「お姉ちゃん……わたし……」
私と視線が合ってすぐに、アモルはくしゃりと顔を歪ませた。
瞳にはジワリと涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうになっている。
「大丈夫。落ちついて、アモル。私はどこにも行かないよ。ほら、好きなだけ抱きついてくれていいから」
「うん……!」
私の言葉を聞いて安心したのか、アモルはさらにギュッと強く私に抱きついてきた。
私はそれに応えるようにして、アモルの背中に腕を回して、あやすように背中をポンポンと叩く。
そのまま私の胸に顔を埋めてグスグスと鼻を鳴らしていたものの、しばらくすると落ちついてきたようで、私の胸から離れて私を見上げた。
「お姉ちゃん……あのね、あのね」
「ゆっくりでいいから。落ちついて話してみて?」
私の問いかけに小さくコクリと首肯したアモルは、再び私の胸に顔を埋めたあと、ポツリポツリと話し始めた。
「わたしね。妖精さんから……お姉ちゃんが、不死だって聞いたの」
「うん」
「わたしはまだ全然生きてないから、不死のことはよくわからないけど……妖精さんは……一人ぼっちだった頃のこと、話してくれた妖精さんは……すごく辛そうで……寂しそう、だったの」
「……寂しそう、か」
「だから昨日の夜は……頑張って、一人で寝てみたんだ」
仲間たちから迫害され、日も当たらない地下に押し込められて育ったアモルの精神は幼く、今もどこか不安定な部分がある。
そんな彼女が人並みの幸せや愛情を感じられるようにと、アモルがこの家に来てからというもの、私は毎晩のようにアモルと同じ布団で眠っていた。
だからアモルが私の部屋を訪ねずに一人で寝ることを選んだのは、今回が初めてのことだった。
「そうしたら……わたし、夢を見た」
「夢?」
「お姉ちゃんと出会ってからの全部が……夢だったって言う、夢」
アモルは堪えるように自分の服の裾を握りしめる。
「わたしは今も、あの地下の暗い部屋にいて……誰にも愛されずに、一人ぼっちで過ごしてる。そんな冷たい毎日が現実で……」
「……アモル……」
「お姉ちゃんと会う前のわたしなら……一人ぼっちが当たり前のわたしだったら、平気だった。でも……今のわたしには、あんなの……」
そこまで告げたところで、ついにアモルの目尻に溜まっていた涙が決壊し、ポロポロと頬を伝い始める。
私はアモルを抱きしめて、ポンポンと背中を軽く叩いてあげた。
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。約束したでしょ? アモルが望む限り、ずっと一緒だって」
「うん……うん。わかってるの。お姉ちゃんと出会ってからのこと、夢じゃない。お姉ちゃんはきっと約束を果たしてくれるって。わたしはもう、一人ぼっちになんてならない……でも……でも。お姉ちゃんは、違う……」
「違う?」
「お姉ちゃんは……いつか絶対、一人ぼっちになっちゃう。わたしと過ごした毎日が、いつか夢になっちゃう……」
……そっか。
アモルがこんなにも苦しそうにしてるのは、悪夢が怖かったからじゃない。
その悪夢が大好きな人の……私の現実になってしまうことが、たまらなく怖いんだ。
「わたし……あんな気持ち、お姉ちゃんに味わってほしくない。いつの日か、わたしがお姉ちゃんのそばにいられなくなっちゃうかもしれなくても……わたしと過ごした日々が、夢になっちゃうかもしれなくても……その先でお姉ちゃんに、一人ぼっちになってほしくない」
「アモル……」
「だから……決めたの」
アモルは私の手を愛おしそうに包み込むと、屈託のない微笑みを浮かべた。
「わたし――お姉ちゃんと結婚する」
「そっか、けっこ……へ? け、結婚?」
「お姉ちゃんと結婚して、いっぱい子ども作る」
…………!?!?!?
「いっぱい子ども作って……皆で仲良く暮らすの。それでね、いつかその子たちにも誰かを愛することを知ってもらって、その子たちにも子どもができて、もっと賑やかになって……わたしは不死じゃないから、ずっとはお姉ちゃんと一緒にはいられないけど。でも、そんな未来がずっと続いていけば、お姉ちゃんが一人になることもないでしょ?」
「けっこ……こど……ちょ……ちょっと待って!」
理解が追いつかない……け、結婚? しかも……こどもぉ!?
なにを言っているのかはわかるが、なにを言っているのかわからない……いや私がなにを言っているんだ!?
お、落ちつけ。落ちつくんだ私。
落ちついて、ちゃんとアモルの話を聞くんだ。
「アモル、自分がなに言ってるのかわかってるの……?」
「うん。わかってるよ? 結婚は、その人と一生を添い遂げること……でしょ?」
「た、確かに間違ってないけど……あのね、アモル。結婚は、好きな人同士でやることなんだ。だから私じゃなくて、アモルが将来心から好きになった人と……」
「……お姉ちゃんは……わたしのこと、好きじゃないの?」
「えっ!? それはその……もちろん好き、だけど……」
「よかったぁ……えへへ。わたしもお姉ちゃんのこと大好きだもん。だからわたし、お姉ちゃんと結婚できるよ」
うぐぅっ……。
ダメだ……どうしてもアモルに強く言えない私の悪いところが出ている……。
でも今回ばっかりは押し切られちゃダメだ。アモルの一生に関わる大事なことなんだから。
私は一回、二回と軽く深呼吸をすると、真面目な表情でアモルに向き合った。
「……お姉ちゃん?」
「アモル。私を好きだって言ってくれるアモルの気持ちは嬉しい。でもね、アモルはまだ子どもだ。人生のパートナーを決めるにはいくらなんでも早すぎるよ」
「むー……わたし、子どもじゃないよ。ちゃんと成熟した淫魔だもん」
「子どもだよ。だってアモルはまだ一度だって誰かに恋したことないでしょ?」
「……お姉ちゃんのことは好きだよ?」
「そんな簡単な感情じゃないんだ。恋っていうのはね、世界が色づいたように胸がときめいて、その人以外のことを考えられなくなるくらい夢中になって……でもね、とっても盲目的で自分本位な気持ちなんだ」
「誰かを好きになることが、自分本位なの?」
アモルは心底理解できないという顔をしている。
「アモルはさ、もしも私がアモルの知らない人と親しくしてたら、どう思う?」
「どうって……お姉ちゃんの魅力を他の人にも知ってもらえて、嬉しい?」
アモルは本当に私のことを自慢のお姉ちゃんだと思ってくれているようだ。
嬉しい、誇らしいと告げる親愛に満ちた瞳には、一点の陰りもない。
「ふふ……そっか。じゃあ、そうだね。もしも、私がアモル以外の人と結婚したら?」
「え? うーん……その人がちゃんとお姉ちゃんのこと幸せにしてくれるなら……わたし、祝福するよ」
ニッコリと花が咲いたようなアモルの笑みが、その返答が本心からのものだと容易に証明していた。
私は一度瞼を閉じて息を吐くと、再びアモルの目を見据えた。
「ねえ、アモル。普通はね、もしもその人に恋をしてるなら、そんな簡単には割り切れないものなんだよ」
「割り切れない?」
「大好きなその人を独り占めしたい。自分だけを見てほしい……その人が誰かと結婚して幸せになるのだとしても、その相手が自分以外じゃ絶対に嫌だ」
「でも、そんな風に思ってたら、大好きな人を困らせちゃうだけだよ……?」
「関係ないんだ、そんなこと。困らせちゃうとか、傷つけちゃうとか……わかってても止められない。どうしようもなく張り裂けそうなくらい胸が痛んで、耐え切れない」
「……恋ってもっと、素敵なものだと思ってた」
「素敵だよ。でもそれと同じだけ、振り回されがちなんだ」
しょんぼりと顔を伏せるアモルの頭に手を伸ばし、優しく撫でる。
「アモルは、好きになった人の幸せを心から願える愛情深い子だ。だけどまだ恋を知らない。結婚もね、恋と同じで……ううん。恋以上に素敵であると同時に、同じだけ重くて大事なことなんだ。それこそ、その人のその先の一生の全部を決めちゃうくらいに」
「……」
アモルは考え込むように黙り込んで下を向いていた。
初めこそ自分は子どもじゃないと頬を膨らませていたアモルだけど、今は真剣に私の言葉を受け止めてくれているようだった。
しばらくして、彼女の頭を撫でる私の手に自分の手を重ねると、ポツリと呟くようにアモルは言う。
「……じゃあ、もし……もしわたしが恋を知って、大人になって……それでもまだ、お姉ちゃんと結婚したいって思ってたら……その時はお姉ちゃん、わたしと結婚してくれる?」
「……そうだね。その時は、私も真剣な気持ちでアモルと向き合うよ」
アモルが成熟した淫魔だということは私もわかっている。
それでも私が彼女を子ども扱いしてしまうのは、彼女の体が幼いから……というのももちろんあるけれど、一番はやっぱりその精神性が幼いからだ。
いつかアモルが成長して、本当の意味で大人になって、それでも私を好きだと言ってくれるなら……うん。
その時は子ども扱いも妹扱いもしないで、私も腹を決めて、一人の女の子としてアモルを見てみよう。
「約束、だよ」
そう言って小指を差し出すアモルの姿は、まるで天使のように可憐で……。
思わずボーッと見惚れてしまった私はハッと我に返り、慌ててアモルの小指に自分のそれを絡めるのだった。
「……はなし……おわ、り?(そ、その……二人とも、話は終わった……?)」
「あ、シィナ。うん、終わったよ」
私とアモルの話し合いが一段落ついた辺りで、シィナがトテトテと近づいてきた。
アモルの結婚発言が衝撃的過ぎてすっかり忘れてしまっていたが……そうだった。ここにはシィナもいるんだった。
……あれ? でもそれってつまり、シィナもさっきのアモルの結婚発言を聞いてたってことじゃ……?
「…………(け、結婚……約束……うぅ。アモルちゃん、すごく素直って言うか……だ、大胆。わたしもアモルちゃんに負けてられないっ……けど……結婚……ハロちゃんと、結婚……う、うぅぅぅぅ……ど、どうしよう。想像するだけで、恥ずかしすぎて顔が熱くなっちゃう……)」
私の前に佇むシィナはいつも通りの無言の無表情だが……どことなく耳が赤く、耳も尻尾もそわそわとしているように見える。
もしもこれが彼女と出会ったばかりの頃の私だったなら、気のせいの一言で片づけていたかもしれないけど……ふふふ。今の私は一味違うぞ。
わかる! シィナの今の気持ちが手を取るようにわかるぞ!
シィナは今、私とアモルの会話を聞いて感情を昂らせている。
そしてその感情の正体とは……間違いなく怒り!
私の告白への返事もまだなのに、私の目の前で別の人と結婚の約束をするなんて言語道断!
そんな風に怒り狂っているシィナの内心が、手に取るようにわかる!
さて、それがわかったうえで……うん。
そのー……私はどんな言い訳をすれば……じゃない!
どどど、どういう風に事情を説明すればいいんだ……?
どのようにすれば私は彼女に刺されずに済むのでしょうかっ!?
「ところで、お姉ちゃん」
私が内心冷や汗ダラッダラに流しながら、一言も発さない完全激おこモード(推定)のシィナと向かい合っていると、不意にアモルが私の服を引っ張った。
助け舟を期待し、思わず目を輝かせた私に対し、アモルは可愛らしく小首を傾げて無邪気な疑問を投げかけた。
「お姉ちゃん、フィリアちゃんとえっちしたの?」
「!?」
「!?(!?)」
爆弾だった。
助け舟が泥船だったとか、そんなちゃちなレベルじゃない。
飛び込んだ船そのものが火薬で作られた爆弾船だったかのごとく、それはもうとんでもない爆弾だった。
「あ、あも、アモル!? い、いったいなにを言って……」
私はあからさまに焦り散らかしてしまいながらもどうにかこうにか否定しようとしたが、そんなものではアモルの無垢な好奇心は誤魔化せない。
つま先立ちをし、私の首元に顔を寄せ、スンスンと鼻を鳴らしたアモルは、やっぱりと言いたげに頷いた。
「この匂い、知ってるよわたし。仲間たちと一緒だった頃、住処はいっつもこういう匂いだったもん」
「い、いや、あの……」
「フィリアちゃんはお姉ちゃんのこと、ほんっとーに大好きなんだね! お姉ちゃんも、そんなフィリアちゃんの気持ちを受け入れてる……フィリアちゃんも、お姉ちゃんと結婚したいのかなぁ? それじゃあ、いつかわたしがお姉ちゃんと結婚したら……その時は、フィリアちゃんもわたしの家族になるのかな?」
この世界では重婚は普通に受け入れられている。
加えて、アモルは淫魔だ。
暮らしてきた環境的にも、性質的にも、重婚に抵抗はないのだろう。
「えへへ。わたし、フィリアちゃんにおめでとうって言ってくるね!」
「あっ! アモ……」
爆弾だけを残し、颯爽と駆けていってしまったアモルに、助けを求める私の儚い願いは届かなかった。
アモルの背に向かって伸ばしていた手を下ろし、恐る恐るシィナの方に振り返ると……。
「…………(え、えっち……えっち!? えっちって、あのえっち? ハロちゃんとフィリアちゃんが、えっち……あ、あぅあぅあぅあぅ……!)」
彼女は私を射殺さんばかりに睨みつけてきていた。
その身はもはや気のせいで済ますなんてできないほどわなわなと震えており、彼女が今、激しい憤怒に支配されているだろうことは火を見るよりも明らかだった。
終わった……私のエルフ生、どうやらここまでのようです……。
「…………(先を越されちゃったの、悔しいのに……嫌なのに……えっちなことしてるハロちゃんのこと想像すると、わたし……あぅぅぅっ……!)」
一歩、二歩とシィナが近づいてくる。
さながら有罪判決を待つ重罪人の気分だった。
「(わ、わたしのこれは妄想だけど……でも、ハロちゃんがえっちなことしたのはほんとのことで……きっとその、え、えっちな声もいっぱい上げてて……!」
ついにシィナが私の目の前で立ち止まる。
刺されるのか、ぶん殴られるのか。それとも罵倒されるのか。あるいは……その、む、無理矢理されたりとかしちゃうのか。
どうなるかはわからないが、シィナからの告白の返事もせず、不義理なことばかりしてしまった私に抵抗する権利なんてない。
覚悟を決め、瞼を閉じてシィナからの裁きを待つ。
「…………(は、恥ずかしいけど、顔がいっぱい熱いけど……! でも……でも! わ、わたしも……わたしも、ハロちゃんと……! うぅー……い、いけ……いっちゃえ、わたし! えいっ!!!)
「……へ?」
しかしいつまで経っても私を襲うはずの痛みはなく、代わりに感じたのは手首を掴まれる感覚と……手のひらに伝わる、柔らかい感触だった。
マシュマロのようでいて、もっとずっと柔らかい、温かく弾力のあるなにか。
それがなんなのかを確かめるべく、恐る恐る目を開くと……そこにはギュッと瞼を閉じながら私の手を掴み、自身の胸に押し当てているシィナの姿があった。
「シ、シィナ……?」
「……っ! つ、つづきは……また、こんどっ……!(その、あの……つ、続きはまた今度……ね! ハロちゃん!)」
昂る感情が抑えられないかのごとく、シィナの猫耳がピンと立つ。
そしてバッと勢いよく手を離したシィナは、真っ赤に染まった顔を俯かせ、そのまま踵を返して走り去って行ってしまった。
「し、シィナ!?」
呼び止めても止まる気配はなく、そうこうしているうちに、あっという間にその姿は消えてしまった。
一人取り残された私は呆然と立ち尽くしたまま、シィナを引き留めようとして空を切った手のひらを見つめる。
それからさっきの感触を思い出すように、にぎにぎと……。
「……ハッ!?」
な、なにを余韻に浸ってるんだ私は! 確かに柔らかくて気持ちよかったけど!
今回、悪いのは完全に私の方だ。本当は謝らなきゃいけなかったのに、結局なにも言えなかった。
許してもらえるかはわからないけど、次……そう、次こそはちゃんと謝ろう!
「……次……」
――つ、つづきは……また、こんどっ……!
「……」
去り際の彼女の言葉を思い出してしまい、思わず自分の頬が熱くなるのを感じる。
続きってつまり……そういうことだよね?
シィナと、その……え、えっちなことを……。
「っ……! い、今は深く考えないようにしよう……」
フィリアが朝食を作って待ってくれているんだ。
あんまり待たせちゃうとせっかくの朝食が冷めちゃうし、とにかく今は、皆を食卓に呼ぶことを考えないと。
アモルはフィリアの方に走っていったし、シィナも踵を返した先は食堂の方だった。
となると、残るは……。
「……よし」
二人と別れた場所から少し歩いた先にある扉の前で立ち止まる。
軽くノックをして名前を呼んでも反応がないことを確認すると、私は「入るよ」と声を上げながら、リザの部屋の扉を開くのだった。
私と視線が合ってすぐに、アモルはくしゃりと顔を歪ませた。
瞳にはジワリと涙が浮かんでおり、今にも泣き出しそうになっている。
「大丈夫。落ちついて、アモル。私はどこにも行かないよ。ほら、好きなだけ抱きついてくれていいから」
「うん……!」
私の言葉を聞いて安心したのか、アモルはさらにギュッと強く私に抱きついてきた。
私はそれに応えるようにして、アモルの背中に腕を回して、あやすように背中をポンポンと叩く。
そのまま私の胸に顔を埋めてグスグスと鼻を鳴らしていたものの、しばらくすると落ちついてきたようで、私の胸から離れて私を見上げた。
「お姉ちゃん……あのね、あのね」
「ゆっくりでいいから。落ちついて話してみて?」
私の問いかけに小さくコクリと首肯したアモルは、再び私の胸に顔を埋めたあと、ポツリポツリと話し始めた。
「わたしね。妖精さんから……お姉ちゃんが、不死だって聞いたの」
「うん」
「わたしはまだ全然生きてないから、不死のことはよくわからないけど……妖精さんは……一人ぼっちだった頃のこと、話してくれた妖精さんは……すごく辛そうで……寂しそう、だったの」
「……寂しそう、か」
「だから昨日の夜は……頑張って、一人で寝てみたんだ」
仲間たちから迫害され、日も当たらない地下に押し込められて育ったアモルの精神は幼く、今もどこか不安定な部分がある。
そんな彼女が人並みの幸せや愛情を感じられるようにと、アモルがこの家に来てからというもの、私は毎晩のようにアモルと同じ布団で眠っていた。
だからアモルが私の部屋を訪ねずに一人で寝ることを選んだのは、今回が初めてのことだった。
「そうしたら……わたし、夢を見た」
「夢?」
「お姉ちゃんと出会ってからの全部が……夢だったって言う、夢」
アモルは堪えるように自分の服の裾を握りしめる。
「わたしは今も、あの地下の暗い部屋にいて……誰にも愛されずに、一人ぼっちで過ごしてる。そんな冷たい毎日が現実で……」
「……アモル……」
「お姉ちゃんと会う前のわたしなら……一人ぼっちが当たり前のわたしだったら、平気だった。でも……今のわたしには、あんなの……」
そこまで告げたところで、ついにアモルの目尻に溜まっていた涙が決壊し、ポロポロと頬を伝い始める。
私はアモルを抱きしめて、ポンポンと背中を軽く叩いてあげた。
「大丈夫。私はどこにも行かないよ。約束したでしょ? アモルが望む限り、ずっと一緒だって」
「うん……うん。わかってるの。お姉ちゃんと出会ってからのこと、夢じゃない。お姉ちゃんはきっと約束を果たしてくれるって。わたしはもう、一人ぼっちになんてならない……でも……でも。お姉ちゃんは、違う……」
「違う?」
「お姉ちゃんは……いつか絶対、一人ぼっちになっちゃう。わたしと過ごした毎日が、いつか夢になっちゃう……」
……そっか。
アモルがこんなにも苦しそうにしてるのは、悪夢が怖かったからじゃない。
その悪夢が大好きな人の……私の現実になってしまうことが、たまらなく怖いんだ。
「わたし……あんな気持ち、お姉ちゃんに味わってほしくない。いつの日か、わたしがお姉ちゃんのそばにいられなくなっちゃうかもしれなくても……わたしと過ごした日々が、夢になっちゃうかもしれなくても……その先でお姉ちゃんに、一人ぼっちになってほしくない」
「アモル……」
「だから……決めたの」
アモルは私の手を愛おしそうに包み込むと、屈託のない微笑みを浮かべた。
「わたし――お姉ちゃんと結婚する」
「そっか、けっこ……へ? け、結婚?」
「お姉ちゃんと結婚して、いっぱい子ども作る」
…………!?!?!?
「いっぱい子ども作って……皆で仲良く暮らすの。それでね、いつかその子たちにも誰かを愛することを知ってもらって、その子たちにも子どもができて、もっと賑やかになって……わたしは不死じゃないから、ずっとはお姉ちゃんと一緒にはいられないけど。でも、そんな未来がずっと続いていけば、お姉ちゃんが一人になることもないでしょ?」
「けっこ……こど……ちょ……ちょっと待って!」
理解が追いつかない……け、結婚? しかも……こどもぉ!?
なにを言っているのかはわかるが、なにを言っているのかわからない……いや私がなにを言っているんだ!?
お、落ちつけ。落ちつくんだ私。
落ちついて、ちゃんとアモルの話を聞くんだ。
「アモル、自分がなに言ってるのかわかってるの……?」
「うん。わかってるよ? 結婚は、その人と一生を添い遂げること……でしょ?」
「た、確かに間違ってないけど……あのね、アモル。結婚は、好きな人同士でやることなんだ。だから私じゃなくて、アモルが将来心から好きになった人と……」
「……お姉ちゃんは……わたしのこと、好きじゃないの?」
「えっ!? それはその……もちろん好き、だけど……」
「よかったぁ……えへへ。わたしもお姉ちゃんのこと大好きだもん。だからわたし、お姉ちゃんと結婚できるよ」
うぐぅっ……。
ダメだ……どうしてもアモルに強く言えない私の悪いところが出ている……。
でも今回ばっかりは押し切られちゃダメだ。アモルの一生に関わる大事なことなんだから。
私は一回、二回と軽く深呼吸をすると、真面目な表情でアモルに向き合った。
「……お姉ちゃん?」
「アモル。私を好きだって言ってくれるアモルの気持ちは嬉しい。でもね、アモルはまだ子どもだ。人生のパートナーを決めるにはいくらなんでも早すぎるよ」
「むー……わたし、子どもじゃないよ。ちゃんと成熟した淫魔だもん」
「子どもだよ。だってアモルはまだ一度だって誰かに恋したことないでしょ?」
「……お姉ちゃんのことは好きだよ?」
「そんな簡単な感情じゃないんだ。恋っていうのはね、世界が色づいたように胸がときめいて、その人以外のことを考えられなくなるくらい夢中になって……でもね、とっても盲目的で自分本位な気持ちなんだ」
「誰かを好きになることが、自分本位なの?」
アモルは心底理解できないという顔をしている。
「アモルはさ、もしも私がアモルの知らない人と親しくしてたら、どう思う?」
「どうって……お姉ちゃんの魅力を他の人にも知ってもらえて、嬉しい?」
アモルは本当に私のことを自慢のお姉ちゃんだと思ってくれているようだ。
嬉しい、誇らしいと告げる親愛に満ちた瞳には、一点の陰りもない。
「ふふ……そっか。じゃあ、そうだね。もしも、私がアモル以外の人と結婚したら?」
「え? うーん……その人がちゃんとお姉ちゃんのこと幸せにしてくれるなら……わたし、祝福するよ」
ニッコリと花が咲いたようなアモルの笑みが、その返答が本心からのものだと容易に証明していた。
私は一度瞼を閉じて息を吐くと、再びアモルの目を見据えた。
「ねえ、アモル。普通はね、もしもその人に恋をしてるなら、そんな簡単には割り切れないものなんだよ」
「割り切れない?」
「大好きなその人を独り占めしたい。自分だけを見てほしい……その人が誰かと結婚して幸せになるのだとしても、その相手が自分以外じゃ絶対に嫌だ」
「でも、そんな風に思ってたら、大好きな人を困らせちゃうだけだよ……?」
「関係ないんだ、そんなこと。困らせちゃうとか、傷つけちゃうとか……わかってても止められない。どうしようもなく張り裂けそうなくらい胸が痛んで、耐え切れない」
「……恋ってもっと、素敵なものだと思ってた」
「素敵だよ。でもそれと同じだけ、振り回されがちなんだ」
しょんぼりと顔を伏せるアモルの頭に手を伸ばし、優しく撫でる。
「アモルは、好きになった人の幸せを心から願える愛情深い子だ。だけどまだ恋を知らない。結婚もね、恋と同じで……ううん。恋以上に素敵であると同時に、同じだけ重くて大事なことなんだ。それこそ、その人のその先の一生の全部を決めちゃうくらいに」
「……」
アモルは考え込むように黙り込んで下を向いていた。
初めこそ自分は子どもじゃないと頬を膨らませていたアモルだけど、今は真剣に私の言葉を受け止めてくれているようだった。
しばらくして、彼女の頭を撫でる私の手に自分の手を重ねると、ポツリと呟くようにアモルは言う。
「……じゃあ、もし……もしわたしが恋を知って、大人になって……それでもまだ、お姉ちゃんと結婚したいって思ってたら……その時はお姉ちゃん、わたしと結婚してくれる?」
「……そうだね。その時は、私も真剣な気持ちでアモルと向き合うよ」
アモルが成熟した淫魔だということは私もわかっている。
それでも私が彼女を子ども扱いしてしまうのは、彼女の体が幼いから……というのももちろんあるけれど、一番はやっぱりその精神性が幼いからだ。
いつかアモルが成長して、本当の意味で大人になって、それでも私を好きだと言ってくれるなら……うん。
その時は子ども扱いも妹扱いもしないで、私も腹を決めて、一人の女の子としてアモルを見てみよう。
「約束、だよ」
そう言って小指を差し出すアモルの姿は、まるで天使のように可憐で……。
思わずボーッと見惚れてしまった私はハッと我に返り、慌ててアモルの小指に自分のそれを絡めるのだった。
「……はなし……おわ、り?(そ、その……二人とも、話は終わった……?)」
「あ、シィナ。うん、終わったよ」
私とアモルの話し合いが一段落ついた辺りで、シィナがトテトテと近づいてきた。
アモルの結婚発言が衝撃的過ぎてすっかり忘れてしまっていたが……そうだった。ここにはシィナもいるんだった。
……あれ? でもそれってつまり、シィナもさっきのアモルの結婚発言を聞いてたってことじゃ……?
「…………(け、結婚……約束……うぅ。アモルちゃん、すごく素直って言うか……だ、大胆。わたしもアモルちゃんに負けてられないっ……けど……結婚……ハロちゃんと、結婚……う、うぅぅぅぅ……ど、どうしよう。想像するだけで、恥ずかしすぎて顔が熱くなっちゃう……)」
私の前に佇むシィナはいつも通りの無言の無表情だが……どことなく耳が赤く、耳も尻尾もそわそわとしているように見える。
もしもこれが彼女と出会ったばかりの頃の私だったなら、気のせいの一言で片づけていたかもしれないけど……ふふふ。今の私は一味違うぞ。
わかる! シィナの今の気持ちが手を取るようにわかるぞ!
シィナは今、私とアモルの会話を聞いて感情を昂らせている。
そしてその感情の正体とは……間違いなく怒り!
私の告白への返事もまだなのに、私の目の前で別の人と結婚の約束をするなんて言語道断!
そんな風に怒り狂っているシィナの内心が、手に取るようにわかる!
さて、それがわかったうえで……うん。
そのー……私はどんな言い訳をすれば……じゃない!
どどど、どういう風に事情を説明すればいいんだ……?
どのようにすれば私は彼女に刺されずに済むのでしょうかっ!?
「ところで、お姉ちゃん」
私が内心冷や汗ダラッダラに流しながら、一言も発さない完全激おこモード(推定)のシィナと向かい合っていると、不意にアモルが私の服を引っ張った。
助け舟を期待し、思わず目を輝かせた私に対し、アモルは可愛らしく小首を傾げて無邪気な疑問を投げかけた。
「お姉ちゃん、フィリアちゃんとえっちしたの?」
「!?」
「!?(!?)」
爆弾だった。
助け舟が泥船だったとか、そんなちゃちなレベルじゃない。
飛び込んだ船そのものが火薬で作られた爆弾船だったかのごとく、それはもうとんでもない爆弾だった。
「あ、あも、アモル!? い、いったいなにを言って……」
私はあからさまに焦り散らかしてしまいながらもどうにかこうにか否定しようとしたが、そんなものではアモルの無垢な好奇心は誤魔化せない。
つま先立ちをし、私の首元に顔を寄せ、スンスンと鼻を鳴らしたアモルは、やっぱりと言いたげに頷いた。
「この匂い、知ってるよわたし。仲間たちと一緒だった頃、住処はいっつもこういう匂いだったもん」
「い、いや、あの……」
「フィリアちゃんはお姉ちゃんのこと、ほんっとーに大好きなんだね! お姉ちゃんも、そんなフィリアちゃんの気持ちを受け入れてる……フィリアちゃんも、お姉ちゃんと結婚したいのかなぁ? それじゃあ、いつかわたしがお姉ちゃんと結婚したら……その時は、フィリアちゃんもわたしの家族になるのかな?」
この世界では重婚は普通に受け入れられている。
加えて、アモルは淫魔だ。
暮らしてきた環境的にも、性質的にも、重婚に抵抗はないのだろう。
「えへへ。わたし、フィリアちゃんにおめでとうって言ってくるね!」
「あっ! アモ……」
爆弾だけを残し、颯爽と駆けていってしまったアモルに、助けを求める私の儚い願いは届かなかった。
アモルの背に向かって伸ばしていた手を下ろし、恐る恐るシィナの方に振り返ると……。
「…………(え、えっち……えっち!? えっちって、あのえっち? ハロちゃんとフィリアちゃんが、えっち……あ、あぅあぅあぅあぅ……!)」
彼女は私を射殺さんばかりに睨みつけてきていた。
その身はもはや気のせいで済ますなんてできないほどわなわなと震えており、彼女が今、激しい憤怒に支配されているだろうことは火を見るよりも明らかだった。
終わった……私のエルフ生、どうやらここまでのようです……。
「…………(先を越されちゃったの、悔しいのに……嫌なのに……えっちなことしてるハロちゃんのこと想像すると、わたし……あぅぅぅっ……!)」
一歩、二歩とシィナが近づいてくる。
さながら有罪判決を待つ重罪人の気分だった。
「(わ、わたしのこれは妄想だけど……でも、ハロちゃんがえっちなことしたのはほんとのことで……きっとその、え、えっちな声もいっぱい上げてて……!」
ついにシィナが私の目の前で立ち止まる。
刺されるのか、ぶん殴られるのか。それとも罵倒されるのか。あるいは……その、む、無理矢理されたりとかしちゃうのか。
どうなるかはわからないが、シィナからの告白の返事もせず、不義理なことばかりしてしまった私に抵抗する権利なんてない。
覚悟を決め、瞼を閉じてシィナからの裁きを待つ。
「…………(は、恥ずかしいけど、顔がいっぱい熱いけど……! でも……でも! わ、わたしも……わたしも、ハロちゃんと……! うぅー……い、いけ……いっちゃえ、わたし! えいっ!!!)
「……へ?」
しかしいつまで経っても私を襲うはずの痛みはなく、代わりに感じたのは手首を掴まれる感覚と……手のひらに伝わる、柔らかい感触だった。
マシュマロのようでいて、もっとずっと柔らかい、温かく弾力のあるなにか。
それがなんなのかを確かめるべく、恐る恐る目を開くと……そこにはギュッと瞼を閉じながら私の手を掴み、自身の胸に押し当てているシィナの姿があった。
「シ、シィナ……?」
「……っ! つ、つづきは……また、こんどっ……!(その、あの……つ、続きはまた今度……ね! ハロちゃん!)」
昂る感情が抑えられないかのごとく、シィナの猫耳がピンと立つ。
そしてバッと勢いよく手を離したシィナは、真っ赤に染まった顔を俯かせ、そのまま踵を返して走り去って行ってしまった。
「し、シィナ!?」
呼び止めても止まる気配はなく、そうこうしているうちに、あっという間にその姿は消えてしまった。
一人取り残された私は呆然と立ち尽くしたまま、シィナを引き留めようとして空を切った手のひらを見つめる。
それからさっきの感触を思い出すように、にぎにぎと……。
「……ハッ!?」
な、なにを余韻に浸ってるんだ私は! 確かに柔らかくて気持ちよかったけど!
今回、悪いのは完全に私の方だ。本当は謝らなきゃいけなかったのに、結局なにも言えなかった。
許してもらえるかはわからないけど、次……そう、次こそはちゃんと謝ろう!
「……次……」
――つ、つづきは……また、こんどっ……!
「……」
去り際の彼女の言葉を思い出してしまい、思わず自分の頬が熱くなるのを感じる。
続きってつまり……そういうことだよね?
シィナと、その……え、えっちなことを……。
「っ……! い、今は深く考えないようにしよう……」
フィリアが朝食を作って待ってくれているんだ。
あんまり待たせちゃうとせっかくの朝食が冷めちゃうし、とにかく今は、皆を食卓に呼ぶことを考えないと。
アモルはフィリアの方に走っていったし、シィナも踵を返した先は食堂の方だった。
となると、残るは……。
「……よし」
二人と別れた場所から少し歩いた先にある扉の前で立ち止まる。
軽くノックをして名前を呼んでも反応がないことを確認すると、私は「入るよ」と声を上げながら、リザの部屋の扉を開くのだった。