6
「えっ!!」
思わず声が漏れ、俺は飛び起きた。
ジェナも急に動いた俺にビックっと体を竦めて、唖然としていた。
俺たちはお互い見つめ合ったまま固まってしまった。
俺は手を這わせるように、スタンドの明かりのスイッチを探した。
慌ててしまって、何度も空振りしていた。
やっと電気がついた時、ジェナは溜息に似た息を軽く吐き、俺の二つ折りの財布から抜き取ったものを元に戻そうとした。
それは俺の免許証だった。
声も出せず俺はじっとしていた。
免許証を直し終わった後、手を伸ばして俺に財布を返してくれた。
あまりにもショッキングで、動転していた俺は、目だけ動かして、ジェナと財布を交互に見つめていた。
「何も取ってないよ。ほら確かめて」
悪ぶれることもなく、財布をさらに突き出して、俺に無理やり持たせた。
震える手で財布を受け取った俺は、全力で今見た光景を否定しようとした。
「イヤイヤイヤイヤ、イヤ、チガウ、チガウ、チガウ、チガウ」
気が動転して、日本語でしゃべっていた。
ジェナは俺の行動を不思議そうにじっと見ていた。
何も言わず、変な事を口走っている俺にジェナは心配そうに覗きこんだ。
「怒らないの?」
ジェナの方が俺にどうすべきか提案している。
俺はやっと落ち着き、深く息を吸ってから、話し出した。
「なぜ、こんなことを? 俺の財布には取るほどの現金なんて入ってなかっただろ。それにそのメガネ、予備を持ってたのか」
メガネをわざと俺に壊させて、弱みを握り、その後は金をまきあげるためにチャンスを窺ってたのだろうか。
まさか、ジェナに限って──
困惑している俺に、ジェナは軽く微笑んで、小さく首を横にふる。
「ジャックが目を覚ますなんて思わなかった。勝手に財布を見たことごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけど、あなたの名前が知りたかったの。一度聞いたけど覚えてなかったから」
「えっ? 名前」
ジェナが財布から抜き取ったのは確かに免許証だった。
お金ではなかった。
変な所を見られてもジェナは慌てたそぶりもなく、落ち着いていた。
今もまっすぐに俺を見ている。
メガネの奥の瞳は、嘘じゃないと俺に訴えていた。
でも名前なら俺に直接訊けばいい事だ、それをなぜ黙って、誤解されるようなことをしてまで、一人で探りたかったのだろう。
ふと周りを見れば、ジェナのベッドの上にはスケッチブックが置いてあった。
それに目をやると、ジェナは観念したようにそれを俺に向けた。
そこには無防備にベッドで寝ている俺の絵が描かれていた。
シーツは柔らかく、枕はふわふわに、俺の髪が乱れているところも、口を半開きにしているところも、見たままに描けていた。
俺が寝てる間にこっそりとスケッチしていた。
まるで写真で撮ったみたいにリアルだ。
その上手さに思わず感嘆の声がのどの奥から漏れた。
ジェナは絵を描くのが本当に上手い。
これだけ描けるなら、大学でアートを学びたいはずだ。
その絵の下に『Ryunosuke』と名前が書かれていた。
竜之介──これが俺の本当の名前。
「『リウノスケ』っていうの?」
やはりアメリカ人には発音もイントネーションも難しいみたいだ。
「リューノスケ」
伸ばすところを強調して、ゆっくりと俺は言った。
「ルーノスケ?」
どうしても『リュ』が言えなくて『ルー』になる。
俺は何度も『リュ』と彼女に教えた。
彼女は、俺の発音した後を繰り返して、一生懸命練習していた。
カリフォルニアで留学中、学校の先生が俺の名前を言えずに、俺は勝手にニックネームを『ルー』にされた。
俺は日本人を極力避けて英語を話すようにしてたので、その態度が生意気と思っていた日本人たちが、俺を陰で揶揄して『ルー大柴』と呼んでいた。
大げさに英語を話す態度も、あの日本のタレントに似ていると、俺を馬鹿にして笑っていた。
日本人同士つるんでいると、たまにそういう奴らが出てくる。
だから俺は彼らを見ると睥睨し、俺よりも英語が話せない事を蔑んでいたのだ。
ジェナが俺をジャックと呼んだ時、俺があっさりその名前を受け入れたのも、新しい自分になれたような新鮮な響きがあったからだ。
俺をジャックと名付けたジェナ。
それが彼女との冒険の始まりで、俺は新しい名前に知らずとワクワクしていた。
ジャック──それは彼女の側にいられる呪文のようだった。
それが今、彼女はおれを本名で呼ぼうとしている。
「ルゥ、リウ、リュウーノスケ」
「そう、りゅーのすけ」
「りゅーのすけ、りゅうのすけ」
俺の名前を必死に練習し、とうとうジェナは俺の名前を言えるようになった。
それは喜ばしい事なのに、なんだかそれがとても悲しく感じた。
俺はもうジャックと呼ばれない事をすでに感じ取っていた。
でも、なぜそんな区別を突然するのか、わからなかった。
「ジェナ、そのスケッチブック見せて。まだ色々と描いたの?」
ジェナは恥ずかしがって、俺にスケッチブックを渡そうとしなかった。
「そっちに行っていいのなら見せる。一緒に見ないとダメ」
俺は少し端によってベッドの縁に座り直すと、ジェナは喜んで俺の隣に座った。
メガネを掛けているジェナを近くで見るのは、なんだか不思議な気持ちだった。
「あの時、あの岬で俺があのメガネを踏んだのは、ジェナがわざとそうさせたのか?」
「わざとかもしれないし、偶然だったかもしれない」
「えっ?」
そしてジェナは、スケッチブックのページを一枚めくった。
それはどこにでも見かけるコイル状のワイヤーがついた、普通のノートよりも少し大きめの物だった。
ジェナは最初のページから見せずに、最新の絵が描かれた順に、後ろから見せてくれた。
さっきの俺の寝顔を描いた絵とはまたタッチが違う、ポップな感じのイラストが出てきた。
細かく色んなものが1ページの中にひしめき合って描かれていた。
まず中心に男の子と女の子が躍動感あるポーズを決めていた。
その周りに、飛行機やUFOが飛んで、エイリアンも所々にいた。
マックミンヴィルに行ったときに見たものが、コミカルにごちゃごちゃとデフォルメされて描かれている。
「これはベンジャミン・フランクリンだ」
俺が指で押さえると、ジェナは笑って首を縦に振っていた。
あのベンチに座ったままに描いている。
その周りには、ドルのお札が紙ふぶきのように舞っていた。
何かのポスターになりそうに、楽しくその様子を綴っていた。
「一日の終わりに、その日見たもの、感じたものを記録してたの」
「すごい」
俺が感心している間に、またページが捲られる。
次も同じパターンでポップに描かれている。
「これはダウンタウンに行ったときに見たものだね」
気味の悪いドーナツに襲われそうになって、逃げ惑う男の子と女の子。
その周りにはたくさんの本や傘を差した銅像もいる。
バックには桜の花、日本の旗とアメリカの旗も描かれていた。
その次のページは男の子と女の子がゴージの上を飛んでバラをまき散らしていた。
マウントフッドもコミカルに手足を描かれて滝の上を滑ってるように擬人化されている。
「この時、上手くまとめられなくて、適当に描いちゃった」
そうは言ってるが、十分お洒落な出来上がりだった。
次のページは、海賊の格好をした男の子と女の子が空に向かって片腕を伸ばして叫んでいる様子だった。
アイパッチをつけたアザラシも後ろにいて、アザラシの子分たちが縞々のTシャツを着てずらっと並んでいた。
あの丘の上のグーニーズハウスらしき家も隅っこにあった。
その日に見たものをジェナは取り留めもなく、日記代わりにイラストにしていた。
そしてどの絵にも必ず『with Jack』(ジャックと一緒)と文字が書かれていた。
「これで終わり?」
「一緒に旅行した分はね」
「他には?」
まだ前のページの方にも何かが描かれている。
今度は一番最初のページを見せてくれた。
まだ洗練されてない、今よりも少し技術が劣るタッチの絵が描かれていた。
「中学生くらいの時に描いた絵だから、へたくそなんだ」
「十分上手いよ」
海を見ている小さな女の子。
その女の子を上から覗き込んでる、宙に浮いた黒髪の男の子。
どちらにも顔がかかれてなかった。
絵本の挿絵のように、優しいタッチでふんわりと描かれていた。
「これは私が作った話を元にイメージ画像を描いたの」
「どんな話?」
「あまりいい話じゃないよ」
「でも聞きたい。話して」
ジェナは軽く首を一振りし、俺に絵を見せながら話し始めた。
「えっ!!」
思わず声が漏れ、俺は飛び起きた。
ジェナも急に動いた俺にビックっと体を竦めて、唖然としていた。
俺たちはお互い見つめ合ったまま固まってしまった。
俺は手を這わせるように、スタンドの明かりのスイッチを探した。
慌ててしまって、何度も空振りしていた。
やっと電気がついた時、ジェナは溜息に似た息を軽く吐き、俺の二つ折りの財布から抜き取ったものを元に戻そうとした。
それは俺の免許証だった。
声も出せず俺はじっとしていた。
免許証を直し終わった後、手を伸ばして俺に財布を返してくれた。
あまりにもショッキングで、動転していた俺は、目だけ動かして、ジェナと財布を交互に見つめていた。
「何も取ってないよ。ほら確かめて」
悪ぶれることもなく、財布をさらに突き出して、俺に無理やり持たせた。
震える手で財布を受け取った俺は、全力で今見た光景を否定しようとした。
「イヤイヤイヤイヤ、イヤ、チガウ、チガウ、チガウ、チガウ」
気が動転して、日本語でしゃべっていた。
ジェナは俺の行動を不思議そうにじっと見ていた。
何も言わず、変な事を口走っている俺にジェナは心配そうに覗きこんだ。
「怒らないの?」
ジェナの方が俺にどうすべきか提案している。
俺はやっと落ち着き、深く息を吸ってから、話し出した。
「なぜ、こんなことを? 俺の財布には取るほどの現金なんて入ってなかっただろ。それにそのメガネ、予備を持ってたのか」
メガネをわざと俺に壊させて、弱みを握り、その後は金をまきあげるためにチャンスを窺ってたのだろうか。
まさか、ジェナに限って──
困惑している俺に、ジェナは軽く微笑んで、小さく首を横にふる。
「ジャックが目を覚ますなんて思わなかった。勝手に財布を見たことごめんなさい。信じてもらえないかもしれないけど、あなたの名前が知りたかったの。一度聞いたけど覚えてなかったから」
「えっ? 名前」
ジェナが財布から抜き取ったのは確かに免許証だった。
お金ではなかった。
変な所を見られてもジェナは慌てたそぶりもなく、落ち着いていた。
今もまっすぐに俺を見ている。
メガネの奥の瞳は、嘘じゃないと俺に訴えていた。
でも名前なら俺に直接訊けばいい事だ、それをなぜ黙って、誤解されるようなことをしてまで、一人で探りたかったのだろう。
ふと周りを見れば、ジェナのベッドの上にはスケッチブックが置いてあった。
それに目をやると、ジェナは観念したようにそれを俺に向けた。
そこには無防備にベッドで寝ている俺の絵が描かれていた。
シーツは柔らかく、枕はふわふわに、俺の髪が乱れているところも、口を半開きにしているところも、見たままに描けていた。
俺が寝てる間にこっそりとスケッチしていた。
まるで写真で撮ったみたいにリアルだ。
その上手さに思わず感嘆の声がのどの奥から漏れた。
ジェナは絵を描くのが本当に上手い。
これだけ描けるなら、大学でアートを学びたいはずだ。
その絵の下に『Ryunosuke』と名前が書かれていた。
竜之介──これが俺の本当の名前。
「『リウノスケ』っていうの?」
やはりアメリカ人には発音もイントネーションも難しいみたいだ。
「リューノスケ」
伸ばすところを強調して、ゆっくりと俺は言った。
「ルーノスケ?」
どうしても『リュ』が言えなくて『ルー』になる。
俺は何度も『リュ』と彼女に教えた。
彼女は、俺の発音した後を繰り返して、一生懸命練習していた。
カリフォルニアで留学中、学校の先生が俺の名前を言えずに、俺は勝手にニックネームを『ルー』にされた。
俺は日本人を極力避けて英語を話すようにしてたので、その態度が生意気と思っていた日本人たちが、俺を陰で揶揄して『ルー大柴』と呼んでいた。
大げさに英語を話す態度も、あの日本のタレントに似ていると、俺を馬鹿にして笑っていた。
日本人同士つるんでいると、たまにそういう奴らが出てくる。
だから俺は彼らを見ると睥睨し、俺よりも英語が話せない事を蔑んでいたのだ。
ジェナが俺をジャックと呼んだ時、俺があっさりその名前を受け入れたのも、新しい自分になれたような新鮮な響きがあったからだ。
俺をジャックと名付けたジェナ。
それが彼女との冒険の始まりで、俺は新しい名前に知らずとワクワクしていた。
ジャック──それは彼女の側にいられる呪文のようだった。
それが今、彼女はおれを本名で呼ぼうとしている。
「ルゥ、リウ、リュウーノスケ」
「そう、りゅーのすけ」
「りゅーのすけ、りゅうのすけ」
俺の名前を必死に練習し、とうとうジェナは俺の名前を言えるようになった。
それは喜ばしい事なのに、なんだかそれがとても悲しく感じた。
俺はもうジャックと呼ばれない事をすでに感じ取っていた。
でも、なぜそんな区別を突然するのか、わからなかった。
「ジェナ、そのスケッチブック見せて。まだ色々と描いたの?」
ジェナは恥ずかしがって、俺にスケッチブックを渡そうとしなかった。
「そっちに行っていいのなら見せる。一緒に見ないとダメ」
俺は少し端によってベッドの縁に座り直すと、ジェナは喜んで俺の隣に座った。
メガネを掛けているジェナを近くで見るのは、なんだか不思議な気持ちだった。
「あの時、あの岬で俺があのメガネを踏んだのは、ジェナがわざとそうさせたのか?」
「わざとかもしれないし、偶然だったかもしれない」
「えっ?」
そしてジェナは、スケッチブックのページを一枚めくった。
それはどこにでも見かけるコイル状のワイヤーがついた、普通のノートよりも少し大きめの物だった。
ジェナは最初のページから見せずに、最新の絵が描かれた順に、後ろから見せてくれた。
さっきの俺の寝顔を描いた絵とはまたタッチが違う、ポップな感じのイラストが出てきた。
細かく色んなものが1ページの中にひしめき合って描かれていた。
まず中心に男の子と女の子が躍動感あるポーズを決めていた。
その周りに、飛行機やUFOが飛んで、エイリアンも所々にいた。
マックミンヴィルに行ったときに見たものが、コミカルにごちゃごちゃとデフォルメされて描かれている。
「これはベンジャミン・フランクリンだ」
俺が指で押さえると、ジェナは笑って首を縦に振っていた。
あのベンチに座ったままに描いている。
その周りには、ドルのお札が紙ふぶきのように舞っていた。
何かのポスターになりそうに、楽しくその様子を綴っていた。
「一日の終わりに、その日見たもの、感じたものを記録してたの」
「すごい」
俺が感心している間に、またページが捲られる。
次も同じパターンでポップに描かれている。
「これはダウンタウンに行ったときに見たものだね」
気味の悪いドーナツに襲われそうになって、逃げ惑う男の子と女の子。
その周りにはたくさんの本や傘を差した銅像もいる。
バックには桜の花、日本の旗とアメリカの旗も描かれていた。
その次のページは男の子と女の子がゴージの上を飛んでバラをまき散らしていた。
マウントフッドもコミカルに手足を描かれて滝の上を滑ってるように擬人化されている。
「この時、上手くまとめられなくて、適当に描いちゃった」
そうは言ってるが、十分お洒落な出来上がりだった。
次のページは、海賊の格好をした男の子と女の子が空に向かって片腕を伸ばして叫んでいる様子だった。
アイパッチをつけたアザラシも後ろにいて、アザラシの子分たちが縞々のTシャツを着てずらっと並んでいた。
あの丘の上のグーニーズハウスらしき家も隅っこにあった。
その日に見たものをジェナは取り留めもなく、日記代わりにイラストにしていた。
そしてどの絵にも必ず『with Jack』(ジャックと一緒)と文字が書かれていた。
「これで終わり?」
「一緒に旅行した分はね」
「他には?」
まだ前のページの方にも何かが描かれている。
今度は一番最初のページを見せてくれた。
まだ洗練されてない、今よりも少し技術が劣るタッチの絵が描かれていた。
「中学生くらいの時に描いた絵だから、へたくそなんだ」
「十分上手いよ」
海を見ている小さな女の子。
その女の子を上から覗き込んでる、宙に浮いた黒髪の男の子。
どちらにも顔がかかれてなかった。
絵本の挿絵のように、優しいタッチでふんわりと描かれていた。
「これは私が作った話を元にイメージ画像を描いたの」
「どんな話?」
「あまりいい話じゃないよ」
「でも聞きたい。話して」
ジェナは軽く首を一振りし、俺に絵を見せながら話し始めた。