「あああ、あのっ、あたし、基本的に目立つのは苦手だからっ、そのっ、おーでしょんとかは、ちょっと……。そっ、それに、そもそも物理的に不可能っていうか……」
「物理的に? 農園の手伝いで忙しいってことか?」
「えっと……、うん」
微妙な沈黙。
不意に、壁の時計のチッチッという音が耳元のすぐそばで鳴っているような気がした。
三条くんの唇の端がグニャリと曲がる。
そんなに理解できないこと?
家業のお手伝いしている子、あたし以外にもたくさん居ると思うけど。
あっ、お手伝いっ!
早く箱屋さんに行かないとっ!
「まぁ、どうしてあたしなのか分かんないけどっ、そういうことだから勘弁してね? カギ、あたしが返しとくから先に帰ってっ」
バッグを肩に掛けながら、ピアノの上の音楽室のカギに手を伸ばす。
すると突然、三条くんがそれをパッと横取りした。
え? なに?
「カギは俺が返す。お前、すぐ帰るのか? ちょっとコーヒーおごらせろよ。お前が小夜の代わりに来ることになった詫びだ」
「え? いやー、あたし用事があるから」
「あ? オーディションの話はもうしないから心配するな」
うわぁ、また怖い顔。
「そうじゃなくて、本当に用事があるの。このお金を箱屋さんに持って行かないと――」
ん?
あれ? 確かにここに……。
ハッ? ない。
三条くんに封筒を見せようと手を入れたバッグのサイドポケット。
今朝、間違いなくここに入れたはずなのに……、手応えがない。
ひぇぇぇぇ!
ないっ!
お金が入った封筒がないっ!
ドサリとバッグを足元に投げ置いて、しゃがんでもっと深くポケットに手を突っ込む。
「ん? どうした」
「えっと……、なんでもない」
「いや、お前、嘘が下手すぎだろ」
そりゃー、嘘の笑顔がとってもお上手なあなたに比べれば……、いやいやいや、そんなことどうでもいい。
なに?
どういうこと?
今朝、間違いなくこのポケットに封筒を入れたはずなのに。
えええ? どっ、どこで落としたんだろうっ。
「そそそ、そのっ、三条くんっ、にはっ、関係っ、なっ、いもん」
「カタコトになってんぞ。お前、なんか失くしたんだな?」
バッと立ち上がる。
こうしちゃいられないっ。
「ごめんっ。カギ、返しに行ってくれる? あたしちょっと用事がっ――」
「待て」
グイッと引かれた手。
「正直に言え」
うわぁ、怖いよぅ。
そんなに顔近づけないで。
頭ふたつ高いところから、三条くんが鬼の顔で見下ろしている。
「えええ、えーっと、今日はっ、その、イチゴの箱の業者さんに、だっ、代金を支払いに行かないといけなくてっ――」
「まさか、その金を失くしたのか。いくらだ?」
「いや、お家に置き忘れてきたのかもしれないしっ。とりあえず、いったんお家へ戻って――」
「いくらだっ?」
ぴえぇぇん。
なんでそんなに怒ってるのっ?
「その……、に、二万……五〇〇〇円」
一瞬きょとんとして、それから、はぁーっ……と、深い深いため息をついた三条くん。
いや、ほんとにもう急ぐんで。
「あああ、あのっ、カギっ、よろしくねっ! ごめんっ」
とりあえず、お家に帰れば、辞書に挟んだお年玉がある。
いまならまだ、箱屋さんの営業時間中に間に合うはずだ。
仕方ないっ、捜すのはそのあとっ。
うわっ。
またもや、グイッと手が引かれた。
「ちょっと待て。その箱屋ってのはどこだ。もう閉まるんじゃないのか?」
「もうっ! 急ぐって言ってるでしょっ? 箱屋さんはそこの農協の裏っ!」
「近いな。それなら先に支払いに行こう。捜すのはそれからだ」
「だからっ、お金は家に帰らないとないのっ!」
「うるさいっ!」
うわぁ、もう本気で怖いよぅ。
え? なに?
あたしを睨みつけながら三条くんがお尻のポケットから取り出したのは、それはそれは立派な皮のお財布。
彼が唇の端をしかめながら、チラリとその財布の中に目をやる。
おおう、いかにも『ガオカ』っぽいお財布だ。
あたしの赤リボン白猫の小銭入れとは大違い。
「家に帰っている暇はないだろ? すぐ行くぞ」
「え? でも……」
ギロリとあたしを睨みつけた三条くん。
「俺が立て替えてやる。二万五〇〇〇円だろ? それくらいはいつも持ち歩いてるから心配するな。さっさと支払いを済ませて捜すほうに専念するぞ」
「え? ええ? ええぇぇーーっ?」
「ご苦労さま。はい、これ領収書ね。間違いなくお母さんに渡してね」
「あああ、ありがとうございます」
箱屋さんを出ると、三条くんが怖い顔をして外で待っていた。
倉庫の壁に寄り掛かって、ものすごく不機嫌そう。
結局、彼に甘えてしまった。
早く家に帰って、とりあえずお年玉で三条くんにお金を返そう。
でも、いったいどこで落としたんだろう。
「おい」
「はっ、はいっ!」
「とりあえず、これ飲め」
え?
三条くんが突然差し出したのは、ペットボトルの紅茶。
「あのう、でも」
「いいから飲め」
ううう、怖いよぅ。
思わず受け取る。
「いいか? 今朝からのこと、ちゃんと落ち着いて思い出せ。俺が立て替えた金なんて、返すのはいつでもいい」
見上げると、彼がまたあの怖い目でジロリとあたしを見下ろしている。
なんか、先生に叱られてるみたい。
ペットボトルのキャップを開けて、目をつむってゴクリと紅茶を喉に流し込んだ。
ふわりと広がる優しい香り。
紅茶の香りには、心を落ち着ける効果があるんだって。
もうひと口。
ちょっとだけ、気持ちが楽になった。
それからゆっくりとふたり並んで歩き出すと、しばらくして三条くんが顔も見ないであたしを呼んだ。
「おい、イチゴ」
ああ、もうその呼び名に決定なのね。まぁ、『ジャム子』よりはましかな。
「しかし、なんでお前が支払いに行くことになったんだ? 家の手伝いって、そんなことまでやらされるのか」
「あの、やらされるっていうか……、えーっと、ゴールデンウイークに隣町で直売イベントが予定されてて、お母さん、その準備で今日一日ずっと忙しいから、あたしが代わりに……」
「それはおかしい。子は親の道具じゃない」
「えーっと」
あたしは道具なんかじゃないもん。
お母さんも、あたしを道具だなんて思ってないはず。
あたしは、みんなのために一生懸命頑張ってくれているお母さんを、少しでも助けたいだけだもん。
「ふん。まぁ、とりあえず交番に行くぞ」
「え? いや、先にお家に帰って三条くんにお金返すから。三条くんはそのまま帰って? あとは自分で捜す」
「交番は通り道だ。もう誰かが拾ってくれているかもしれない。届けは早いほうがいい」
「えーっと」
でも、これは三条くんの言うとおりだ。
大人しく言うとおりにしよう。
でももう、誰かイジワルな人が拾って、それでご飯を食べてるかもしれないよね。
お母さんに、なんて言って謝ろう……。
お年玉で払ったって言ったら、余計に怒られそう。
もう……、そうとうヘコむ……。
「現金二万五〇〇〇円入りの封筒? どんな封筒かな? 中にキミのものと分かる書類かなにか入ってた?」
初めて入った交番。
うわぁ、お巡りさん、ちょっと怖い。
パイプ椅子に座るように言われると、三条くんは「俺はいい」と言って、座ったあたしの横に立った。
なにそれ、保護者みたい。
「最後にその封筒を見たのは、いつ?」
「最後に見たのは……、家を出るときで、朝、七時半くらいです」
本当にあとはひとりでいいから先に帰ってって何度も言ったけど、三条くんは「はいはい」って言いながら、結局一緒に交番へ入って来た。
お金はあとでアパートへ持って行くって何度か言ったんだけど、最後は「うるさいっ!」って怒鳴られて……。
「えーっと、あと、納品書が入ってました。宛名は『宝満農園』って書いてあって、イチゴを詰める紙箱の納品書で……」
「あー、キミ、あそこの娘さん? なんでそんな大金持ってたの?」
「あの、お母さんの代わりに箱屋さんへ支払いに行くために……」
「ふぅん」
お巡りさんがなにか考えている。
後ろのもうひとりのお巡りさんとなにか小声で相談して、それからパッと笑顔をあたしに向けてくれた。
「キミの封筒、届いてるよ。キミが話してくれた行動経路と時間、それと中の伝票からみて、キミの物に間違いないだろう」
「えっ? 本当ですかっ! よかったぁ!」
思わず、横に立っている三条くんを見上げた。
チラリとあたしに目をやった彼は、そのままなにも言わず立ったまま。
あ……、ごめんなさい。
ぜんぶあたしが悪いのです。
お巡りさんが、ちょっと顔を低くしてあたしを覗き見上げる。
「ただ、キミが宝満日向さんだと証明するものが必要かな。学生証とか、パスポートとか。顔写真付きで、キミが宝満さんだって証明できる公的なもの」
「えっと、パスポートなんて持ってないし……、学生証も、まだもらってないんです」
「もう四月も終わろうかっていうのに、まだ学生証もらってないの?」
今年から、学生証が交通系ICカードをベースにしたものに変わるらしくて、一年生のぶんはまだ作るのが間に合ってないんだって。
学割定期券とか買う生徒には、個別に在学証明書を発行しているみたい。
「そうなんだ。そしたら、親御さんに来てもらってもいいよ?」
「え? でも、お母さんは無理です」
「お父さんは?」
「お父さんは……、その……、居ません」
お巡りさんが、ちょっと怖い顔であたしを見た。
「なるほどね。キミ、これ本当に支払いのために持ってたの? 家のお金を勝手に持ってきたんじゃないだろうね」
あたしがそんなことするわけないじゃないっ。
でも、この状況からしたら、やっぱりそう思われても仕方ないよね。
ぜんぶあたしのせい。
「えーっと」
「それならもう、学校の先生に来てもらおうか。先生にキミの身元を証明してもらおう。そして、お金のこと、先生と親御さんと一緒によく話してね」
「え? いや、あの――」
そう言ってお巡りさんが電話の受話器に手を掛けたとたん……。
「ちょっと待ってくれませんか」
ハッとして見上げる。
三条くん、ものすごく怖い顔。
「ん? なんだい? 彼氏さん」
かかか、彼氏さんっ?
「これって、わざわざ学校に連絡してことさら荒立てることですかね。彼女はまだ学校へ連絡することに同意もしていませんが、それはプライバシーの侵害に当たりませんか?」
三条くん、ちょっと怒ってる。
でも、すごく冷静。
「俺が彼女の身元を証明します」
三条くんはそう言うと、お尻のポケットから革のお財布を取り出して、そこからカードのようなものを出した。
あれは、運転免許証だ。
え?
運転免許証?
どうして、高校一年になったばかりの彼が免許を持っているの?
「三条くんか。しかし未成年のキミでは、彼女の身元保証人にはなれない」
お巡りさんは、三条くんの免許証を見ながらなにかメモをとっている。
なにがどうなっているのか、意味が分からない。
「それなら、俺の父親ならいいですか?」
「キミのお父さんは彼女のことを知っているの?」
「知っています。なんなら父をここへ呼びます」
えええ?
なんで三条くんのお父さんがあたしのこと知ってるのっ?
「俺の父は三条建設の三《さん》条《じょう》欣《きん》弥《や》です。こちらの警察署連絡協議会の委員で、会社を挙げて警察に協力させて頂いているので、ご存じと思いますが」
「あー、あの三条建設の社長さんか」
お巡りさんがちょっと考えている。
社長さん?
三条くんのお父さん、社長さんなんだ。
「彼女の母親は、支払いを娘にさせるほどの多忙さです。彼女は母親に心配を掛けたくないんです。学校に対しても同様です」
うわー、確かに心配を掛けたくないのはそうだけど……、それを三条くんに言わせてしまうなんて。
お巡りさんが、運転免許証を三条くんに返しながら、ちょっと笑顔を見せた。
「そういうことか。それなら、キミのお父さんと電話で話をさせてもらえるかい? わざわざ来てもらわなくてもいいから」
「はい。よろしくお願いします」
三条くんがスマホを取り出す。
画面をタップしながら、チラリとあたしを見た彼。
数回のコールのあと、すごく渋いバリトンの声がスピーカーから漏れた。
『珍しいな。お前から電話してくるなんて』
「父さん、ちょっと頼みが――」
かくかくしかじかと、「友だちが困っている」とか言って三条くんが事情を説明している間、お巡りさんはじっとあたしの顔を見ていた。
まだ疑ってるのかな。
「そういうことだから、ちょっと身元保証してくれよ」
『お前、その子って、もしかして』
「ああ、例のイチゴの子だ」
『がははは! お前の顔にバッグ投げつけた子だな』
えええ?
三条くん、親には話さないって言ってたのに、お父さん知ってるじゃないっ。
それから、三条くんはその通話をお巡りさんと代わった。
ほんの数分。
「それでは、書類には社長さんの名前を書かせてもらいますから、よろしくお願いします」
そう言って通話を終えると、お巡りさんは納得した様子で三条くんにスマホを返して、それからパッとあたしにニコニコ顔を向けた。
「じゃ、キミの身元は彼氏さんのお父さんが証明してくれたから、このお金、このまま持って帰っていいよ。受領書にサインして」
もう、涙が出そう。
もう一度、三条くんを見上げた。
あ、まだ怖い顔してる。
「お前、拾ってくれたやつに礼しないといけないだろ」
あああ、そうだった。
もう、あたし完全にダメ子になってるな。
「あの、お巡りさん、拾ってくれた人って――」
「お礼がしたいの? でもね、拾ってくれた人が、『名前も連絡先も教えなくていい』って手続きを希望したから、僕らは教えてあげられないんだ。ごめんね」
そうなんだ。
つい、また三条くんを見上げた。
「いちいち俺の顔を見るな」
「ごっ、ごめんなさい」
それを見て、ちょっと苦笑いしたお巡りさん。
「おいおい、ケンカしないで。まぁ、いつかキミが拾う側になったときに、この拾ってくれた人と同じ優しい気持ちで届け出をしてくれれば、それがその人への恩返しになるからね」
「はいっ!」
思わず立ち上がる。
あたしは封筒を胸に抱き寄せて、それから深々と頭を下げた。
交番を出て見上げると、もう空はキレイな朱色。
「あああ、あの、これ」
あたしは封筒から納品書を引き抜いて、お金を封筒ごと三条くんに差し出した。