五分と経たない内に、カフェオレが揺れるグラスが私達の元に届いた。殆ど同時に私達の手がそれに触れ「ありがとうございます」と声が重なる。
空になったトレイを小脇に抱えた店主は、以前私が訪れた際と変わらぬ朗らかな笑みを湛えてくれた。
「もしかして、君が噂の祈ちゃんかな?」
「噂の?」
踵を返してその場を離れる事なく、こちらに視線を向けて質問を投げかけた店主に驚きながらも私は“噂の”の意味が判然とせずすぐに首を傾げた。しかしながら、私とは対照的に店主の言葉の意味を知っているらしい陽向が、実に分かり易く向かいの席で慌てふためいている。
それに心なしか、彼の麗しい顔は紅潮していた。
「ここにいるうちの常連さんの難波君からね、祈ちゃんって名前の気になっている子がいるんだけど、声を掛ける勇気が出ないってずっと相談されていたんだよ。」
「え?」
「ちょっ…ちょっと待って下さいマスター、それを祈ちゃんに云うのは反則です。」
「おや、やっぱり君が噂の祈ちゃんなんだね。」
「都合の良い所だけ掻い摘んで話を続けないで!!!」
話を続ける店主にどんどん顔を赤くさせる陽向が、珍しくかなり激しい動揺を見せている。陽向の言動から察するに、どうやら店主の発言は全て事実らしかった。
周章狼狽している彼がとても可愛い。そう思う一方で、私は陽向が店主に私の話をしていた事実に恥ずかしくなって身体が熱くなる。
「難波君はいつも端麗な顔をピクリともさせずに小説を読み耽る青年なのに、祈ちゃんんの話をする時だけは実に表情豊かで私もついつい聴き入ってしまってね、いつかその噂の祈ちゃんに会いたいと願っていたんだよ。」
思い出を反芻する様子を見せる相手の言葉に、私は大学の学食で陽向に声を掛けられた時の事を思い出した。
「入学した時からずっと祈ちゃんの事が気になっていたけれど、勇気が湧いてくれなくて話し掛けられなかったの」確か陽向はあの時、何の取り柄もない私にそう云ってくれた。嘘を付いてると疑っていた訳ではなかったけれど、とても私みたいな面白味のない人間に興味を抱く人がいるとは思えなかったのも本当だった。
だけどたった今、第三者の証言で陽向があの時私にくれた言葉が何の脚色もないノンフィクションだったのだと知ったせいで、心拍数がぐんぐん急上昇している。
陽向への恋情を自覚したばかりだと云うのにそんな吉報を耳にすると、余計にどんな表情をすれば良いのか途端に分からなくなってしまう。