手元が滑ってゴトッと音を立てて床に転がり落ちた玉葱の後を慌てて追いかける。ぐっと腕を伸ばしてどうにか掌の中へと戻す事に成功した後、水道水でもう一度念入りに洗う。自宅の台所とは随分と勝手の違うここで調理をする事にもすっかり慣れてしまったな、なんて不意に思って口許が緩む。
玉葱をくし切りにしながら照明が灯されているリビングを一瞥する。この部屋を借りている主である陽向の姿はそこにはない。因みに云うと、寝室にもいなければ入浴中でもないし、もっと云うとトイレに籠っている訳でもない。
レースカーテンだけが閉められている窓の外は、ついさっきまで夕陽で橙色に染まっていたはずなのにすっかり暗くなっていた。全国各地で猛暑と謳われた夏が過ぎ去り、あっという間にカレンダーは十月になっていた。
「まだ六時にもなってないのかぁ。陽向、何時くらいに帰って来るんだろう。」
沸騰してグツグツと泡を湧かせている鍋に開封したマカロニを投入して、くっ付かない様に軽く掻き混ぜながら隣のコンロにも火を点けてオリーブオイルを満遍なく広げる。もう既に南瓜のポタージュスープは完成しているし、冷蔵庫にはカプレーゼとシーザーサラダが冷やされている。今日の為に奮発して購入したシャンパンもスタンバイ状態だ。
残すところはメインのグラタンのみだけれど、これも数分で仕上げられる自信がある。陽向と交際する前までは、気が向いた時にしか包丁を握らなかったせいで料理のレパートリーが圧倒的に少なかったと云うのに、今では数品作る事にも慣れてきたし、何より冷蔵庫にある食材だけで献立を考えられるまでに成長した。
陽向と出逢って、陽向に恋をして、陽向を愛する様になってからと云うもの、様々な事が大きく変化した。愛している陽向にはできうる限り自分の手料理を食べて欲しい。そんな願望が自分の心に芽吹くだなんて、ほんの少し前の私は思ってもみなかっただろう。