「大丈夫だ。ハウスの補強は父さんも手伝う。それから……、信子」
聖弥くんのお父さんが、掴んだ手をゆっくりと下ろさせながら、とっても優しい声でお母さんの顔を見下ろした。
「信子の夢は、『星降が丘』を作って、その頂上に住んだことで叶ったじゃないか」
「でもっ、まだ残っているわっ! この農園さえなければっ……」
「そのために、今度は聖弥の夢を奪うのか? 僕らの夢は、もう叶った。次は聖弥たち、若い人たちの番だ。夢を追いかける彼らを、聖弥を、しっかりと見守ってやろうじゃないか」
聖弥くんのお父さんを見上げて、お母さんがわなわなと唇を震わせた。
「あなたっ、私はっ、私はっ……」
突然、その頬を走った大粒の涙。
聖弥くんのお父さんが、すっとあたしを見上げる。
「日向さん、さっきのプロポーズ、感動したよ」
「え? あ、あの、あたし……」
「確かに。未成年の結婚には両方の保護者の同意が必要だが、日向さんのお母さんは……、ちゃんと同意してくれるのかな?」
「ええっと……、はい」
「そうか。それなら安心した。じゃ、私も同意させてもらうよ? 聖弥をよろしく」
うぐっ!
急に息がっ……。
茫然としている、聖弥くんのお母さん。
その後ろで、さらに茫然としている翔太のお父さん。
翔太と小夜ちゃんは腕組みをして、うんうんと頷いている。
ハッとして、聖弥くんを見上げた。
聖弥くんがニヤッとしてあたしを見下ろす。
足元を見ると、晃に抱きかかえられた光輝と陽介が、ニコニコしながらあたしたちを見上げていた。
そのとき、ドドドドッと母屋の屋根が揺れた。
すごい風っ!
早くしないと、上の段のハウスが浮き上がっちゃう!
突然聞こえた、翔太の怒鳴り声。
「三条っ! あんたは大人しく寝てろっ! 日向は残って三条の看病だっ! 父ちゃん、晃、アンカー打ちにいくぞっ!」
「よしっ! 行くぞっ、翔太兄ちゃん!」
晃が駆けだす。
「アタシも行くわっ!」
ユニフォームの上にカッパを羽織る小夜ちゃん。
すると、聖弥くんのお父さんがスーツの上着を脱ぎながら、パッと翔太と小夜ちゃんのほうを振り返った。
「おお、みんな勇ましいなっ。私も行くぞっ!」
「よしっ! オッサンも来いっ! みんなでハウスが飛ぶのを阻止するぞっ!」
「おおう!」
勢いよく出て行く、翔太、小夜ちゃん、晃、聖弥くんのお父さん。
そして、最後に出て行こうとした翔太のお父さんが、ちょっと立ち止まって言った。
「日向ちゃん、ノブちゃんをよろしく」
ん?
ノブちゃん?
それって、聖弥くんのお母さんのこと?
「よしっ! 行ってくるっ!」
バッと飛び出して、雨の中を走って行く翔太のお父さん。
そのすぐあと、翔太のお父さんを追いかけて駆けてゆく山家さんの姿がちらりと見えた。
開け放たれた玄関戸の向こうは、まるで台風のような嵐。
バチバチと大粒の雨がタタキを打って、そのしぶきが土間に飛んできている。
ハッと我に返って、聖弥くんの背中を押す。
「聖弥くんは寝てないとダメ」
チラリと目をやると、聖弥くんのお母さんが居間のあがりかまちに、へなへなと腰を下ろしたところだった。
ずいぶんまいっているみたい。
すぐ温かいお茶を淹れてあげよう。
「お母さんっ、そのままそこに座っててくださいっ。聖弥くんを寝かせたらすぐ行きますっ」
あたしの言葉を聞いて、お母さんがゆっくりと顔を上げる。
うわ、すごい顔。
そんなに睨まないでください。
苦笑いを返すと、聖弥くんがそっと耳うちした。
「日向、面倒くさいけど、ごめんな」
「ううん、大丈夫よ? ヨメ・シュウトメ戦争、あたし絶対に負けないから」
「頼もしいな」
「ふふん。いいから早く寝るの」
「うん」
聖弥くんをお布団に押し込んで、掛布団をガバッとかぶせた。
よし、次はお母さん。
義理のお母さんになるんだからね。
しっかり、ちゃんとお話ししないと。
そう思って振り返ると、うなだれて座り込んでいるお母さんの手前に、その顔を覗き込んで様子を窺っている陽介と光輝がいた。
うわ、なにしてるのっ。
怒鳴られちゃう!
あたしが慌てて立ち上がると、次の瞬間、光輝がお母さんのすぐ横にペタッと座り込んで、それからサッと絵本を差し出した。
ギョッとしたお母さん。
満面の笑顔の光輝。
「ねぇ、えほんよめる?」
「はぁ? なっ、ななっ、なんなのよぉぉぉーーーっ!」
「いまのところ、目立った後遺症はないみたい」
「よかったぁ」
あの嵐の夜から一か月。
すっかり夏になって、見上げると空は一面、ソーダ水みたいな素敵なブルー。
病室の窓から見上げる空も、もう明日で終わり。
お母さん、やっと退院できるって。
あの夜、聖弥くんのお母さんは、ハウスの補強を終えて戻ってきたお父さんに肩を抱かれて、うなだれたまま帰っていった。
ちょっとかわいそうだったけど、でも、負けてらんないもん。
あたしが淹れた熱いお茶を飲んで、「いいお茶」って小さく言ってたな。
一緒に、自慢の特製ジャムをクラッカーに乗せて「どうぞ」って差し出したら、ちょっとあたしを睨んだあと無言で口に運んで、それからなぜか急に泣きそうな顔になってた。
結局、聖弥くんは、またあのアパートで暮らすことになった。
でも今度は、寝泊り以外はほとんど我が家に居るんだけどね。
「お母さん、田中さんとこのイチジクが売店に出てたよ? 買ってきたけど、食べる?」
「いいね。もらおうかなぁ」
翌日、翔太のお父さんがいろいろ話してくれた。
『ノブちゃんが聖弥くんのお母さんだったなんて、まったく知らなかった』
『ノブちゃんは、俺の同級生だ。もちろん日向ちゃんのお母さんとも。まぁ、みんなこの田舎町で生まれ育った、幼馴染みってやつだな』
『宝満農園の隣、聖弥くんが住んでたアパートがあるあの敷地は、ノブちゃんの実家だったんだ。母屋はもうないけど、残っているあのアパートがもともとは離れでな。一階が納屋で、二階が子ども部屋だったんだよ』
『ノブちゃんとこは稲作農家で、宝満農園はまだそのころは養鶏場だった。とても仲がよかったらしい』
『俺たちは高校を卒業しても地元に残ったけど、ノブちゃんはすぐに都会へ出て行ってしまった。よほどこの田舎が嫌だったんだろう。だから、その後の彼女のことはまったく知らなかったんだよ』
『三条社長が、少しだけ彼女のことを教えてくれた』
『彼女、三条社長とは東京の職場で出会ったみたいだな。彼は隣の政令市に本社がある「三条建設」の御曹司で、当時は次期社長としての武者修行中だったそうだ』
『そこでふたりは結婚して、三条社長が社長職を継ぐタイミングで地元へ戻って来て』
『ノブちゃんは、本当は戻って来たくなかったみたいだな。でも、三条社長はどうしても社長を継がなきゃいけない』
『そこで三条社長は、すでに一部の計画が始まっていた住宅地開発計画を拡大して、ノブちゃんが気に入る街を作って、そこに新居を構えるってノブちゃんに約束したらしいんだ』
『そして、そのときノブちゃんが言った願いは、この街を東京の高級住宅街のような上品で華やかな街にして、自分の過去をぜんぶ消し去ってほしいってことだった』
『それが、この街で突然起こった、「星降が丘」の造成計画だったんだ。町議会まで巻き込んで、三条建設がこの街をまったく違う街に変えようとしたんだ』
『でも、そうはならなかった。宝満農園が頑張ったからな』
『それから、ノブちゃんの不完全燃焼は、ひとり息子の聖弥くんへと向いていったってわけだ』
『聖弥くんをスターにして、ステージに立つ彼の隣にその母親として立つ……、それが彼女の夢になっていったらしい』
『それがエスカレートして、彼女、ちょっと病んでしまったみたいで。それがいろんなトラブルを生んで……』
『あの、聖弥くんが使っていた部屋、実はノブちゃんの部屋だったんだよ。彼女、あそこから毎日、宝満養鶏場の庭を眺めていたんだ』
『いや、俺、高校入る前まで、ほとんど毎日、宝満家へ遊びに来てたからな。だから知ってるんだ』
『俺が日向ちゃんのお母さんと縁側でスイカ食ってたり、庭でキャッチボールしてたりすると、すごく恨めしそうに見下ろしててな』
『まぁ、もしかしたら、ちょっと寂しかったのかもしれんな』
そうだったんだ……。
聖弥くんのお母さん、もしかしたらあたしと同じように、自分のことがすごく嫌いだったのかもしれない。
農家で育った自分の過去を消して、家も納屋も街ごと消して、新しい自分になりたかったのかもしれない。
それにしても、翔太のお父さん、毎日、お母さんに会いに来てたんだね。
縁側でスイカ食べたり、庭でキャッチボールしたり。
もしかしたら、お母さんのこと好きだったのかな。
でも、お母さんがお父さんと出会って、お父さんが養鶏場を継いでからも、翔太のお父さんはずっとお母さんのいいお友だちで居てくれたんだ。
なんか、とっても素敵。
あ、ひょっとして、翔太もあたしのこと……、いや、ないな。
もう完全に小夜ちゃんと付き合ってる感じだし。
「どう? おいしい?」
「うん。イチジクなんて久しぶりに食べたわ。すごく甘くて美味しいね」
「よかった。田中さん、それ聞いたら喜ぶね」
「そういえば、今日は、三条さんは?」
「聖弥くん? もうすぐ来るよ」
病室の窓の下、さっきから小さく聞こえている、ガタゴトという音。
今日は、お母さんの夢をちょっとだけ叶えるんだって、聖弥くんがいろいろ張り切ってくれてて。
窓を開けて、そっと下を覗く。
うわ、そんなにたくさん?
しかもジャガイモだらけじゃない。
「お母さん、ここ、椅子置いておくから、あたしが呼んだらここに座って窓の下を見て」
「窓の下? なに?」
「いいから。まだ見ちゃだめだからね? あたし、行ってくる」
「あっ、ちょっと――」
お母さんの病室を出て、階段をパタパタと駆け下りた。
通用口を飛び出して、お母さんの病室の真下の駐車場へと走る。
見えた。
聖弥くん。
今日も素敵な笑顔。
やっぱり、背が高くてカッコいい。
あたしを見つけて手を振ってくれている。
「聖弥くんっ!」
「こら、あんまり息を上げるな。もう準備できてるから、いつでもいいぞ。ほーら、深呼吸して整えて」
ちょこんと頭に乗せられた、聖弥くんの手。
もう、未来の奥さんを子ども扱いしないで。
すると、聖弥くんの向こうから聞こえたのは、聞き慣れたアニメ声。
「翔太っ! アタシの頭もなでなでしなさいっ!」
「なんでだよっ!」
「じゃ、アタシがするわっ! ジャガイモっ、よしよしっ」
「うわ、やめろっ!」
そのやり取りを、さらにその向こうのジャガイモの集団がゲラゲラ笑って眺めている。
駐車場に置かれているのは、ビールケースとベニヤ板で作られた簡易ステージ。
ステージの前は、観客役の野球部員たちでいっぱい。
駐車場で車を降りた人も、なん人か立ち止まって見ている。
ステージの横には、我が家から運んできたアップライトピアノ。
ピアノには、聖弥くんのお父さんがスタンバイしていた。
聖弥くんのお父さん、すっごくピアノが上手なんだよ?
「日向ちゃん、もういつでもいいよ」
「ありがとうございまーすっ! お義父さんっ!」
「ううー、俺、娘が欲しかったんだ……。いいもんだなぁ、娘から『お父さん』って呼ばれるの」
うわ、聖弥くんのお父さん、顔が真っ赤。
「さぁ、ひなっ! お母さまを呼びなさいっ!」
「うんっ」
大きく息を吸って、二階のお母さんの病室へ向かって思いきり声を張り上げる。
「おかぁーさぁーんっ! もう、見ていいよぉー!」
あたしの声を聞いて、窓からひょこっとお母さんが顔を出した。
目をぱちぱちさせて、すっごくビックリしているみたい。
いつか、聖弥くんがお母さんから聞いたって言う、お母さんの夢。
『お母さんの夢は、合唱のステージで一生懸命歌う日向を、客席から応援することだってさ』
それを、どうしても叶えてあげたいって、聖弥くんが先週言い出して。
それに翔太も小夜ちゃんも手伝うって名乗りをあげて、ついには聖弥くんのお父さんまで。
「ひなのお母さまーっ、アタシたちがお母さまの夢を叶えますわーっ! さっ、コンサートを始めるわよっ! ジャガイモーズっ、拍手っ!」
応援用のメガホンで司会を始めた小夜ちゃん。
ワーッという声とともに、野球部員たちが叩く拍手がバチバチと辺りに響く。
うわ、一年生だけかと思ったら、上級生も来てるじゃない。
マネージャー小夜ちゃん、意外に人気なのかも。
「日向、行こう」
「うん」
聖弥くんがあたしの手を引いて、優しくステージへ上らせてくれた。
足元には、野球部のみんな。
右には、メガホンを持った小夜ちゃんと、その隣で心配そうに彼女を見ている翔太。
左には、我が家のアップライトピアノに向かう、聖弥くんのお父さん。
その向こうには、翔太のお父さんと、水城先生の姿も見える。
そして、すっと上げた視線の先には……、窓から見下ろす、満面の笑みのお母さん。
「お母さん、笑ってる。あー、でも聖弥くんのお母さん、やっぱり来てないね。何度も誘ったのに」
「ありがとな。気を遣ってくれて。しかし日向、よく平気で俺の母親に電話できるな」
「いろいろ話して分かったの。お母さん、たぶん、寂しいんだと思うよ? あ、今度ね? 小夜ちゃんちで、聖弥くんのお母さんと小夜ちゃんと一緒にジャム作りやるの。お母さんが教えて欲しいって」
「ふうん。あのとき食ったジャムがよほど美味かったんだろうな」
ちょっと苦笑いした聖弥くん。
大丈夫。
聖弥くんのお母さんも、あたしのお母さんと同じようにきっと元気になるから。
そうやってふたりでちょっとコソコソ話していると、突然、青空をつんざくような大音量のアニメ声が響き渡った。
「ひなっ! コンサートを始める前に、あんたへのサプライズよっ!」
「えっ?」
いや、サプライズって、普通は言わないもんじゃ……。
なんなんだって思いながら小夜ちゃんを見ると、小夜ちゃんがあたしの視線とは反対のほうをちょいちょいと指さした。
振り向くと見えたのは、列になって行進してくる我が最愛の弟たち。
さらに、なんだなんだと思いながら見ていると、三人はステージ下のジャガイモたちの前に並んで、ビシッとキヲツケした。
右から、晃、陽介、光輝。
晃の手には、なにやら白い手提げビニール袋がぶら下がっている。
「コンサート頑張ってっ!」