書く。
 今日も書く。
 明日も書く。
 三六五日休むことなく。
 
 彼は書き続けた。
 起きている間は食べている時やトイレ、入浴、買い物、役所での必要な手続き等々やらなければならない事に時間を割く以外は毎朝六時から夜十一時まで。唯一の贅沢品かもしれない中古で買ったノートパソコンのキーボードを叩き続けていた。

 彼の名前は「山吹(やまぶき) 祈里(いのり)」年齢三十九歳。独身。彼女は居ない。精神障害者。疾病名は「双極性障害」
 中学生時代に悪質で強烈なイジメを受け続け、メンタル崩壊。その後は高校にも進学せず自宅の自室に引きこもって毎日小説を初めとする本を読み漁る生活を続けた。両親は、そんな彼の為に毎月十冊以上の本を彼のリクエストに応じて近所にあった大きな本屋さんまで買いに行き、一冊でもリクエストされた本を買えなかった時には電車に乗って隣町の更に大きな本屋まで買いに行く。そんな日常を繰り返していた。


 月に一度は精神科の診察を受ける必要があった。
 その精神科の主治医に最近読んだ本の書評を聞いて貰うのが、彼のいわば「儀式」のような慣習でもあった。
「祈里くん、もう君が並外れた読書家である事は充分にわかりました!」
 主治医の「片瀬(かたせ) 瑞穂(みずほ)」は、もう数年間に及んで祈里の書評を診察のたびに聞き続け、理解を示してきた。祈里にとっては家族以外唯一心を開ける大切な存在であった。瑞穂は、まだ三十二歳と若く、容姿もショートカットの髪型にセンスのいいアクセサリーや仄(ほの)かに香る控えめな香水の匂い、短すぎないスカート、可愛らしい顔立ちで男性の患者だけでなく同性の患者からも、そのあたりの柔らかい性格が受け入れられて人気のある精神科医であった。

「祈里くん、もうだいぶ沢山の本を読んだと思うけど、そろそろあなたが文章を書く方にシフトチェンジしてみない?」
 瑞穂はとてもにこやかな表情で祈里に執筆活動を始めるきっかけを与えようとした。
「先生、僕は本を読んでいるだけで充分幸せです。自分で書くなんて……そんなおこがましい事……」
 祈里は瑞穂の提案に応えようとはしなかった。
「ううん、おこがましくなんかないよ。これはあなたの病気や人生そのものを大きく変えてくれるきっかけになるはずだわ。何よりあなたには文学の才能がある。私が太鼓判を押すわ!」
 瑞穂もいつもより診察時間が長くなってもこの件だけは祈里に受け入れてもらいたい様子だった。
「瑞穂先生、じゃあ一度だけ僕とデートしてください。そうしたらその提案を受け入れます!」
 祈里はかなり強引な禁じ手に打って出た。
「……う~ん。よし、デートしてあげる!その代わり今ここで指切(ゆびきり)拳万(げんまん)してくれる?」
 祈里の答えを聞く前に瑞穂は祈里の右手と自らの右手を繋いで諭すように唱え始めた。
「せ~の!ゆ~びき~り拳万!嘘ついたら針千本呑~ます!指切った!」
 祈里は瑞穂のやや強引なやり方に戸惑いながらも満更でもない様子でこの契約を締結した。
 

 その日の夜。祈里は人生で初めて原稿用紙なるものに向き合った。
「先生、何を書いたらいいか?わかんないよ……」
 暫くの間何も書けなかった祈里だったが、突然何かに取りつかれた様に夢中でペンを走らせ始めた。
「よし、今日はここまで!」
 祈里の顔はやや紅潮しており、充足感に満ち満ちた表情で何度か自分の書いた原稿用紙を見直していた。


 これが祈里にとって最初の執筆活動となった。

 いつからか祈里がひたすらに思い続けた初恋の女性……
それは他でもない祈里の家族以外の唯一の理解者でもある瑞穂だった。

 祈里が書いた最初の掌編の小説。

 タイトルは敢えてシンプルなものにしたかったようだ。
「初恋」
 大好きな瑞穂に思いを込めて書いたとても短い文章で纏められた作品だった。

 ここから祈里の執筆活動は急激に加速していき、誰にも止められない程の勢いを維持しながらライフワークと化していった。
 
 そして祈里と瑞穂の関係性は大きく変化していくことになる。祈里十八歳。瑞穂三十二歳。年の差十四歳の二人が「小説」という一つのキーワードによって緊密に繋がり始めていた。季節は初秋の候。もう後には戻れない。そんな危険性さえ感じさせる悲恋の始まりだった。