「ひと、りに……して、ほしい……」
わずかに残った理性で、私は確かにそう口にした。
「一人に……ですか?」
フィリアがきょとんとして、目を瞬かせる。
私はこくりと頷いた。
なんでもしてくれる――それは確かに、堕落に誘う魅惑の囁きだった。
きっとここでフィリアににゃんにゃんなことを要求すれば、戸惑いながらも、私のためを思ってしてくれるだろうと思う。
それはそれはとろけるような夜を過ごせるだろうと思う。
だけど、それではダメだ。
してくれるという、それ自体がもうダメなんだ。
特に今この瞬間だけは、絶対にそれを許すわけにはいかない。
いくら言うことを聞いてくれると言っても、やっぱりフィリアの心を無視しているだとか。無理矢理感が否めないとか……綺麗事はいくつも思い浮かぶ。
だけど別にそんなものは、ぶっちゃけこの情動を前にしたら大した理由じゃなかった。
だって、元々薬盛って襲おうとしちゃってたくらいだ。
その計画を思い立った時以上に情欲が湧き立っている今の状態では、残念ながらその綺麗事たちは余裕で蹴散らせてしまえる範囲にあった。
じゃあ他にどんな理由があるのかって言うと……。
――私の立場は、受けじゃなくて攻めがいい。
どういうことかと言うと……今、体をうまく動かせないんですよね。
だって服に肌が擦れただけでテーブルに倒れ込んじゃうくらいですよ。まともに動ける方がおかしい。フィリアに襲いかかるとか間違いなく無理だ。
こんな敏感状態でフィリアにえっちなことなんて要求してしまえば、えっちなことをするっていうか、むしろえっちなことをされるみたいな感じになってしまうだろう。
それはなにかが違う……。
そう……わかったんだ。
フィリアがなんでもしてくれるって言ってくれた時、確かに嬉しかったんだけど、なにか私が望んでたことと微妙に違うような気がした。
そしてその時、私は私を正しく理解した。
そう、私はR18なことをされたいんじゃない……R18なことをしたいんだ!
フィリアにされたいんじゃなくて、フィリアにしたい! 受けじゃなくて攻めがいい!
あのお胸さまをもてあそぶ立場にこそ私はなりたい! 極限状態に追い込まれることで、それこそが私の本当の望みだって気づいたんだよ!
ゆえにだ。ゆえにこそ、ここでフィリアにえろいことを要求するわけにはいかない。
だってそうなったら、今の状態だと絶対受けに回る羽目になる。
そして一度される側の立場になってしまったら、その後もずるずると同じような関係になってしまう危険性が極めて高い。
なにせフィリアは元々、結構世話焼きな性格だ。
私の着替えを手伝おうとしたり、料理を手伝おうとしたり、他にも色々と。
フィリアのことだ。本当は私と一緒にではなくて、私の手を煩わせずに一人で全部やってしまいたいとまで思っているかもしれない。
そんな彼女を相手に一度でもしてもらう立場になってしまってみろ。きっとその後も「お師匠さまのために!」って感じに私が受けに回り続ける羽目になるに決まっている。
それだけは絶対にダメだ。私は攻める立場がいい。
だから今だけは絶対に、ここでフィリアににゃんにゃんをお願いするわけにはいかないのだ。
そう。すべては理想のただれた未来のために……!
真に望む攻める側の関係をこの手に掴むためには、こんなところで一時の情欲に流されるわけにはいかない!
耐えるんだ私……! せめてフィリアがここからいなくなるまで! 私の本当の夢のために!
される側は、嫌だ……!
私は、する側がいい……!
「お師匠さま……」
本当の自分と向き合い、私が改めて決意を固めていると、ふと、フィリアが力なく顔を俯かせた。
それもしかたがないことかもしれない。
一人にしてほしい。その返事は、役に立ちたいと言ったフィリアを突き放したことと同義だ。
「ごめ、んね……ふぃりあ……」
少しだけ罪悪感を覚えたけれど、今回ばかりは、どうしても返事を訂正するわけにはいかなかった。
早くフィリアにはこの部屋を離れてもらわなくてはまずいのだ。
だって、ほら……。
その……今の私、発情状態ですよ?
今、めちゃくちゃ頑張って耐えてるんです。
こう、えっと……肉欲に身を任せたい欲求というか……疼きに触れたくなる衝動というか……。
で、その……フィリアがいるとできないじゃないですか。
……な、なにがとは言わないけど。
「……嫌です」
「え?」
「嫌って言ったんです」
私の手を握っていたフィリアの手に、さらに力がこもる。
そのせいで快感が増して、一瞬ビクッと震えてしまった。
そして気がついた時には、俯いていたはずのフィリアがひどく真剣な眼差しで私をまっすぐに見据えていた。
「お師匠さま……どうして一人で苦しもうとするんですか? 私は、そんなに頼りないですか?」
「え。い、いや……んっ、べ、別にそんな、ことは」
「私も……ちょっと前までそうでした。頼れる相手なんて誰もいなくて、心配してくれる人なんて一人もいなくて……ただがむしゃらに頑張るだけで、自分のことなんて顧みることをしませんでした」
え。あれ?
なんか語り始めたんですけど……。
なにがどうなっているんだ……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
あれ? でも今確かに嫌って……。
え? なんで?
待って。今なにが起こってるの?
なんで断られたの?
だ、ダメだ……熱と情欲で全然頭が回らない……。
「でも、私……お師匠さまと一緒に暮らし始めて、お師匠さまに何度も気を遣っていただいて……私の苦しみがお師匠さまの苦しみでもあるってことを知ったんです」
「……? そ、そうなんだ」
「今日の、私がコップを落としてしまった時だってそうです。お師匠さま、ものすごく慌てて心配してくれましたよね? 私あの時、それがすごく嬉しかったんです。あぁ、この人は私のことを本当に大切に思ってくれてるんだな、って……」
「へ、へえー……」
刺激を感じることが怖くてじっとしているのに、じっとしていると逆に全身の感覚がどんどん敏感になっていくようで、時間を経るごとに情欲が強まっていく。
体の芯が発する熱。脳がとろけるような、言いようのない陶酔感。確かに心地が良いのに、どうしてかまるで満たされることがなく、お腹の少し下辺りが妙に切なくて、耐え切れず足をモジモジと動かしてしまう。
それらが誘う情動に走りたい欲求に耐えることに本当に必死で、フィリアがなんかいい感じのことを言ってくれているのはわかるのだが、深そうな意味とかは全然理解できない。
そんな私に、フィリアはなおも続ける。
「一人が寂しかったって……私をお買いしたあの日、お師匠さまはそう言いました。私と同じ……お師匠さまはきっと、一人で苦しむことに慣れてしまっているんです。どうしても自分の存在に価値を感じることができない……」
「そう、なの……?」
「そうなんです」
そ、そうなんだ。知らなかった。
少しだけ悲しそうに、フィリアが顔を伏せる。
「自分の体を大切にすることの優先順位がなによりも低くて……だから熱があったことも、私に言ってくれなかったんだと思います。そして今も、自分が苦しい以上に、ただ私に手間をかけさせたくないから……」
「……え。あの……」
「違いますか? お師匠さま」
顔を上げたフィリアが、確認するような視線で私を射抜く。
お、おう……全然違うぞ……?
熱があることを言ってくれなかったとフィリアは言っていたが、熱は普通に直前までなかった。
手間をかけさせたくないのはあっているものの、その手間の内容はフィリアが考えているようなことではないしフィリアが思ってるような理由でもない。
お、おかしい……なんだか既視感があるぞ……。
前にもこんなことがあったような気がする……具体的にはフィリアを買った初日の夕食時。
あの日もこうやってフィリアがなんか突然語り出したかと思ったら、結局なにもかもが見当違いの方向にそれてしまったのだ。
あの時と同じ流れだとすれば……うまく頭は回らないにせよ、なんとなくこの状況が非常にまずいということだけはわかる。
とにかくこの状況を打開しなければ。
その思いで、必死に言葉を紡ぐ。
「ふぃ、りあ……おねがい……」
「お師匠さま?」
「どう、か…………ひと、りに……して……」
大きな声を発しようとすると、舌が口内を少なからず動く感触がわずかながらも快楽を呼び、うまく言葉を話すことができない。
それでも私はとにかく全身全霊で、ただただフィリアに自分の意志を伝える。
「せつ、ないんだ。ずっと……むねの、おく、が、んんっ……くるし、くて……ふぃりあに、だけは……みせられ、ないっ……わたしの……なさけない、ふうぅ……! みだ、れた……すがた、は……」
もしもここで欲望に負けてフィリアに見せてしまったら、例によって「お師匠さまのためなら……!」って感じで受けに回る羽目になる。
それだけはダメだ。私は攻めがいいんだ。
あのお胸さまを自由にできる立場……そこに至るためには、ここで流されるわけにはいかないんだっ……!
強い思いで理性を保つ。
強い思いが倫理観とか罪悪感とかそういうまともな感じじゃなくて、それがまた性なる欲に準ずる欲望であることがちょっとアレだが、むしろだからこそなのかもしれない。
理性を奪おうとする情欲と元を同じくする欲求が理由だからこそ、今もなおギリギリ理性が保てている。
……あれ? 保ててるよね? 理性。
元が同じ欲望を理由にしている時点で理性保ててないんじゃない、とか思っちゃったけど、そんなことないよね?
私が攻めの立場でフィリアとにゃんにゃんしたいからっていう情欲で今の快楽に走りたい衝動を耐えられてるのは、理性があるからだよね?
うん。そうに違いない。大丈夫。まだ私は正常だ!
「お師匠さま……大丈夫です」
フィリアはずっと握っていた私の手を離し、私の顔を覗き込むように前かがみにしていた体を起こす。
そして私に背を向けて、歩き始めた。
やっと出て行ってくれるか……。
せめて見送ってあげようと視線でフィリアを追うと、彼女は私の部屋にあるイスを両手で持ち上げて、ベッドのそばに戻ってきた。
「私、ずっとそばにいます」
そう言って、フィリアはベッドの横に置いたイスに腰掛ける。
……うん?
大丈夫って言ってたけど、それなにが大丈夫なの……?
全然大丈夫じゃないよ?
「お師匠さまは情けない姿を見せたくないって言いましたけど……お師匠さま。私はこんなことでお師匠さまに失望したりなんてしません。強くなくたっていいんです。たった一人で強くあろうとしなくたっていい……何度も言ってるじゃないですか。頼ってほしいって……」
「ふぃり、あ……」
「お師匠さまは私が苦しんでいると、一緒に苦しんでくれます。それと同じです。お師匠さまが苦しいと、私も苦しいんです……どうにかしてあげたい。そう強く思うんです。きっと、お師匠さまと同じように……」
フィリアは私の頭にそっと手を当てて、撫でるように動かしながら、言った。
「お師匠さま。お慕いしています。この先なにがあったとしても、この気持ちだけは未来永劫変わりません。だから、お願いです。そばにいさせてください。初めて会ったあの日、お師匠さまが私に温もりを教えてくれたように……私も、お師匠さまのためにできることをしたいんです」
「ふぃ……ふぃりぁあ……!」
違う……! 違うんだよっ……! そうじゃないんだよ……!
私別に体調を崩して苦しんでるわけじゃないんだよ! 自分を顧みてないわけでもフィリアに心配かけたくないわけでも失望されたくないわけでもないんだよ!
むしろめっちゃ自分顧みてる! 顧みて、少しでも興奮を治めなきゃ「もう別に受けでもいいかな……」とか思いかねないから、早く一人になって、その……したいんですよ……!
なのになぜ……? なぜこの子はそれをわかってくれないの……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
どうして私を苦しめるの?
私の苦しみがフィリアの苦しみ……?
嘘だ……ありえない。
だって私の気持ち、まるっきりフィリアに伝わってないじゃないですかぁ……。
「うっ、うぐっ……ひっぐ、ぅう……」
なにを言ったところで、フィリアが出ていくことはないだろう。きっと彼女自身にもそのつもりはない。
心を深い絶望感が満たし、自然と嗚咽が溢れ出る。
涙がこぼれ落ち、頬を伝ってシーツに堕ちて、小さなシミを作っていく。
「お師匠さま……大丈夫です。大丈夫ですから。そばに、いますから」
フィリアは聖母のごときどこまでも穏やかで優しい顔で、いつまでも私の頭を撫で続けていた。
髪に別の誰かの手が触れて、そっとくすぐられるようなその感触は、まるで悪魔のように私の情欲を掻き立てる。
その日私はアンデッドの気持ちを知った。
人間には福をもたらすとまで言われている聖魔法を食らうと、苦悶の声を上げる彼ら。
あぁ、浄化されるゾンビやグールたちってこんな気持ちだったんだな――と。
窓から朝日が差して、部屋の中を照らしていた。
外からは鳥のさえずりも聞こえてくる。
客観的に見れば実に心地の良い朝の風景だろうが、目覚めの気分は最悪だった。
「……昨日は散々な目にあったな……」
結局あの後、フィリアにずっと看病されながら一晩を過ごした。
その最中、「もう受けでもいいんじゃない?」「フィリアにしてもらうのも悪くないと思う」「見られてても関係ない。むしろ見られてる方が興奮するのでは?」などという悪魔の囁きが聞こえ、流されそうになることが幾度もあった。
しかしそれでも何十分、何時間と、必死に情動を抑えられていたあの時の自分は本当に頑張ったと思う。
最後には結局、むしろそうやって精神を張り詰めすぎて体力を使い切ってしまったのだろう。
いつの間にか眠ってしまって、気がついたら朝になっていた。
これだけ時間が経てば、さすがにもう薬の効果は抜けている。
時間が経ったことで今こそ渇いてはいるが、つい数時間前まで衣服やベッドのシーツは汗まみれでぐしょぐしょだった。
渇いた今でも、汗をたっぷりと吸っていたそれらは気分がいいものではなく、どれもこれも早急に洗う必要があるだろう。
「水……」
のそのそとベッドから這い出る。
昨日夜遅くまで看病してくれていたフィリアは、起きた時にはもういなかった。
「……体が重いな……」
まるでアンデッドのように一歩ずつ鈍重に、台所を目指して廊下を進んでいく。
台所の近くまで来ると、なにやらジュージューと焼けるような音が聞こえてきた。
台所に入ってみれば、エプロンを身につけたフィリアが悪戦苦闘しながら朝食を作っている。
「あ、お師匠さま! おはようございます! お体の方はもう大丈夫なんですか……?」
私に気づいたフィリアが無邪気な笑顔を向けてくる。
「あぁ、おはよう。体は、まぁ……少しだるいくらいだ」
「無理はなさらないでくださいね……? 朝食は私が作りますから、お師匠さまはテーブルの方でお休みになっててください」
これまでは私一人か二人一緒にしか料理をしたことはないのだが、見たところフィリア一人でも作れそうな簡単なものしか作っていないようだったので、ここはお言葉に甘えることにした。
「ありがとう。でも、少し水をもらおうかな」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」
フィリアがコップを取り出して水を注いでくれる。
コップか。そういえば昨日は私のせいでフィリアが私のコップを落として割れちゃったんだったな。
フィリアだけ専用のコップがあるとフィリアは気にするだろうし、また近々買いに行く必要があるかな。
水を汲み終えたフィリアが、そのコップを私に差し出してくる。
「はい、どうぞっ! ……って、あれ?」
「ん。ごくごくっ……どうかした?」
「いえ、なにか落ちたみたいですけど……これは……?」
私の足元に転がっていたものを、フィリアが持ち上げる。
「なにか小さく貼ってありますね。えぇっと……淫魔のエキス……配合……夜のお供……」
それは二、三立方センチメートルくらいの小さな小瓶で、中には濃厚な桜色の液体が――。
「っ!?」
「あっ、お師匠さまっ!?」
素早くフィリアからその小瓶を奪い取り、懐に隠す。
しかしフィリアには瓶のラベルに書かれていたことまでばっちり見られてしまったようだ。
少し気まずそうに、頬を朱に染めている。
「あ、あの……い、今のって、その……もしかして、媚や――」
「ま、魔道具用だっ!」
「魔道具、ですかっ?」
「私は冒険者だって前に言っただろうっ? その、そういう薬は魔物をおびき寄せる使い捨て魔道具の材料になるんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ! ちゃ、ちゃんとあるべき場所にしまっておいたつもりなんだが……うっかり持ってたままだったみたいだなっ? すまない、朝から変なものを見せてしまって」
「い、いえっ! こちらこそ変に騒いでしまってごめんなさい!」
勢いよくぺこりとフィリアが頭を下げる。
あ……危なかった。なんとか誤魔化せたようだ。
……ほ、本当に誤魔化せたのかな。フィリア、実はちょっと変に思ってたりしないかな……。
だって、フィリア今ちょっとちらちらと顔を赤くしながらこっち覗いてきてるし……。
「その……ごめんなさい。実は私……一瞬、お師匠さまが昨日のお料理かお飲み物にいれてたんじゃないかって、そう疑ってしまったんです」
「うぇっ!? そ、そそそそんなわけないだろうっ?」
「そうですよね。お師匠さまがそんなことするはずありません。ごめんなさい……一瞬でも変な誤解をしてしまって」
「あ、ああ。気にしてないよ」
そんなことしたんだよなぁ……。
「で、でも……えっと、あの……」
顔を真っ赤に染め上げて、もじもじとしながら、ちょこちょことしおらしくフィリアが近づいてくる。
そしてそうっと顔を近づけてきたかと思うと、耳元でささやくように、彼女は。
「――お、お師匠さまとならそういうこと……あ、あんまり悪くないかもって……」
「――――」
ばっ! と素早く離れたフィリアが、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「ご、ごめんなさいっ! 変なこと言っちゃってっ……い、今のは忘れてくださいっ! 朝食の続き作りますから、お師匠さまはお先にテーブルの方へ行っててくださいっ!」
フィリアに背中を押されるように、急かされるようにして台所を出ていく。
無言。半ば放心状態で歩いて、いつもの食卓までやってきた。
座るでもなく、他になにをするでもなく、ただただそこで立ち尽くす。
そうして一〇秒くらい経った頃だろうか。
さきほどの囁きは紛れもない現実だったと、そう理解した私は静かにため息をついた。
「……私もうダメかもしれんな……」
吉報……うちの奴隷が可愛すぎる件について。
もう薬の効果はないはずなのに、ばくばくと激しく鼓動を打っている心臓。
そして今更になって、これでもかというほど紅潮し始めた顔を自覚しながら、私は天井を仰いだのだった。
わずかに残った理性で、私は確かにそう口にした。
「一人に……ですか?」
フィリアがきょとんとして、目を瞬かせる。
私はこくりと頷いた。
なんでもしてくれる――それは確かに、堕落に誘う魅惑の囁きだった。
きっとここでフィリアににゃんにゃんなことを要求すれば、戸惑いながらも、私のためを思ってしてくれるだろうと思う。
それはそれはとろけるような夜を過ごせるだろうと思う。
だけど、それではダメだ。
してくれるという、それ自体がもうダメなんだ。
特に今この瞬間だけは、絶対にそれを許すわけにはいかない。
いくら言うことを聞いてくれると言っても、やっぱりフィリアの心を無視しているだとか。無理矢理感が否めないとか……綺麗事はいくつも思い浮かぶ。
だけど別にそんなものは、ぶっちゃけこの情動を前にしたら大した理由じゃなかった。
だって、元々薬盛って襲おうとしちゃってたくらいだ。
その計画を思い立った時以上に情欲が湧き立っている今の状態では、残念ながらその綺麗事たちは余裕で蹴散らせてしまえる範囲にあった。
じゃあ他にどんな理由があるのかって言うと……。
――私の立場は、受けじゃなくて攻めがいい。
どういうことかと言うと……今、体をうまく動かせないんですよね。
だって服に肌が擦れただけでテーブルに倒れ込んじゃうくらいですよ。まともに動ける方がおかしい。フィリアに襲いかかるとか間違いなく無理だ。
こんな敏感状態でフィリアにえっちなことなんて要求してしまえば、えっちなことをするっていうか、むしろえっちなことをされるみたいな感じになってしまうだろう。
それはなにかが違う……。
そう……わかったんだ。
フィリアがなんでもしてくれるって言ってくれた時、確かに嬉しかったんだけど、なにか私が望んでたことと微妙に違うような気がした。
そしてその時、私は私を正しく理解した。
そう、私はR18なことをされたいんじゃない……R18なことをしたいんだ!
フィリアにされたいんじゃなくて、フィリアにしたい! 受けじゃなくて攻めがいい!
あのお胸さまをもてあそぶ立場にこそ私はなりたい! 極限状態に追い込まれることで、それこそが私の本当の望みだって気づいたんだよ!
ゆえにだ。ゆえにこそ、ここでフィリアにえろいことを要求するわけにはいかない。
だってそうなったら、今の状態だと絶対受けに回る羽目になる。
そして一度される側の立場になってしまったら、その後もずるずると同じような関係になってしまう危険性が極めて高い。
なにせフィリアは元々、結構世話焼きな性格だ。
私の着替えを手伝おうとしたり、料理を手伝おうとしたり、他にも色々と。
フィリアのことだ。本当は私と一緒にではなくて、私の手を煩わせずに一人で全部やってしまいたいとまで思っているかもしれない。
そんな彼女を相手に一度でもしてもらう立場になってしまってみろ。きっとその後も「お師匠さまのために!」って感じに私が受けに回り続ける羽目になるに決まっている。
それだけは絶対にダメだ。私は攻める立場がいい。
だから今だけは絶対に、ここでフィリアににゃんにゃんをお願いするわけにはいかないのだ。
そう。すべては理想のただれた未来のために……!
真に望む攻める側の関係をこの手に掴むためには、こんなところで一時の情欲に流されるわけにはいかない!
耐えるんだ私……! せめてフィリアがここからいなくなるまで! 私の本当の夢のために!
される側は、嫌だ……!
私は、する側がいい……!
「お師匠さま……」
本当の自分と向き合い、私が改めて決意を固めていると、ふと、フィリアが力なく顔を俯かせた。
それもしかたがないことかもしれない。
一人にしてほしい。その返事は、役に立ちたいと言ったフィリアを突き放したことと同義だ。
「ごめ、んね……ふぃりあ……」
少しだけ罪悪感を覚えたけれど、今回ばかりは、どうしても返事を訂正するわけにはいかなかった。
早くフィリアにはこの部屋を離れてもらわなくてはまずいのだ。
だって、ほら……。
その……今の私、発情状態ですよ?
今、めちゃくちゃ頑張って耐えてるんです。
こう、えっと……肉欲に身を任せたい欲求というか……疼きに触れたくなる衝動というか……。
で、その……フィリアがいるとできないじゃないですか。
……な、なにがとは言わないけど。
「……嫌です」
「え?」
「嫌って言ったんです」
私の手を握っていたフィリアの手に、さらに力がこもる。
そのせいで快感が増して、一瞬ビクッと震えてしまった。
そして気がついた時には、俯いていたはずのフィリアがひどく真剣な眼差しで私をまっすぐに見据えていた。
「お師匠さま……どうして一人で苦しもうとするんですか? 私は、そんなに頼りないですか?」
「え。い、いや……んっ、べ、別にそんな、ことは」
「私も……ちょっと前までそうでした。頼れる相手なんて誰もいなくて、心配してくれる人なんて一人もいなくて……ただがむしゃらに頑張るだけで、自分のことなんて顧みることをしませんでした」
え。あれ?
なんか語り始めたんですけど……。
なにがどうなっているんだ……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
あれ? でも今確かに嫌って……。
え? なんで?
待って。今なにが起こってるの?
なんで断られたの?
だ、ダメだ……熱と情欲で全然頭が回らない……。
「でも、私……お師匠さまと一緒に暮らし始めて、お師匠さまに何度も気を遣っていただいて……私の苦しみがお師匠さまの苦しみでもあるってことを知ったんです」
「……? そ、そうなんだ」
「今日の、私がコップを落としてしまった時だってそうです。お師匠さま、ものすごく慌てて心配してくれましたよね? 私あの時、それがすごく嬉しかったんです。あぁ、この人は私のことを本当に大切に思ってくれてるんだな、って……」
「へ、へえー……」
刺激を感じることが怖くてじっとしているのに、じっとしていると逆に全身の感覚がどんどん敏感になっていくようで、時間を経るごとに情欲が強まっていく。
体の芯が発する熱。脳がとろけるような、言いようのない陶酔感。確かに心地が良いのに、どうしてかまるで満たされることがなく、お腹の少し下辺りが妙に切なくて、耐え切れず足をモジモジと動かしてしまう。
それらが誘う情動に走りたい欲求に耐えることに本当に必死で、フィリアがなんかいい感じのことを言ってくれているのはわかるのだが、深そうな意味とかは全然理解できない。
そんな私に、フィリアはなおも続ける。
「一人が寂しかったって……私をお買いしたあの日、お師匠さまはそう言いました。私と同じ……お師匠さまはきっと、一人で苦しむことに慣れてしまっているんです。どうしても自分の存在に価値を感じることができない……」
「そう、なの……?」
「そうなんです」
そ、そうなんだ。知らなかった。
少しだけ悲しそうに、フィリアが顔を伏せる。
「自分の体を大切にすることの優先順位がなによりも低くて……だから熱があったことも、私に言ってくれなかったんだと思います。そして今も、自分が苦しい以上に、ただ私に手間をかけさせたくないから……」
「……え。あの……」
「違いますか? お師匠さま」
顔を上げたフィリアが、確認するような視線で私を射抜く。
お、おう……全然違うぞ……?
熱があることを言ってくれなかったとフィリアは言っていたが、熱は普通に直前までなかった。
手間をかけさせたくないのはあっているものの、その手間の内容はフィリアが考えているようなことではないしフィリアが思ってるような理由でもない。
お、おかしい……なんだか既視感があるぞ……。
前にもこんなことがあったような気がする……具体的にはフィリアを買った初日の夕食時。
あの日もこうやってフィリアがなんか突然語り出したかと思ったら、結局なにもかもが見当違いの方向にそれてしまったのだ。
あの時と同じ流れだとすれば……うまく頭は回らないにせよ、なんとなくこの状況が非常にまずいということだけはわかる。
とにかくこの状況を打開しなければ。
その思いで、必死に言葉を紡ぐ。
「ふぃ、りあ……おねがい……」
「お師匠さま?」
「どう、か…………ひと、りに……して……」
大きな声を発しようとすると、舌が口内を少なからず動く感触がわずかながらも快楽を呼び、うまく言葉を話すことができない。
それでも私はとにかく全身全霊で、ただただフィリアに自分の意志を伝える。
「せつ、ないんだ。ずっと……むねの、おく、が、んんっ……くるし、くて……ふぃりあに、だけは……みせられ、ないっ……わたしの……なさけない、ふうぅ……! みだ、れた……すがた、は……」
もしもここで欲望に負けてフィリアに見せてしまったら、例によって「お師匠さまのためなら……!」って感じで受けに回る羽目になる。
それだけはダメだ。私は攻めがいいんだ。
あのお胸さまを自由にできる立場……そこに至るためには、ここで流されるわけにはいかないんだっ……!
強い思いで理性を保つ。
強い思いが倫理観とか罪悪感とかそういうまともな感じじゃなくて、それがまた性なる欲に準ずる欲望であることがちょっとアレだが、むしろだからこそなのかもしれない。
理性を奪おうとする情欲と元を同じくする欲求が理由だからこそ、今もなおギリギリ理性が保てている。
……あれ? 保ててるよね? 理性。
元が同じ欲望を理由にしている時点で理性保ててないんじゃない、とか思っちゃったけど、そんなことないよね?
私が攻めの立場でフィリアとにゃんにゃんしたいからっていう情欲で今の快楽に走りたい衝動を耐えられてるのは、理性があるからだよね?
うん。そうに違いない。大丈夫。まだ私は正常だ!
「お師匠さま……大丈夫です」
フィリアはずっと握っていた私の手を離し、私の顔を覗き込むように前かがみにしていた体を起こす。
そして私に背を向けて、歩き始めた。
やっと出て行ってくれるか……。
せめて見送ってあげようと視線でフィリアを追うと、彼女は私の部屋にあるイスを両手で持ち上げて、ベッドのそばに戻ってきた。
「私、ずっとそばにいます」
そう言って、フィリアはベッドの横に置いたイスに腰掛ける。
……うん?
大丈夫って言ってたけど、それなにが大丈夫なの……?
全然大丈夫じゃないよ?
「お師匠さまは情けない姿を見せたくないって言いましたけど……お師匠さま。私はこんなことでお師匠さまに失望したりなんてしません。強くなくたっていいんです。たった一人で強くあろうとしなくたっていい……何度も言ってるじゃないですか。頼ってほしいって……」
「ふぃり、あ……」
「お師匠さまは私が苦しんでいると、一緒に苦しんでくれます。それと同じです。お師匠さまが苦しいと、私も苦しいんです……どうにかしてあげたい。そう強く思うんです。きっと、お師匠さまと同じように……」
フィリアは私の頭にそっと手を当てて、撫でるように動かしながら、言った。
「お師匠さま。お慕いしています。この先なにがあったとしても、この気持ちだけは未来永劫変わりません。だから、お願いです。そばにいさせてください。初めて会ったあの日、お師匠さまが私に温もりを教えてくれたように……私も、お師匠さまのためにできることをしたいんです」
「ふぃ……ふぃりぁあ……!」
違う……! 違うんだよっ……! そうじゃないんだよ……!
私別に体調を崩して苦しんでるわけじゃないんだよ! 自分を顧みてないわけでもフィリアに心配かけたくないわけでも失望されたくないわけでもないんだよ!
むしろめっちゃ自分顧みてる! 顧みて、少しでも興奮を治めなきゃ「もう別に受けでもいいかな……」とか思いかねないから、早く一人になって、その……したいんですよ……!
なのになぜ……? なぜこの子はそれをわかってくれないの……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
どうして私を苦しめるの?
私の苦しみがフィリアの苦しみ……?
嘘だ……ありえない。
だって私の気持ち、まるっきりフィリアに伝わってないじゃないですかぁ……。
「うっ、うぐっ……ひっぐ、ぅう……」
なにを言ったところで、フィリアが出ていくことはないだろう。きっと彼女自身にもそのつもりはない。
心を深い絶望感が満たし、自然と嗚咽が溢れ出る。
涙がこぼれ落ち、頬を伝ってシーツに堕ちて、小さなシミを作っていく。
「お師匠さま……大丈夫です。大丈夫ですから。そばに、いますから」
フィリアは聖母のごときどこまでも穏やかで優しい顔で、いつまでも私の頭を撫で続けていた。
髪に別の誰かの手が触れて、そっとくすぐられるようなその感触は、まるで悪魔のように私の情欲を掻き立てる。
その日私はアンデッドの気持ちを知った。
人間には福をもたらすとまで言われている聖魔法を食らうと、苦悶の声を上げる彼ら。
あぁ、浄化されるゾンビやグールたちってこんな気持ちだったんだな――と。
窓から朝日が差して、部屋の中を照らしていた。
外からは鳥のさえずりも聞こえてくる。
客観的に見れば実に心地の良い朝の風景だろうが、目覚めの気分は最悪だった。
「……昨日は散々な目にあったな……」
結局あの後、フィリアにずっと看病されながら一晩を過ごした。
その最中、「もう受けでもいいんじゃない?」「フィリアにしてもらうのも悪くないと思う」「見られてても関係ない。むしろ見られてる方が興奮するのでは?」などという悪魔の囁きが聞こえ、流されそうになることが幾度もあった。
しかしそれでも何十分、何時間と、必死に情動を抑えられていたあの時の自分は本当に頑張ったと思う。
最後には結局、むしろそうやって精神を張り詰めすぎて体力を使い切ってしまったのだろう。
いつの間にか眠ってしまって、気がついたら朝になっていた。
これだけ時間が経てば、さすがにもう薬の効果は抜けている。
時間が経ったことで今こそ渇いてはいるが、つい数時間前まで衣服やベッドのシーツは汗まみれでぐしょぐしょだった。
渇いた今でも、汗をたっぷりと吸っていたそれらは気分がいいものではなく、どれもこれも早急に洗う必要があるだろう。
「水……」
のそのそとベッドから這い出る。
昨日夜遅くまで看病してくれていたフィリアは、起きた時にはもういなかった。
「……体が重いな……」
まるでアンデッドのように一歩ずつ鈍重に、台所を目指して廊下を進んでいく。
台所の近くまで来ると、なにやらジュージューと焼けるような音が聞こえてきた。
台所に入ってみれば、エプロンを身につけたフィリアが悪戦苦闘しながら朝食を作っている。
「あ、お師匠さま! おはようございます! お体の方はもう大丈夫なんですか……?」
私に気づいたフィリアが無邪気な笑顔を向けてくる。
「あぁ、おはよう。体は、まぁ……少しだるいくらいだ」
「無理はなさらないでくださいね……? 朝食は私が作りますから、お師匠さまはテーブルの方でお休みになっててください」
これまでは私一人か二人一緒にしか料理をしたことはないのだが、見たところフィリア一人でも作れそうな簡単なものしか作っていないようだったので、ここはお言葉に甘えることにした。
「ありがとう。でも、少し水をもらおうかな」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」
フィリアがコップを取り出して水を注いでくれる。
コップか。そういえば昨日は私のせいでフィリアが私のコップを落として割れちゃったんだったな。
フィリアだけ専用のコップがあるとフィリアは気にするだろうし、また近々買いに行く必要があるかな。
水を汲み終えたフィリアが、そのコップを私に差し出してくる。
「はい、どうぞっ! ……って、あれ?」
「ん。ごくごくっ……どうかした?」
「いえ、なにか落ちたみたいですけど……これは……?」
私の足元に転がっていたものを、フィリアが持ち上げる。
「なにか小さく貼ってありますね。えぇっと……淫魔のエキス……配合……夜のお供……」
それは二、三立方センチメートルくらいの小さな小瓶で、中には濃厚な桜色の液体が――。
「っ!?」
「あっ、お師匠さまっ!?」
素早くフィリアからその小瓶を奪い取り、懐に隠す。
しかしフィリアには瓶のラベルに書かれていたことまでばっちり見られてしまったようだ。
少し気まずそうに、頬を朱に染めている。
「あ、あの……い、今のって、その……もしかして、媚や――」
「ま、魔道具用だっ!」
「魔道具、ですかっ?」
「私は冒険者だって前に言っただろうっ? その、そういう薬は魔物をおびき寄せる使い捨て魔道具の材料になるんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ! ちゃ、ちゃんとあるべき場所にしまっておいたつもりなんだが……うっかり持ってたままだったみたいだなっ? すまない、朝から変なものを見せてしまって」
「い、いえっ! こちらこそ変に騒いでしまってごめんなさい!」
勢いよくぺこりとフィリアが頭を下げる。
あ……危なかった。なんとか誤魔化せたようだ。
……ほ、本当に誤魔化せたのかな。フィリア、実はちょっと変に思ってたりしないかな……。
だって、フィリア今ちょっとちらちらと顔を赤くしながらこっち覗いてきてるし……。
「その……ごめんなさい。実は私……一瞬、お師匠さまが昨日のお料理かお飲み物にいれてたんじゃないかって、そう疑ってしまったんです」
「うぇっ!? そ、そそそそんなわけないだろうっ?」
「そうですよね。お師匠さまがそんなことするはずありません。ごめんなさい……一瞬でも変な誤解をしてしまって」
「あ、ああ。気にしてないよ」
そんなことしたんだよなぁ……。
「で、でも……えっと、あの……」
顔を真っ赤に染め上げて、もじもじとしながら、ちょこちょことしおらしくフィリアが近づいてくる。
そしてそうっと顔を近づけてきたかと思うと、耳元でささやくように、彼女は。
「――お、お師匠さまとならそういうこと……あ、あんまり悪くないかもって……」
「――――」
ばっ! と素早く離れたフィリアが、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「ご、ごめんなさいっ! 変なこと言っちゃってっ……い、今のは忘れてくださいっ! 朝食の続き作りますから、お師匠さまはお先にテーブルの方へ行っててくださいっ!」
フィリアに背中を押されるように、急かされるようにして台所を出ていく。
無言。半ば放心状態で歩いて、いつもの食卓までやってきた。
座るでもなく、他になにをするでもなく、ただただそこで立ち尽くす。
そうして一〇秒くらい経った頃だろうか。
さきほどの囁きは紛れもない現実だったと、そう理解した私は静かにため息をついた。
「……私もうダメかもしれんな……」
吉報……うちの奴隷が可愛すぎる件について。
もう薬の効果はないはずなのに、ばくばくと激しく鼓動を打っている心臓。
そして今更になって、これでもかというほど紅潮し始めた顔を自覚しながら、私は天井を仰いだのだった。