午後五時ぴったり。定時退社をした私の足取りは重く、気を抜いた瞬間その場で倒れる自信がある位には満身創痍の状態だった。これから帰宅ラッシュに揉まれ、空席が一切ない電車に揺られて、改札を潜り自宅のあるマンションまで歩いて帰らなければならない。
電車に乗っている間に吐き気を催してそのまま嘔吐してしまわないだろうか。この一週間、ずっとその恐怖を抱えたまま会社に通勤している。今日の夕食は何を作ろうかなと考えるけれど、まるで献立が思いつかない。
そんな事を考えられる猶予も今の自分には残されていないのだと気づいて膝が小刻みに震える。陽が落ちる寸前の外は、赤紫色に染まるしらす雲が美しかった。
「…ん!…ちゃん!祈ちゃん!」
「ひゃっ。」
オフィスの入っているビルを出て駅に向けて足を引き摺っていた私を制したのは、突然伸びて私の手首を攫った体温だった。驚いた拍子に眩暈がしてぐらりと視界が回転する。嗚呼、このまま倒れてしまうんだ…そう思った私の身体は、冷たくて堅いアスファルトに叩き付けられる事なく、寧ろこの世で一番愛おしいと想う柔らかな体温と甘い香りの中に収まった。
あ…あれ…痛くない。痛くないし、この体温って…この香りって……。
「祈ちゃん!!!大丈夫?顔色かなり悪いし身体もこんなに軽くなって…「ひ…なた…。陽向…っっ…陽向!!!!」」
手首の骨の形がくっきりと浮いている腕を伸ばして相手の背中に回した私は、人目も憚らずに思い切り相手を抱き締めた。大きな目を更に見開かせて困惑している彼の毛先が頬に触れて擽ったい。
社会人になってモカブラウンになってしまった彼の髪の毛は、夕陽のおかげでほんの僅かだけ桜色に染まって見えた。