それでも僕の理性が保てたのは、相手が絢乃さんだったからだろう。
彼女は可憐で純粋で、穢れというものを知らない天使のような女の子だった。彼女を見ていると、多少は穢れていた僕の心が清められていくような気がしたのだ(自分でいうのも何だか情けない話だと思うが)。
僕にだって恋をした経験は少なからずあるが、そんな僕でも初めて恋をした頃のような気持ちでいられるのが不思議だ。
――会長室のある三十四階は、社長室・専務執務室・常務執務室や僕が所属する秘書室などが並ぶ重役専用のフロアーである。そのフロアーでいちばん広い面積を誇る部屋こそが、会長室なのだ。
このフロアーにある各部屋のドアは、全てIDカードをセンサーにタッチさせないと開かないようになっていて、このビルの中で最もセキュリティーの厳しいフロアーである。
「――会長、どうぞお入り下さい」
その大きくドッシリと重厚感のある木製のドアを、僕が社員証を兼ねるIDカードで開錠すると、絢乃さんはしばらくドアの前で立ち止まっていた。
きっと、彼女の心の中には喜びと戸惑いと不安が渦巻いていたのだろう。その複雑な感情が、彼女に入室をためらわせているらしかった。
「……会長? どうされました? さ、中へどうぞ」
それが分かったので、僕はあえて彼女の背中を押すようにもう一度入室を促した。「今日からここはあなたの居場所です」と。それは秘書として当たり前の言動だったと思う。
「――ここがこれから、わたしの仕事場になるのね」
この部屋へ一歩足を踏み入れた時の、彼女のこの言葉が僕は今でも印象に残っている。彼女が闘うなら、僕も一緒に闘っていこうと思えたからだ。
しばらく立ったままで室内の調度品を見回していた彼女にデスクの椅子を勧め、僕は義父の葬儀の日に彼女と交わした約束を果たそうと、彼女にこんな提案をした。「僕が会長に、コーヒーをお淹れします」と。
彼女はすごく喜んでくれ、ミルクと砂糖入りの甘めをリクエストされた。僕は受諾するとすぐに隣の給湯室へ向かい、彼女のために十分ほどかけて美味しいコーヒーを淹れた。
――十分後、会長室には彼女がコーヒーを飲む様子を固唾を呑んで見守る僕がいた。
彼女は果たして喜んでくれるだろうか? 味はお気に召しただろうか? ……僕の緊張は、彼女の「美味しい……! コレ、すごく美味しいよ!」という興奮気味の感想で吹っ飛んでいった。心を込めて淹れた甲斐があったと、一種の確かな手ごたえを感じたのを憶えている。
その後、サクサクとパソコン作業を覚える八歳年下の彼女を「若いっていいなぁ」と羨みつつ、僕の秘書としての日々は幕を開けたのだった。
彼女は可憐で純粋で、穢れというものを知らない天使のような女の子だった。彼女を見ていると、多少は穢れていた僕の心が清められていくような気がしたのだ(自分でいうのも何だか情けない話だと思うが)。
僕にだって恋をした経験は少なからずあるが、そんな僕でも初めて恋をした頃のような気持ちでいられるのが不思議だ。
――会長室のある三十四階は、社長室・専務執務室・常務執務室や僕が所属する秘書室などが並ぶ重役専用のフロアーである。そのフロアーでいちばん広い面積を誇る部屋こそが、会長室なのだ。
このフロアーにある各部屋のドアは、全てIDカードをセンサーにタッチさせないと開かないようになっていて、このビルの中で最もセキュリティーの厳しいフロアーである。
「――会長、どうぞお入り下さい」
その大きくドッシリと重厚感のある木製のドアを、僕が社員証を兼ねるIDカードで開錠すると、絢乃さんはしばらくドアの前で立ち止まっていた。
きっと、彼女の心の中には喜びと戸惑いと不安が渦巻いていたのだろう。その複雑な感情が、彼女に入室をためらわせているらしかった。
「……会長? どうされました? さ、中へどうぞ」
それが分かったので、僕はあえて彼女の背中を押すようにもう一度入室を促した。「今日からここはあなたの居場所です」と。それは秘書として当たり前の言動だったと思う。
「――ここがこれから、わたしの仕事場になるのね」
この部屋へ一歩足を踏み入れた時の、彼女のこの言葉が僕は今でも印象に残っている。彼女が闘うなら、僕も一緒に闘っていこうと思えたからだ。
しばらく立ったままで室内の調度品を見回していた彼女にデスクの椅子を勧め、僕は義父の葬儀の日に彼女と交わした約束を果たそうと、彼女にこんな提案をした。「僕が会長に、コーヒーをお淹れします」と。
彼女はすごく喜んでくれ、ミルクと砂糖入りの甘めをリクエストされた。僕は受諾するとすぐに隣の給湯室へ向かい、彼女のために十分ほどかけて美味しいコーヒーを淹れた。
――十分後、会長室には彼女がコーヒーを飲む様子を固唾を呑んで見守る僕がいた。
彼女は果たして喜んでくれるだろうか? 味はお気に召しただろうか? ……僕の緊張は、彼女の「美味しい……! コレ、すごく美味しいよ!」という興奮気味の感想で吹っ飛んでいった。心を込めて淹れた甲斐があったと、一種の確かな手ごたえを感じたのを憶えている。
その後、サクサクとパソコン作業を覚える八歳年下の彼女を「若いっていいなぁ」と羨みつつ、僕の秘書としての日々は幕を開けたのだった。