6
ポートランドは端から端まで歩けるほどの大きさではあるが、さすがに何ブロックも歩いて、また元に戻るとなると疲れるので、バスを利用して北へと向かった。
一日乗り放題のチケットはバスにも適応される。
途中、昨日素通りしたチャイニーズゲートの前をまた通り、危ないイメージがすでに出来上がってただけに、そこからあまり離れてない場所で降りた時はなんだか不安になった。
一分ほど歩いたところで、長蛇の列ができていて、人が沢山いる様子に随分ほっとした。
古ぼけたビルに並ぶ観光客。
何があるんだと思ったら、ジェナもその列に並びだした。
「ここは何?」
「ブードゥドーナツ」
「ブードゥってあの悪魔崇拝の?」
「そう、とてもすごいドーナツが一杯あるの。これもポートランド名物だから」
建物の角に、変なキャラクターが描かれたピンクの看板が掛かっていた。
ブードゥ教でピンを刺して呪いを掛けそうなキャラクターだ。
なんとも滑稽でいて、不気味な看板だった。
沢山買ったのか、ピンクの箱を抱えて店の中から出て行く人がいる。
こんなにも人が並んで買いたいなんて、余程美味しいドーナツなんだろうか。
一つくらい食べてもいいかと軽い気持ちで並んでいたが、いざ店に入って見たら、そのド派手さに驚いた。
店の中が奇抜に趣味悪い。
ドーナツも色取り取りに雑なデザイン。
ベーコンまでのってるのもある。ひたすら甘そう。
24時間営業と知って、二度びっくり。
「噂では日本にも進出するとか言ってるらしいけど」
ジェナが半信半疑に言った。
「えっ、これが日本にも来るの?」
三度びっくりだった。
話のネタに、ベーコンがのったドーナツを買ってみる。
ジェナは、ブードゥ人形のを買っていた。
これがここでは一番人気らしい。
ご丁寧に、棒状のプレッツェルで胸が突かれていて、そこからイチゴのジャムがでてくる。
悪趣味。
変なドーナツだと、怖々と口にほうりこんでみた。
やっぱり甘い。これは日本人向けじゃないと思う。
日本にきても珍しさで最初は買いに来るだろうけど、途中で飽きられそう。
でもジェナは美味しそうに食べてるし、味覚がやっぱりアメリカンなんだろう。
思わず顔を見合わせて、お互い笑ってしまった。
いい経験になりました。
ドーナツを平らげた後、ジェナは言いにくそうに俺に提案した。
「あのね、ジャックは日本人でしょ。それで、やっぱり見てほしい所があるの」
「なんでも見るよ」
「でも、日本人にとったら、それは怒るかもしれない」
「えっ、怒る? どうして」
「とにかく、行こう。すぐそこだから」
腕時計の時間を気にして、ジェナは歩き出した。
それは『NW 2nd Ave』を2ブロック程、北に向かって歩いたところにあった。
知らなければ素通りしそうに、通りに面したゴシック調の建物の中にあった。
ガラスの窓に『Oregon Nikkei Legacy Center』と書かれている。
かつて太平洋戦争が起こった時、アメリカに移民した日本人が強制収容されてしまった。
ポートランドにもたくさん日系人がいたが、全て、本当に全ての日本人が最悪な条件の収容所に無理やり入れられてしまった。
そういう事があったとはなんとなく知っているが、ここにはその収容された当時の資料が展示されていた。
あの当時は仕方がなかった──などとは軽く言えない歴史がここには刻まれている。
俺は恵まれて楽しくアメリカ留学したが、アメリカには日系人に過酷な時代があり、辛い歴史として残っている。
いくら戦争で日本人が憎いといっても、すでに市民権を持ってアメリカ人として生きていた日本人までもが全てを奪われて収容された。
人種問題も関係していたのがあきらかだ。
そのミュージアムは外見も目立たず、あまりにも小さい。
営業時間も午後三時までって短すぎる。
まるで勤勉で真面目で控えめな日本人気質のように、それでいて静かにそこで何かを伝えようとしていた。
「いくら戦争をしたからと言っても酷いよね」
収容所の住居を再現したセットを見ながらジェナがぽつりと呟く。
「でももう過去は変えられない。だからこんな過ち二度と繰り返さないようにしなくっちゃ」
ありきたりだけど、それ以上言えなくて、俺はしんみりとしていた。
他にどんな言葉を用いて、言えばいいんだろう。
こういう話題も俺は苦手だ。
「移民してきた日本人って、それこそ苦しんでアメリカで必死に生きてきたんだろうなって思う。正直、こういう事ってアメリカの学校ではあまり教えないから、知らない人もいるんだ」
「でもジェナは知ってた」
「知らなければならないと思った」
「偉い」
「でも、ほんとはね、映画がきっかけだったの。『Come See the Paradise』(邦題:愛と哀しみの旅路)って知ってる?古い映画だけど、日系二世の女性とアメリカ人男性が恋に落ちる話。実話を元に作られてて、そこで強制収容の様子が出てきたの」
きっかけはなんであれ、日系人のアメリカでの歴史を知ろうとするところが素晴らしい。
俺なんて、そういう事は何となく歴史の一つとして知っていても、詳しい事までは興味なんてなかった。
自分がアメリカにきても、アメリカの日系人について知ろうとも思わなかった。
彼らが一生懸命になってアメリカで築き上げたもの。
これらは日本人も忘れちゃならないと思う。
少なくとも、当時の日系人が写った写真は、アメリカで必死に生きようとしている姿が見受けられた。
過酷で条件が悪い場所であっても、何かを見つけ希望を見いだそうとしている姿は、大切な何かを教えられている気分になった。
この先しがみついてでもやらなければならないような覚悟が、この日系人たちから見えた。
辛いのに希望をもってるような──
「あっ、シルバーライニング……」
「えっ? シルバーライニング?」
シルバーライニングは英語のことわざだ。
「うん、なんか辛いのにそこから良い部分もあるって希望を忘れないものが見えた」
「あっ……」
ジェナの目が潤みだした。
それを隠そうと少し顔を横にして、息を整えてから俺を見つめニッコリと微笑んだ。
「そうだよね。どんなにつらくても希望はどこかにあるって信じて頑張るってことだよね。シルバーライニング。いい言葉だね」
ジェナもどこか心に響いたみたいだった。
実際、辛い思いをしてきた人には場違いな言葉かもしれない。
うまく英語で、強制収容についても語れないけど、これだけは言える。
「ここへ連れて来てくれてありがとう、ジェナ」
「私こそ、一緒にきてくれてありがとう」
歴史を知ることは、過去を責める事でもない。
でも、そこから学ぶ事がある。
いつかどこかで、俺のようなものにも、何かを訴えて気づかせてくれるだけの力があった。
それはアメリカ人のジェナにも影響を与えるくらいに。
あまり、色々と考えを巡らせたら、却って口先だけの偽善者になりそうな気がした。
「そろそろ、行こうか」
俺たちと入れ違いに、数人のアメリカ人たちが入って来た。
すれ違いざまに、目が合ったので「ハーイ」って声を掛けた。
相手も笑顔で挨拶してくれ、とても気持ちがよかった。
そこを出た俺たちは、ウィラメット川に向かって歩いた。
色んな橋が見渡せ、川沿いに桜の木が植えられて、犬を連れての散歩やランニングにはもってこいの場所だった。
春には日本のような桜がこの川沿い一面に咲くらしい。
その一部分に石碑が建てられて、ここを『ジャパニーズ・アメリカン・ヒストリカル・プラザ』と呼んでいた。
日系アメリカ人の歴史を忘れないようにと作られた場所だった。
過去の変えられない歴史を、この先も伝えなければならない思いでここは作られた。
冷たい空気の中、言葉にできない思いがしんみりとさせる。
ポートランドは色んな面を持っている。
「ポートランドの街って素敵だね」
俺が言った時、ジェナは「That's right」と答えた。
「だから私は大好き。歴史も含めて、この風景、街並み、この景色、全てを忘れたくない」
俺たちは一緒に周りの景色をしっかりと見つめた。
俺も忘れたくない、ジェナと二人で見たもの全てを。
7
ダウンタウンにはフードカートが沢山あり、様々な料理を屋台のように提供している。
それらが集まって村みたい──フードカート・ポッドと呼ばれてる──になってたり、数だけでも600軒以上あるらしい。
パンやドーナツしか食べてなかった俺たちは、遅い昼食、または早い夕食として、そこで食べる事にした。
どれも美味しそうで、迷ってしまうがジェナと違うものを買って分け合った。
それからはまた路面電車に乗ってホテルへと向う。
吊り革を持って揺られながらジェナが気遣ってくれた。
「疲れたね。大丈夫?」
「大丈夫。とても充実した一日だった」
「明日はどうする?」
「ジェナはいつまで旅行するつもり?」
「私はたくさん時間がある。ジャックは?」
「俺は、あと数日かな。戻って荷造りしなくちゃいけないし、車も売らないと」
「じゃあ、その間、私とまだ一緒にいてくれる?」
「うん」
「よかった」
「明日もジェナに任せる。変なところ連れてって」
「変なところか」
ジェナは笑っていた。
自分であと数日一緒にいられると言ったものの、もう少し延長してもいい。
それよりも、いずれジェナと別れなければならない事が寂しい。
電車は楽しかった街並みを後に、街のはずれへと向かっていく。
この変な街とさようならだと思うと、一層寂しさを感じてしまった。
電車の中は適度に混み合い、座れずに立っていたが周りを見渡せば、ほとんどの人が片手にスマホを持って、いじって下を向いていた。
その光景は日本も同じだ。
手元しか見ていない事がなんだか勿体ないように思えた。
でも自分もジェナが傍にいなければ、きっとそうしていた。
いずれ自分もつまんないと思う事を当たり前にするようになるのだろう。
日本に戻った時、自分は彼らとは違うと思ってスマッグになり、そして彼らと同じことをしていながら偉そうになるのだけは嫌だった。
「ジャック、何考えてるの?」
「ん? 別に何も。ねぇ、なんか面白い話してよ」
「面白い話?」
「電車で見かけた変な人とか他にいないの?」
「あっ、いるいる。ほら、ここの吊り革が連なってるバーで、いきなり運動し出した人がいた」
「運動?」
ジェナはジェスチャで懸垂の真似を披露してくれた。
「腕は筋肉が盛り上がってたんだけど、体は小柄だった。最後に、わざとらしく額の汗を拭いて、『ふぅ』って息ついてるの」
「筋肉を見せびらかしたかったんだろうね」
「あんなこと電車の中でしたら恥ずかしいだけなのにね」
俺たちはそのバーを見上げた。
その他にも、電車にコヨーテが乗り込んで座席で寝てたことを話してくれた。
コヨーテって、発音はカヨティって聞こえる。
狼みたいな野生の動物だけど、森から出てきて住宅街でもうろちょろするらしい。
見かけは足の長い犬みたいで、人間を見たら恐れて逃げるらしいが、たまに猫を捕食したりしていくそうだ。
自然の生き物だから仕方がない。
それがゆったりと座席に丸くなって寝ていたらしいから、見た人みんな驚いていたそうだ。
そんな話をしてるうちに、目的地の駅についた。
結構な数の人が降り、俺たちもその流れに沿って階段を上っていく。
ほとんどが駐車場やバス停へと向かう中、周りに人がいなくなると、またジェナは話し出した。
「変でも面白い事なら、それでいいんだけど、中には本当に頭が変な人がいて、悲しい話もあるんだ」
「悲しい話?」
「ヒジャブってわかる?」
「イスラム教の女性が頭に覆っている布?」
「そう。あれを被った女性が、変な人に絡まれて、アメリカから出て行け、とか罵声を浴びせられてたの。それを二人の男の人が助けようとするんだけど、罵っていた人はまともじゃない狂った人だったから、ナイフで二人を刺してしまった」
「えっ、その二人はどうなったの?」
「二人とも亡くなった」
「電車の中で殺人事件!?」
「うん。それはもうショックな出来事だった」
俺は言葉を失くして黙り込んでしまった。さっきまで面白い電車だと思っていたのに、そんな出来事もあったなんて、恐ろし過ぎる。
「ポートランドの人たちは正義感溢れるとてもリベラルな人が多いの。偏見や差別に勇気を出して立ち向かう。亡くなってしまったのは本当に悲しくて悔やまれるけど」
本当にお気の毒としかいえない。
楽しい話ばかりではないと、ジェナは闇の部分も隠さずに話してくれたけど、これは重い。
いい面も悪い面もどちらも極端になるのがアメリカだと思う。
どちらか片方だけ知って、判断してはいけないものを感じた。
アメリカで生きていくのって、日本で生きるよりも大変なんじゃないだろうか。
日本が狭くて住みにくいなんて言ってしまった俺だけど、日本の治安の良さはアメリカよりもずっといい。
「アメリカは今、不穏になって、みんな不安になってきてる気がする。誰のせいとは言わないけど、何かのバランスが崩れていくような感じがする」
これって、あの大統領のせいかな。
「あっ、ごめん。なんか暗くなっちゃったね」
「ううん、アメリカって俺にとったら偉大で、憧れてしまうけど、それは上辺しか見てなかったんだって思ったよ。そして自分の祖国の事を考えるきっかけにもなった」
「外の世界を知って、自国を知るって感じ?」
「うん、まさしくそう」
お互い何かを感じながら少し黙り込んでしまった。
俺は頭上に広がった、まだ明るい空を仰いだ。
ギラギラと差し込む西日が眩しかった。
1
その翌日、ビーバートンという昔ビーバーが生息したらしいという街でガソリンを補給した後、ジェナの提案でルート99ウエストに乗り、ここから南西の『マックミンヴィル』へ行くことになった。
そこには、実在した大富豪ハワード・ヒューズの若き頃を描いた映画「アビエーター」にでも出てきた、有名な飛行機があるそうだ。
それは映画で使われたものじゃなく、ハワード・ヒューズが実際に制作した世界最大の木造飛行機の事である。
映画は観た事があったので、ちょっと好奇心が疼いた。
「あの飛行機の名前、なんだっけ」
信号が赤になり、ブレーキを踏みながら、俺は思い出そうとしていた。
「ハーキューリーズ」
ジェナが教えてくれたが、なんかピンとこない。
英語ではそう発音するけど、日本語だとヘラクレスになる。
「でも、ニックネームはなんたらグースとか」
「スプルース・グース」
「そうそう、それ!」
「あっ、青だよ、ジャック」
考え込んでたので、信号が青に変わった事に気づかず、後ろからクラクションを鳴らされて、慌ててアクセルを踏んだ。
そうだった、スプルース・グースだ。
スプルースは木の種類の名前で、クリスマスツリーやギターの素材になったりする木だ。
グースはガチョウ。
「映画ではスプルース・グースって呼ぶと、レオナルド・ディカプリオが演じたハワードは怒ってたから、それからハーキュリーズって呼ばなくっちゃって思った」
ジェナはもしかしたら映画に影響されやすいのかな。
そんな事も訊けないまま、俺は車を走らす。
ハイウェイの時と違って、街の中を抜ける道路だから信号が多くて、絶えず引っかかってしまう。
街並みも、大型ショッピングセンターがたまにあって、小さなローカルな店が並んで、あまり都会ではない。
かといって、緑が広がる田舎でもない。
ポートランドばかりに観光地が濃縮されて、こっちは何もなさそうだ。
ジェナにそれを言うと、首を横に振られた。
「こっちはワイナリーで有名だよ。ブドウ畑が広がって、ワインテイストができるところが多数ある。ワイン好きにはたまらないと思う。オレゴンは特に、ピノ・ノワールで有名。約北緯45度だから、フランスと同じくらいでブドウの育ちがいいんだって」
「へぇ、ジェナはワインにも詳しいんだ」
「両親が好きだから。ジャックはワイン好き?」
「俺はあまり飲まないから、味の良さがわからない」
ビールの時と同じだ。
オレゴンはお酒好きにならないとわからない部分がある。
逆に、ビール、ワインが好きだと魅力ある州なのだろう。
「私は甘い白ワインが大好き」
「リースリングかな。あれ? でもまだ未成年だよね」
「あっ、ちょっとだけ、親が買ったワインを味見しちゃったんだ。ほんとに舐めた程度だよ」
「別にいいよ。警察にいう訳じゃないし」
「でも、親が子供にお酒を飲ませると、ばれると捕まっちゃうんだ。だから、私の両親のためにも内緒にしててね」
「わかった。わかった」
お酒ぐらい、俺だって味見程度に未成年の時に飲んだ事がある。
梅酒だってお酒だけど、家で梅酒を作った時、日本人は水で薄めて子供にも飲ませてないだろうか。
甘くておいしいから、アルコール入ってても飲めちゃうんだよな。
お正月の御とそだって、子供でも縁起物だからってお酒のまされたりする。
そのことをジェナに教えたら「羨ましい」って笑いながら返ってきた。
「ほんのちょっとなら問題ないさ。昔はもっとひどくて、お酒とたばこの自動販売機があって、誰でも買えるようになってたんだ」
「ほんと?」
「今はそれはできなくなった。それでも子供って好奇心からあの手この手で手に入れてるから、日本はあまり厳しくないかも」
「子供はついついお酒やたばこに手を出したくなっちゃうんだろうね。だけど、オレゴンはそこにマリファナが入っちゃう」
「カリフォルニアもそうだけど、合法になったね」
「うん、オレゴンなんて自分で育てられるんだよ。3株まで栽培許されてるんだから」
「ホームメイド?」
「うん。目立たないところだったら、家に植えてもいいの。今マリファナが合法になる州が増えてるけど、自分で育てられるのはオレゴンだけ」
「うわぁ」
「ジャックは吸った事ある?」
「ええ、ない、ないない」
「折角のチャンスなのに」
「何がチャンスだよ。日本人は、アメリカで合法でもマリファナを所有したことがばれると、日本で捕まっちゃうんだ」
「そうなの。でもばれなきゃいいんでしょ」
「それはそうだろうけど、でも、いいや、俺、煙草吸わないし」
「ジャックって真面目なんだ」
ワインから何の話をしてるんだろう。
そうしているうちに、ニューバーグという街の近くまでやってきた。
俺たちが行こうとしているマックミンヴィルの街の少し手前だ。
2
「マックミンヴィルまではもうすぐだけど、このニューバーグっていう街には、ワイナリーの他に、一つだけ有名観光名所があるんだ」
ジェナが言った。
「何があるの?」
「ハーバード・フーバーって知ってる?」
「知らない。有名な人なの?」
「アメリカでは有名というのか、一応学校で習うと思う。第31代大統領」
自国の総理大臣の事も遡ったら良くわからないのに、アメリカの大統領の事は尚更わかるわけがない。
まあ、昔の有名どころだったら、ワシントン、リンカーン、ルーズベルト、ケネディ。
近年だったら、ブッシュ、クリントン、オバマ、そしてトランプくらいなら知ってるけど。
「で、その大統領は何をしたの?」
「戦後、マッカーサーに会いに日本にも行った事あるらしよ。歴代大統領には尊敬されてたみたいだけど、当時の国民には人気なかったみたい。だけど、私も説明できるほどそんなに知らないんだ。ただ、フーバーが11歳の時にこのニューバーグに引っ越して来て、その一時住んでた家がまだここにあるの」
「ああ、そういう事か」
「そこに越してきた時、ナシを初めて見たらしく、珍しくて美味しかったからナシばかり食べてたらお腹壊して、それからナシを食べなくなったんだって」
「庭にナシの木が生えてたの?」
「多分そうなんじゃないかな。庭は草木が茂って、家庭栽培とかできそうな広さ。トイレが外に設置されてて、その庭の端にあるから、ナシ食べた後はそこに篭ってたんだろうね」
「まだそのトイレもあるの?」
「部屋の装飾品も家具も含めて全部残ってるよ。かわいいビクトリア調の白い家で、保存状態もいい。今はフーバー・ミンソーン邸って呼ばれて、博物館になってる」
「たくさんアメリカ人が訪れるの?」
「それが、なぜかオランダ人が多いらしい」
「なんで?」
「なんでも、第一次世界大戦の時、フーバーは食糧難だったオランダを助けた命の恩人だとかで、オランダでは崇められてるんだって」
「へぇ、それでオランダ人がわざわざ見に来るんだ。すごいな」
「ほんとすごいと思う。ワインとそれ以外何もないようなところに…… あっ!」
「どうしたの?」
「あった」
「何が?」
「ニューバーグには全米でもトップレベルなレストランがある」
「そうなの?」
「うん、フレンチコース料理だけど、確かシェフのお兄さんが日本に住んでたことがあって、それで日本料理のこと知ってその影響も受けてるって」
「良く知ってるね」
「一度行った事あるんだ。誕生日の時、両親が連れてってくれた。そしたら、そこのシェフが最後に出てきて、ケーキプレゼントしてくれて、その時、そんな話を直接聞いたんだ」
「そこ、そんなに美味しいの?」
「うん、すごい高級で味もサービスも最高だし、料理の見栄えも芸術的だった」
「なんていうレストラン?」
「ペインティッド・レイディ」
「それ、レストランの名前?」
「そう。だけど、値段もそれなりに高いから、気軽に行けるようなレストランじゃないんだ。レストランの見かけは普通の一軒家みたいんなんだけど」
名前も印象的で、なんだか興味が出てきた。
そうしているうちにそろそろ目的地が近づいて来た。
何もない、ただ広い荒野とでもいうのか、無駄にある土地に挟まれた道路が暫く続いていたが、そのうち一機の旅客飛行機が見え、その側にそれ以上に大きい建物が並んでいるのが見えてきた。
近づいても、ただ広い場所と大きな建物のせいで、飛行機がおもちゃのように見えてしまう。
そこが、スプルース・グースのある『エヴァーグリーン航空宇宙博物館』だった。
3
建物もでかいけど、駐車場も広い。
そんな大きなものをポンと建てられる土地がとにかく一番大きい。
周りはそんな同じサイズの博物館がいくつも建てられそうに、ほんとに巨大。
その敷地内に入れば、おもちゃみたいに、本物の飛行機がポツポツ置いてあった。
施設も大型博物館が向かい合って二つとその間に映画館が一つ。
周りが何もないから、これだけでかいのに全然目立ってない景色が不思議と地味。
しかし、その施設を全部見ようと思ったら、かなりの時間を費やしそうだった。
「今日はここで一日がつぶれそうだから、先に宿をブッキングした方がいいかも」
俺が言うと、「そうした方がゆっくりできるね」とジェナも同意してくれた。
俺は早速スマホでこの辺りの宿を探す。
すぐさま、この施設の近くでそれなりの値段で泊まれる宿を見つけ、やっぱりここでも二つ部屋を取った。
建物の入り口に向かえば、その正面玄関の隣に、結構年をいった人たちで集まったブラスバンドがいた。
「なんかあるんだろうか」
「多分、ボランティアとか、または特別な事があって、集まってるんだと思う」
これだけ大きい博物館だから、いろんなイベントや何かのグループをサポートしたりするのだろう。
音合わせをしたのち、急に静まり、そして力強い音が響き渡った。
アメリカ国歌だ。
なんかかっこいいと思っていたら、周りの人たちが全員立ち止まり、右手を胸に当ててその演奏を黙って聴き出した。
ジェナですら、同じポーズをして聴いている。
正直「ええ」っと驚いた。
まるで、パブロフの犬のように、国歌が演奏されると、それが当たり前に行われている。
俺もすべきなんだろうか。
でも俺、アメリカ市民じゃないし。
一人だけ浮いているように、結局、嘘でも真似することができずに、ただ突っ立ってアメリカ国歌を聴いていた。
周りが気になり、人々の顔を見回したが、誰もが静かに尊重して自国の国歌を聴いていた。
なんだかそれが、アメリカの国力にも思え、すごく圧倒された。
それが終わると、拍手喝采が起こり、呪縛が解けたように人々はまた動き出した。
「なぜ、みんなアメリカ国歌が流れると、胸に手を置いて立ち止まるんだ?」
俺は不思議でならなかった。
「うーんと、習慣かな。これは幼稚園の頃からそういう風に習うの。朝、国旗を見て胸に手を当て、星条旗に忠誠を誓ったりするし」
Pledge of Allegiance──忠誠の誓い──というそうだ。
ちなみに全文はこうである。
I pledge allegiance to the flag of the United States of America and to the Republic for which it stands one Nation,under God,indivisible,with liberty and justice for all.
日本語に訳せば、『私はアメリカ合衆国国旗と、それが象徴する、万民のための自由と正義を備えた、神の下の分割すべからざる一国家である共和国に、忠誠を誓います』ということだそうだ。(ウィキペディアより引用)
朝からクラス全員で、これを唱えられると、とても迫力ありそうだ。
これぞアメリカ。
自分の国を誇りに思ってない俺は、一体……
「ジャック、中に入ろう」
国歌演奏が終わると、次はどこかで聴いたような明るいメロディが奏でられた。
もう一度演奏されてるバンドを振り返ってから、俺はジェナの後を追った。
「ねぇ、ジェナ、ホームスクールでも、家でああいう事するの?」
チケットを買うために列に並んでるジェナの後ろから話しかけた。
「私は途中からホームスクールに変えたの。だから小学生の時は普通に学校に通ってた」
「なんで途中で変えたんだ?」
「えっと、それは、学校で習う事以上の事を習いたかったから。もっと自由に、できるだけ沢山の事を」
「すごいな、ジェナ。ものすごく勉強したんだ」
「でも、そうせざるを得なかっただけなの」
「えっ?」
何か矛盾した答え方のように聞こえた。
学びたいと思ってるのに、そうせざるを得ないって、やりたい事やれて、やらされたっていう風にとれる。
また俺の英語力がないせいなのか。
どういう意味か確認したくても、背中向けてるジェナに、それ以上訊けない雰囲気がした。
4
建物の中は倉庫を巨大にしたシンプルな作りで、飛行機だらけだった。
天井からもぶら下がり、すごい数の飛行機が、そのまますっぽり屋内に入っている。
どれだけ、この建物は大きいのだろう。
感覚が麻痺してしまった。
あの世界最大の木造飛行機、スプルース・グースも、奥でその姿を見せていた。
操縦席にも入れるらしいが、別料金をとられ、それが高いので、俺たちは外から堪能した。
一度しか飛ばなかったが、でかすぎて飛べるような代物に見えず、例え一度でも飛べてよかったと思ってしまう。
それが浮いただけと皆から言われても。
「すごいね」
「うん、すごいね」
そんな言葉しかお互いかわせなかった。
一つ一つ、ゆっくりと見ていく。
周りにはまだまだ、色んな物がある。
空を飛ぶモノならなんでもあるように、ロケットまであった。
月に着陸した時の乗り物や宇宙飛行士を表現しているものもある。
本物の月の石や、宇宙服。
その宇宙服は昔のタイプから最近のタイプを比べたりして、これで宇宙に行ったのかと感慨深い。
また、NASAというロゴがかっこいい。
こういう宇宙や空をテーマにしたものは、夢があってワクワクしてくる。
シミュレーションで飛行機の操縦をまねる事もできて、そこは人気があってやりたい人で塊になっていた。
アメリカの大きな国旗が、天井からぶら下がり、それが憎らしいほどスマートに飛行機とマッチしてかっこいい。
普通に見に来た俺ですら、ひたすらかっこいいとしびれてるくらいだ。
飛行機好きだと悶えるくらいに楽しい場所だろう。
全て本物なのだから。
色々と圧倒されてるうちに、知らずと、見る順番がずれて、ジェナは他の所に行って、離れてしまった。
その間に、俺はスマホで気になる事を検索し、少しだけ自分の希望を取り入れてみる。
それが上手く行きそうだと、隠れて喜んだ。
これはジェナには内緒にしておいた。
施設内には食事を提供する場所が土産物と並んで角にあり、結構な数のテーブルが設置されていた。
俺たちは休憩も兼ねてそこで軽くお昼を済ませた。
ジェナと向かい合ってテーブルについてゆっくりする。
人が見学している様子を俺は見ながら、ポテトフライをつまんだ。
ジェナはソーダに刺さったストローを手でいじりながら、話しかけた。
「アビエイターが上映された時、ここ、すごい数の人が来たらしいよ」
「みんな、スプルース・グース目当てで?」
「そうだろうね。それで一気に知名度があがったんだろうね。映画でもちゃんとその機体は出て来たし、操縦して成功したところまで紹介されてたから、本物があったら、見てみたいって興味が出てくると思う」
「俺も、見られてよかった。あれ、やっぱりすごい飛行機だ。どうやってここまで運んだのかが気になる」
「ほんとだ。それに、この建物の中にどうやって入れたんだろう」
「あっ、そういえば、あんな大きな入り口はない」
「色々とすごいよね」
「ほんとすごい」
こうやってテーブルを囲んでジェナと会話してると、デートしてるみたいだ。
たまに見つめ合ってしまうと、ドキッとしたり、コロコロ笑うジェナが可愛く思える。
だけど、時々瞳に陰りが見えて、俺は困惑することがある。
そこに、話が噛み合わなくなったり、俺の英語力の限界が加わると焦る。
ジェナは一体何を秘めているのか理解したくて、俺はじっと見つめてしまった。
「どうしたの、ジャック?」
「ジェナって、なんか俺に隠してない?」
何気に訊いただけだったが、ジェナの表情が強張った。
「どういう意味?」
「別に深い意味はないんだけど、ジェナにはジェナにしかわからない事があるのかなって思って」
ジェナは落ち着いて微笑んだ。
でも俺にそれが何かを話す気はないらしい。
俺は元々ストレンジャーだから、そこまで深入りしてはいけないのかもしれない。
もし、深入りしてしまったらどうなるのだろう。
一緒に旅行をしているだけで、半分は深入りしているだろうが、もう半分は知らない方がいいかもしれない。
「さっさと食べて、次行こう」
俺は深く考えるのがいやで、残っていたソーダを一気に飲んだ。
俺たちにはまだまだ見るところがたくさん残っている。
この日のほとんどを飛行機を見る事に費やした。
でも、俺が変な事を訊いたからなのか、ジェナは少し口数少なくなっていた。
5
飛行機を十分堪能した俺たちは、マックミンヴィルの街の中心部へと向かった。
予約を入れてる宿も、その周辺にあったので、ついでに見ておこうというくらいに立ち寄った。
適当に車を停め、街を散策する。
こじんまりとした、あまり活気のない街並み。
でもまとまりがある一昔前のアンティークな雰囲気に見えたのは、街全体のビルが高くなく、街路樹が多く、そこに歴史があるようなホテル、ビストロやアイスクリームショップなどが並んでいたからだと思う。
適当に歩いている時、ブロックの角、ちょうどUSバンクの看板の下に、ベンジャミンフランクリン──銅像──がくつろいで座ってるベンチがあった。
「時は金なりの人だ」と俺が言うと、ジェナは「100ドル札の人」と言った。
俺たちは彼の隣に一緒に座っておどけ、お互い写真を撮りあった。
銀行がある角にベンジャミン・フランクリンがいると、お金のイメージにぴったりときた。
「アメリカ人は彼の事好きだろうね」
「特に彼の顔が描かれた紙幣が一杯手元にあるとね」
俺も福沢諭吉が一杯手元にあったら嬉しい。
「この街は、これといって見るところはあまりなさそうだね」
ポートランドのダウンタウンを見た後では、俺は少し物足りなかった。
「小さな町だけど、毎年5月中旬の3日間はUFOフェスティバルで賑わうの」
「UFOフェスティバル?」
「1950年にここでUFOが目撃されたことを誇りに思って、1999年から歴史あるマックメナミンホテルで始まったイベントなの」
「ええ、ここでUFOが目撃されたの?」
「そうらしいね」
ジェナは肩を竦め、真実かどうかわからないと困ったように笑っていた。
「どんなフェスティバルなんだろう」
「宇宙人にコスプレしたり、著名人を招いてのショーやパレード、屋台も一杯でるらしい。動物まで宇宙人の格好させられて、それはクレージーで面白いらしい」
「宇宙人って言ったら、ニューメキシコのロズウェルが有名だよね」
「そこもフェスティバルやってるけど、その次に人気の場所がここ」
「へぇ、見てみたかったな。ちょうど終わった後だったんだ」
UFOが現れたというマックミンヴィルの空を俺は仰ぎ、想像力を働かせた。
「あっ、UFO」
「えっ?」
そんな古典的な古い手にもジェナは騙されて、空を見た。
俺がしてやったり! と笑ってると「あっ、ほんとだ。UFOだ」とシレッと返ってきた。
「えっ!?」
俺は空を二度見した。
「メージャルック!」
ジェナが指を差して笑う。
今度は俺が騙された。
『Made you look』
映画『アラジン』の最後にジニーも言っていたセリフ。
『やーい、ひっかかった』てな具合である。
マックミンヴィルの街を散策した後は、宿──ホテルとはまた違う安さが売りもの宿泊施設──に俺たちは到着した。
できるだけ予算を削った旅行を続けてるので、食事も簡単なものが多い。
でも今日はレストランで食べようと、俺はジェナに提案した。
「これだけ案内してもらってるから、今日のディナーは俺が奢るよ」
「いいよ、気にしないで。私もとても楽しんでる。ジャックが一緒に来てくれて最高の旅行」
「いいから、いいから。その代り、今日のディナーは俺が選ぶから。その覚悟で」
「わかった。食べたい物があるのなら、喜んで付き合う」
「よし! それじゃちょっと服着替えてくる」
「えっ、服着替えるの?」
「やっぱりレストランだから」
「でも、私、そんないい服持ってないけど」
「ジェナは何でもいいよ。俺だって、ジャケット一枚、何かの時のために持ってきただけだから、そんなにいい服じゃないんだ。すこしだけきちっとみえるようにっていうくらい」
「わかった。それなら、スカートっぽいの持ってるから、それ着る」
そういえば、ジェナはいつもカジュアルなパンツスタイルだった。
足も長くスタイルもいいから、飾り気のない服でもスタイリッシュに見える。
だから、この日、ジェナが膝までの丈のワンピースを着ているのを見るとドキッとした。
すこしだけ薄らと化粧もして、気を遣っておしゃれしてくれた。
「すごくいいね。そのドレスもとても似合ってて、すごくきれい」
「これドレスじゃなくて、チュニックなんだけど、丈が少し眺めだからワンピースとして着てもいいかなって思って」
ドレス、チュニック、ワンピース、その違いは良くわからないが、とにかく、ふわっとしてすっと足が出ているその明るめの服は、とてもかわいらしかった。
もちろん、ジェナも含めて。
「ジャックもナイス」
ナイスという表現は、とりあえず褒めとけという、とってつけたような感じもするが、俺が気取って腕を突き出すと、ジェナはしっかりと組んでくれた。
「それじゃ、行こうか」
俺はジェナをリードする。
グーグルマップで予め行き先を調べてるから、なんとか目的地につけそうだ。
そんなに離れてなかったので、20分くらいでそこに着いてしまった。
ストリートの端に車を停め、俺はジェナをエスコートする。
精一杯のお洒落をして、二人とも少し背伸びをして大人っぽくふるまっていたように思う。
ジェナが絶対喜んでくれると確信してたので、俺は内心とてもワクワクして、落ち着かなかった。
そして、そこに着いた時、ジェナは思った通りに目を丸くした。
これだけでも、俺は『ヤッター』と心の中でガッツポーズしていた。
6
「ジャック、ここは!?」
優しい仄かなペパーミント色の外壁。
少し紫がかった明るめのあずき色のドア。
洗練されたビクトリア調のシンプルな一軒家。
白いフェンスに囲まれ、周りは草木と花の色のコントラストが美しい。
ポーチのところに、ドアと同じ色をしたレストランの名前が書かれたオーバルシェイプのサインが掲げてあるが、ここがレストランだと知らなければ素通りしてしまいそうに、控えめに、だけど威厳溢れる感じに、それは建っていた。
驚いているジェナの隣で俺も「ここが本当にレストラン?」と半信半疑だった。
「私がこのレストランの名前を言ったから、ここに来たの?」
「うん、すごく興味が出た」
「でもここ、本当に高いよ。他の所に行こう」
「だけど、すでに予約いれてるから」
「ええ!」
躊躇っているジェナの腕を引っ張り、俺は玄関のポーチへ続く階段に足をかけ、そのまま二,三段上った。
ここは紳士に徹してドアに手を掛け、それをゆっくり開けると、先にジェナに家へと入ってもらう。
スマートに俺もその後を続き、背筋を伸ばした。
案内係はドアの付近でスタンバイして、落ち着きを払った態度で歓迎してくれた。
一軒家らしく、入るとすぐに二階に続く階段が目に入った。
一部の壁を取り除き、部屋を改造して空間を広げ、テーブルが置かれている。
落ち着き払った色合いのコーディネートが高級感を出していた。
すでに何組かの客が来て食事をしていた。
予約を入れてると言うと、微笑んでスムーズに二人掛けの席へ案内してくれた。
照明をぐっと落とし、テーブルには小さなろうそくが灯って、可愛らしい花がアクセントに置かれていた。
庭に咲いていた花に違いない。
案内係に椅子を引かれ、ジェナはそろりと座った。
俺が座っても、そわそわとジェナは落ち着かず、心配の眼差しでじっと俺を見ていた。
大丈夫だから、と微笑んで、ウエイターからメニューを受け取った。
それを見ている間、ウエィターがグラスに水を注ぎだした。
「お飲み物はいかがいたしましょう」
ワインのお薦めをされたが、ジェナは未成年、俺も車を運転するので、断った。
ソフトドリンクは何があるか聞いたら、ホワイトグレープソーダを薦められた。
それなら見かけはシャンパンで、お酒のような雰囲気だけでも味わえそうだ。
それを頼むと、ウエィターは用意しに奥へ引っ込んだ。
飲み物を持ってくる間、俺たちはメニューを見る。
他の店と比べたら高いと言えば高いが、日本円に換算したら決してそんなに高いと思わなかった。
日本の値段設定より若干安い感じがしたのは、日本のフレンチコースの値段が高めだからだろうか。
ワインを飲んだり、キャビアを頼めばそれは高くなるけれど、俺はなんとかなりそうだと余裕の笑顔を見せた。
「無茶するんだからジャック」
「俺だって、折角アメリカに居るんだから、美味しいもの食べたいし、今日は俺に付き合って下さい」
ジェナは遠慮がちに小さくうなずいて、微笑んでくれた。
ろうそくの光は揺らいで仄かに俺たちを照らす。
アメリカ人は、こういう薄暗い光を演出するロマンティックな雰囲気が好きらしい。
俺には暗過ぎて、ちょっと電気つけて! って言いたくなってしまった。
ジェナもちょっと光が足りなかったのか、メニューを見るのに苦労してる様子だった。
メニューは、ミソ、シイタケ、ユズなどところどころに日本の食材の名前が目についた。
英語で料理を説明してるが、全然想像がつかない。
何か質問あるかとウエィターに訊かれても、何をどう質問していいのかもわからなかった。
5種類の料理を選べるコースにしたが、適当に指を差して選んだ。
ジェナがこのレストランを薦めた限り、何が来ても美味しいだろう。
周りのテーブルを遠目に見ても、見た事もない盛り付けで、いかにも豪華な感じがしていた。
後は来てのお楽しみ。
格式ばったレストランで、少し背伸びした俺たちは、運ばれてきたノンアルコールの飲み物を手にして、少し照れながら「チアーズ」とグラスを重ねた。
薄暗い光の中では、ベールに包まれたように空間が狭く感じた。
奥行きがはっきりとみえないからかもしれないが、目の前のジェナしか見えなくなる。
ジェナも同じなのか、俺だけを見ている気がした。
俺たちはその演出に見事に飲まれている。
幻想的に照らされるジェナの可愛らしい笑顔に、俺はドキドキが止まらなかった。
「今日もとても楽しかった」
俺が言えば、ジェナも「私も」と答える。
妙に話題がなくて、言葉が出てこない。
ひたすら笑ってごまかすというそんな初々しさがあった。
ウェイターが料理を運んでくると気がそらされ、緊張感が和らいだ。
テーブルの上に乗せられた料理に暫しくぎ付けになり、その間ウェイターが説明している。
それはよくわからなかったが、妙にでかいお皿の真ん中に、ちょこんと料理が乗っているその様は、何かの芸術作品のようにそれは素晴らしかった。
見て驚き、食べて驚きと、ジェナが言った通り、それは美味だった。
「美味しいね」
「うん、美味しい」
そればっかりの会話が続いた。
ゆっくりと時間が過ぎ、料理も決して急がず、ゆったりと目の前に運ばれてくる。
まさに、優雅な一時を俺たちは過ごしていた。
この雰囲気に乗り、俺はジェナに質問した。
「ねぇ、ジェナはなぜ俺をジャックと呼んだの?」
ナイフとフォークを持って、お肉を切っていたジェナの手が止まった。
「それは、ジャックだって思ったから」
「だから、ジャックって誰なんだ?」
「だからあなたがジャックと思ったから。そう呼んじゃった。もしかしてジャックって名前嫌だった?」
「そんな事ない。実はすごく気に入ってるんだ。そんな風に呼んでもらえて嬉しかったくらい」
そう、俺はジャックという名前がとても気に入った。
俺の長ったらしく言いにくい名前を、アメリカ人によって言いやすいようにもじってつけられたニックネームよりもずっといい。
ジェナの中では何かが反応して、俺にぴったりだと思ってくれたのなら、有難いことだ。
俺はこのまま、ジェナの思うジャックでありたいと願う。
ジェナが俺をジャックと呼んでくれたことで、俺の冒険が始まり、俺の中の何かが変わったような気がする。
アメリカ留学の最後の時を、さらに忘れられないものへと変えてくれた。
人生で一番きままで楽しい旅。
仄かに照らされた優しい暖色の光は夢の中にいるようだった。
俺の向かいに、かわいらしいアメリカン少女。
俺は英語で彼女とデートをしている。
俺自身もなんてすごい事だろうと気が大きくなって行きそうだった。
優越感とでもいうのか、男としての矜持に酔いしれるというのか。
ジェナは一体こんな俺の事をどう思っているだろう。
少しばかりまたスマッグ──自惚れ、独りよがり──になってしまう。
俺がもしこのままジェナの近くにいたいと言ったら、ジェナはその時なんて答えるのだろう。
でも俺は首を振る。
ジェナと一緒に長くいた事で、もしかしたら好かれているのかもと、俺は調子に乗ってしまっただけだ。
俺がもうすぐ日本に帰ることはジェナも承知だ。
そんな去っていく男の事を真剣に考える事もないだろう。
お互いどこかで割り切って……
そんな事を考えている俺をジェナはじっと見ていた。
「どうしたのジャック? 真剣な顔になってる」
「いや、もうすぐジェナともお別れだと思うと、寂しくなったのさ」
ジェナの表情が強張った。
ジェナは俺をじっと見つめ、震える唇で呟いた。
「ジャック、行かないで。私の側にずっといて」
「えっ」
ジェナの瞳が潤んでいる。
まさか、ジェナの口からそんな言葉が出てくるとは思わなかった。
俺はなんて言っていいのか、自分のそうしたい気持ちと、それは無理だと言う事実がぶつかり合う。
ジェナのストレートなその言葉が俺を縛り付ける。
この場合どういう答え方が一番ベストなのだろう。
そうしているうちに、デザートが運ばれ、ウエィターが説明している間、ジェナはわざとそのデザートに喜んだフリをする。
俺の答えを待たずに、ジェナは食べだした。
1
俺たちは何事もなかったように食事を終え、店を出てからずっと黙ったままだった。
車に乗り、シートベルトをして、俺がエンジンを掛けようとしたとき、やっとジェナが口を開いた。
「ディナーをありがとう。とても美味しかった。またこのレストランに来られてとても嬉しかった」
「どういたしまして。俺も美味しい料理を食べられてよかった。ここの料理、ジェナが言った通り、すごかったよ。サービスも洗練されてたし、アメリカにこんな美味しいものがあるなんて、びっくりだった」
ジェナは明らかに何かを気にして、気まずくなっている。
俺が、あの時の返事をしなかったから怒ってるのかもしれない。
このままうやむやにして良い訳じゃない。
だけど、返事ができないのだ。
どう答えていいのかまったくわからない。
ジェナも俺も会って間もないし、まだどちらも学生だ。
はっきりしても、曖昧でにごしても、結局は離れることが決まっている。
そんな状況で、ジェナの側には絶対にいてやれない。
でも一緒にいたいという気持ちはないという訳でもない。
反対にこれが日本で起こった事ならば、例え相手に強く興味を持ってなくても、きっとその言葉を利用するように簡単にいい返事を返していたことだろう。
自分が去っていく、無理な状況での告白は、簡単に会えない距離のせいで容易く受ける事はできなかった。
いずれ自然消滅の予感がすると自分でも先が読める。
ジェナだって、この状況に飲み込まれて、気持ちが高まっただけだ。
できるだけ冷静に、はっきりいわずとも、自分の言いたいニュアンスが通じるように、俺が去っていく現実だけを考え俺は話し出した。
「えっと、レストランでジェナが言ったことだけど」
ジェナの肩がピクッと反応し、恐る恐る俺に視線を向けた
「俺、嬉しかった。俺も、その、このまま一緒にいられればって思う」
「だったら、一緒にいて」
「でも俺は日本に戻らなければならない」
「そんなのわかってる。でも約束はできるでしょ。またここに戻ってくればいいだけじゃない」
「ジェナも、俺だって、まだ学生だ。学校にいかなくっちゃならないし、簡単にそれができない事わかるだろう」
「離れてる時間が長くなると、私にはもう会いたくないの?」
その言葉は俺の思う的を射ていて、ドキッとしてしまった。
「そんなことない」
──ほんとにそんなことはないんだ。
──だけど距離があるという事はいずれ自然とそうなってしまうんだ。
俺の心の声は言葉にできなかった。
「だったら、私たち、離れててもずっと繋がる事ができるはず」
ジェナの意味することは、遠距離恋愛ということなのだろうか。
それも最初の内はありかもしれないが、俺もジェナも縛り付けて、会えない時を無駄にするなんてただしんどいだけじゃないだろうか。
ジェナだってこれから、大学で俺よりももっといい奴に出会えるチャンスが一杯ある。
完璧に英語を操れない俺は、この先不利な点を一杯秘めている。
ジェナはかわいいし、好かれれば素直に嬉しいが、欲望のままに先を考えない結論をすぐ出してもよいものなのか、俺自身が納得いかない。
俺が黙り込んだその時、ジェナの目がきつくなって俺に感情をぶつける。
「ジャックは、私の事もっと知ったら、絶対に私から離れないはずよ。だってジャックなんだもん!」
まただ。
上手く彼女の英語がしっくりと理解できない。
俺は何かを聞き逃している?
しかも、ジェナはどこか駄々をこねる子供のように、俺にジャックを押し付ける。
一体ジェナのジャックって何なんだ?
ダメだ、これ以上俺は彼女と話し合えない。
でも彼女がここまで俺に執着を見せるなんて、何かがおかしいようで、違和感を覚える。
それは、押し付けるように、俺を縛り付けようとして、それを俺に実行してほしいと願ってるような──もっと違う別の理由。
無理難題とわかっていながら、わざと気持ちをぶつけて、俺を困らせている。
今夜の特別なディナーのせいで、俺がジェナを刺激させてしまったに違いない。
ジェナはそれに甘えて、引っ込みがつかなくなっただけだ。
「とにかく、ジェナ、落ち着こう。今日は少しロマンティック過ぎて、ちょっと気持ちが高ぶったかもしれない」
「……」
ジェナは何も答えない。
でも瞳だけは黄昏の薄暗い中で虚ろに俺を見ていた。
それから目を逸らし俺は車のエンジンを掛けた。
車はゆっくりと動き出し、宿へと向かった。
沈黙をごまかすように、俺はラジオのスイッチを入れたが、気にいらない曲だったのか、ジェナがそれをすぐに消してしまった。
余計に気まずくなり、俺は追い詰められていく。
最後は居た堪れなくなり、俺は弥縫策を講じる。
「もう少し、オレゴンにいるから」
ほんの少しだけ先延ばしになったところで、何も解決しないだけなのに、そういうことしかできなかった。
ジェナは無言だけど、頭の中では色々と考えを巡らせていたと思う。
時々、何かを伝えようとしながら、それを飲み込むようにジェナは体を震わせていた。
宿について自分の部屋のドアに手を掛け、俺に振り向き「グッナイッ」と小さくあいさつした。
同じように俺も「グッナイッ」と返す。
無理して寂しそうに微笑むジェナは、仕方がないとどこかで諦めているようだ。
部屋に入る前に声を絞り出すように小さく俺に言った。
「ジャック、明日は『ティラモック』に行って、そしてジャックが行きたがっていた『キャノンビーチ』に行こう。それでこの旅も終わりにしましょう」
あっさりと終わりを告げられ、俺の方が辛くなった。
「わかった……」
そういうだけで精いっぱいだった。
俺がよかれと演出したことが裏目に出てしまった。
あまりにもあっけない、なんとも後味の悪いそんな雰囲気が俺は嫌でたまらなかった。