「あれ、もしかして、『UTA☆キッズ』に出てたセイヤじゃね?」
「女子が隣のクラスに居るって言ってた」
「ひえぇ、ムカつくイケメン」
そのあと、雨が降り出したみたいにザワザワーッと広がったどよめき。
先生が立ち上がって、パンパンと手を鳴らす。
「はいはい、彼は確かに以前はテレビに出ていた有名人かもしれないが、ここではみんなと同じ、ひとりの生徒だ。変に意識しないで。さぁ、三人とも、校歌斉唱、いいかな?」
先生のひと声に、急に音楽室中がしゅーんとなった。
先生、とっても素敵。
また、ババーンとピアノが鳴って、壇上の三人が校歌を歌い始める。
「♪ あさゆうあおぐ、おおみねの~」
え?
ちょっと、どうしたの?
ほかのふたりの声がまったく聞こえない。
甘い声。
素敵な、とっても素敵な、透き通った歌声。
これが、三条くんの声……。
重たいバリトンでも、艶やかなテノールでもない。
もっと中性的な、テノールとアルトの中間のような、そんな澄んだまっすぐな声。
気がつくと、あたしは目をつむっていた。
すーっと、心が洗われていくみたい。
まるであのとき、教会で聖歌隊の歌声を聴いたときみたいに……。
バーンとピアノの余韻が響いて、歌が終わる。
ハッとした。
彼の歌声にうっとりとしていた自分に気がついて、思わず下を向いた。
顔が熱い。
三条くんたちが席へ戻る。
「はい。ありがとう。これで全員終わりかな? では、今日の授業はここまで」
どうしてだろう。
足に力が入らない。
テーブルにぶつけた傷のせいかな。
みんなが立ち上がって、音楽室がさっきの静けさからは想像もできないほどのガヤガヤでいっぱいになった。
数人の女子がわーって言って、三条くんに駆け寄っている。
ちょっと迷惑そうな顔の彼。
スカートの上から、両足をさする。
小夜ちゃんが段を上がってこちらへやって来た。
「ちょっと、ジャム子ぉ。元合唱部が本気で歌ったらダメじゃない。みんなヒクでしょぉ」
「え? あたし、そんな本気だったかな。あはは」
「だいたい、あんな歌い方、合唱部のときにしたことなかったじゃないっ。あんた、手を抜いていたわねっ?」
ええ? なんでそうなるの?
手を抜いていたつもりはないけど。
自分の本当の音域と違うパートで歌ってただけ。
机に両手をついて思いきり顔を近づけた小夜ちゃんが、もっと迫りながらギャーギャー言い始めると、その肩に突然、軽く手が掛かった。
「小夜、うるさいぞ?」
「ええっ?」
ビックリした小夜ちゃん。
彼女を押しのけて、あたしの顔を覗き込んだのは……。
「おい、イチゴ」
すっごく怖い顔の……、三条くん。
思わず背筋を伸ばす。
「いいい、イチゴって、あたしのことっ? あのっ、け、今朝はごめんなさいっ!」
のけ反ると、彼の顔がもっと近づく。
「お前……、夢がないのか」
「え?」
真剣な顔。
思わず目を逸らす。
「夢は……、その……」
「夢がないんなら、お前、俺の夢を手伝え」
「へっ?」
彼の後ろで、小夜ちゃんがなにやらギャーギャーと騒いでいる。
そのさらに後ろには、たぶん彼のファンだと思われる女の子たちが数人。
あたしは、ググッとのけ反ったまま。
彼の口元がほんの少し上がる。
「お前、俺と一緒にユニットを組まないか?」
ユニット?
一緒に歌を歌うってこと?
あたしが?
三条くんと?
「えーっと」
また目を逸らす。
すると、その逸らした先に、彼がすっと顔を動かして、もっと近づいてあたしの瞳を覗き込んだ。
「俺と一緒に、プロを目指そう」
「え? え? えええぇぇぇーーーっ?」
「かなり治ったわね。もうキズテープ貼らなくていいんじゃない?」
「そうですか? えへへ、よかった。すっごく恥ずかしかったんで」
水城先生は、きょうもすっごくキレイ。
最近は、お昼休みになると、こうして保健室にお邪魔することが多い。
実はあれから、三条くんとはぜんぜんしゃべってない。
「でぇ? あの三条聖弥から誘われたっていう話、結局どうなったのよ」
「え? あー、いま、イチゴが旬でとっても忙しいし、あたし、そんなよく知らない男の子と一緒に歌なんて歌いたくないし」
「ふぅん。まぁ、正解かもねぇ。あいつ、ちょっと面倒くさそうだから」
「いいんですか? 先生がそんなこと言って」
あたしの足から剥いだキズテープをクシャっとして、ゴミ箱に放り投げた水城先生。
先生は、あんまり三条くんのこと好きじゃないみたい。
「私はさぁ、ああいう『俺、金持ちで、イケメンで、めっちゃスゴイっしょ』みたいなやつが一番嫌いなのよねぇ」
「あはは。でも、そこまではない気もするけど」
「へぇー、もしかして、パンツ見せろなんてデリカシーのないこと言われたのに、けっこう好きになっちゃった?」
勘弁してください。
あたしも、ああいうタイプは苦手です。
結局、あの「俺と一緒にプロを目指そう」には、「あたしは別にプロになんてなりたくない」って即答した。
確かに、彼の歌はスゴイと思った。
そりゃ、CD出したことあるくらいだし、一般人とは違うよね。
でも、あのデリカシーのなさと傲慢な感じは、どうしても好きになれない。
先生の話によれば、三条くんは先生たちの間でもけっこう有名らしい。
どうも、入学前に三条くんのお母さんが学校へ来てちょっとトラブルがあったらしくて、それでみんな知ってるんだって。
どんなトラブルだったのかは、詳しく教えてくれなかったけど。
「イチゴの旬って、どんなことしてんの?」
「あー、とにかく摘んで詰めて、摘んで詰めて、です。お昼はお母さんがひとりで摘み取りやってるんで、あたしは帰ってから箱詰めのお手伝い。それと、夕ご飯の用意とお洗濯!」
「うわぁ、大変。夜遅くまでやるの?」
「はい。でも、いまの時期だけなんで。これを乗り切っちゃえば、あとは冬になるまでは子苗作りだけでイチゴはお休みだし」
「ふぅん。あんまし無理しないようにね」
あたしは大丈夫。
無理をしているのは、お母さん。
この一年、お父さんのぶんまで頑張って、たぶんもうクタクタになっているはず。
あたしは、お手伝いをすることしかできない。
本当なら高校も辞めて、ずっとお母さんのお手伝いをやりたいんだけど。
今日は、ちょっと重要なお手伝いを任せてもらった。
帰りに農協の裏の箱屋さんへ行って、追加でお願いしたイチゴの箱の代金を支払うという重要な任務。
それが終われば、早くお家へ帰って夕ご飯の支度をしないと。
あたし、ちょっとはお母さんの役に立ててるかなぁ。
「ジャム子っ、あんたいまから、アタシの代わりに音楽室の掃除に行くのよっ」
「……はい?」
今日は特別教室の清掃日。
週に二回、図書室や音楽室などの特別教室を、放課後にそれぞれの委員が清掃することになっている。
小夜ちゃんは、音楽委員。
あたしは農園の手伝いがあるので、先生が委員から外してくれた。
「アタシを差し置いて聖弥くんと歌の話をした罰よっ! 思い知りなさいっ!」
はいはい。思い知らせていただきます。
「もうっ、悔しいっ! 聖弥くん、アタシが一緒に合唱やろうって誘ったらソッコーで断ったのに、あんたとは一緒に歌いたいだなんてぇっ!」
「あー、ところで小夜ちゃん。あたし今日、用事があるの。音楽室の掃除はできないなぁ」
「はぁ? そんなの認めないわっ! アタシも用事ができたのよっ。あんたの用事より、アタシの用事のほうが重要であることは間違いないわっ!」
そうですよね。
小夜ちゃんの用事のほうが重要に決まってます。はい。
ガタガタと椅子を鳴らしてみんなが教室を出て行く中、小夜ちゃんがあたしの前に立ち塞がってアゴをしゃくっている。
こういう感じになったときは、もうどう言っても彼女は引き下がらない。はいはいと言うことをきいてあげたほうが、ムダな時間を取られなくて済む。
まぁ、でも代わりを頼むということは、一応、掃除に対して責任は感じているっていうことよね。
サボってしまおうってならないところが、小夜ちゃんらしい。
「分かった。仕方ないな。あたしが代わりに行ってあげる」
「当然よっ! もうひとり、ほかのクラスの委員が来るから、力を合わせてやりなさいっ!」
ぷいっと背中を向けて歩き出す小夜ちゃん。
あー、箱屋さんが営業しているうちに支払いに行けるかなぁ。
しかーし。
ふふふ。
こんなこともあろうかと、今日、箱屋さんへ支払うお金は、あらかじめ持って来たのです。
これは、お母さんにはナイショ。
本当は、昨日の夜、お金をお母さんから預かったとき、「学校には持って行かないで、一度家に取りに帰ってきてから行ってね」と言いつけられた。
でも、箱屋さんは高校のすぐ近くだし、お金を取りに帰って時間をとられると夕ご飯の支度やお洗濯も遅くなって、箱詰めのお手伝いをたくさんできなくなっちゃうかもしれないし。
だから、こっそり持って来ちゃったの。
音楽室の掃除で少し遅くなるかもだけど、お家に一度帰らなくていいから、セーフ。
音楽室は、渡り廊下の向こうにあって、上から見るとカタツムリのツノみたいに校舎から突き出ている。美術室も同じ。
さぁ、さっさと掃除を済ませてしまおう。
そう気持ちを切り替えて渡り廊下をとっとこ走っていくと、ちょうど半分くらいのところでピアノの音が聞こえた。
誰かが音楽室でピアノを弾いている。
手前にある音楽準備室は戸が開いていて、中には誰も居ない。椅子が引かれた高橋先生の机が、ちょっと寂しそう。
髙橋先生が弾いているのかな。
そのまま準備室の中を通って、それから音楽室へ入る扉をそっと開けた。
うわ、なんで居るの?
そこには、想像もしていなかった……、彼の姿。
グランドピアノに向かっている、三条聖弥くん。
その隣には、三条くんの手元を覗き込みながら、なにか教えている様子の高橋先生。
え?
三条くん、ピアノ弾けるんだ。すごい。
でも、なんかちょっと難しい話。
コードがどうとか……、和音の話かな。
「そうだね。この進行でちょっとだけジャズ風のテイストを足すなら、ここにオーギュメンテッドを挟むといいよ」
「なるほど……、ん?」
あ、やば。
ゴチッ!
痛ぁぁーーいっ!
顔を引っ込めた瞬間、ドア枠に思いきりぶつかった頬。
思わず両手で頬を押さえてしゃがみ込む。
ううう……。
そして、じわっと目を開けると……。
「お前。こんなとこでなにしてんだ」
うわ、出た。
子供に話し掛けるみたいに、膝をついてあたしの顔を覗き込んでいる三条くん。
ズバッと立ち上がる。
「あああ、あたしはっ、そのっ、小夜ちゃんの代わりに掃除当番をっ」
「え? お前が代わりに来たのか……。あー」
なに?
どういうこと?
「そりゃすまなかったな。小夜に用事を作らせたのは……、俺だ」
「はぁ?」
「こんなもんでいいか。けっこう砂が上がるんだな。渡り廊下のせいか」
小夜ちゃんが言った『もうひとりの委員』は、三条くんだった。
四組の音楽委員だって。
小夜ちゃんは、一緒に掃除する当番が三条くんだって知らなかったみたい。
彼の話によると、小夜ちゃんの用事はネイルサロン。
今日の三組の当番が小夜ちゃんだという情報を入手した三条くんが、彼女に駅前のネイルサロンの無料お試し券をあげたんだとか。
なんでそんなもの持ってるのよ。
「小夜除けのために、いつもそのテのやつをいくつか持ち歩いてるんだ。あいつ、一緒にお茶行こうとか言ってしつこいし」
なるほど。
どうも、そのネイルサロンは三条くんのお父さんの友だちのお店らしい。
「先に出て。あたし、音楽室のカギ、職員室に返してくる。三条くん、先に帰っていいよ」
ピアノの上のカギに目をやりながら、「さぁ、行って行って」と三条くんに手を振ると、彼はバッグのストラップに手を伸ばしたところで、突然動きを止めた。
え? なに?
彼がすっと視線を上げる。
「お前、『翼をください』って歌、知ってるよな」
はい。もちろん知ってますとも。
お父さんとお母さんが大好きな歌で、あたしも温室で水やりするときによく歌ってるし。
答えずにいるあたしの目をじっと見つめると、それから三条くんはバッグに伸ばした手を引っ込めて、ゆっくりとピアノのほうへ歩き出した。
カタンとピアノの椅子が引かれる。
なんなのよ。
あたし、箱屋さんへ支払いに行かないといけないんだけど。
そう言おうとピアノのほうへ一歩踏み出すと、あたしのことなんかお構いなしに、バーンと清潔感のある和音が響いた。
突然、ピアノを弾き出した三条くん。
これは、『翼をください』のイントロだ……。
なに?
あたしに歌えってこと?
グランドピアノに向かう三条くんの横に立って、茫然とするあたし。
知らず知らずのうちに、鍵盤を叩くその繊細な指先に目を奪われていると、イントロに続いて、もうこれ以上にないくらい澄んだ甘い声がふわりと広がった。
「♪ Mu~」
三条くんのハミング。
キレイな声。
伴奏が進んでいく。
そして、サビに差し掛かる寸前、その吸い込まれそうな彼の瞳が、スーッとあたしを捉えた。
思わず息を吸う。
「♪ この~」
勝手に声が出た。
急に背筋が伸びて、ちょっとだけかかとが軽くなる。
揃えたつま先まで浮き上がるみたいに、スーッと心の中に青空が広がった。
手元に目を落とした三条くんが、もう一度あたしを見上げる。
彼もあたしに合わせて、ハミングを歌詞に変えた。
素敵なテノール。