き通るような金髪は、校内じゃ類を見ない。髪の隙間から覗く耳たぶには、シルバのフープピアスがひとつ。枕替わりにしている両腕には、血管が綺麗に浮き出ていた。長袖のワイシャツを3回ほど捲っている腕で、ルーズリーフが下敷きになっているようで、端の折れた紙が少しだけ飛び出ていた。


今日は英語が3限目だったから、他の補習科目があったとしても今日は終わりなはず。あとは帰るだけだし、早いところ起こした方が良いだろうか。

生徒たちが徐々に帰って行く音を耳にしながら、私はひとり、その金髪を見つめて迷っていた。


「いつまで寝てんだ、相馬(そうま)


直後のこと。呆れたような声色とともに現れた木下先生が、丸めたプリントで金髪頭をぺしっと叩いた。あ、と心の中で声をこぼす。男子生徒がもぞ…と身体を動かし、ゆっくりと顔を上げた。その拍子に、彼の下敷きになっていたルーズリーフやプリントがカサカサと動く。





「……体罰っすよぉキノセン」

「補習に来てるんだから寝るなよおまえは」

「来たくてこんなクソあちいとこ来てるわけじゃねえよ。居るだけで褒めてくんねーとモチベない」

「はいはい偉い偉い。あと6日休むなよー」

「フラグあり」

「初日から諦めるな。ほら、帰った帰った。帰って素麺でも食いなさんな」



くしゃくしゃと金髪頭を撫でると、木下先生は「八月朔日も気ぃ付けて帰れよ」と私にも一言そう声をかけて教室を出て行った。返事が追い付かず、慌ててその背中にぺこりと頭を下げる。気付けば教室にいた十数人の生徒たちはあっという間に下校していたようで、姿はすでに見えなかった。



私と、隣の席の男子生徒――相馬夏芽(なつめ)くん。


取り残された空間が絶妙に気まずくて、私も急いで身支度を整える。

5月に行われた席替えで隣の席になってから、相馬くんとまともに話した試しはない。悪い人とつるんでるとか欠席が多いとかそんなことは一切なくて、金髪であることに加え相馬くんは目つきが少々悪いので、単にクラスメイトの一部から怖がられている、というだけ。

人見知りなのか、相馬くんは仲良い人としか会話をしないのだ。私も然りなので、隣の席とは言え、まともなコミュニケーションを取らないまま夏休みに入り、今に至る。



「なぁ」


不意に声をかけられた。恐る恐る視線を向けると、1枚のルーズリーフを差し出された。数十分前、私が目を奪われた、それである。


「やるわ」
「え」
「要らないなら、適当に捨てといて」



相馬くんの指先がルーズリーフから離れ、滑り落ちる。反射的に手を伸ばしそれをキャッチすると、ふっと軽く笑われたような声が降って来たので、ぱっと顔を上げると、視線が交わった。その日初めてのことだった。


「結構、似てるっしょ」
「へ、あの」
「腹減ったし、俺帰るわ。あんたも気を付けて」


自然に隠された時、見てはいけなかったのかもしれないと思っていた。まさかこんなにまじまじともう一度見ることができるとは、思ってもみなかった。

渡された横顔の落書きと相馬くんを交互に見つめるしかできない私を差し置いて、彼は机上に広げていた教科書やプリント、筆記用具を乱雑にスクールバックの中に詰め込むと、じゃーね、と言って席を立った。あ、とか え、とか、言葉になりきれない音が先走る。

蝉の鳴き声がうるさかった。遠のいていく足音に、脈を打つ心臓。視界に映る金髪は、太陽の光よりもずっとずっと眩しい。


「ほっ、ほづみれい!」


ようやく出た声を、彼の背中にぶつけるように叫ぶ。数か月隣の席に座って過ごしたクラスメイトに自分の名前を叫ぶ機会なんて、そうあることではない。


相馬くんと関わったためしはなかった。隣の席になってから窓の外を眺める機会が増えたのは、右側にいる相馬くんと目を合わせるのが怖かったから。シャープペンを落とした時も、拾わないでほしいとすら、少しだけ願っていたのだ。

私はこの時まで、君の名前しかまともに知らなかった。



「知ってるよ」


けれどそれは、君も然りだろうか。



「また明日な、八月朔日 (れい)


八月朔日 鈴。漢字までちゃんと理解しているように紡がれた自分の名前は、まるで自分のものではないと錯覚してしまうほど、美しい響きだった。

握りしめたルーズリーフに描かれた男性の横顔は、どこか遠くを見つめていて、何かを漕がれているようにも感じ取れる。とても繊細であり、美しい。


そしてそれは​───木下先生によく似ていた。




「鈴、今日何時に帰ってくる?パパも今日から休みだから、皆でお昼どこかに食べに行こうかなぁって昨日の夜 話してたんだけど……」

「あぁ、うーん。お昼は跨ぎそうだから私はいいや」
「あら……そう?」
「うん、みんなで行ってきてよ」
「じゃあ、これお昼代ね。好きなもの食べなさい」



「ありがとー」と、大して心のこもっていない声で返し、千円札を1枚受け取る。補習2日目の今日は、私が唯一受けている英語が一限目に組まれているので、8時50分の開始までに学校に行かなくてはならない。つまるところ、私の朝は早いのだ。


夏休み真っ只中ということもあり、午前7時半を回ったばかりの今、起きているのは母親だけ。父も妹も今頃まだ夢の中だ。羨ましいとは別に思わない。むしろ、家族でのランチタイムを断る理由ができて有難いという気持ちの方が強かった。


父と妹は、私とは血のつながらない家族である。ものごごろ付いた時には既に私に実父はおらず、母とふたり暮らしだった。

母が再婚を決めたのは私が中学2年生の時。止める理由がなかったので、母から再婚の話をされた時、私はすぐに頷いた。父には、私の3つ下にあたる子供がいた。穏やかで大人しい、害のあるような子ではなかった。


新しい家族という形でともに暮らすようにようになってから早3年が経つが、私は居心地の悪さを覚えていた。優しい母と、父と、妹。申し分は何もないはずなのに、「なんか嫌だ」という、特別な理由がないまま家族と距離を置くようになってしまった。


私だけなのだと思う。私だけが、ずっと家族になり切れていないのだ。そんな自分を誤魔化すように、私は家族との時間を避けている。このままじゃダメだと思っていたのはいつまでか。高校生になってからは、変わりたいとすら、もう思わなくなっていた。



「行ってくるね」


母からもらった千円札を財布にしまい、軽く声をかけて玄関に向かう。「いってらっしゃーい!」と、ふたりで暮らしていた時から何も変わらない母の明るい声色で送り出され、私の中にわずかに残る良心がきゅうっと痛んだ。







7時50分。普段学校がある日も、私は比較的余裕をもって学校に来るようにしている。誰もいない、朝の教室が好きだった。完全に登りきらない太陽も、朝特有の爽やかな風も、部活動の準備をする生徒たちの声も、全部私のお気に入り。


窓際の列の後ろから2番目が私の席だった。カタン…と椅子を引き、腰を下ろす。鞄を枕にするようにそこに頭を乗せ、窓の外に広がる景色をぼんやりと見つめた。

空が青い。優雅に鳥が飛んでいる。蝉は今は静かだが、授業が始まる頃にまたきっとミンミンと一斉に鳴きだすのだろう。ぼーっとしていると、だんだん瞼が重くなってくる。授業開始まで1時間弱、浅い夢を見に行くこともまた、日課のようなものだった。


「……あ?寝て……る?」


瞼が完全に落ちかけた時。カタン…と椅子を引く音が聞こえ、同時に細い声が落とされた。首だけを回し、なんとか瞼を持ち上げながら声がした方に顔を向ける。視界に、なめらかな金色が広がった。


「……え?」
「あ、寝てなかった。ごめん、起こす気はなかった」




何度か目を瞬かせながら私は身体を起こし、状況を理解しようと試みる。

何故、相馬くんがいるのか。

もちろん私の隣の席が相馬くんであることに間違いはないけれど、時刻はまだ8時を過ぎたところ。夏休み前に学校に通っていた時、相馬くんはいつも始業ぎりぎりに教室に来ていたから、こんなにも早い時間に教室にいることが不思議でならなかった。


「はよ」
「お……はよう、ございます」


ぎこちない挨拶。暑さと緊張が相まって、至るところから汗が出ている感覚があった。どうしてこんなに緊張するのかわからなかった。机に突っ伏して首だけを私に向けた相馬くんが、「八月朔日」と私の名字を紡ぐ。ホヅミ。その3音がすとん…と私の中に溶けていく。


「あんた、いつもこんなに朝はえーの」
「えっと、うん」
「ふうん」


興味なさそうに相槌を打たれる。今の返しは間違ってしまったような気がした。相馬くんはどうしてこんなに早いのとか、話を少しでも広げられたらよかった。こういうところが、友達が多くできない理由なのかもしれない。


普段の私は、ひとりでいることの方が圧倒的に多い。1年生の最初の頃に仲良くしていた人とは、2年生になってから一度も話してはいない。このクラスでも、用事がある時以外で話しかけてくれる人はいるだろうか。私が友達と呼べるのは一体何人いるのだろうと考えて虚しくなる。


「俺はたまたまね」
「え?」
「姉ちゃんが仕事ついでに送ってくれるっていうからさ。暑くて早く目ぇ覚めたし、かと言って歩くのもだりーなってことで、ちょうどよかったから車乗せてもらった」


何もこちらから聞き出してはいなかったが、相馬くんが話を繋いでくれた。人見知りだと思っていたけれど、それは違ったみたいだ。私みたいなクラスメイトにもちゃんと話しかけてくれる。

嬉しさを噛みしめながら、「そうなんだぁ」と、またつまらない返しをしてしまった。相馬くんに興味がないわけじゃない。むしろ、その逆である。


「八月朔日」


相馬くんが私を呼んだ。金色の髪の毛をくしゃりと掻き、どこか言いづらそうに、だけど何かを聞きたそうに、「あのさぁ」と口を開く。



「昨日の、そのー……落書き。捨てた?」


昨日の落書き。捨てられるわけがない。というかそんな気はサラサラなかった。木下先生にそっくりの男性の横顔のことを、本当は聞かれずとも詳しく聞いてみたかった。相馬くんはたしか部活動無所属だったような気がする。にもかかわらず、美術部なみのデッサンの実力。あの落書きは、作品としてすでに出来上がっていた。

ブンブンと大きく首を横に振ると、ふはっと笑われる。何故笑われたのか、その理由はわかりそうになかったが、相馬くんの纏う空気がなんとなく優しかったから私の反応は良しとすることにした。


「ファイルに入れて飾ってる」
「飾ってんのやーば」
「すごく……すごかった、見惚れたの」



相馬くんの瞳に木下先生はあんな風に映っているのだと、彼の世界を除いてしまったような、そんな気持ちにさえなったのだ。繊細なタッチで描かれたそれは、思いだすのが容易なほど私の脳内に焼き付いている。美しかった。素晴らしかった。羨ましいとも、思ってしまった。



「八月朔日にあげてよかった。俺が持ってても、どうせ捨てちゃうからさ。自分が大切にしてるもの誰かに大切にしてもらえるの、やっぱ嬉しいわ」

「え…」

「好きだと思っちゃったんだよなー…」



相馬くんの瞳は、私の向こう――窓の外、どこか遠くを見つめている。物憂げな雰囲気に呑まれてしまいそうだった。「大切にしているもの」「好きだと思っちゃったもの」が具体的に何を指しているのかは分かりそうになかった。


「朝、いいな」


ふと、独り言のように呟かれたそれに、「うん」と精一杯の返しをする。朝は良い。空気が澄んでいる。自分が抱えるくだらないジレンマもどこに向けていいか分からない感情も、全部許されたような気になるのだ。孤独が苦しいのが夜だとするならば、ひとりが恋しいのが朝。私は多分、朝に向いている。それだけは、自分の中に確信があった。


「起きれたら、明日も早く来る。俺どうせ1から3限まで全部あるから」
「がんばって…」
「八月朔日も」



良い朝を過ごしたその日、私は1限の補習を終え、相馬くんとまだどこかぎこちない「また明日」を交わした。

その後 家の近くにあるファミレスに寄り、3時間ほどひとりでランチをしてから帰った。心が穏やかで、どうしてかとても、満たされた気持ちになった。



8月3日。昨日に引き続き、英語は1限目。家族から逃げるように部屋を出たのち、自転車を走らせ、私はいつも通り7時50分に学校に着いた。

半袖ブラウスと肌の間に汗がにじみ気持ち悪かった。ハンドタオルで首元や額の汗をぬぐいながら、3階まで階段を上って教室に向かう。その途中のこと。


「お、八月朔日。早いなぁ」
「あ、木下先生」


ひとつ階段を上った先、職員室前の廊下に出たところで、木下先生と遭遇した。「おはようございます」と挨拶だけを交わし、会釈をして再び階段を上ろうと背を向ける。すると、


「あー、待て待て八月朔日」


思いだしたように呼び止められた。1段目に片足を乗せたまま立ち止まり、はい と身体を半分だけひねって振り返る。


「相馬は怖い奴じゃないから、仲良くしてやってくれ」
「へ?」
「誤解はされやすいけどなぁ……補習も毎日来てるし、面白い奴だぞ」
「いや、えっと……?」


突然相馬くんの話題を振られ、私は困惑した。

相馬くんと何か親密な関係……とかなのだろうか。木下先生が相馬くんを気にかける理由が、どこかにあるのかもしれない。言われなくても、ここ2日で相馬くんが悪い人ではないことは十分わかった。目を見て話してくれるし、名前も覚えてくれている。けれど、私と相馬くんが特別仲良くなったりすることはないような気もするのだ。

補習が終わって、あっという間に夏を越えたら、きっとまた元通り。


相馬(あいつ)相馬(あいつ)のまま受け入れてくれる人がいてくれたらって思うんだよ。俺のエゴだって分かってても、な」


そう思っているのは──…私だけ、なのだろうか。



「意味が……よくわかりません」
「ははっ、まあ、そうだよな。こんなこと急に言われてもって感じだなぁ、すまんすまん」
「いえ、あの…」
「でも、悪い奴じゃないのは、八月朔日はなんとなく分かってくれてると思ったから。まあ、聞き流してくれてもいいさ。暑い中、朝から毎日ご苦労さんね」


そう言って木下先生は名簿を持ったままの右手を軽く上げると、給湯室へと入って行ってしまった。モーニングコーヒーでも淹れるつもりなのだろう。珈琲の苦みを美味しいと思う年にはまだなれていない私は、音を立ててしまった扉を見つめながら、炭酸キメたいな、とそんなことを思った。







ブラウスの襟元をぱたぱたと仰ぎながら教室の入口扉を開け、それから数秒、私はそこで固まった。

窓際の後ろから2番目――の、隣。

扇風機の風に揺られる金髪は、窓から差し込む太陽の光で透き通っていた。そこで寝ているのが誰かなんて、顔を見なくても分かる。


───相馬くんだ。


「起きれたら、明日も早く来る」昨日言っていたそれは社交辞令のように思っていた。行けたら行くねとか、できたらやるねとか、それと同じ枠の言葉だろうなって脳内で思っていたから、そこに相馬くんが居たことにとても動揺してしまった。


起きれたんだ、今日も。暑くて寝苦しかったから早く目が覚めちゃったのかも。

そんなことを考えながら、足音を最小限に抑えて自分の席に向かう。扇風機の温い風が、私の黒髪をも揺らした。長袖のワイシャツを2、3回捲った腕に浮かぶ血管。どくん、と心臓が鳴った。


私が椅子に座ってから数分静寂が流れたあと、不意にもぞ、と相馬くんの身体が動いた。


「んー…あ、ほづみ、だ」
「…おはよう相馬くん」
「はよ…」


朝かつ寝起きだからか、私が知る相馬くんより舌足らずで、それがちょっとだけかわいいと思ってしまった。相馬くんが「ぅん”ん」と唸り、身体を起こしてぐーっと伸びをする。ごしごしと目を擦った後、目を合わせてもう一度さっきよりはっきりとした音で「はよ」と紡いだ。うん と頷くと、うん と返ってくる。


なにか、会話。せっかくのふたりきり。もう少し有意義なものにしたい。コミュニケーションが上手い人はこういう時すらすらと会話文が浮かんでくるのかと思ったら羨ましくてしょうがない。


「あ、暑いね今日も」
「だなー…」
「サイダーとか効きそう」
「だなー」
「海とか、いいよね」
「うんわかる」
「涼しいこと……かん、考えよ」
「……ぶはっ」


絞りだした会話は10秒で終わってしまって落ちこむ私に、「八月朔日」と丁寧な声が落ちる。呼ばれるままに視線を合わせると、相馬くんは目を細め、悪戯っぽく笑っていた。それが、どうしてかとてもドキドキした。

理由について考える暇はなく、相馬くんの次の音が、朝の静寂に包まれた教室に、確かに鮮明に、落ちたのだ。



「今日、サボる?」



17年生きてきて、そんな提案をされたのは生まれて初めてだった。漫画や小説でよくあるそれだ。授業サボって屋上でお昼寝するとか、学校サボって自転車チャリ二人乗りして旅に出るとか、なさそうでありそうで、だけどやっぱりなさそうな現実の話かと思っていた。私とは無縁の、ちょっとだけ夢が詰まった言葉。


「なんか今日眠いしやる気ないし。涼しいとこ行きてーなぁ俺」
「サボる…と、いうのは、」
「夏ってさぁ、気づいたら終わってるしな。高校の夏休み、補習1日くらいサボっても怒らんねーよ。頭ん中空っぽにして夏感じたっていいだろ」
「そ……」

「どうする、八月朔日」


選択を迫られた。時刻は8時過ぎ。他の生徒が来る気配はまだまだなくて、一度学校に来た私たちが教室を出ても、きっと誰にも見つからない。木下先生には不審に思われるかもしれないけれど……木下先生なら、笑って許してくれそうな気がしなくなくも、無い。



「…怒られたら、相馬くんのせいにしても、いい?」
「ふはっ。いいぜ、上等」


夏の朝は、やっぱり良い。







「ね、ねえどこ行くの、相馬くん」
「涼しいとこ」
「目的地が無いのって、ちょっとまずいかもだよ」
「俺はそっちのがワクワクしていいいけど。つか目的地あるって。涼しいとこ」
「えぇ~…?」
「もう着く、もう着くから、あとちょっと!」


自転車を濃いで40分。真夏の朝に自転車爆走は、現役高校生といえど正直ちょっときつい。想像以上に上り坂も多かった。学校から離れた場所――人通りがあまりない郊外。私たちが住む街は、元々それほど栄えたところではないから、自転車を数十分走らせただけで、街並みは驚くほどに変わる。



「ほら八月朔日、着いた!」


昔ながらの布団屋さんとか、時計屋さんとか、レトロなお店が並ぶ街に自転車を走らせ、最後の最後に襲い掛かってきた坂道を上り終えた頃、汗だくの私を差し置いて涼しい顔をした相馬くんが語尾を上げた。

青空の下、ブラウスの隙間を細やかな風が吹き抜ける。チリンチリン……と、全開の引き戸のすぐ横に掛けられた風鈴が鳴った。



「みずがめざ……」



商店というのか、駄菓子屋というのか。屋根看板に貫録のある字で『みずがめざ』と、そう書かれてあった。知らないお店だった。けれど、相馬くんは違うみたいだ。

「ここの店主が水瓶座だったから『みずがめざ』」
「え?」
「ごめんくださーい」


紺色の暖簾をくぐり抜け、相馬くんが慣れた口調で言う。慌ててその背中について行くと、白髪に丸眼鏡、白の割烹着といった、いかにもなおばあさんがレジのところに座って本を広げていた。相馬くんの来店に気づくと、おばあさんはしわくちゃな目尻にさらに皺を作って笑った。


「あらぁなっちゃん。制服着て……学校かい?」
「んーや、サボリサボリ」
「あらあら」
「ラムネ2本、冷えてるやつ。今日友達連れてきてんだわ」
「あらまぁ、そうかい、いいねえ。ゆっくりしてきなさい」
「ありがとー」


サボリ発言にも動じないところをから察するに、相馬くんとそこそこ付き合いが長いのだろう。自転車で40分のこの場所に、相馬くんはどのくらいの頻度で来ているのか。まだ知らない相馬くんの部分が見え隠れしてワクワクする。

レトロで趣のある店内。何気なく中をぐるりと見渡すと、ふと見覚えのあるタッチのイラストが目についた。額縁に入れられた1枚の紙。記憶に残るそれよりは少々粗削りではあるものの、思わず見つめてしまうほど、優しい愛が籠ったような、おばあさんの似顔絵だった。



「結構、似てるっしょ」


私に気付いたのか、いつの間にかお会計を済ませていた相馬くんが言う。昨日、木下先生の似顔絵をくれた時と同じ台詞だ。


「う」

ん。そう言おうとして顔を上げた時、思ったより近くに相馬くんがいて思わず仰け反った。身長はいったい何センチあるのか、教室にいた時では把握しきれなかったけれど、思っていたよりずっと高身長。斜め下から覗く顎のラインが、とても綺麗だった。

「近……いなぁ相馬くん」
「え?ごめ」
「う……うん、あのほんと、気をつけてもらえると」
「うん。あ、うん。ごめん?」


頬が火照るのは暑さのせいか。ぺこりと頭を下げられ、半人分の距離をとる。相馬くんは全然動揺なんてしていないようで、まるで私だけが意識しているかのような空気が、少しだけ恥ずかしかった。


「それねぇ、なっちゃんが昔描いてくれたのよねぇ。いつだったかしら、中学生の頃?上手よねぇ」
「うーん、多分?そんくらい」


なっちゃん。相馬 夏芽くんだから、なっちゃんなのか。かわいい、とぼんやり思う。



「なっちゃんは本当に凄いのよ、昔から。私もなっちゃんの絵が大好きでねぇ、私の似顔絵だけじゃないさ。この辺りに住んでいた子たちの絵だってたくさん飾って───」


言いかけて、おばあさんがハッとしたように言葉を止める。何か口に出すのは気が引ける内容だったということは察したものの、何もわからない私は相馬くんとおばあさんの顔を交互に見るしかできなかった。ラムネを2本抱えた相馬くんが気まずそうに目を逸らす。


「……あー、はは。ごめんなばーちゃん、気使わせて」
「なんだって考えるより先に言葉が出てきてしまうかね……」
「いーよいーよ。大丈夫だから気にすんな。ラムネありがと、ベンチ借りるね」


相馬くんはそう言うと暖簾を潜って外に出て行ってしまった。取り残された私に、おばあさんが申し訳なさそうに眉を下げる。


「……なっちゃんに、昔の話は禁句だったんだけどねぇ…。お友達を連れてきたのは久しぶりだったからって舞い上がってしまったね、ごめんねお嬢さんも」


弱い声が落ちる。口を滑らせてしまったことをとても後悔しているように思えた。おばあさんは、おもむろにアイスのショーケースをあけるとカップに入ったシャーベットフロートを2つ取り出し、木箆を添えて私に手渡した。


「なっちゃんとふたりでお食べ」
「え、いいんですか?」
「外は暑いでしょう。ゆっくりしていきなさいな」


相馬くんに対してのお詫びの意味も兼ねているのかもしれない。断る理由が私にはなかったので、それを受け取りぺこりと頭を下げた。氷の冷たさが、暑さで熱を帯びた皮膚に溶け込んでいく。外の気温は何度あるのだろうか。


「八月朔日ー?早く」
「あ、うん、今行きます。あの、ありがとうございます、アイス(これ)


おばあさんの優しい笑顔に送られてお店を出る。入り口にぶら下げられた風鈴が、真夏の風に吹かれてちりんと揺れた。