――ねえ、あなた。あなたのお名前はなんて言うの?
ずっと昔。
故郷を焼かれ、不死を自覚し、唯一の友だったあの子との記憶を自らの意思で消し去ってしまってから、ワタシの見る世界は色褪せてしまった。
感じているはずの楽しさは偽物のように現実味がなく、人の営みが稚拙で出来の悪い茶番にしか見えない。ワタシだけが世界から切り離されたかのように浮いている。
いつしか世界が嫌いになった。他人が嫌いになった。ワタシに感情を教えた、好きだったはずのあの子が嫌いになった。
そして誰よりも……自分自身を嫌いになった。
――■■ちゃんは、こうして誰かと触れ合いたいだけなんだね。
とっくに忘れたはずなのに。あの子の顔も、声も、名前だってワタシはもう覚えていないのに。
別れから一万年以上が過ぎた今も、未だ頭をよぎる情景がある。
灰色に燻った残滓のような記憶の中で、あの子はいつだって笑っていた。
なにがそんなに面白いんだろう。なにがそんなに嬉しいんだろう。
こんなワタシと一緒にいることの、いったいなにがそんなに楽しいんだろう。
生きることに苦痛を感じるようになってから、ワタシは、生まれてきたことを後悔しなかった日はない。
……別に、これはあの子のせいじゃない。
もしもあの子と出会わなかったって、ワタシが不死の呪いを宿して生まれた以上、いずれこの結論に至ることは明白だった。
これは大嫌いで理不尽な世界からワタシに与えられた運命であり、逃れられない宿命なんだ。
そしてその考えは……ハロと出会った今も、なに一つ変わらない。
不吉で醜く気味が悪い。親しい人すら滅ぼす異端の存在。
どこまでいったところで、結局それがワタシの正体なんだから。
だからきっと、ワタシなんか本当は初めから生まれてこない方がよかったんだと。
今も変わらず、ワタシはずっとそう思い続けている。
カーテンを閉じ切った薄暗い部屋の中、窓辺に腰をかけたワタシは、カチカチと時計が針を刻む音を聴きながら、ぼんやりと天井を仰いでいた。
別に、なにか物思いに耽っていたというわけではない。
昨晩はどうにも寝る気分になれず、かと言って特にやることもなく……気がつけば、一晩中ここで漫然と過ごしてしまっていただけの話だ。
カーテンを閉じているのは、暗い方が落ちつくから。
何時間も同じ場所でじっとしていることは人によっては退屈だと感じるかもしれない。でも退屈なんてもの、ワタシはこの一万年で飽きるほど味わってきた。
それに、長く生きていると時間の感覚も曖昧になってくるものだ。数分も数時間も大して変わらない。
なにかをしていないと落ちつかないほど若いわけでもないし……手持ち無沙汰だからと言って、自分で自分を慰めようと思い至るほど精力に溢れているわけでもない。
ハロが求めてくれるならやぶさかでもないけれど、一人で快楽を貪ることにはあいにくと欠片も興味がなかった。
……ああでも、そうだな。
この窓辺から動いていない事実に変わりはないけれど、強いて言うなら、昨晩は夜空を眺めていた。
ワタシに不死の呪いを与えたこの世界は嫌いだが、夜空はそこまで嫌いじゃない。
夜の空に煌めく星々は、ワタシがこの世界で綺麗だと感じる数少ないものの一つだ。
かつてハロに魔法を教えていた頃も、寝ているハロの護衛をしながら、彼女の寝顔と夜の星を眺めていたものだった。
まあ結局、朝方になるに連れて昇ってくる日の光が煩わしくなり、気がついた時にはこうしてカーテンを閉め切ってしまったのだが。
夜の空は嫌いじゃないが、晴れた昼の青空は嫌いだ。
生きることに苦痛を覚えていたワタシの気も知らないで、皆を照らしてるとでも言いたげな傲慢な顔で、いつもいつも高いところからワタシを見下ろしていやがったから。
「あの子たちは……もう答えを出した後なのかな」
天井を見上げたまま、ワタシは三人の少女の姿を頭の中に思い浮かべる。
青空に浮かぶ太陽のように気に食わないハロの弟子、フィリア。
ハロという鞘に納められた血に飢えた妖刀のごとき猫の獣人、シィナ。
愛らしく可憐な花を想起させる、今はまだ蕾に過ぎない小さな淫魔、アモル。
ワタシはまだあの子たちと知り合って間もない。あの子たちの過去だってろくに知らない。
それでも、あの子たちがそれぞれ自分ではどうにもできない苦しみを抱えていたことだけはわかる。
そして、ハロはそんな彼女たちに寄り添ってあげたんだろうということも。
ハロは……あの子は、どうしようもないくらい甘く、温いから。
それこそ、この争いと悪意に塗れた世界で育ってきたとは思えないほどに。
「妙に楽観的なんだよねぇ。ハロって」
魔法の才能だけ見れば並ぶ者がいないくらい突出しているのに、油断や見通しの甘さから危機に陥った回数は数知れない。
そしてそんな彼女を助けてやるたびに、あの子は『いつもありがとう』と飽きることなく感謝を伝えてきた。
そう何度もお礼を言うくらいなら、普段からもっとしっかりしてほしかったけど……。
でも、そんな日々を悪くないと思っていたワタシがいたことも確かだった。
当時は不死の呪いをどうにかしようとすることに必死で、自分の気持ちに向き合うだけの心の余裕がなかった。
だけど今は違う。ハロのおかげで、ワタシはワタシを一万年蝕んでいた呪いから解放された。
ハロと過ごしていた日々を悪くないと思っていたことに気づけた。一万年という長すぎる歳月の中で、夜空の星を眺める時間だけがワタシの心を安らげてくれていたことに気づけた。
ハロのことを、心から愛していた自分に気づけた。
「ハロ……」
瞼を閉じて、彼女と過ごした思い出に微睡む。
生きることが嫌いだった。他人と関わることが嫌いだった。
思い出に浸ろうだなんて、一度だって考えたこともなかった。
この穏やかな感覚は……ハロと出会わなければ、ついぞ知ることがなかったものだ。
そうやって幾何の時が過ぎただろうか。
不意にワタシは、誰かがワタシの部屋に近づいてくる気配を感じ取る。
感じ慣れた、愛おしい気配。
「リザ、いるかい?」
コンコンとワタシの部屋の扉をノックする音とともに、なんの気負いもない明るい声が聞こえてくる。
その時点で、ワタシはフィリアたち三人がどのような答えを出したのかを早々に察した。
まあフィリアに関しては、ワタシに魔法の修行をつけてもらえるよう昨日のうちにお願いしに来ていたから粗方わかってはいたことだけど。
「……入るよ」
返事をせずにいると、ハロは一言断りを入れて、ワタシの部屋の扉をゆっくりと開けた。
窓辺に座るワタシと目が合うと、ハロはワタシに近づいてくる。
「起きてたんだね、リザ」
「うん。昨晩はずっと起きてたよ」
「ずっとって……リザはもう不死じゃないんだから、あんまり体に悪いことしちゃダメだよ。自分を大事にしなきゃ」
「アハハ! 自分を大事に、かぁ。そんなことワタシに言ってくれたのハロが初めてだよ」
調子が悪くなってきたら魔法で回復すればいいだけだ。それでいつだって元通り。今までだってずっとそうしてきた。
だけどハロがこうして心配してくれるなら、そんな風に全部魔法で解決しちゃうのも考えものかもね。
だってもしもワタシが病気になったら、ハロはきっとワタシを看病してくれる。
自分の病気くらいワタシは一瞬で治せるけど……そんなのもったいないでしょ?
「ところでハロ。ハロは知ってると思うけど、ワタシは人の気配を探るのが得意なんだ」
「うん、それは知ってるけど……それがどうかした?」
「だからワタシは、昨日は一晩中ハロとフィリアが同じ部屋にいたことも知ってる」
「えっ」
「フフ。ゆうべはお楽しみだったねぇ、ハロ?」
「~~っ!」
からかうように言ってみると、ハロは見る見るうちに顔を紅潮させていく。
もー。初々しくて可愛いなぁ、ハロは。
エルフ特有の長い耳の先まで真っ赤にして、恥ずかしげに俯き、もじもじと膝をすり合わせている。
まあでも正直、気配はわかっても声までは聞こえないから、お楽しみ云々はただの当てずっぽうだったんだけど……この様子だと確定と見て良さそうか。
ハロはワタシの想い人だけど、ハロが別の誰かと情事を重ねることに関して思うところは特にない。
歴史上、偉大な人物がその遺伝子を多く残すために複数の妻を娶ることなんて数多くあったことだ。大して嫉妬するほどのことでもない。
とは言え、まあ……あのメス牛にハロとの経験があってワタシにはないってのも癪だからね。
今度、折を見てハロに夜這いを仕掛けてみるのも良いかもしれない。
一度経験したなら多少激しくしても問題ないだろうしね。
フフ……その時は、ワタシが目一杯気持ちよくしてあげるからね、ハロ。
「こほん! ……ゆ、ゆうべのことはともかく……そろそろ朝食ができるってフィリアが言ってたから、リザのことを呼びに来たんだ」
「……そっか」
気を取り直すようにハロが話題を切り替える。
まだ少し顔が赤かったが、ハロ相手に意地悪く指摘するような真似はしない。
代わりにワタシは……一度、心を切り替えるように深く息をついた。
そしてハロに向かって、懺悔するように頭を下げる。
「リザ……?」
「ごめんね、ハロ」
きっとハロは、勝手なことをしでかして責任を感じているだろうワタシに気を遣ってくれていたんだろう。
本題を伏せていつも通りに接することで、ワタシに話さない選択肢を掲示してくれていた。
だけど、やっぱりケジメはつけないとダメだ。
この家に初めて来た時にワタシは一度、ハロの大事なものを奪いかけた。
そして今度は二度目。誤魔化すことは許されない。
「ワタシはハロに断りも入れないで、ハロがずっと秘密にしてたことを……ハロがワタシから不死の呪いを受け継いだってことを、あの子たちに話した。あの子たちがあなたから離れちゃうかもしれないことを知りながら全部を話したの」
「……」
今回の件を有耶無耶にするつもりがない私の気を察したんだろう。
ハロはしばしの間沈黙した後、静かに口を開く。
「違うよ、リザ。あれは私の秘密じゃない。リザの秘密だ」
「……なにそれ。あの呪いは、今はもうワタシじゃなくてハロの中にあるでしょ? ワタシのことなんて気にしなくたっていいじゃん」
「ううん、気にするよ。この不死の特性について話すなら、リザについても話さなきゃいけなくなる。リザがどんな経験をしてきたかとか、どれだけ苦しんできたかとか……リザが誰かに同情されることなんて望んでないことは私が一番よく知ってる。だから」
「だから、今まで言わなかったの?」
ハロは頷く。
「……バッカみたい」
「ごめんね」
「なんでハロが謝るの? 謝るのは……謝らなきゃいけないのは、ワタシの方なのに……」
ハロがワタシに罪悪感を抱くのはお門違いだ。
本当に悪いのは……ハロに重荷を押しつけ続けているのは、いつだってワタシの方だった。
まだワタシの中に不死の呪いがあった頃も、そうだ。
ワタシはワタシを心から慕ってくれていたハロに、ワタシの存在を終わらせてほしいだなんて、ハロが一番したくなかっただろうことを望んだ。
あの残酷な約束で、ハロはいったいどれだけ悩んだことだろう。いったいどれだけ苦しんだことだろう。
不死の呪いだけを奪い、ワタシの命をそのまま残す――。
そんなまどろっこしいことをせずとも、呪いごとワタシの命まで奪ってしまった方が、きっと何倍も楽だっただろうに。
ワタシなんかの命をこの世に残すために……ただそれだけのために、いったいどれだけ必死に魔法の研究と修練に励んだことだろう。
昔も今も。
ワタシはいつだってハロに迷惑をかけてばかりで、なにも返せてなんかいない。
「……ねえ、リザ。私はね、リザが考えてるほどいろんなことに苦しんでるわけじゃないよ」
「え……?」
後ろめたさからハロと視線を合わせられずにいると、不意にハロがそんなことを言ってくる。
反射的に顔を上げると、ハロは優しい微笑みを浮かべてワタシを見つめていた。
「フィリアたちと出会う前……まだ私が未熟で危なっかしかった頃。リザはいつも私のそばにいて、私のことを見ててくれたよね」
危なっかしいのは今もだけど……まあいいか。
「そのおかげで私、毎日が全然寂しくなくてさ。もっとリザと一緒にいたいって思ったんだ。で、それなら不死の力だけをうまいことできないかなーって、リザの目を盗んでこっそり頑張ってみたりとかして……ふふ。ちょっと悪いことしてるみたいで楽しかったな」
「楽しかったって……」
「リザを殺すために頑張るのは嫌だったから。でも、リザの苦しみをどうにかして一緒にいるためだったら、いくらでも頑張れたよ。その毎日はこれっぽっちも辛くなんてなかった」
「……結局、ワタシはあなたから逃げちゃったのに」
「だけどこうして戻ってきてくれた。それだけでじゅうぶんだよ。私の気持ちは、あの時と少しも変わらない」
「……」
ハロはやっぱり、甘すぎる。
そんなんだから……ワタシなんかに好かれちゃうんだよ。
「今は私の中にある、不死の特性のことだってそうだ。リザは私がフィリアを弟子に迎えたこと、不死の呪いをどうにかしようとしたからだって思ってるみたいだけど……別にそこまで深く考えてたわけじゃないというか」
「そうなの……? それじゃあどうして、ハロはあの子を選んだの?」
「えっ!? あー、うーんと……ひ、一目惚れ……かなぁ?」
なんで疑問形? なんか妙に挙動不審で怪しいけど……。
一目惚れ……。
まさか胸が大きかったから、なんていうくだらない理由なはずもないし……別にそこまで気にしなくてもいいか。
「ともかく! そんな感じで、不死のことは今はまだそこまで気にしてなくてね。そこまで長く生きてもいないから実感も薄いしさ。もしもリザが呪いのこと話しても良いって言ってくれてたなら……んー、皆との話の中で年齢の話題でも出た時に流れで話しちゃってたかもしれないね」
「いや……そんな軽いノリで急に不死の呪いのことなんて話したら、あの子たちの心はしっちゃかめっちゃかになっちゃうと思うけど……」
「あはは……今思うとそうかもね。そこはやっぱり私の見通しが甘すぎたというか……」
ハロはバツが悪そうに頬をかく。
「でもさ、リザ。フィリアたちには話してなかったみたいだけど、リザなら最初から気がついてたはずでしょ? 私がリザから呪いを受け継いだのと同じように、私はこの呪いを他人に押しつけることもできるって」
……はぁ。
なんでそこまで不死の呪いを軽く捉えられるのかと思ってたら、そういうことか……。
いつだって呪いから逃れることができる。誰かに押しつけることができる。だから自分は平気だ。
ずっとそんな風に思いながら、今日までハロはのほほんと生き続けてきたのだろう。
……いざ他人に呪いを押しつける瞬間が訪れた時、自分にそんな残酷な決断が下せるのかなんてことは微塵も考えずに。
「ほんっと……バッカみたい」
「に、二回も言う……?」
言うよ。だってほんとのことだもん。
……でも。
でもきっとワタシなら……もしハロと同じ、不死の呪いを移動させる魔法をワタシが使えたなら。
ワタシはきっと、躊躇なく他人に呪いを押しつけてしまえるんだろうな。
ううん……だろうじゃない。事実、そうなんだ。
ワタシにハロと同じ魔法は使えない。だけどハロは使える。ハロなら他人に押しつけられる。そしてハロは身内にはいつだって隙だらけだ。
本当にハロの未来の苦しみを思うなら。それをなくしたいと願うなら。
ワタシはハロを魅了の魔法なりなんなりで操って、もう一度あの魔法をワタシに使わせればいい。
そうして不死の呪いを再びこの身に受けて……それから、ハロの前に姿を現さなければいい。
そうすれば、ハロはもう二度と不死の呪いに苦しむことはなくなる。
だけどワタシにはどうしてもそれができない。
……怖いからだ。もう一度、あの永劫に終わらない苦痛に満ちた日々に戻るのが怖いから。死ねなくなるのが怖いから。
ハロのことを好きだと、愛していると嘯きながら……本当に大切なのは自分自身でしかないんだ。
どこまでいっても、ワタシはワタシのためにしか生きられない。
ハロの優しさに甘え、呪いを押しつけ続けている。そのくせしてハロが許してくれるからと自分に言い訳をしながら、平気な顔をしてハロの隣にいる。
本当、嫌になる。嫌いだ。大嫌いだ……自分自身が一番。
「……でも、うん。ふふ、だからこそ……ありがとね、リザ。皆に、不死の呪いのことを話してくれて」
「え?」
ありがとう? 今、ありがとうって言ったの? ワタシに?
……どうして?
「ワタシのせいで、あの子たちが皆、あなたから離れちゃってたかもしれないんだよ……? なのになんで……ワタシにお礼なんか言うの?」
「や、だってねぇ……さっきリザも言ってたでしょ? そんな軽いノリで急に不死の呪いのことなんて話したら、あの子たちの心はしっちゃかめっちゃかだったと思うって。私は自分のことだから楽観的に見ちゃってたけど……実際問題、かなり重く捉えられちゃってたし」
「そりゃそうだよ……っていうかワタシ、不死がどれだけ苦しいかってハロに嫌って言うほど話したはずなのに、なんでハロはそんなに楽観的なのさ」
「あはは……うん。実は今回はちょっと真面目に反省してる。そもそもよく考えなくても不老不死なんて何十年も一緒にいれば絶対バレるし……後になってそんな重大なこと発覚したら、もっと酷いことになってたと思ったからさ」
「だから……ありがとうって?」
「うん。皆のために……私のために、大事なことを皆に伝えてくれてありがとう。リザ」
……なにそれ。
皆のため? ハロのため?
違う。違うよ、ハロ。
本当は全部、ワタシのせいなのに。ワタシのせいだって知ってるくせに……なんでハロはそんなことが言えるの?
生まれてこなければ……ワタシが初めから生まれてさえこなければ。
ハロがワタシの代わりに不死の呪いを背負う必要なんてなかったのに。
なんの憂いもなく未来を生きられたはずなのに。
ハロのことが大好きなあの子たちだって、気兼ねもなくハロと一緒にいることができたはずなのに。
ワタシが生まれてきたせいでこうなった。
ワタシが自分のことしか考えられないクズだから、ハロにも、あの子たちにも、重すぎるくらいの負担を押しつけて……。
「ふふ。リザにはいつも助けてもらってばっかりだね。まだ私がリザに魔法を教わってた頃も、リザはいつだってこんな風に私のことを見守って気にかけてくれてたよね。感謝してもし足りないや」
「……」
「……その、さ。リザ。実は私、前々からリザに言ってあげたかったことがあるんだ。こんなこと言うとリザが怒るかもって思って、言えずにいたんだけど……」
「……ハロの言うことなら、なんだって怒らないよ」
「そう? じゃあ……言うからね?」
ワタシをまっすぐに見つめて……いつか好きだった、遠い記憶のあの子と同じ笑顔で。
透き通った優しい声で、ハロは言った。
「――生まれてきてくれてありがとう。リザ」
「――――」
「リザが私を育ててくれたから、私はこの世界で生きていく術を身につけることができた。リザがいつもそばにいてくれたから、私は寂しさを感じずに今の人生を受け入れることができた。リザがいつだって私を見守っててくれたから……私は私のまま、フィリアやシィナ、アモルと巡り合うことができた」
「ぁ……」
「生まれてきたことを後悔しながら生きている君に……こんなこと言ってもいいのか、ずっとわからなかった。でもさリザ。やっぱりこれが私の正直な気持ちなんだ」
なにを言ってるんだろう。この子は。
死にたくて死にたくてしかたがなくて。生きることが苦痛でしかなくて。この世界の全部が大っ嫌いで。
生まれてなんてこなければよかった。この一万年で、そんなこと何度思ったかもわからないのに。
そんなワタシに……生まれてきてくれてありがとう、だって?
どうして……どうしてそんな酷いことが言えるんだろう。
こんなの、怒られて当たり前だ。嫌われて当然だ。ワタシのことを少しでも知っているなら、口にすることすら憚れるだろう。
理解できない。意味がわからない。それなのに。
どうして……ワタシはこんなにも、満たされた気持ちになっているんだろう。
「リザ……?」
「う、ぅぅ……ぁっ……ぁぁっ……」
悲しくなんてないのに、寂しくなんてないのに……涙なんて、とっくに枯れ果てたと思ってたのに。
視界が滲む。感情が制御できない。次から次へと、理解できない気持ちが胸の内からこみ上げてくる。
「リザ……ごめん。やっぱり私、酷いこと言っちゃったよね」
「そう、だよ……! ばかっ……ばかぁっ! なんでそんなっ、ひこと……このワタシにっ、言えるの……?」
知ってるくせに。わかってるくせに。全部、全部!
なのに、どうしてそんな酷いことが平気で言えるんだ。
どうしてハロは、いつもいつも……。
「ごめんね」
「あやまら、ないでよぉ……!」
ずるい。こんなの、ずるい。
泣き顔をこれ以上見られたくなくて、ワタシは翅を動かしてハロの胸に飛び込む。
ハロはそんな私をたたらを踏みながら受け止めると、しかたがなさそうに笑って、ワタシの頭を撫でてくれた。
「ねぇ、リザ。私はさ、いつかリザに『生まれてきてよかった』って思ってもらいたいんだ」
「……むりだよ。そんな日、ぜったいこない……」
「……うん。そうかもしれない。それはたぶん、不死の呪いを消し去る以上に難しいことだろうから……それでも」
ハロは閉め切られたカーテンに手をかけると、それを開け放った。
薄暗かった室内に眩い光が差し込んで、ワタシとハロを優しく包み込む。
嫌いなはずの日差しの温かさが……どうしてか、今だけは心地がいい。
「いつかリザが『生まれてきてよかった』って思える日が来るまで、私はずっと隣にいるから」
「っ……」
「一緒に生きていこう、リザ。それでいつかリザが心の底から『生まれてきてよかった』って思えたその時には……ちゃんと私にも教えてね?」
「ぁ……ぅ……」
「約束だよ」
そうしてハロは笑って、ワタシに小指を差し出してきた。
情けないワタシは怖くて、いっぱいいっぱい躊躇して。
それでもハロはそんな私をいつまでも根気強く待っていてくれて。
やがてワタシは震える手を伸ばし、ハロの小指にそっと自分の小指を絡めた。
「うん……約束」
それは、いつか彼女と交わした『ワタシを終わらせること』と比べれば……ずっとずっと曖昧で、儚くて、脆い約束だったけれど。
でも……そんなものよりもずっとずっと大切で、優しくて、幸せな約束だった。
ずっと昔。
故郷を焼かれ、不死を自覚し、唯一の友だったあの子との記憶を自らの意思で消し去ってしまってから、ワタシの見る世界は色褪せてしまった。
感じているはずの楽しさは偽物のように現実味がなく、人の営みが稚拙で出来の悪い茶番にしか見えない。ワタシだけが世界から切り離されたかのように浮いている。
いつしか世界が嫌いになった。他人が嫌いになった。ワタシに感情を教えた、好きだったはずのあの子が嫌いになった。
そして誰よりも……自分自身を嫌いになった。
――■■ちゃんは、こうして誰かと触れ合いたいだけなんだね。
とっくに忘れたはずなのに。あの子の顔も、声も、名前だってワタシはもう覚えていないのに。
別れから一万年以上が過ぎた今も、未だ頭をよぎる情景がある。
灰色に燻った残滓のような記憶の中で、あの子はいつだって笑っていた。
なにがそんなに面白いんだろう。なにがそんなに嬉しいんだろう。
こんなワタシと一緒にいることの、いったいなにがそんなに楽しいんだろう。
生きることに苦痛を感じるようになってから、ワタシは、生まれてきたことを後悔しなかった日はない。
……別に、これはあの子のせいじゃない。
もしもあの子と出会わなかったって、ワタシが不死の呪いを宿して生まれた以上、いずれこの結論に至ることは明白だった。
これは大嫌いで理不尽な世界からワタシに与えられた運命であり、逃れられない宿命なんだ。
そしてその考えは……ハロと出会った今も、なに一つ変わらない。
不吉で醜く気味が悪い。親しい人すら滅ぼす異端の存在。
どこまでいったところで、結局それがワタシの正体なんだから。
だからきっと、ワタシなんか本当は初めから生まれてこない方がよかったんだと。
今も変わらず、ワタシはずっとそう思い続けている。
カーテンを閉じ切った薄暗い部屋の中、窓辺に腰をかけたワタシは、カチカチと時計が針を刻む音を聴きながら、ぼんやりと天井を仰いでいた。
別に、なにか物思いに耽っていたというわけではない。
昨晩はどうにも寝る気分になれず、かと言って特にやることもなく……気がつけば、一晩中ここで漫然と過ごしてしまっていただけの話だ。
カーテンを閉じているのは、暗い方が落ちつくから。
何時間も同じ場所でじっとしていることは人によっては退屈だと感じるかもしれない。でも退屈なんてもの、ワタシはこの一万年で飽きるほど味わってきた。
それに、長く生きていると時間の感覚も曖昧になってくるものだ。数分も数時間も大して変わらない。
なにかをしていないと落ちつかないほど若いわけでもないし……手持ち無沙汰だからと言って、自分で自分を慰めようと思い至るほど精力に溢れているわけでもない。
ハロが求めてくれるならやぶさかでもないけれど、一人で快楽を貪ることにはあいにくと欠片も興味がなかった。
……ああでも、そうだな。
この窓辺から動いていない事実に変わりはないけれど、強いて言うなら、昨晩は夜空を眺めていた。
ワタシに不死の呪いを与えたこの世界は嫌いだが、夜空はそこまで嫌いじゃない。
夜の空に煌めく星々は、ワタシがこの世界で綺麗だと感じる数少ないものの一つだ。
かつてハロに魔法を教えていた頃も、寝ているハロの護衛をしながら、彼女の寝顔と夜の星を眺めていたものだった。
まあ結局、朝方になるに連れて昇ってくる日の光が煩わしくなり、気がついた時にはこうしてカーテンを閉め切ってしまったのだが。
夜の空は嫌いじゃないが、晴れた昼の青空は嫌いだ。
生きることに苦痛を覚えていたワタシの気も知らないで、皆を照らしてるとでも言いたげな傲慢な顔で、いつもいつも高いところからワタシを見下ろしていやがったから。
「あの子たちは……もう答えを出した後なのかな」
天井を見上げたまま、ワタシは三人の少女の姿を頭の中に思い浮かべる。
青空に浮かぶ太陽のように気に食わないハロの弟子、フィリア。
ハロという鞘に納められた血に飢えた妖刀のごとき猫の獣人、シィナ。
愛らしく可憐な花を想起させる、今はまだ蕾に過ぎない小さな淫魔、アモル。
ワタシはまだあの子たちと知り合って間もない。あの子たちの過去だってろくに知らない。
それでも、あの子たちがそれぞれ自分ではどうにもできない苦しみを抱えていたことだけはわかる。
そして、ハロはそんな彼女たちに寄り添ってあげたんだろうということも。
ハロは……あの子は、どうしようもないくらい甘く、温いから。
それこそ、この争いと悪意に塗れた世界で育ってきたとは思えないほどに。
「妙に楽観的なんだよねぇ。ハロって」
魔法の才能だけ見れば並ぶ者がいないくらい突出しているのに、油断や見通しの甘さから危機に陥った回数は数知れない。
そしてそんな彼女を助けてやるたびに、あの子は『いつもありがとう』と飽きることなく感謝を伝えてきた。
そう何度もお礼を言うくらいなら、普段からもっとしっかりしてほしかったけど……。
でも、そんな日々を悪くないと思っていたワタシがいたことも確かだった。
当時は不死の呪いをどうにかしようとすることに必死で、自分の気持ちに向き合うだけの心の余裕がなかった。
だけど今は違う。ハロのおかげで、ワタシはワタシを一万年蝕んでいた呪いから解放された。
ハロと過ごしていた日々を悪くないと思っていたことに気づけた。一万年という長すぎる歳月の中で、夜空の星を眺める時間だけがワタシの心を安らげてくれていたことに気づけた。
ハロのことを、心から愛していた自分に気づけた。
「ハロ……」
瞼を閉じて、彼女と過ごした思い出に微睡む。
生きることが嫌いだった。他人と関わることが嫌いだった。
思い出に浸ろうだなんて、一度だって考えたこともなかった。
この穏やかな感覚は……ハロと出会わなければ、ついぞ知ることがなかったものだ。
そうやって幾何の時が過ぎただろうか。
不意にワタシは、誰かがワタシの部屋に近づいてくる気配を感じ取る。
感じ慣れた、愛おしい気配。
「リザ、いるかい?」
コンコンとワタシの部屋の扉をノックする音とともに、なんの気負いもない明るい声が聞こえてくる。
その時点で、ワタシはフィリアたち三人がどのような答えを出したのかを早々に察した。
まあフィリアに関しては、ワタシに魔法の修行をつけてもらえるよう昨日のうちにお願いしに来ていたから粗方わかってはいたことだけど。
「……入るよ」
返事をせずにいると、ハロは一言断りを入れて、ワタシの部屋の扉をゆっくりと開けた。
窓辺に座るワタシと目が合うと、ハロはワタシに近づいてくる。
「起きてたんだね、リザ」
「うん。昨晩はずっと起きてたよ」
「ずっとって……リザはもう不死じゃないんだから、あんまり体に悪いことしちゃダメだよ。自分を大事にしなきゃ」
「アハハ! 自分を大事に、かぁ。そんなことワタシに言ってくれたのハロが初めてだよ」
調子が悪くなってきたら魔法で回復すればいいだけだ。それでいつだって元通り。今までだってずっとそうしてきた。
だけどハロがこうして心配してくれるなら、そんな風に全部魔法で解決しちゃうのも考えものかもね。
だってもしもワタシが病気になったら、ハロはきっとワタシを看病してくれる。
自分の病気くらいワタシは一瞬で治せるけど……そんなのもったいないでしょ?
「ところでハロ。ハロは知ってると思うけど、ワタシは人の気配を探るのが得意なんだ」
「うん、それは知ってるけど……それがどうかした?」
「だからワタシは、昨日は一晩中ハロとフィリアが同じ部屋にいたことも知ってる」
「えっ」
「フフ。ゆうべはお楽しみだったねぇ、ハロ?」
「~~っ!」
からかうように言ってみると、ハロは見る見るうちに顔を紅潮させていく。
もー。初々しくて可愛いなぁ、ハロは。
エルフ特有の長い耳の先まで真っ赤にして、恥ずかしげに俯き、もじもじと膝をすり合わせている。
まあでも正直、気配はわかっても声までは聞こえないから、お楽しみ云々はただの当てずっぽうだったんだけど……この様子だと確定と見て良さそうか。
ハロはワタシの想い人だけど、ハロが別の誰かと情事を重ねることに関して思うところは特にない。
歴史上、偉大な人物がその遺伝子を多く残すために複数の妻を娶ることなんて数多くあったことだ。大して嫉妬するほどのことでもない。
とは言え、まあ……あのメス牛にハロとの経験があってワタシにはないってのも癪だからね。
今度、折を見てハロに夜這いを仕掛けてみるのも良いかもしれない。
一度経験したなら多少激しくしても問題ないだろうしね。
フフ……その時は、ワタシが目一杯気持ちよくしてあげるからね、ハロ。
「こほん! ……ゆ、ゆうべのことはともかく……そろそろ朝食ができるってフィリアが言ってたから、リザのことを呼びに来たんだ」
「……そっか」
気を取り直すようにハロが話題を切り替える。
まだ少し顔が赤かったが、ハロ相手に意地悪く指摘するような真似はしない。
代わりにワタシは……一度、心を切り替えるように深く息をついた。
そしてハロに向かって、懺悔するように頭を下げる。
「リザ……?」
「ごめんね、ハロ」
きっとハロは、勝手なことをしでかして責任を感じているだろうワタシに気を遣ってくれていたんだろう。
本題を伏せていつも通りに接することで、ワタシに話さない選択肢を掲示してくれていた。
だけど、やっぱりケジメはつけないとダメだ。
この家に初めて来た時にワタシは一度、ハロの大事なものを奪いかけた。
そして今度は二度目。誤魔化すことは許されない。
「ワタシはハロに断りも入れないで、ハロがずっと秘密にしてたことを……ハロがワタシから不死の呪いを受け継いだってことを、あの子たちに話した。あの子たちがあなたから離れちゃうかもしれないことを知りながら全部を話したの」
「……」
今回の件を有耶無耶にするつもりがない私の気を察したんだろう。
ハロはしばしの間沈黙した後、静かに口を開く。
「違うよ、リザ。あれは私の秘密じゃない。リザの秘密だ」
「……なにそれ。あの呪いは、今はもうワタシじゃなくてハロの中にあるでしょ? ワタシのことなんて気にしなくたっていいじゃん」
「ううん、気にするよ。この不死の特性について話すなら、リザについても話さなきゃいけなくなる。リザがどんな経験をしてきたかとか、どれだけ苦しんできたかとか……リザが誰かに同情されることなんて望んでないことは私が一番よく知ってる。だから」
「だから、今まで言わなかったの?」
ハロは頷く。
「……バッカみたい」
「ごめんね」
「なんでハロが謝るの? 謝るのは……謝らなきゃいけないのは、ワタシの方なのに……」
ハロがワタシに罪悪感を抱くのはお門違いだ。
本当に悪いのは……ハロに重荷を押しつけ続けているのは、いつだってワタシの方だった。
まだワタシの中に不死の呪いがあった頃も、そうだ。
ワタシはワタシを心から慕ってくれていたハロに、ワタシの存在を終わらせてほしいだなんて、ハロが一番したくなかっただろうことを望んだ。
あの残酷な約束で、ハロはいったいどれだけ悩んだことだろう。いったいどれだけ苦しんだことだろう。
不死の呪いだけを奪い、ワタシの命をそのまま残す――。
そんなまどろっこしいことをせずとも、呪いごとワタシの命まで奪ってしまった方が、きっと何倍も楽だっただろうに。
ワタシなんかの命をこの世に残すために……ただそれだけのために、いったいどれだけ必死に魔法の研究と修練に励んだことだろう。
昔も今も。
ワタシはいつだってハロに迷惑をかけてばかりで、なにも返せてなんかいない。
「……ねえ、リザ。私はね、リザが考えてるほどいろんなことに苦しんでるわけじゃないよ」
「え……?」
後ろめたさからハロと視線を合わせられずにいると、不意にハロがそんなことを言ってくる。
反射的に顔を上げると、ハロは優しい微笑みを浮かべてワタシを見つめていた。
「フィリアたちと出会う前……まだ私が未熟で危なっかしかった頃。リザはいつも私のそばにいて、私のことを見ててくれたよね」
危なっかしいのは今もだけど……まあいいか。
「そのおかげで私、毎日が全然寂しくなくてさ。もっとリザと一緒にいたいって思ったんだ。で、それなら不死の力だけをうまいことできないかなーって、リザの目を盗んでこっそり頑張ってみたりとかして……ふふ。ちょっと悪いことしてるみたいで楽しかったな」
「楽しかったって……」
「リザを殺すために頑張るのは嫌だったから。でも、リザの苦しみをどうにかして一緒にいるためだったら、いくらでも頑張れたよ。その毎日はこれっぽっちも辛くなんてなかった」
「……結局、ワタシはあなたから逃げちゃったのに」
「だけどこうして戻ってきてくれた。それだけでじゅうぶんだよ。私の気持ちは、あの時と少しも変わらない」
「……」
ハロはやっぱり、甘すぎる。
そんなんだから……ワタシなんかに好かれちゃうんだよ。
「今は私の中にある、不死の特性のことだってそうだ。リザは私がフィリアを弟子に迎えたこと、不死の呪いをどうにかしようとしたからだって思ってるみたいだけど……別にそこまで深く考えてたわけじゃないというか」
「そうなの……? それじゃあどうして、ハロはあの子を選んだの?」
「えっ!? あー、うーんと……ひ、一目惚れ……かなぁ?」
なんで疑問形? なんか妙に挙動不審で怪しいけど……。
一目惚れ……。
まさか胸が大きかったから、なんていうくだらない理由なはずもないし……別にそこまで気にしなくてもいいか。
「ともかく! そんな感じで、不死のことは今はまだそこまで気にしてなくてね。そこまで長く生きてもいないから実感も薄いしさ。もしもリザが呪いのこと話しても良いって言ってくれてたなら……んー、皆との話の中で年齢の話題でも出た時に流れで話しちゃってたかもしれないね」
「いや……そんな軽いノリで急に不死の呪いのことなんて話したら、あの子たちの心はしっちゃかめっちゃかになっちゃうと思うけど……」
「あはは……今思うとそうかもね。そこはやっぱり私の見通しが甘すぎたというか……」
ハロはバツが悪そうに頬をかく。
「でもさ、リザ。フィリアたちには話してなかったみたいだけど、リザなら最初から気がついてたはずでしょ? 私がリザから呪いを受け継いだのと同じように、私はこの呪いを他人に押しつけることもできるって」
……はぁ。
なんでそこまで不死の呪いを軽く捉えられるのかと思ってたら、そういうことか……。
いつだって呪いから逃れることができる。誰かに押しつけることができる。だから自分は平気だ。
ずっとそんな風に思いながら、今日までハロはのほほんと生き続けてきたのだろう。
……いざ他人に呪いを押しつける瞬間が訪れた時、自分にそんな残酷な決断が下せるのかなんてことは微塵も考えずに。
「ほんっと……バッカみたい」
「に、二回も言う……?」
言うよ。だってほんとのことだもん。
……でも。
でもきっとワタシなら……もしハロと同じ、不死の呪いを移動させる魔法をワタシが使えたなら。
ワタシはきっと、躊躇なく他人に呪いを押しつけてしまえるんだろうな。
ううん……だろうじゃない。事実、そうなんだ。
ワタシにハロと同じ魔法は使えない。だけどハロは使える。ハロなら他人に押しつけられる。そしてハロは身内にはいつだって隙だらけだ。
本当にハロの未来の苦しみを思うなら。それをなくしたいと願うなら。
ワタシはハロを魅了の魔法なりなんなりで操って、もう一度あの魔法をワタシに使わせればいい。
そうして不死の呪いを再びこの身に受けて……それから、ハロの前に姿を現さなければいい。
そうすれば、ハロはもう二度と不死の呪いに苦しむことはなくなる。
だけどワタシにはどうしてもそれができない。
……怖いからだ。もう一度、あの永劫に終わらない苦痛に満ちた日々に戻るのが怖いから。死ねなくなるのが怖いから。
ハロのことを好きだと、愛していると嘯きながら……本当に大切なのは自分自身でしかないんだ。
どこまでいっても、ワタシはワタシのためにしか生きられない。
ハロの優しさに甘え、呪いを押しつけ続けている。そのくせしてハロが許してくれるからと自分に言い訳をしながら、平気な顔をしてハロの隣にいる。
本当、嫌になる。嫌いだ。大嫌いだ……自分自身が一番。
「……でも、うん。ふふ、だからこそ……ありがとね、リザ。皆に、不死の呪いのことを話してくれて」
「え?」
ありがとう? 今、ありがとうって言ったの? ワタシに?
……どうして?
「ワタシのせいで、あの子たちが皆、あなたから離れちゃってたかもしれないんだよ……? なのになんで……ワタシにお礼なんか言うの?」
「や、だってねぇ……さっきリザも言ってたでしょ? そんな軽いノリで急に不死の呪いのことなんて話したら、あの子たちの心はしっちゃかめっちゃかだったと思うって。私は自分のことだから楽観的に見ちゃってたけど……実際問題、かなり重く捉えられちゃってたし」
「そりゃそうだよ……っていうかワタシ、不死がどれだけ苦しいかってハロに嫌って言うほど話したはずなのに、なんでハロはそんなに楽観的なのさ」
「あはは……うん。実は今回はちょっと真面目に反省してる。そもそもよく考えなくても不老不死なんて何十年も一緒にいれば絶対バレるし……後になってそんな重大なこと発覚したら、もっと酷いことになってたと思ったからさ」
「だから……ありがとうって?」
「うん。皆のために……私のために、大事なことを皆に伝えてくれてありがとう。リザ」
……なにそれ。
皆のため? ハロのため?
違う。違うよ、ハロ。
本当は全部、ワタシのせいなのに。ワタシのせいだって知ってるくせに……なんでハロはそんなことが言えるの?
生まれてこなければ……ワタシが初めから生まれてさえこなければ。
ハロがワタシの代わりに不死の呪いを背負う必要なんてなかったのに。
なんの憂いもなく未来を生きられたはずなのに。
ハロのことが大好きなあの子たちだって、気兼ねもなくハロと一緒にいることができたはずなのに。
ワタシが生まれてきたせいでこうなった。
ワタシが自分のことしか考えられないクズだから、ハロにも、あの子たちにも、重すぎるくらいの負担を押しつけて……。
「ふふ。リザにはいつも助けてもらってばっかりだね。まだ私がリザに魔法を教わってた頃も、リザはいつだってこんな風に私のことを見守って気にかけてくれてたよね。感謝してもし足りないや」
「……」
「……その、さ。リザ。実は私、前々からリザに言ってあげたかったことがあるんだ。こんなこと言うとリザが怒るかもって思って、言えずにいたんだけど……」
「……ハロの言うことなら、なんだって怒らないよ」
「そう? じゃあ……言うからね?」
ワタシをまっすぐに見つめて……いつか好きだった、遠い記憶のあの子と同じ笑顔で。
透き通った優しい声で、ハロは言った。
「――生まれてきてくれてありがとう。リザ」
「――――」
「リザが私を育ててくれたから、私はこの世界で生きていく術を身につけることができた。リザがいつもそばにいてくれたから、私は寂しさを感じずに今の人生を受け入れることができた。リザがいつだって私を見守っててくれたから……私は私のまま、フィリアやシィナ、アモルと巡り合うことができた」
「ぁ……」
「生まれてきたことを後悔しながら生きている君に……こんなこと言ってもいいのか、ずっとわからなかった。でもさリザ。やっぱりこれが私の正直な気持ちなんだ」
なにを言ってるんだろう。この子は。
死にたくて死にたくてしかたがなくて。生きることが苦痛でしかなくて。この世界の全部が大っ嫌いで。
生まれてなんてこなければよかった。この一万年で、そんなこと何度思ったかもわからないのに。
そんなワタシに……生まれてきてくれてありがとう、だって?
どうして……どうしてそんな酷いことが言えるんだろう。
こんなの、怒られて当たり前だ。嫌われて当然だ。ワタシのことを少しでも知っているなら、口にすることすら憚れるだろう。
理解できない。意味がわからない。それなのに。
どうして……ワタシはこんなにも、満たされた気持ちになっているんだろう。
「リザ……?」
「う、ぅぅ……ぁっ……ぁぁっ……」
悲しくなんてないのに、寂しくなんてないのに……涙なんて、とっくに枯れ果てたと思ってたのに。
視界が滲む。感情が制御できない。次から次へと、理解できない気持ちが胸の内からこみ上げてくる。
「リザ……ごめん。やっぱり私、酷いこと言っちゃったよね」
「そう、だよ……! ばかっ……ばかぁっ! なんでそんなっ、ひこと……このワタシにっ、言えるの……?」
知ってるくせに。わかってるくせに。全部、全部!
なのに、どうしてそんな酷いことが平気で言えるんだ。
どうしてハロは、いつもいつも……。
「ごめんね」
「あやまら、ないでよぉ……!」
ずるい。こんなの、ずるい。
泣き顔をこれ以上見られたくなくて、ワタシは翅を動かしてハロの胸に飛び込む。
ハロはそんな私をたたらを踏みながら受け止めると、しかたがなさそうに笑って、ワタシの頭を撫でてくれた。
「ねぇ、リザ。私はさ、いつかリザに『生まれてきてよかった』って思ってもらいたいんだ」
「……むりだよ。そんな日、ぜったいこない……」
「……うん。そうかもしれない。それはたぶん、不死の呪いを消し去る以上に難しいことだろうから……それでも」
ハロは閉め切られたカーテンに手をかけると、それを開け放った。
薄暗かった室内に眩い光が差し込んで、ワタシとハロを優しく包み込む。
嫌いなはずの日差しの温かさが……どうしてか、今だけは心地がいい。
「いつかリザが『生まれてきてよかった』って思える日が来るまで、私はずっと隣にいるから」
「っ……」
「一緒に生きていこう、リザ。それでいつかリザが心の底から『生まれてきてよかった』って思えたその時には……ちゃんと私にも教えてね?」
「ぁ……ぅ……」
「約束だよ」
そうしてハロは笑って、ワタシに小指を差し出してきた。
情けないワタシは怖くて、いっぱいいっぱい躊躇して。
それでもハロはそんな私をいつまでも根気強く待っていてくれて。
やがてワタシは震える手を伸ばし、ハロの小指にそっと自分の小指を絡めた。
「うん……約束」
それは、いつか彼女と交わした『ワタシを終わらせること』と比べれば……ずっとずっと曖昧で、儚くて、脆い約束だったけれど。
でも……そんなものよりもずっとずっと大切で、優しくて、幸せな約束だった。