姉ちゃんが、わざわざ僕に言いに来た。僕が睨みつけると、笑って逃げて行く。
「じいちゃん、ショメイして」
「あぁ? なんだこりゃ」
 学校からこっそり持って帰った画用紙に、僕の名前を書いた。
「桜の木を切るのを反対するんだよ」
「はーぁ、署名ね、了解」
 じいちゃんがにこにこ笑って、達筆な名前を書いてくれた。
「校長先生は何て言ってる?」
 じいちゃんが窓から見える桜を見ながら聞いてきた。
「皆に嫌われるぐらいなら切るってさ」
「なる程なぁ」
 何度も何度も頷き、じいちゃんは呟いた。
「あの人も今年で定年だ。諦めがやっとついたのかもしれんなぁ」
 じいちゃんが横に座布団を出して、座れと手で合図した。じいちゃんと窓から丘の石垣の上の学校を見つめた。桜の木がどっしりと根を生やして立っている。
「校長先生はな、旦那が植えた桜の木を、大切に大切に育ててたんだよ」
「校長先生結婚してたの?」
 スーパーで会った時はいつも1人分の材料を買ってたし、1人暮らしだって聞いた事がある。
「旦那は戦時中に、船が沈没して亡くなってるんだよ」
 じいちゃんの友人だったと教えてくれた。
「校長先生は諦められなくて、毎日毎日、桜の木の横で待ってたなぁ…」
 毎日のように泣いて泣いて泣いて、
「涙にあの人を全て持っていかれるかと思ったよ」
 涙に溶けて、桜の一部になれたらと、泣き崩れて。
「けれど、当時は働らかざる者食うべからず、だからな。悲しむあの人を非難はしても慰める人は少なかったなぁ」
 そして、校長先生に旦那の弟との縁談が出たらしい。
「昔は親が決めた結婚は、逆らったらいけなかったんだよね?」
「あぁ、だから結婚したよ。可哀想に」
 けれど、弟は病気がちで殆ど寝たきりだった。校長先生はずっと看病をして、それはそれは仲睦まじかったらしい。それを聞いて、僕はなんだか悲しくて辛くて涙が込み上げてきそうだった。
驚くことは無いのに。二回とも幸せな結婚だったらそれでいいじゃないか。
 なんで僕は悲しくて涙が零れてしまうのだろう。ぐっと両手を正座した太ももの上で握り締め、耐えた。
「結局、弟も早く亡くなって、ずっとずっと1人で生きてきたんだよ。旦那が植えた桜と弟が建てた学校と一緒に…」
 じいちゃんは、昔を思い出すかのように目を閉じた。じいちゃんは寂しそうに微笑んでいた。