「はぁ……、ずいぶん強烈だったのね。こりゃあとでちょっと腫れるかも。あんた、この子になんか恨みでもあんの?」
 保健室の先生がそう言ったとき、ちょうど『みんな帰りなさい』のチャイムが鳴った。
 外はとっても素敵な春の夕暮れ。
 窓のすぐ横で、朱色になり始めた空をバックに、綿菓子みたいな桜のピンクがふわふわしている。
 とってもキレイ。 
 その綿菓子にぼーっと見とれていると、突然、目の前に桜に負けないくらいキレイな先生の顔がぬっと出た。
「うわっ」
「ねぇ、ちゃんと聞いてる? ミサイル娘」
 ミサイルって、そんなにすごい威力だったかなぁ……、あたしのバッグ。
 顔から火が出そう。
「ごめんなさい……」
 入学して新学期が始まったばっかりだっていうのに……、高校生になったら中学のときとは違う可愛らしい女の子になるってお母さんに断言したのに……、どうしてあたしはいつもこうなっちゃうんだろう。
 もう、あまりの子供っぽさに死にたいレベル。
 しかもよりによって、こんな怖そうなほかのクラスの男子の顔にバッグを投げつけちゃうなんて。
「あのっ、彼に投げたんじゃなくて、(しょう)()をやっつけようとして――」
「ショウタ? そしたら狙いを外してすぐそばに居た彼に当てちゃったってわけ? どっちにしろ人に向かって投げたんでしょ? 同じことじゃない。で? 誰? そのショウタって」
「えっと、同じクラスの……、その……、幼馴染みです」
「それで? そのショウタはどこ行ったのよ。ケガ人を女の子に丸投げして居なくなるなんて、なんて男らしくないやつ」
「えーっと」
 違うの。翔太は悪くない。
 あたしがバッグを投げたのは、ちょうど階段の前。
 バッグをかわした翔太はそのまま階段を飛び下りて行っちゃったから、流れ弾が彼に当たってしまったことを知らないの。
 翔太も悪者にしちゃった。
 ぜんぶ、あたしのせい。
 口をもごもごさせながら思わず下を向くと、短めの髪が頬にふわりと落ちた。
 先生の前の椅子には、名前も知らないほかのクラスの男の子。
 かなり不機嫌そう。
 先生から桜色のハンカチタオルを頬に当てられそうになった彼は、体をよじってじとりと窓の外へ視線を向けた。
「ちょっと、冷やすんだからこっち向きなさい」
 彼は答えない。
 チッと舌打ちした先生。
 すると先生はグイッと腕を伸ばして、ちょっと乱暴にハンカチタオルを彼の顔に押しつけた。
 彼の頬がグイグイゆがむ。
「触られるのが嫌なら自分でやんなさいよっ」
 うわ、先生、乱暴すぎ。
 保健室の先生って、もっとこう、優しくて笑顔が素敵で……、いえ、なんでもありません。
 彼がハンカチタオルを受け取ったのを見て呆れたようにため息をつくと、先生はそれからクリアファイルに入った名簿を取ってあたしに向き直った。
「宝《ほう》満《まん》さんって言ったっけ? えーっと……、一年三組、宝《ほう》満《まん》日向《ひなた》さん」
「は、はいっ」
「そしてキミは? クラス章からすると一年四組よね」
 それを聞いて、彼は先生よりもっと大きなため息をついて、じとっと先生のほうへ目を向けた。
 怖い。
 でも、すごくキレイな顔。
 ちょっとカッコいい。
(さん)(じょう)(せい)()
「やっとしゃべった。えっと、三条……? ああ、キミが三条くんなのね。なるほど、確かにイイオトコだわ。でもさぁ、キミ、いきなり顔をバッグで殴られて気分が悪いのは分かるけど、養護教諭の私にまで悪態つく必要なくない?」
 うわ、なんでケンカ腰?
 でも、なんか、先生は三条くんのことちょっと知ってるっぽい。
「だいたいさぁ、保健室に来たってことは、自分から応急処置を受けに来たってことじゃん? 悪態つくのっておかしくない? こっちが不機嫌になるわ」
「はぁ? 俺はここへ来る気はなかったんだ。そいつが無理やり腕を引っ張って――」
「え? なに? こっちが『はぁ?』って言いたいんだけど。こんな可愛らしいちっちゃな女の子から腕を掴まれたって、その気になればいつでも簡単に引き抜けたでしょうに。ふんっ。結局、自分でやって来たんじゃない」
 あのぉ、ちっちゃな女の子って……。
 確かに、「来年になったらぎゅーんって伸びるもん!」って毎年言いながらもずっとちっちゃいままのあたしですが……、あたしは今年、いや、来年の一月で十六歳になる、ちゃんとした高校一年生です。
 あ、いやいや、そんなことはどうでもいい。
 そんなことより、これは……、すっごく彼に申し訳ない。
 彼は被害者なのに、あたしのせいで先生から変なふうに思われちゃう。
 確かに彼は、何度も「大丈夫だ」って言ってそのまま帰ろうとしてた。
 それなのに、めっちゃパニックになって無我夢中で彼を保健室まで引っ張って来てしまったのは……、あたし。
 そう先生に言おうとしてちょっと踏み出すと、今度は突然、先生の目がカッとあたしのほうへ向いた。
「ふんっ。宝満さんっ、だいたい、なんでこんな面倒くさいオトコの顔が、もっと面倒くさくなるほどバッグをぶん投げたのよ」
「ええっ? そっ、それは、あの……、翔太がまたあたしをからかったから……」
「からかった? なんて言って?」
「えーっと」
 彼はハンカチタオルを顔に押し当てたまま、窓の外へ目をやっている。
 先生、それ、言わなきゃだめ?
「あの……、あたしの家、イチゴ農家なんですけど……、その、翔太ったらほかの男の子の前で、あたしのこと、『こいつは死ぬほどイチゴを愛しているから』って、その……」
「は? 愛しているから? なに?」
 先生がイライラしてる。
 もうっ、翔太のバカ!
「その……、『こいつは死ぬほどイチゴを愛しているから、パンツまでイチゴ柄なんだぞ』って」
 一瞬の沈黙。
 彼は窓のほうを向いている。
 先生はキレイな瞳をちょっと大きくしている。
 うううっ、恥ずかしいっ!
「あああ、あの、あたし、イチゴ柄なんか持ってな――」
「あーっはっはっはっ! ひひっ、ひひひっ、ショウタってやつサイコー! ねぇ、今度、そのショウタを保健室に連れて来てよ」
 ええっ?
 これって、もしかして宝満がいじめられているのではっ? とか、そんな話にならないの?
 うわぁ、先生、めっちゃ笑顔。
「あーもうっ、お腹がよじれそう。三条くん、災難だったわね。あまりのバカバカしさに呆れたわ。この程度の話だから、あんたももう許してあげなさいよ」
 にじみ出た涙を指で拭きながら、先生が三条くんのほうを振り返る。
 彼はまだ、窓のほうを向いていた。
「別に、俺は怒ってなんかない」
 後ろ姿越しに聞こえた、彼の言葉。
 え? 
 そんな怖い顔しているのに、怒ってないの?
「あはは、それでいいわ。こんなことでちっちゃな女の子相手に怒りまくってたら、それこそ男としての器を疑うわ」
 先生、もう一度言いますが、あたしは今年度で十六歳になる高校一年生です。
「あ、そうそう、あんたたちふたりとも、このことは必ず保護者に話しておくのよ? 学校からも連絡するから」
 そう言って先生がクリアファイルでパタパタと顔をあおぎながらニコリとすると、なぜかずっと窓のほうを向いていた彼が、ゆっくりとこちらを振り返った。
 その鋭い視線が先生に向く。
「俺は親には言わない。学校からの連絡もやめてくれ」
 きょとんとした先生。
 そして、彼が立ち上がりながら頬から離したハンカチタオルを先生へと突き出すと、今度は先生の顔がみるみるうちに絵本の赤鬼みたいになった。
 うわぁ、怖いぃ。
「はぁ? 『やめてください』でしょ? あんた、敬語もできないの? これは大人の事情も絡むんだから、絶対に言わないとダメ。学校からも絶対連絡するから」
 彼はまっすぐ下ろした両手をグッと握って、それから先生を見下ろしていた目をゆっくりとあたしへ向けた。
 またドキッとする。
「お前も言うな」
 乱暴な言葉とは全然違うキレイな瞳。
 なぜかちょっと息が詰まって、あたしは思わず下を向いた。
 床だけだった視界にすっと彼の足が見えて、あたしは慌てて一歩後ろへ下がる。
 顔が上げられない。
「あああ、あの、あたしのお母さんは、絶対、三条くんのお父さんお母さんに謝らないとって言うと思う。だだだ、だから――」
「俺の親に関わるな。ろくなことにならない」
 あたしの言葉に重なって、顔のすぐ横を彼の声が通り過ぎてゆく。
 その声を追ってそっと顔を上げると、もう彼は出入口の取っ手に手を掛けて、顔をこちらへ向けていた。
「先生も、俺が誰だか知ってるんなら、俺の親の話も聞いてるだろ。担任に絶対連絡するなって言っておいてくれ」
「あのねぇ、そういうわけにはいかないのよ。まぁ、あんたがそこまで言うなら、一応、担任の若宮先生には話しとくけど」
 先生の言葉に、小さく頭を下げた彼。 
 そして、顔を上げた彼の瞳はチラリとあたしに向いたあと、すぐにゆっくりと閉じられた戸の向こうに消えた。
 思わず下唇を噛む。
 あたし、どうしたらいいの?
「先生……、お母さんに言わないほうがいいですか?」
「うん? 宝満さんは、ちゃんとご両親に言ってよね。ちゃんと両方によ? 片方の親にしか伝わらなかったことまで学校のせいにされちゃうことがあるんだから」
「そんなことあるんですかっ? えっと、でも、うちはお父さんは居ないんで、お母さんにちゃんと伝えます」
「あ、ごめんね? こういうことがあるから、生徒には『保護者』としか言うなっていつも言われてんのに。許して。そういえば自己紹介してなかったね。私は養護教諭の(みず)()。よろしくねぇ」
「先生、本当にすみませんでした。今度、翔太を連れてきます」
「あはは」
 翔太の事を思い出して、また大声で笑い出した水城先生。
 あたしは先生に深々とおじぎをして、それから行儀よく保健室を出た。
 廊下はもう、朱色一色。
 いつの間にか、窓の外では今日も一日頑張ったお日さまが帰り支度をしていた。
 ぴょんと伸び上がって、肩のバッグを掛け直す。