ちっちゃなイチゴの恋はソプラノ

「気にしないでね。でも、あたし、ちょっとだけ気持ちの整理が必要かも……。山家さん、教えてくれてありがと。もう、帰るね。風がもっと強くなる前にハウスの補強しないと」
 山家さんが傘を貸してくれるって言ったけど、大丈夫って言って階段を駆け下りた。
 空っぽになった三条くんの部屋を見て、初めて、彼が居なくて寂しいと思った。
 ううん、初めてじゃないね。
 いままで、何度も何度もそう思った。
 声が聞きたい、隣に居て安心したい、そう思った。
 でも、それは望んではいけないことだって、そう自分に言い聞かせてた。
 あたしには、人を好きになる資格なんてない。
 三条くんに、好きになってもらう資格なんてない。
 お父さんとお母さんの幸せを壊して、弟たちの未来を壊して、三条くんのお母さんの夢まで壊してしまうところだった。
 でも、彼がちゃんと納得して、お母さんのために頑張るって思い直してくれたのなら、それが一番いい。
 彼は、たくさんの人に囲まれて、そのまなざしを集めて、自分を自分らしく表現するのが似合っている。
 彼の人生は、とっても素敵な主旋律。
 その主旋律は、『ソプラノ』のように華やかで輝かしい。
 あたしは、その『ソプラノ』を、少し離れた場所で支える『アルト』がいい。
 三条くんの隣に、あたしは似合わない。
 彼に、イチゴ農園の仕事なんて、まったく似合わない。
 これでいい。
 これでいいの。
 だからね? 三条くん。
 あなたはあたしのことなんてほっといて、素敵な主旋律の人生をまっすぐ歩いて行って。
 あたしは……、あたしは大丈夫だから。

「うわ、姉ちゃん、どうしたんだよ。ずぶ濡れじゃねぇか」
「あ……、晃。ごめん、ちょっとタオル取って」
「帰って来たらバッグが居間でひっくり返ってるし、どこ捜しても姉ちゃんは居ねぇし。どこ行ってたんだよ」
「ごめんね? 風が出て来たね。ハウス大丈夫かな」
「その前に、すぐシャワーしろよ。風邪ひいちまう」
 足元の土間に、ぽたぽたと落ちる水滴。
 制服スカートの裾が、まるで泣いているみたい。
 トントンっと飛んで水滴を落として、後ろ髪をギュッと絞った。
「ほら、タオル」
 心配そうな晃。
 ごめんね。
 わけはあとで話すから。
 居間から一段下りて、晃がタオルを持った手をこちらへ伸ばした。
 その瞬間、玄関の外で地面を叩く雨の音が一層激しくなって、ピカッと稲光が走った。
 そのときだ。
 玄関戸の模様ガラスの向こうに見えた、誰かの影。
 ドン、ドン……。
 続けて、その影が弱弱しく玄関戸を叩いた。
 誰?
 もう、いつもなら日が暮れる時間。
 晃から受け取ったタオルを首に掛けて、あたしはゆっくりと玄関戸へ近づいた。
 えっ? もしかして、このシルエットはっ。
「三条くんっ?」
 思わず、吹っ飛ばすように戸を開けた。
 すると、そこに立っていたのは……。
「日向……、実はちょっとわけがあって、今夜――」
 ずぶ濡れの、三条くん。
 ずいぶん古い型のセイラーバッグを手にぶら下げて、頭ふたつ高い瞳がそっとあたしを見下ろしている。
 前髪からぽたぽたと雫が落ちていた。
 そのぽたぽたと、あたしの目の前のゆらゆらが重なる。
「わけ? どうでもいいようなわけだったら、許さないんだから」
「え? いや、話すと長く――」
「山家さんから聞いたもん。なにしに来たのっ?」
「えっと、なにしにって……、その」 
「ちょっと、頭を出しなさいっ!」
 思いきり背伸びをして、肩のタオルをバッと広げた。
 目を丸くした三条くんが、ちょっと首をすくめて腰を折る。
 もうっ! 
 なによ、なによ、なによっ!
 なんで戻って来たのっ!
 主旋律の人生をって、せっかく見送ったのにっ!
「日向……」
「もうっ! 風邪ひいたらどうするのっ! 熱を出しても看病してあげないんだからっ!」
 あたしは思わず、タオルを三条くんの頭にかぶせて、それから思いきり胸に引き寄せて抱きしめた。
「うげっ」
「うげっじゃないっ! なんにも知らせないで、どういうつもりっ? ほんとに許さないんだからっ!」
 三条くんを抱きしめたまま、土間に座り込む。
 すると、いままでずっと胸の奥でチクチクしていた痛みが突然、グッと喉に押し寄せた。
 なんで?
 なんで涙が出るの?
 悲しくないのに……、辛くもないのに……。
 どうしてなのか、自分でも分からなかった。
 気がつくと、あたしは三条くんを抱きしめて、大声で泣いていた。
「ううっ、うううっ、うわぁぁぁーーーん!」









「三十八度……、もう、やっぱり熱があるじゃない」
 蛍光灯が古くなって、ちょっとぼんやりしている仏間。
 お客さん用のお布団、先週干しといてよかった。
 体温計をスウェットのポケットにねじ込みながら、掛布団を彼の首元まで引き上げる。
「心配するな。大した熱じゃない。でもこれ、よかったのか? お父さんのパジャマ」
「いいよ? まだ捨てられなくてぜんぶそのままだったの。下着もぜんぶあってよかった。残念だったね。イチゴ柄のトランクスじゃなくて」
 じわっと口をへの字にした三条くん。
 でもこれ、どういうこと?
「あんなにずぶ濡れになって、もしかして、ずっと雨の中に居たの?」
「は? そういう日向もずぶ濡れだったじゃないか。まぁ、家を出ていろいろ考え事しててさ。遊歩道のベンチに座ってたら、急に降り出したんだ」
 はぁ……。
 ベンチに座って、あの土砂降りにずーっと降られてたのね。
「お家に帰ればよかったのに」
「家には帰らん。そのつもりで出て来たんだ」
「せっかくお母さんと話して納得して戻ったのに、またなにか揉めたの? あーあ、ほんと面倒くさい男」
「なんだそれ、水城先生の真似か? 俺はまったく納得なんてしてない。脅し上げて無理やり連れ戻されたんだ」
「脅された? お母さんに?」
「ああ。家に戻らなければ、この宝満農園がどうなっても知らないぞ……ってな」
 お母さんがそんなこと言ったの?
 そんなのウソに決まってるじゃない。
「あいつは人でなしだ」
「もう。お母さんのことそんなふうに言わないの。お母さんの気持ちも考えてあげて? お母さんはきっと不安になったんだと思うよ? 聖弥くんが、気の迷いで農園の手伝いしたいなんて言い出したから」
 ハッとした三条くん。
 ちょっと目を泳がせて、掛布団をふわっと引き寄せた。
「聞いたのか」
「うん。山家さんから。あたしのお母さんからも。いったいどういうつもり?」
「それは……」
 三条くんが、掛布団をすーっと顔まで引き上げる。
 あたしはパッとその掛布団を押さえて、ググッと彼の顔に瞳を近づけた。
 目を逸らす彼。
 もっともっと瞳を近づける。
「あたし、OKしてないもん」
「ふん」
 バサッと布団が跳ね上がって、彼が寝返りを打って背中を向けた。
 ほんと、デリカシーないんだから。
「熱が下がったら、ちゃんとお家に帰るのよ? このままこじらせて声が枯れて、オーディションのとき困るのは――」
 そう言ってあたしが立ち上がろうと膝立ちになると、彼がギュッと掛布団を引き寄せてポツリとつぶやいた。
「声なんて枯れていい」
「え? 『どうしても受けないといけない』って言ってたじゃない。とっても大事なオーディションじゃ ないの?」
 一瞬の無言。
 小さなため息が聞こえて、それから掛布団がもっと向こうへ引き寄せられる。
「うるさい。母さんが持ってきた話だ。どうでもいい」
 お母さんが持ってきた話?
 そうか……。
 きっとお母さんは、聖弥くんが農園の手伝いしたいなんて言って、もう名門大学を目指すつもりもないんだって分かったから、また芸能界復帰のほうへ引き戻そうって思ったんだ。
 はぁ……、お母さんがかわいそうだよ。
 きっと、三条くんが『UTA☆キッズ』に出てたときみたいに、キラキラ輝いている姿をもう一度見たいんだよ。
 その夢、叶えてあげて?
「どうでもよくない。変な気の迷いで、お母さんを悲しませないで? ね?」
「気の迷いなんかじゃない。いまの俺の夢は、お前を幸せにすることだ」
「だから、あたしは幸せだって――」
「日向」
 あたしの言葉を、ちょっと強めの三条くんの声が遮った。
 ちょっとだけ彼がこちらへ顔を向ける。
 どうして?
 本気で、本気の本気で、そんなこと言ってるの?
 あたし、そんな大した女の子じゃない。
 三条くんに幸せにしてもらっていいような、そんなこと許される女の子じゃない。
「あたしに、そんな資格ないもん」
「それは俺が決めることだ」
「横暴」
「なんとでもいえ。俺はもう決めたんだ」
「知らないよ? 後悔しても」
「後悔なんてするか」
「はぁ……」
 あたしは膝立ちになって上げた腰を、もう一度そっと下ろした。
 雪見障子の外、縁側のさらにその向こうから、激しく瓦を叩く雨音が鈍く響いている。
 掛布団にくるまれた、彼の大きな背中。
 あたしはなにも言葉が出なくなってしまって、ただただその背中を眺めた。
「日向、ちょっと聞いてくれ」
 そう言って、ゆっくりと仰向けに戻った彼。
 そして彼は、噛みしめるようにその物語をあたしに語り出した。
「いつか話したっけ。教会の聖歌隊を辞めさせられて、俺が初めてテレビに出されたのは小学校三年生のとき、番組は『UTA☆キッズ』っていう、全国から集まった小学生が歌唱力を競うやつだった」
「まぁ、俺はトーナメントの真ん中くらいで敗退……、当然だ。その程度の実力だったんだ」
「なのに、次のトーナメントが始まると、なぜか俺は準レギュラーとしてそのまま番組に出演することになった。耳を疑ったよ。なんの成果も残してないのに」
「そうやって、小学生の間、俺はキッズアイドルとしていくつかの番組に出演枠をもらっていた。そして、中学生になる直前……」
『三条さん、今年度いっぱいで契約の更新はしないことになりまして――』
「突然の契約打ち切り……。ちゃんとした理由は告げられなかった」
「でも、共演していたひとつ年上の子が俺に教えてくれたよ」
『俺、ディレクターが話してるの聞いたんだ。お前、態度が悪いから降ろされたんだよ。それにお前の母親もウザいんだってよ。なんの実力もない息子をゴリ押ししてくるから』
「俺が番組に出られていたのは、ぜんぶ母さんの強引な押しがあったからだったのさ。なのに、俺はそうとう思い上がっていたんだと思う」
「そして、俺は夢見るようになったんだ。いつか自分だけの力でもう一度ステージに立ちたいってな」
「母さんはそれからも相変わらずだった。いろんな劇団や事務所を訪ね歩いて……」
「支援してくれるのはありがたい。しかし、それではいつまでも俺は保護者付きのキッズアイドルだ。だから、俺は母さんに言ったんだ」
『歌の仕事はしたくない。普通に学校へ行って、普通に勉強がしたい』
「もちろん、辞めるのは一時的のつもりだった。母さんが支援に走らないように、再開するときにはこっそり自分だけでやるつもりだった」
「しかし、その次に飛び出した母さんの言葉に、俺は唖然とした」
『それじゃ、ママはどうなってもいいのねっ? ママの夢、聖弥がステージに立って、その母親として隣に立つというママの夢はどうなるのっ?』
「は? って思った。母さんは、俺のことを思って支援してくれていたんじゃない。俺のためじゃなかったんだ」
「つまり俺は、母さんの『芸能人の息子の母として羨望を集めるという夢』……、いや、『野心』だな。その『野心』を実現するための……、生きた道具だったわけだ」
「荒れ狂う母さんは続けてこう言い放った」
『芸能活動を辞めるなら、名門私立高校、名門国立大学を出て、一流企業に入社するのよっ? 分かったっ?』
「それも結局は自分のためだろ。優秀な息子の母を気取って、そんな自慢ばかりをし合う金持ちご近所さんたちに羨ましいと思われたい……、ただそれだけだ」
「そんな虚栄心や損得勘定だけで生きている母さんが、俺は嫌いで嫌いでしょうがなかった。そんな母さんとふたりで食うメシが、不味くて不味くて仕方なかった」
「笑えることに、母さんが受けろと言った名門私立高校はぜんぶ不合格だったよ。そりゃそうさ。俺にもともとそんな実力はない」
「そして、俺は浪人生になった」
「でもな、母さんは顔を合わせるたびに『名門へ行け』と言うくせに、家庭教師も雇わず予備校にも通わせない……。なぜだと思う? それは近所の目を気にしていたからだ」
「そして、父さんが用意したのが、あの部屋」
『まぁ、夕食と寝るのだけは家に帰らせるが、それ以外はあの部屋でのびのびと勉強させようじゃないか。来年はきっといい結果が出るよ』
「まぁ、体よく追い出されたのさ」
「最初は母さんの顔を四六時中見なくて済むと喜んだ。しかしあの部屋へ通い続けるうちに、なぜか俺の心はどんどん陰鬱になっていったんだ」
「俺はいったい何者だ。なにをしようとしているんだと……、そんなことばかり考えてな。カーテンを開ける気にすらなれなかった」
「そんなときだ。俺は、カーテンの向こうから、ときおり透き通った歌声が聞こえてくることに気がついた」
「普通は歌が外から聞こえたら気が散って仕方ないもんなのに、なぜか、その歌はまったく俺の気分を害さなかったんだ。それどころか、俺はいつも、いつの間にかその歌声に聴き入ってしまっていた」
「不思議だったよ。その歌を聴き終わると、なぜかとても気分が軽くなるんだ」
「それから俺は、カーテンを開けるようになった。部屋の中が明るくなって、歌声で気分もよくなって……。そうしているうちに、俺はとうとう……」
「彼女を見つけたんだ。ちっちゃなイチゴのような、とても愛らしい彼女……。温室の中で、まるで植物に語り掛けるように優しい歌声を響かせる……彼女を」
「親から言いつけられているのか、毎日、忙しそうに家事をこなしているが、それでいてまったく辛そうにしてなくて、弟たちと楽しそうに笑い合って……」
「来る日も来る日も、俺はその歌声に耳を傾けた。よく聞こえていたのは、『翼をください』だな」
「毎日が地獄のように辛いのに、その透き通るような歌声に包まれたとたん、俺の傷だらけの心はあっという間に癒えていくんだ」
「彼女を見つけて、俺の日常は一変した。あの部屋に行くのが楽しくて、彼女の姿を眺められるのが嬉しくて……」
「俺は、彼女に救われた」