そもそも、自分が他の誰かに恋できるだなんて夢のまた夢だと思っていたし、誰かを愛するなんて絵空事だとしか考えていなかった。
牧瀬 陽光と云う大切な幼馴染を失ったあの日から。私の心が色褪せたあの日から。二度と前へ進めないのではないかと漠然とした恐怖に襲われ、独りで声を堪えて泣いた夜は数え切れない。
「月並みな言葉だけど、人生何があるか分からないよね…本当に。」
オーブンでチーズを溶かして焼き目を付けるだけの工程を残して、美味しそうに仕上がってくれたグラタンを二人分の皿に盛り付ける。チーズとパン粉をふりかけた所で、エプロンを脱いだ私は、ソファの上に放り投げられている携帯の元へ軽快な足取りで向かった。
手にとった携帯の暗い画面に反射して映るのは、酷く頬が緩んでいる自分の顔。ルンルンと踊る心を全く隠せていない表情には「幸せ」と云う文字が書かれているかの様だ。表情筋に力を入れてみるものの、気が緩んだ途端にへらりと口許が三日月の形を作る。
メッセージアプリの右上に新着メッセージを知らせる数字の「1」が表示されていて、すぐにそれを立ち上げた。トーク履歴の一番上にある難波 陽向の文字をタップすれば、他愛無い会話のやり取りが続いている画面が開く。
『今から帰るね、楽しみにしてる。』十五分前に陽向から届いたメッセージだった。羅列している文字が愛おしくて、指先で彼から届いた一文をそっと撫でる。『私も楽しみにしてる。』返事の文を打ち込んで送信と書かれている部分に触れる寸前、ガチャリと玄関の開く音がしてすぐに「ただいま、祈ちゃん」と声が響いた。