彼がすっと視線を上げる。
「お前、『翼をください』って歌、知ってるよな」
 はい。もちろん知ってますとも。
 お父さんとお母さんが大好きな歌で、あたしも温室で水やりするときによく歌ってるし。
 答えずにいるあたしの目をじっと見つめると、それから三条くんはバッグに伸ばした手を引っ込めて、ゆっくりとピアノのほうへ歩き出した。
 カタンとピアノの椅子が引かれる。
 なんなのよ。
 あたし、箱屋さんへ支払いに行かないといけないんだけど。 
 そう言おうとピアノのほうへ一歩踏み出すと、あたしのことなんかお構いなしに、バーンと清潔感のある和音が響いた。
 突然、ピアノを弾き出した三条くん。
 これは、『翼をください』のイントロだ……。
 なに?
 あたしに歌えってこと?
グランドピアノに向かう三条くんの横に立って、茫然とするあたし。
 知らず知らずのうちに、鍵盤を叩くその繊細な指先に目を奪われていると、イントロに続いて、もうこれ以上にないくらい澄んだ甘い声がふわりと広がった。
「♪ Mu~」
 三条くんのハミング。
 キレイな声。
 伴奏が進んでいく。
 そして、サビに差し掛かる寸前、その吸い込まれそうな彼の瞳が、スーッとあたしを捉えた。
 思わず息を吸う。
「♪ この~」
 勝手に声が出た。
 急に背筋が伸びて、ちょっとだけかかとが軽くなる。
 揃えたつま先まで浮き上がるみたいに、スーッと心の中に青空が広がった。
 手元に目を落とした三条くんが、もう一度あたしを見上げる。
 彼もあたしに合わせて、ハミングを歌詞に変えた。
 素敵なテノール。