淫魔の液体薬が詰まった小瓶の蓋を、もう一度開ける。
下手に香りを吸い込んでしまうと、それだけで少なからず薬の影響を受けかねないため、息は止めながらだ。
慎重に瓶を傾けて、すでにミックスジュースが注がれているフィリアのコップに、ほんの一滴だけ薬を垂らす。
薬が落ちた地点に小さな飛沫が上がり、ミックスジュースの表面にわずかに桜色が浮かび上がった。
しかしわずかにコップを揺らせばその色はミックスジュースのそれと完全に混ざり切ってしまって、数秒後には私用とフィリア用のミックスジュース、どちらも見分けがつかないほどのものとなる。
まだ小瓶の中身は大分残っているが、もうこれ以上使う予定はない。
そもそもとしてこの淫魔の液体薬自体、一滴程度が一回分の適量とされているほどの効果が高いものだ。
それにだからこそ私はこれを選んだとも言える。
他の同じような薬では、どうしても量が多くなりがちで香りも色も味も誤魔化せない部分が多く出てきてしまう。
いくら限定品ミックスジュースである程度誤魔化せるとは言え、それにも限度があるというものだ。
そしてその限度を越えない程度の量を投入するとなれば、必然的に効果も薄くなってしまいかねない。
それではフィリアが冷静さを保ち、計画に支障をきたす危険がある。
しかしこの淫魔の液体薬ならば、たったの一滴、適当な飲料に混ぜるだけで高い効果が見込めるのだ。
小瓶にきちんと蓋をして、懐にしまう。
そしてコップを二つ、台に置いた。
ふふふ。ここで一つ、私の賢さをアピールしておこうか。
万が一。そう、万が一にもコップを間違えないよう、実はちゃんと私用とフィリア用で専用のコップを購入してある。
私用のものはウサギの絵柄で、フィリア用は子犬の絵柄だ。
そして当然、さきほど液体薬を注いだのは子犬の絵柄のコップである。
ふっ……うっかり飲み間違えて私が薬の効果を受けてしまうだとか、そんなドジの極みみたいなことを私は絶対に侵さないのだ。
なにせ私はこの計画を絶対に完遂するため、あらゆる可能性を考えてきた。
私の失敗でこの計画が破綻することはありえない。
……フィリアを騙すことに罪悪感はもちろんある。
確かにある。あるけれど。
私は! そんなことより! フィリアとにゃんにゃんしたいっ!
この一週間ひたすら誘惑され続けて本当に我慢の限界なんですよ!
「お師匠さま! スープ出来上がりましたよー!」
「ふふ……ああ。じゃあ、ご飯にしようか。スープは熱くて危ないから、私がお皿によそって運んでおくよ。フィリアは他のものを机に持っていってほしい」
「はいっ! わかりました!」
食器を取り出し、スープを見てくれていたフィリアに代わって鍋の前に立って、おたまでスープを注いでいく。
野菜スープ。フィリアが来てからは肉料理もそこそこ作るようにもなったが、やはり私はエルフなのでこういう料理の方が体に合っている。
そうしてスープを入れている間に考えていることと言えば当然、今回の計画が成就した先にあることだ。
夕食の準備の時点ですでに限界が近かったが、もはや笑みが溢れることを堪え切れない。
やっと……やっとこれから、私はフィリアを――。
「ひゃぁああっ!?」
不意にそんな悲鳴が背後から聞こえたかと思えば、ガシャンッ! となにかが割れる音が台所に木霊した。
慌てて後ろを振り向く。
「うぅ……」
そこには両手で一つのコップを抱えて座り込むフィリアと、無残にも中身をぶち撒けて砕け散ったコップだったものの姿があった。
「フィリアっ!?」
さきほどまでの妄想をすべて頭から引っ込めて、慌ててフィリアの様子を窺う。
少し太ももから血が流れているようだ。割れたコップの破片がかすめたのだろう。
「とりあえず、そこを動かないでっ……ガラスが飛び散ってるから、下手に動くと危ない」
足元に気をつけながら一旦台所を脱出し、掃除用具を持ってくる。
布片で床にこぼれているジュースを拭き取って、ほうきとちりとりで、飛び散ったガラスを念入りに片付ける。
それから再度、フィリアの状態を確認した。
……とりあえず、太もも以外には怪我はしていないようだ。
片手に宿した回復魔法で怪我を治癒させて、血を拭き取る。
「ごめ、ごめんなさいっ……ごめんなさい、お師匠さま……わ、私、お師匠さまの大事なコップを……」
「いいんだ。フィリアが無事だったのが一番だよ」
「お、お師匠さまが楽しみにしてたお飲み物も、私……わた、私……ひっく、うぅ……」
「落ちついて……って言っても、フィリアの性格じゃ気にするかな。なら、好きなだけ泣いていいから。私は気にしてないから、大丈夫。ほら」
「は、ぃ……うぁあ、ぐすっ……」
他のことは全部後回しにして、とにかくフィリアをあやす。
膝をついて必死に涙を拭っているフィリアの頭を抱きしめて、よしよしと子どもにするように頭を撫でた。
そうしているうちにフィリアも落ちついてきたようで、次に涙を拭った時にはもう雫はこぼれてこなかった。
まだ目が少し赤いフィリアが、ぽつぽつと言葉を漏らしていく。
「私……お師匠さまが楽しみにしてたお飲み物、大事に運ぼうって思った、のに」
「うん」
「お師匠さまと同じものを飲めるのが、嬉しくて……つい、運びながら匂いを嗅いじゃったんです。そうしたらなんだか、体がいきなり跳ねるみたいな、すごい感覚がして……き、気がついたら落としちゃってて。ごめんなさいっ……言い訳です、こんなの」
誰だよフィリアのジュースに変な匂いする薬入れたやつは。絶対許さんぞ。
「……フィリアは悪くないよ」
……はい。入れたのは私です。ごめんなさい。フィリアはほんとマジで悪くない……。
フィリアがそうなったのってまず間違いなく、私が入れた淫魔の液体薬のせいだもん。
私も開けた時のちょっとした匂いだけで同じような状態になりそうだったし……。
急に頭がスーッと冷静になってくる。
なにやってるんだ私は。自分の欲望を叶えたいがために、フィリアを傷つけて、泣かせて……。
なんだろう……なんか、もう計画とかどうでもいいや。
っていうかなんで私あんな計画思いついたんだよ。
冷静に思い返したら薬盛って襲うとか普通に犯罪じゃないか。いやそれを言ったら薬を買う時点で犯罪やっちゃってたけど。
いくらフィリアが無防備で無自覚にいつも誘惑してくるからって、それはそれを誘惑と捉えてしまう私が悪いんであって、ただ純粋に私のことを思ってくれているフィリアはなにも悪くない。
なーにが「あの時の私はアホだった」だ。アホなのはお前ですよ。反省しろよ私。
「……フィリア。とりあえず今はご飯にしようか。大丈夫。お腹いっぱいになれば、きっと気持ちも落ちつ――」
「でも私、このコップの分だけはなんとか守り切ったんです……!」
私の言葉を遮って、ファリアが大事そうに抱えていた子犬模様のコップを私に見せる。
お。なんだか嫌な予感がするぞ。
「お師匠さま、ずっとこのお飲み物楽しみにしていらしたんですよね? 私、一人分だけですけど、なんとか守り切ることができました……! お師匠さま! どうかこれをお飲みくださいっ!」
「……いや、その……」
なんでフィリアさん、よりにもよって薬入りの方を守ってしまってらっしゃるの……?
「そ、それはフィリアのぶんだろう? フィリアが飲むといいよ」
「いえっ、そんなこと絶対できません! だって私、今日ずっとお師匠さまが機嫌良さそうにしてるのを見てましたっ。私の不注意でこぼしてしまったのに、お師匠さまがこれを味わえないなんて……絶対ダメです! もしそうなったら、私は私を自分で許せなくなります……!」
「そ……そう、か……し、しかしフィリアのコップ、だからな……」
これは……かなりまずい状況なのでは……。
あの……私もう反省しました。フィリアちゃんを襲おうとか欠片も考えてません。
だから、えっと、そのー……勘弁してもらえませんかね……?
「コップが気になるんですか? それなら大丈夫です! 確か棚の方に予備のコップがありましたよね? そっちに中身を移して、私のコップは洗ってから水かなにかを入れますから!」
「し、しかし、私だけ良い物を飲むのはその、心が少し痛むというか……」
「……お師匠さまは本当にお優しいです。お師匠さまは初めから、私と一緒に飲むのを楽しみにしていらっしゃったんですね……それなのに私、こぼしてしまって……私の、せいで……」
うるうると再びフィリアの目に涙が溜まっていくものだから、考えるよりも早く、慌てて口を開いた。
「フィ、フィリアは悪くないと言っただろう? 気にしなくていいっ」
「違うんです……これは私が悪いんです。私がうっかりお師匠さまのコップを落としてしまったせいで、お師匠さまの楽しみを奪って……こんなんじゃ、お師匠さまのそばにいる資格なんてありません……」
「私とフィリアは家族だ。家族のそばにいるのに資格なんていらない。それに、フィリアは一人分だけでも頑張って守ってくれたんだろう? 怪我をしてでも、私のために……」
そっと、フィリアの頭を撫でる。
「そんなフィリアの気持ちが、私はとても嬉しいんだ。だから、あまり落ち込まないでほしい。フィリアには笑顔が一番似合うよ。私はフィリアに、いつもみたいに笑ってほしい」
「お師匠さま……うぅ、お師匠さまはお優しすぎます……」
泣き笑いのように顔をくしゃりと歪めて、私の肩に寄りかかってくる。
優しいっていうか全部私のせいだしなぁ……うぐぐ、罪悪感が……。
「お師匠さま……お願いします。このお飲み物を受け取ってください。お師匠さまが最初に望んでくださった、二人で飲むことはもうできませんけど……せめてお師匠さまにだけは、これをお飲みになってほしいんです。どうか、私のためにも……」
「え。あ……いや、それは……」
「やっぱり……ダメ、ですか?」
フィリアの目尻に涙が溜まっていく。
「だ、ダメじゃないっ。さっきも言っただろうっ? フィリアの気持ちが嬉しいと。だから……その……う、う……受け取らせて、もらうよ。ありがたく……うん、ありがたく……」
ここまで来て、断るなんてできるはずもなかった。
フィリアから手渡されたコップを受け取る。するとフィリアは立ち上がって、食器棚から新しいコップを持ってきた。
中身をそちらに注ぎ直した後、フィリアのコップは水の魔法でしっかりと洗って、代わりに水を入れて。
「ごめんなさい、長い時間拘束してしまって……せっかくのご飯が冷めちゃいますっ。早くテーブルに料理を運んで、夕食にしましょうっ」
「……そう、だね」
少しだけ元気を取り戻したフィリアが、料理をテーブルに運んでいく。
そんな後姿を尻目に、私は手に持っているコップを見下ろした。
……これ、私もフィリアみたいに落としちゃダメだろうか……?
ダメだろうなぁ……もしそんなことしたら、フィリアが「私が最初に落としたせいで」ってものすごい落ち込む未来が見える……。
……どうしよう、これ……。
頭を抱えて、途方に暮れる。
自業自得。因果応報。自分で蒔いた種。身から出たさび。
私の頭の中に、そんな四字熟語とことわざたちが浮かんでいた。
下手に香りを吸い込んでしまうと、それだけで少なからず薬の影響を受けかねないため、息は止めながらだ。
慎重に瓶を傾けて、すでにミックスジュースが注がれているフィリアのコップに、ほんの一滴だけ薬を垂らす。
薬が落ちた地点に小さな飛沫が上がり、ミックスジュースの表面にわずかに桜色が浮かび上がった。
しかしわずかにコップを揺らせばその色はミックスジュースのそれと完全に混ざり切ってしまって、数秒後には私用とフィリア用のミックスジュース、どちらも見分けがつかないほどのものとなる。
まだ小瓶の中身は大分残っているが、もうこれ以上使う予定はない。
そもそもとしてこの淫魔の液体薬自体、一滴程度が一回分の適量とされているほどの効果が高いものだ。
それにだからこそ私はこれを選んだとも言える。
他の同じような薬では、どうしても量が多くなりがちで香りも色も味も誤魔化せない部分が多く出てきてしまう。
いくら限定品ミックスジュースである程度誤魔化せるとは言え、それにも限度があるというものだ。
そしてその限度を越えない程度の量を投入するとなれば、必然的に効果も薄くなってしまいかねない。
それではフィリアが冷静さを保ち、計画に支障をきたす危険がある。
しかしこの淫魔の液体薬ならば、たったの一滴、適当な飲料に混ぜるだけで高い効果が見込めるのだ。
小瓶にきちんと蓋をして、懐にしまう。
そしてコップを二つ、台に置いた。
ふふふ。ここで一つ、私の賢さをアピールしておこうか。
万が一。そう、万が一にもコップを間違えないよう、実はちゃんと私用とフィリア用で専用のコップを購入してある。
私用のものはウサギの絵柄で、フィリア用は子犬の絵柄だ。
そして当然、さきほど液体薬を注いだのは子犬の絵柄のコップである。
ふっ……うっかり飲み間違えて私が薬の効果を受けてしまうだとか、そんなドジの極みみたいなことを私は絶対に侵さないのだ。
なにせ私はこの計画を絶対に完遂するため、あらゆる可能性を考えてきた。
私の失敗でこの計画が破綻することはありえない。
……フィリアを騙すことに罪悪感はもちろんある。
確かにある。あるけれど。
私は! そんなことより! フィリアとにゃんにゃんしたいっ!
この一週間ひたすら誘惑され続けて本当に我慢の限界なんですよ!
「お師匠さま! スープ出来上がりましたよー!」
「ふふ……ああ。じゃあ、ご飯にしようか。スープは熱くて危ないから、私がお皿によそって運んでおくよ。フィリアは他のものを机に持っていってほしい」
「はいっ! わかりました!」
食器を取り出し、スープを見てくれていたフィリアに代わって鍋の前に立って、おたまでスープを注いでいく。
野菜スープ。フィリアが来てからは肉料理もそこそこ作るようにもなったが、やはり私はエルフなのでこういう料理の方が体に合っている。
そうしてスープを入れている間に考えていることと言えば当然、今回の計画が成就した先にあることだ。
夕食の準備の時点ですでに限界が近かったが、もはや笑みが溢れることを堪え切れない。
やっと……やっとこれから、私はフィリアを――。
「ひゃぁああっ!?」
不意にそんな悲鳴が背後から聞こえたかと思えば、ガシャンッ! となにかが割れる音が台所に木霊した。
慌てて後ろを振り向く。
「うぅ……」
そこには両手で一つのコップを抱えて座り込むフィリアと、無残にも中身をぶち撒けて砕け散ったコップだったものの姿があった。
「フィリアっ!?」
さきほどまでの妄想をすべて頭から引っ込めて、慌ててフィリアの様子を窺う。
少し太ももから血が流れているようだ。割れたコップの破片がかすめたのだろう。
「とりあえず、そこを動かないでっ……ガラスが飛び散ってるから、下手に動くと危ない」
足元に気をつけながら一旦台所を脱出し、掃除用具を持ってくる。
布片で床にこぼれているジュースを拭き取って、ほうきとちりとりで、飛び散ったガラスを念入りに片付ける。
それから再度、フィリアの状態を確認した。
……とりあえず、太もも以外には怪我はしていないようだ。
片手に宿した回復魔法で怪我を治癒させて、血を拭き取る。
「ごめ、ごめんなさいっ……ごめんなさい、お師匠さま……わ、私、お師匠さまの大事なコップを……」
「いいんだ。フィリアが無事だったのが一番だよ」
「お、お師匠さまが楽しみにしてたお飲み物も、私……わた、私……ひっく、うぅ……」
「落ちついて……って言っても、フィリアの性格じゃ気にするかな。なら、好きなだけ泣いていいから。私は気にしてないから、大丈夫。ほら」
「は、ぃ……うぁあ、ぐすっ……」
他のことは全部後回しにして、とにかくフィリアをあやす。
膝をついて必死に涙を拭っているフィリアの頭を抱きしめて、よしよしと子どもにするように頭を撫でた。
そうしているうちにフィリアも落ちついてきたようで、次に涙を拭った時にはもう雫はこぼれてこなかった。
まだ目が少し赤いフィリアが、ぽつぽつと言葉を漏らしていく。
「私……お師匠さまが楽しみにしてたお飲み物、大事に運ぼうって思った、のに」
「うん」
「お師匠さまと同じものを飲めるのが、嬉しくて……つい、運びながら匂いを嗅いじゃったんです。そうしたらなんだか、体がいきなり跳ねるみたいな、すごい感覚がして……き、気がついたら落としちゃってて。ごめんなさいっ……言い訳です、こんなの」
誰だよフィリアのジュースに変な匂いする薬入れたやつは。絶対許さんぞ。
「……フィリアは悪くないよ」
……はい。入れたのは私です。ごめんなさい。フィリアはほんとマジで悪くない……。
フィリアがそうなったのってまず間違いなく、私が入れた淫魔の液体薬のせいだもん。
私も開けた時のちょっとした匂いだけで同じような状態になりそうだったし……。
急に頭がスーッと冷静になってくる。
なにやってるんだ私は。自分の欲望を叶えたいがために、フィリアを傷つけて、泣かせて……。
なんだろう……なんか、もう計画とかどうでもいいや。
っていうかなんで私あんな計画思いついたんだよ。
冷静に思い返したら薬盛って襲うとか普通に犯罪じゃないか。いやそれを言ったら薬を買う時点で犯罪やっちゃってたけど。
いくらフィリアが無防備で無自覚にいつも誘惑してくるからって、それはそれを誘惑と捉えてしまう私が悪いんであって、ただ純粋に私のことを思ってくれているフィリアはなにも悪くない。
なーにが「あの時の私はアホだった」だ。アホなのはお前ですよ。反省しろよ私。
「……フィリア。とりあえず今はご飯にしようか。大丈夫。お腹いっぱいになれば、きっと気持ちも落ちつ――」
「でも私、このコップの分だけはなんとか守り切ったんです……!」
私の言葉を遮って、ファリアが大事そうに抱えていた子犬模様のコップを私に見せる。
お。なんだか嫌な予感がするぞ。
「お師匠さま、ずっとこのお飲み物楽しみにしていらしたんですよね? 私、一人分だけですけど、なんとか守り切ることができました……! お師匠さま! どうかこれをお飲みくださいっ!」
「……いや、その……」
なんでフィリアさん、よりにもよって薬入りの方を守ってしまってらっしゃるの……?
「そ、それはフィリアのぶんだろう? フィリアが飲むといいよ」
「いえっ、そんなこと絶対できません! だって私、今日ずっとお師匠さまが機嫌良さそうにしてるのを見てましたっ。私の不注意でこぼしてしまったのに、お師匠さまがこれを味わえないなんて……絶対ダメです! もしそうなったら、私は私を自分で許せなくなります……!」
「そ……そう、か……し、しかしフィリアのコップ、だからな……」
これは……かなりまずい状況なのでは……。
あの……私もう反省しました。フィリアちゃんを襲おうとか欠片も考えてません。
だから、えっと、そのー……勘弁してもらえませんかね……?
「コップが気になるんですか? それなら大丈夫です! 確か棚の方に予備のコップがありましたよね? そっちに中身を移して、私のコップは洗ってから水かなにかを入れますから!」
「し、しかし、私だけ良い物を飲むのはその、心が少し痛むというか……」
「……お師匠さまは本当にお優しいです。お師匠さまは初めから、私と一緒に飲むのを楽しみにしていらっしゃったんですね……それなのに私、こぼしてしまって……私の、せいで……」
うるうると再びフィリアの目に涙が溜まっていくものだから、考えるよりも早く、慌てて口を開いた。
「フィ、フィリアは悪くないと言っただろう? 気にしなくていいっ」
「違うんです……これは私が悪いんです。私がうっかりお師匠さまのコップを落としてしまったせいで、お師匠さまの楽しみを奪って……こんなんじゃ、お師匠さまのそばにいる資格なんてありません……」
「私とフィリアは家族だ。家族のそばにいるのに資格なんていらない。それに、フィリアは一人分だけでも頑張って守ってくれたんだろう? 怪我をしてでも、私のために……」
そっと、フィリアの頭を撫でる。
「そんなフィリアの気持ちが、私はとても嬉しいんだ。だから、あまり落ち込まないでほしい。フィリアには笑顔が一番似合うよ。私はフィリアに、いつもみたいに笑ってほしい」
「お師匠さま……うぅ、お師匠さまはお優しすぎます……」
泣き笑いのように顔をくしゃりと歪めて、私の肩に寄りかかってくる。
優しいっていうか全部私のせいだしなぁ……うぐぐ、罪悪感が……。
「お師匠さま……お願いします。このお飲み物を受け取ってください。お師匠さまが最初に望んでくださった、二人で飲むことはもうできませんけど……せめてお師匠さまにだけは、これをお飲みになってほしいんです。どうか、私のためにも……」
「え。あ……いや、それは……」
「やっぱり……ダメ、ですか?」
フィリアの目尻に涙が溜まっていく。
「だ、ダメじゃないっ。さっきも言っただろうっ? フィリアの気持ちが嬉しいと。だから……その……う、う……受け取らせて、もらうよ。ありがたく……うん、ありがたく……」
ここまで来て、断るなんてできるはずもなかった。
フィリアから手渡されたコップを受け取る。するとフィリアは立ち上がって、食器棚から新しいコップを持ってきた。
中身をそちらに注ぎ直した後、フィリアのコップは水の魔法でしっかりと洗って、代わりに水を入れて。
「ごめんなさい、長い時間拘束してしまって……せっかくのご飯が冷めちゃいますっ。早くテーブルに料理を運んで、夕食にしましょうっ」
「……そう、だね」
少しだけ元気を取り戻したフィリアが、料理をテーブルに運んでいく。
そんな後姿を尻目に、私は手に持っているコップを見下ろした。
……これ、私もフィリアみたいに落としちゃダメだろうか……?
ダメだろうなぁ……もしそんなことしたら、フィリアが「私が最初に落としたせいで」ってものすごい落ち込む未来が見える……。
……どうしよう、これ……。
頭を抱えて、途方に暮れる。
自業自得。因果応報。自分で蒔いた種。身から出たさび。
私の頭の中に、そんな四字熟語とことわざたちが浮かんでいた。