「ねえ、誘拐犯。お腹が空いたんだけど」
「そうだね、人質。もうすぐ行くと、俺の行きつけの食堂がある。漁師のおっちゃんが自分で釣った魚で料理をするから、何が食べられるのか分からない」
「なるほど、今日は何だろうね」
「行こう。漁師は朝が早いから、八時半がラストオーダーの二十一時閉店なんだよ」
 軽トラのアクセルを全開にしても全く速くならなくて、省吾は小さく『ポンコツめ』と呟く。照れ屋でかっこつけの省吾らしい誤魔化し方だった。
 私と省吾の歴史は意外と短い。
 私が十六の時に隣のボロアパートに三人の家族が引っ越してきた。うちに挨拶に来た時、母親の後ろに隠れていた六歳の小さな男の子。それが省吾だった。
 保育園に入れなかった省吾は幼稚園に通うのだが、あろうことか母親は幼稚園バスがアパートの前に省吾を下す瞬間だけ会社から抜け出してくる。そして省吾は、アパートで一人親が帰るのを待つ。私の知っている省吾は、アパートの庭で一人で壁にボールを蹴っている男の子だった。
 アパートの管理人は、うちの祖母。なので必然と私は彼が放っておけなくて、話しかけるようになる。
『しょうちゃん、私のことはちーちゃんって呼んで』
『ちーちゃん……』
『おいで。うちでカレーを食べよう』
 手を差し出した。それはこんな小さな男の子が、一人でアパートで親を待つ姿が悲しかったから。
 大きな瞳。声変わりをしていない高い声。周りの顔色を窺う省吾の目の動き。
 今でも覚えている。母親と全く帰ってこない父親は、祖母が何度注意しても、省吾を放置することを止めなかった。
 次第に夜中に帰ってくるようになって、明らかにうちの祖母や私が世話をするのをあてにして仕事を入れ出した。
 アパートに荷物を置いて着換えて、うちにおやつを食べに来てうちで夜ご飯とお風呂に入ってから十九時に一人でアパートに帰る。
 縞模様のパジャマ姿の小さな省吾の背中を見ると、いつも泣き出しそうになった。
 どうしてあんな可愛い男の子を一人、放置できるんだろうと。
 私と省吾の歴史は意外と浅い。
 私が二十二歳で大学を卒業後、上京するときに省吾もあのアパートを出ることになった。
 十二歳になった彼は、田舎のお爺ちゃんに引き取られることになったからだ。
 小学校を卒業と同時に全く知らない田舎へ引っ越す省吾は、泣きながら私に言ったのだ。
『ちーちゃん、ぼくと結婚してくれるんだよね?』
 小さな頃から私と結婚したい、しよう、約束だよと言っていた小さな子ども。
 あれは子どもの小さな世界で唯一の女の子が私だったからの気の迷い。
 だって私たちの交流は引っ越してからピタリと止まったから。
 高校生になってお正月に挨拶くるぐらい、祖母が年賀状を交換しているだけ。
 私たちの関係は今まで全く甘くなかったじゃない。
「ちとせ、着いたよ」
「え、ここ?!」
 倉庫みたいな……いや倉庫だ。お魚の匂いがする倉庫の前の駐車場に軽トラックを止めると、倉庫の隣の小さな建物に案内された。
 平屋のような小さな店は、入るとカウンター席が十席ぐらいの小さく狭い空間だった。
 カウンターとキッチンの間の段差に無料で食べられる漬物が入った大きなお皿が並べられ、学校にあるような黒板に本日のメニューが書きなぐられていた。
 本日は鯵のフライか、烏賊の天ぷららしい。
「今日は何も釣れなかったんだ」
「そうなの?」
「烏賊は冷凍した方が甘くなるし、鯵が釣れたんなら刺身にして提供してくれる。今日は外れだ」
「聞こえてるぞ、省吾」
 キッチンからおしぼりが二つ投げられ、省吾がそれをキャッチした。
「今日は売れないような魚が無かったんだ。完売したから、お前らに美味しい魚が届かなかったんだよ。残念だな、おこぼれにあずかろうとしたガキめ」
 キッチンから顔を出した店長は、日焼けして真っ黒な肌の、顎鬚が似合う豪快に笑うおじさんだった。
「おいおい、女を誘う場所じゃねえぞ。こんなところに連れてきて、お前振られるんじゃねえか」
「うるさい。さっさと烏賊の天ぷら定食二つ用意して」
 省吾は私の分まで勝手に注文するとカウンター席に置いてあったお皿に、おかずを載せて私の前に置いた。
「オヤジは暑苦しいやつなんだけど、ここのきんぴらと小鯵の南蛮漬けは美味しいんだよ」
「暑苦しいとはなんだ。ダンディと言え」
 お玉を振り回すおじさんに爆笑しつつ、きんぴらを食べたが甘さが絶妙で、出汁の味がしっかりしていてとても美味しかった。
 そしてすぐに出てきた烏賊の天ぷらにはたっぷりとタルタルソースがかけられていた。
「ここのおじさん、ほんと適当なひとでさ。玉ねぎを水に浸して苦み抜きとかしないから、玉ねぎの辛みが強いタルタルソースなんだけど、美味しいよ」
「ほうほう。確かに美味しそう」
 いただきますと手を合わせてから箸で持った烏賊の天ぷらは、さくさくと香ばしい音と共に烏賊の仄かな甘みとタルタルソースが絶妙で、持った箸が止まらなかった。
「え……やばい。美味しい。美味しい」
「やばいってなんや、ったく。おまけ焼いたるわ」
 おじさんがボウルに小麦粉を入れて何か作りだしたのを横目に、省吾を見た。
「こんな穴場、どこで見つけたの」
「さあ。でも、どーせちとせは、お洒落なレストランで高い飯ばっか食べてるだろうから敢えて、こんなぼろい店にしてみた」
「聞こえんぞ、ガキ」
「おっちゃんは黙ってて」
 ご飯を掻き込むと耳を真っ赤にしていた。
 都会に染まった私に対抗心を燃やしたのだろうか。
「……デートで旦那になる人とこんなご飯ばっか食べてんだろうなってこと!」
「ああ、まあ、そうかな。そうかも」
 私の恋人に対抗心を燃やしていたということか。
「でも、省吾とのご飯の方が美味しいね」
 確かにお洒落で高そうなメニューばかりのレストランによく行った。でも驚く私に彼は満足していて、対等と言うより施しを受けている田舎娘みたいでいやだったし、少しずつしか運ばれてこない食事で、彼はいつも気取っていて心を打ち明けるような場面にはならなかったっけ。
 まるで恋愛映画の主人公になったような、場面場面は幸せで、場面場面はきっと皆が憧れる世界だったんだと思う。
 自分で自分の恋愛映画を見ている気持ち。
「ほら、これサービスのアメリカンドック」
「わー、ありがとうございます」
 美味しくて頬張ると、省吾も嬉しそうで、思い出に花を咲かせながら閉店までずっと私お省吾とおじさんは話し続けたのだった。
「ごちそうさまー。美味しかった」
「……あのさあ」
 軽トラに乗りながら、省吾は不満そうだ。
「なに?」
「なんで誘拐されてるちとせが、御飯代払おうとすんの」