汽笛を鳴らして小さな連絡船が動き出した。
向こうの小島まではたった五分で着く。
航海と呼べるほどのものでもない、目と鼻の先というやつだ。
乗船客も十人ほどで、観光客らしい若い女性二人組のほかは島の住人ばかりだ。
少しずつ近づいてくる島は撫で肩の富士山のような形をしている。
実際、中央の山は低いながらも地元では『小富士山』と呼ばれていて、麓の集落からまっすぐに伸びた石段の先には深い緑に埋もれるように赤い鳥居と小さな祠が見える。
小富士山からは海鳥が翼を広げたように丘陵が連なり、島の両端にまたそれぞれ小高い山がある。
まるで包み込むような腕で、帰ってくる者を出迎えてくれているかのようだ。
――帰る、か。
思わず頬がゆるむ。
僕が島へ帰るのは何年ぶりだろう。
でも、帰るという言い方は正確ではない。
僕は本土で生まれ育った。
本来なら向こう側とは縁がなかったのだ。
過疎化の進んだ小さな島では昭和の終わり頃から村の学校を維持することが困難になっていた。
平成になって村と本土の市が合併協議をしたときに、船通学の補助金を出すことが条件の一つに加えられて、本土から島に生徒を呼び寄せるようになった。
そんな生徒の一人が僕だった。
とはいうものの、本土側の街にもそれほど児童が多いわけではなく、この制度を利用する人数にも限りがあるから、一学年がやっと十人を超えるほどしか集まらない。
結局、廃校の危機はむしろ深刻化していて、僕が通っていた頃には小中学校が統合されて同じ校舎と敷地を使うようになっていた。
村の大人たちは自虐的に『小中一貫教育』なんて笑っていたけど、田舎のおおらかさもあって、年齢差や体格差のある子供たちが混ざり合ってもみな兄弟姉妹のように仲良く調和のとれた学校だった。
フォンと軽く汽笛が鳴る。
もう対岸の港が迫っていた。
港を両側から守るように防潮堤が囲っていて、その両腕の先端にはそれぞれ小さな灯台が建っている。
まるで神社の狛犬のようだけど、色は鮮やかだ。
右側は郵便ポストみたいな赤色に塗られていて、左側のは白い。
連絡船は速度を落としながら灯台の間へ滑り込んでいく。
赤い灯台を背景に自撮りしていた女性客二人から「ばえるね」と歓声が上がる。
雲一つない青空と、まぶしい太陽を反射した穏やかな海。
たしかに今日は島日和だ。
フォンフォンとまた汽笛を鳴らして船が着岸した。
岸壁には牡蠣の殻がびっしりとついている。
足取りの軽い観光客の後ろから地元の人々が上陸し、空っぽになった船が静かに波に身を委ねていた。
ああ、帰ってきたんだな。
正面にそびえる神社の石段を見上げていたら、僕を呼ぶ声がした。
「おかえり、爽太」
大きなおなかを抱えた女の人の笑顔がそこにあった。
僕は驚いた。
まさか迎えに来てくれるとは思わなかったよ。
僕が帰ってくるのを知ってたんだね。
――ただいま、美緒。
彼女は島生まれの元同級生で、つい最近、一つ上の先輩と結婚したばかりだった。
◇
島には高校がない。
中学を卒業したら、今度はみなが本土へ通うようになる。
本土の街には普通科の高校と、もう一つ農林水産科が併設された工業高校がある。
普通科の高校はどちらかというと大学進学向けで、そういった進路を目指さない生徒は工業高校を選ぶ。
島の人たちは漁師か農家ばかりだから工業高校へ通うのがほとんどだ。
僕らの学年でも普通科の高校へ進んだのは僕と美緒の二人だけだった。
昭和の時代には街に自動車部品メーカーの工場があったそうだけど、海外に移転してからは就職先もなくなってしまい、本土側の生徒がみな普通科を選ぶようになって工業高校も先行きが危ういらしい。
島からの生徒でなんとか持ちこたえているのは皮肉なものだ。
一方で、工場の跡地にはショッピングモールができたから、普通科高校の生徒にとっては都会的な空気を感じられる寄り道場所としてありがたがられていた。
本土側に家がある僕よりもむしろ美緒の方が積極的で、帰宅部だった僕は毎日のように彼女に引きずって連れていかれたものだ。
なにしろ島にはコンビニもスーパーもない。
ハンバーガーを食べることすら一大イベントだったのだ。
高二の夏には、ショッピングモールの隣におしゃれカフェも開店した。
「スタバだよ! スナバじゃないんだよ」
夢の国にいるような瞳をして行列に並ぶ彼女に、鳥取じゃないんだからと心の中でツッコミを入れつつ本当は僕も楽しんでいた。
「フラッペおいしいね」
「ねえ、その言い方やめてよ。萩原商店のかき氷じゃないんだから」
萩原商店というのは九十近いバアちゃんがやってる島唯一の食料雑貨店だ。
いくらフラペチーノの魔力に魅了されていたとはいえ、高校生のお財布ではさすがに毎回おしゃれカフェというわけにはいかず、僕らはショッピングモールのフードコートで百円ソフトクリームをなめながら時間をつぶしたものだった。
夜の八時になると僕たちは本土側の港へ向かう。
島へ帰る最終の連絡船は八時半出発だ。
こんな時間まで寄り道していたのにはわけがある。
「おう。ごくろうさん」
出発時間ぎりぎりにユニフォーム姿のタカシ先輩が駆けつける。
先輩は島の網元の息子で、工業高校では甲子園出場を期待される野球部のエースピッチャーだ。
毎日ボールが見えなくなるまで練習してくる先輩と僕らは港で待ち合わせているのだ。
ども、と僕は軽く頭を下げる。
でも、用があるのは僕にではなかった。
「お待たせ。いつも悪いな」と、先輩が美緒の肩に手を回して連絡船に乗り込む。
「ううん。大丈夫だよ」
美緒は先輩のカノジョなのだ。
僕は都合の良いボディーガードにすぎない。
引き継ぎが済んだら黙ってその場から退散する。
船の出発を見送ったことはない。
フォンと背中で汽笛が鳴る。
それから僕は家までの道を一人でたどる。
海沿いの坂道を上ったところで暗い海を眺めると、小さな明かりがにじんでいる。
それが連絡船なのか灯台の明かりなのか、僕には分からなかった。
◇◇
港を背にして美緒が歩き出す。
萩原商店はまだやっているらしい。
色あせた日除けと、品揃えの悪い自動販売機はあいかわらずだ。
学校から子供たちの歓声が聞こえてくる。
島は何も変わらない。
僕は黙って彼女の後ろについていった。
◇
僕と美緒は小学校の同級生で、入学してすぐに仲良くなった。
といっても、十人ほどのクラスだし、そのまま中学まで持ち上がりだから、男女分け隔てなくみんな仲が良くて、僕らだけが特別な関係というわけではなかった。
放課後、帰りの連絡船に乗るのは僕の方だったけど、毎日暗くなる少し前まで島で遊んでいくことにしていた。
本土側に帰っても友達はいなかったし、父親は単身赴任で母親も日勤の看護師だったから早く帰っても家には誰もいなかった。
むしろ島に残っていた方がまわりの大人の目もあって安心だと思われていた。
僕は小学生の頃までは背も小さくて、美緒の方が電柱みたいにひょろりと背が高かった。
だから彼女と一緒にいると姉弟に見られることも多かった。
美緒にしてみればその頃から僕は連れ回すのにちょうどいい子分みたいなものだったのかもしれない。
学校裏の原っぱでシロツメクサの冠を作るのにつきあわされたり、探検と称して集落の反対側にある廃校にしのびこんだり、遊びを思いつくのはいつも美緒だった。
一方で、花冠は途中で飽きて完成したことがなかったし、廃校の怪しさに我慢できずに逃げ出して、置いてきぼりにされるのはいつも僕の方だった。
そんな僕らにとってちょっとした事件が起きたのは小学五年生の秋だった。
いつものように学校を出て浜辺で貝殻を拾いながら歩いていると、美緒が小富士山を見上げて指さした。
「ねえ、あの山に登ったことある?」
「ないよ」
船からいつも眺めていたけど、登ったことはない。
標高は百メートルちょっとで、途中の老松神社までは石段を上がり、そこからは森の小道に分け入って登るという話は聞いていた。
「登ってみようよ」と、美緒がなんでもないことのように言い出した。
「今から?」
「大丈夫だよ。てっぺんからちょうど夕焼けが見えてきれいなんじゃないかな」
老松神社は島の東側にある。
僕らは小富士山に隠れた半分の夕暮れ空しか見たことがなかった。
「ほら、行くよ」
僕の返事を聞く前に美緒は神社に向かって歩き始めていた。
石段の下で彼女に追いついたとき、僕は思わずため息をついた。
小富士山の中腹にある老松神社の階段は絶壁といっていいくらいの急勾配で、しかも石段が子どもの靴ですら踵がはみ出るくらいの奥行きしかなく、おまけに表面がすり減って斜めになっているのだ。
足を横に向けながら踏ん張りをきかせて登らないと滑り落ちてしまうのに手すりもない。
それが遙か見上げる先まで続いている。
老松神社のお祭りでは、島の若い衆が手をつかないように大杯を持ったままこの急階段を駆け上がるという伝統行事がある。
階段を上りきった者には大杯に酒が振る舞われて、一人前の男と認められるのだ。
ちょうどその前の週におこなわれたお祭りでその様子を見ていたから美緒も山登りを思いついたのだろう。
でも、神社の階段は子供には危険だから登ってはいけないと学校でも指導されていた。
無理だよ、と言いかけて僕は言葉を飲み込んだ。
弱虫だと思われたくないという見栄以前に、本当に怖くて声が出なかったのだ。
そんな僕のおびえた様子を眺めながら、「爽太が先に行ってよ」と美緒が意味ありげな笑みを浮かべていた。
邪魔になると思って僕はランドセルを下ろして階段の脇に置いた。
「僕が後から登るよ。滑ったら大変だから」
二人もろとも落ちる場面を想像して足がすくんでいたけど、万一の時には少しでも美緒を守ろうという気持ちがあったのは本当だ。
でも、その次に発せられた彼女の言葉は思いがけないものだった。
「パンツ見るんでしょ」と、美緒が腰をかがめながらランドセルを地面に置いた。
「見ないよ」
とっさに答えたけど、その日彼女は短いデニムスカートで、彼女の言葉につられてつい腰に目がいってしまって、僕はあわてて目をそらした。
「エッチ」
その言葉でスイッチが入ったように血の奔流が僕の体を駆けめぐった。
それまで僕は美緒は美緒だと思っていた。
いつも一緒にいて全然気にしたことがなかったのに、彼女の胸が少し膨らんでいたことや、デニムスカートに隠された腰つきが明らかに男子と違っていることに気づいてしまったのだった。
それは僕の知っている美緒ではなかった。
ついさっきまでいつもの美緒だったはずなのに、美緒はもう美緒ではなくなっていた。
僕も僕ではなかった。
それまで感じたことのない激しい感情が僕の体を突き動かそうとしていた。
美緒をどうにかしてしまいそうだった。
ただ、それがどうすることなのか、どうしたいのかすらその時の僕には分からなかった。
知らなかったから良かったのだろう。
その何かがおそらく美緒を傷つけることになるのはなぜか分かっていた。
そんなことをしたらもう二度と美緒と一緒にはいられなくなるということもなんとなく分かっていた。
あと一歩のところで何かが僕を押さえ込んでいた。
それが理性というものだと知ったのはもう少し成長してからのことだった。
その時の僕は美緒を傷つけたくないという気持ちをただ呪文のように頭の中で唱えてこらえるばかりだった。
そんな暗い衝動を抱えた自分を美緒には知られたくなかった。
「すごい顔真っ赤じゃん」
彼女はそんな男子的内面の変化には気づいていないようで、言い返せない僕をからかっていた。
選択肢などなかった。
「分かったよ。行くよ」
僕はおとなしく石段を登り始めた。
たしかに、その階段はあまりにも急すぎて下から見上げればスカートの中をのぞき放題だっただろう。
でも、数段登っただけでもう僕はそんな妄想すらできないほど足が震えていた。
奥行きが狭いくせに段差が膝くらいある。
作った人が縦横を間違えたような階段だ。
感覚的には二階屋根に立てかけた梯子を登っているのとほとんど変わらない角度だった。
上を見ることも下を見ることもできない。
ただ目の前の石段だけを見る。
お祭りで島の若い衆が威勢良く駆け上がっていた姿が幻のように思えた。
臆病な僕は最初から階段に手をついて一段ずつ登っていくのがやっとだった。
壁にへばりついたヤモリみたいな格好だったけど、なりふり構ってなどいられなかった。
さっきまでの激しい感情なんか空の彼方へ吹き飛んでいた。
「うわっ」
すり減って窪んだ縁に足を滑らせて思わず石段にしがみつく。
危うく靴が脱げそうになるのをなんとかつま先でこらえる。
「大丈夫?」と、下から声が聞こえた。
うん。
うなずいたつもりでも声は出なかった。
子犬のように背中が丸まってしまう。
本当は全然大丈夫ではなかったし、今すぐにでも戻りたかった。
だけど、美緒に弱みを見せるわけにはいかない。
本当の僕を知られてはいけないのだ。
僕は気を取り直してまた一歩一歩石段を登り始めた。
でも、僕はそこで気がつくべきだった。
ちゃんと見ているべきだったのだ。
知っていたはずなのに。
美緒は強がりで、本当は弱気な自分を見せたがらない女の子だということを。
美緒はやっぱり美緒だったのに。
僕が目を離したのがいけなかったのだ。
気がつくとすぐ下についてきているはずの美緒の気配がなくなっていた。
……あれ?
どうした?
とっさに振り向こうにも、下を見るのが怖くて体が動かない。
かろうじて顔を横に向けると、広い青空のはるか下に廃校に残された木造校舎の三角屋根がちらりと見えた。
ど、どうしよう……。
み、美緒……。
口がからからに渇いて歯がカスタネットのように鳴るばかりで名前を呼ぶこともできない。
と、その時だった。
「そうたぁ」
泣き声が聞こえた。
美緒……。
僕はおそるおそる石段をなぞるようにしながら下の方へ視線を移していった。
「おいてかないでよ」
さっき僕が足を滑らせたあたりで美緒が泣いていた。
でも、僕も動けなかった。
僕だって泣きたかった。
泣けば助かるなら、いくらでも泣きたかった。
「い、今、そっちに行くから動かないで待ってて」
「そうたぁ、助けて」
彼女はギュッと目をつむって石段にしがみついていた。
怖くて目を開けられないらしい。
無理に目を開けてめまいで落ちたりしたら大変だ。
早く行ってあげなくちゃ。
「大丈夫。今行くからね。ほら、もうすぐそっちに行けるから」
でも僕は足を一段下ろしただけだった。
上がるのよりも、下る方が何倍も怖かった。
下を見たら動けなくなる。
動けないというよりも、体が勝手に震えてしまって手も足も滑り落ちそうになるのだ。
でも、助けなきゃ。
僕が行かなくちゃ。
守るんだ。
僕が美緒を守るんだ。