チュンチュンと小鳥のさえずりが聞こえてくる。
昨日まで降っていた大雨が嘘のような快晴だった。
平和な一日の訪れを予感させる穏やかな朝の空気の中、窓から差し込む柔らかな朝日が寝起きでまだ重たい私の瞼の奥を刺激して、脳に刺激を与えてくる。
段々と頭が覚醒してきた私は、ゆっくりと上半身を起こすと、その視線を自分の隣に向けた。
幸か不幸か、そこには誰もいない。
どうやらベッドの中にいるのは私だけのようだ。
ついでに部屋の中を見渡して、今この部屋にいるのが私一人ということが確認できたら、私はおぼろげな記憶を掘り返すようにボーッと天井を見上げた。
そして、昨夜の情景が脳裏に浮かんだ次の瞬間――私はガバッと勢いよく毛布をかぶって、盛大に悶えた。
「――うぁぁあぁぁー……! うぅ……バカッ! バカバカバカバカバカバカッ! 私のバカ! あぅぅ……私は、私はなんで、あんなことを……!」
バタバタと足を動かす。
顔が熱い。鏡なんか見なくても、耳まで真っ赤になってしまっているのがわかった。
目を閉じれば……いや別に目を閉じなくたって、鮮明に思い出すことができる。
昨夜の出来事は、私にとってそれほどまでに大きかった。
ずっと隠していた本音をフィリアに告げて、フィリアにそれを受け入れてもらえて……フィリアとキスをして。
ずっと攻めの立場にこだわっていたはずなのに、私が欲しいと懸命に訴えるフィリアの熱っぽい顔を見ていたら、受けでもいいかな、なんて思ってしまって。
それから……それから私は、フィリアにたくさん……。
「……でも……可愛かったな、フィリア……」
幼い頃から母親に愛してもらえなかった彼女は、きっと常に愛情に飢えているんだろう。
それは普段の言動からもなんとなく窺えたし、情事でもそれは変わらなかった。
たどたどしくも、もっと、もっとと。際限なく私を求めてくる。
そんなフィリアとの行為は、彼女が今まで溜め込んできた感情をすべて吐き出すかのように激しくて……。
……うん。まあその、激しすぎて途中から自分がなにをしているのかもよくわかってなかったけど……とにかく、どうしようもないくらい気持ちよかったことだけは覚えている。
体は私より大きいのに、まるで子どもみたいに甘えたがりで……赤ちゃんみたいに夢中になって、私のあちこちに吸いついてきた。
ぽうっ、と熱を持った思考のまま、私はペタリと、自分の胸に両手で触れる。
少し力を込めてみれば、ふにょんと柔らかい感触とともに、わずかな膨らみに指先が沈み込む。
……うーん……。
やっぱりまだまだ小さいというか、発展途上というか……。
当然ながらフィリアとは比べるべくもない。シィナと比較しても、私の方が小さいだろう。
さすがにアモルやリザには勝てるけど、私より一回り以上も背丈が低い二人に勝ち誇ったところで虚しいだけだ。リザに至ってはフィギュアサイズだし。
……こんな小さい胸で、フィリア、ちゃんと満足してくれたのかな……。
「~~っ!! 違う違う違う! そうじゃないぞ私! どうして受けに甘んじたことをよしとしてるんだっ!」
ブンブンと頭を振って、昨夜の甘い余韻に支配されている思考を追い払う。
昨夜の私は、その……なにかがおかしかった!
本当の私をフィリアに受け入れてもらえたのが嬉しかったせいか、フィリアのことをすごく愛おしく感じてしまって、ついつい場の空気に流されてしまったんだ!
もちろん、あの時の気持ちが全部気の迷い……ってわけではないけど……。
フィリアが私を求めてくれたあの時、逆に私がフィリアを押し倒すことだって、やろうと思えばできたし!
ただどうしてかその、体の奥の方が疼いて胸がキュンキュンして、思うように体が動かなかっただけで……!
そう、あれは絶対にいつもの私じゃなかった! なにかがおかしかった!
だってそうじゃなきゃ、あんな……あんな……うぅぅ……。
……あんな初心な女の子みたいな反応……私がするわけないもん……。
「つ、次……! 次こそは、私が主導権を握る! 絶対……!」
決意を新たに、私はベッドから飛び出した。
……まあ次とは言ったものの、次がいつまたあるかわからないけど。
フィリアと二人だけだった頃はともかくとして、今はシィナにアモル、リザもいる。
三人にばれないようにフィリアとまた……その、えっちなことをするのは、正直だいぶ厳しい。
わざわざそういうことしますって宣言するわけにもいかないし。
そんなことしたらただの変態だ。
乱れた寝間着から普通の服装に着替えたら、私は部屋を出る。
「フィリアは……台所かな」
同じベッドで寝たはずなのに、起きた時に横にフィリアがいなかったことを鑑みるに、たぶん朝食を作ってくれているんだろう。
昨夜はその、だいぶ激しかったし……疲れのせいか、私はいつもより起きるのが遅くなってしまったから。
台所が近づくにつれ、私の予想通り、朝食を作る音が聞こえてきた。
「……さて」
台所の方に行く前に、一旦身だしなみを整えて、おかしなところがないか確認する。
……よ、よし……いくぞ!
「こほん! ……お、おはよう。フィリア」
「あ、お師匠さま……はい、えっと……え、えへへ。おはようございます……」
角からひょっこりと顔を出して挨拶をすると、ちょうど料理中だったフィリアがこちらに振り向いた。
恥ずかしげに頬を染めて、たどたどしい口調で返事をする彼女を見て、思わず胸がドキッとする。
ついつい昨夜の情景が脳裏に浮かんでしまい、私は慌てて首を振って振り払った。
「……」
「……」
……うぅ……。
なんだろう……フィリアって、こんなに可愛かったっけ……?
いや、もちろん普段からフィリアは可愛いけど!
なんだか以前より一段と可愛く見えるっていうか……。
「……しちゃい、ましたね……私たち……」
頬を染め、どこか艶っぽい声でフィリアが照れくさそうに呟く。
それを見ただけで私の心臓が大きく高鳴ったが、私は平静を取り繕うように咳払いをして、彼女の言葉に同意するように小さく首肯した。
「そう、だね。しちゃった……ね」
二人して頬を紅潮させ、モジモジと恥じらうように下を向く。
私もフィリアも、興奮していた昨夜はいろいろと積極的だったけど……こうして落ちついてから向き合うと、なにを話すにも気恥ずかしさが勝ってしまう。
なにせ私とフィリアは、一日二日と言った短い間柄じゃない。
何か月も一緒に暮らしてきた家族にも等しい相手だ。
そんな近しい相手と、つい昨晩、私たちは体を重ねた。
意識すればするほど顔が熱くなる思いだったが、いつまでもこんな気まずい空気のままなのはよろしくない。
多少無理にでも話題を変えるべく、私は努めて明るい声音で口を開いた。
「フィ、フィリア!」
「は、はいっ!」
「あっ、いや、えぇと……ちょ、朝食の具合はどんな感じ? 手伝った方がいいかな……?」
やっぱりなんだかんだで気恥ずかしさは抜けない。
それでもなんとかいつも通りに振舞おうとする私の努力を汲むように、フィリアもぎこちなく言葉を返す。
「は、はい……えっと、そうですね。朝食の方はもうすぐ作り終わるので、お師匠さまの手を借りなくとも大丈夫だと思います」
「そっか……その、ごめんね。起きるのが遅くなって」
「い、いえっ! 元はと言えば私のせいなので、お師匠さまは気になさらないでください! お師匠さまは息も絶え絶えだったのに、私ったらあんなにはしゃいじゃって……あっ」
「……」
話題を変えようとしていたはずが昨夜のことに戻ってきてしまい、フィリアは「しまった!」と言いたげに声を上げる。
耳まで真っ赤に染め上げて俯く私と、オロオロと狼狽えるフィリアの間で、再び気まずい沈黙が流れる。
……い、いたたまれない……。
「そ……そうです! 朝食のことは私に任せていただいて大丈夫なので、お師匠さまはシィナちゃんたちを起こしてきてもらってもいいですかっ?」
自分のミスは自分で挽回する! そう言わんばかりにフィリアが勢いよく提案する。
「シィナちゃんたち、昨晩はなにも食べていないはずなので……きっと皆、お腹が空いてると思うんです」
「そっか……シィナとアモルも、フィリアが昨日話してくれたことは知ってるんだよね?」
フィリアが昨日話してくれたこと。
すなわち、リザがこの世に誕生した時から患っていた不老不死の呪いのことと、それにまつわる苦痛の軌跡。
そしてリザをそんな不死の苦しみから解放するために、私がその呪いをリザから私の中へと移したことだ。
私の確認に、フィリアは神妙に頷きを返す。
「はい、知っています。私はただ魔法を極める覚悟を固めればいいだけでしたけど……道が示されていた私と違って、お二人は悩むことがたくさんあったはずですから。どうかお師匠さまに、直接声をかけていただいてほしいんです」
うーん……私のことなんか、そんな気にしないでくれていいんだけど……。
シィナもアモルも……もちろんフィリアや、リザだって。今までたくさん辛い思いをしてきたんだから。
私のことなんか気にしないで、ただこの家で楽しく過ごせてもらえたらそれだけでいいのに。
だけどそうやって話も聞かず突っぱねてしまうのは、私を思ってくれる彼女たちの気持ちを袖にすることと同じことだ。
本当に皆のことを思うなら、昨晩フィリアと話し合ったように、シィナたちともまっすぐ向き合わなきゃ……か。
「わかったよ、フィリア。私、ちょっと行ってくる」
「ふふっ。はい、行ってあげてください! たくさんおいしいご飯を作って待ってますから!」
大げさなくらい手を振るフィリアに送り出されて、私は台所を出る。
廊下を歩いてまず向かった先は、シィナの部屋だ。
扉の前に立ったら、深呼吸を一つ。
それからノックしようと手を上げて――。
「あ」
「あ……(あ……ハロちゃ……)」
コンコンと叩く寸前でガチャリと扉が開かれて、ちょうど出てこようとしたシィナとばったり出くわした。
私と目が合うなり、シィナの猫耳が嬉しそうにピョコンと跳ねる。
だけどその後すぐになにかを思い出したかのように、しなしなぁ……と萎んでしまった。
朝一番に私と会えたことを反射的に喜びかけたが、昨日のリザの話を思い出して落ち込んでしまった……って感じだ。
「おはよう、シィナ」
「……う、ん……おは、よう……(う、うん。おはよう、ハロちゃん)」
普段ならここで間髪入れずに肌が触れ合うくらいまで寄ってきて、スリスリと猫のように頬や顎を擦りつけて甘えてくるところなのだが……今日は残念ながらお預けみたいだ。
開かれた部屋の扉を隔てて、立ち尽くしたまま互いの視線が交錯する。
よく見るとシィナの目の下は若干だが隈ができていて、猫耳や尻尾の毛も少しだけ逆立っていた。
きっと私のことで、一晩中悩んでくれていたんだろう。
不安にさせてしまったことを申しわけなく感じると同時に、それだけ私が彼女に思われているのだと思うと、不誠実かもしれないが少々頬が緩んでしまった。
「……(あ……ハロちゃん、今ちょっとだけ笑った……可愛い……)」
話をするために来たのは良いものの、いざこうして向き合うとなにから切り出せばいいかわからず、どうにも言葉が出てこなかった。
シィナも同じ気持ちなのか、お互いに無言のまま、すでに十秒以上の時が経過している。
「……(……はっ!? い、いけないいけないっ。いつまでハロちゃんに見惚れてるの、わたし! なんでかわからないけど、いつもよりハロちゃんが色っぽく見えてドキドキしちゃうからって……そんなことより、今は先に話さなきゃいけないことがあるでしょ!)」
沈黙を不思議と気まずいとは感じないのは、昔と違って、今の私にはシィナの優しさが理解できているからなのか。
とは言え、いつまでもこうして見つめ合っているだけでは話が進まない。
意を決して話を切り出そうとしたのだが、それより一瞬早くシィナが口を開いた。
「ハ、ハロちゃ……!(ハ、ハロちゃん……わ、わたし、ハロちゃんと話したいことがあるの!)」
「シィナ……うん。私に伝えたいことがあるなら、ちゃんと聞くよ」
扉の沓摺を超えて私の方に一歩踏み出してきたシィナに、私は逃げずに向き合う。
シィナは初めこそモジモジと下を向いていたが、勇気を振り絞るように顔を上げると、私の目をまっすぐに見つめてきた。
「ハロ、ちゃん……が、ふし、っていうの、は……ほんと……?(昨日、リームザードちゃんからハロちゃんが不死の呪いを受け継いだって聞いたけど……本当、なの?)」
「うん、本当だよ」
私が肯定すると、シィナは少し元気がなさそうに猫耳を伏せた。
「……ふしに、ついて……ずっと、かんがえてた……の。でも、わたし……うまく、そうぞう……できな、かった(わたしね……ハロちゃんが不老不死だって聞かされて、それがどういうものなのかって、いっぱい考えようとしてみたんだけど……わたしあんまり頭が良くないから、うまく想像できなかったの……)」
「……そっか」
不死がどういうものなのか想像がつかない――。
正直、それは当人である私も同じ感想だ。
いくら不老不死だって言っても、私はまだそこまで長く生きてるわけでもない。
リザからその苦しみについて幾度も聞いていたから、それが相当に過酷なものであるという認識はあるけど……。
自分がこれからリザと同じ道をたどるかもしれないという実感が、そこまで明確にあるわけじゃなかった。
「だから……わたしなり、に……かんがえて、みたの。もし、また……ひとり、ぼっちに……なったら、って……(だからね、わたしなりに考えてみたの。もしハロちゃんが先にどこかにいっちゃって、わたし一人だけが残されたら、わたしはどんな風に感じるのかな……って)」
「それは……」
今の私は、シィナが人との繋がりをとても大切にしていることを知っている。
いつも私の力になってくれて、私のことを好きだと言ってくれて。
アモルとも仲良くなろうと努力して、アモルがソパーダに斬りかかられた時もシィナは身を挺して守ってくれた。
この家に来たばかりの頃のリザにフィリアが危うく殺されそうになった時にも、必死にフィリアを守ると同時にとても怒っていたとフィリアに聞いた。
そしてその怒った相手のリザとだって、仲直りしてからは友達のように接しようとしていることを知っている。
そんなシィナが、自分が一人ぼっちになった時のことを想像することは、とても辛かっただろうと容易に想像がついた。
「ひとりは……くらくて……さびし、かった。つらくて……くるし、くて……(ハロちゃんがいなくなって、ほんのちょっとでも自分一人だけになった時のことを考えると、すごく暗くて寂しかったの……どうしようもないくらい辛くて、苦しくて……)」
「シィナ……」
「……でも……ハロちゃ、と……であわなければ、なんて……それだけ、は……ぜったい、おもわなかった(でも、でもね。わたし、何度繰り返し想像しても、ハロちゃんと出会わなければよかっただなんて、それだけは思わなかったよ)」
ほんの少し目を見開いて硬直する私の手を、シィナがギュッと握る。
温かく包み込むような、優しい手つきだ。
「ハロちゃ、と……すごした、ひび……ぜんぶ……わたしの、だいじな、たからもの……だから(私にとってハロちゃんと過ごした日々は、全部かけがえのない宝物で……思い出すだけで笑顔になれるような、幸せの記憶で溢れてたから)」
「宝物……か」
「ハロちゃん、と……であえた、こと……わたし……こうかい、なんて……ぜったい、しない(たとえこの先なにがあっても、わたしは絶対ハロちゃんと出会えたことを後悔なんてしないよ)」
私の手を握る温もりを通して、シィナの気持ちが伝わってくるようだった。
「だから……わたし、ハロちゃ、にも……おなじよう、に……おもって、もらえるよう……がんばる(だからわたし、ハロちゃんにも同じように思ってもらえるよう頑張りたい)」
伏せられていた彼女の猫耳はいつの間にか元気を取り戻して、ピコピコと跳ねている。
彼女のやる気を表すかのような、そんな何気ない仕草がとても愛おしく感じて、私の頬に思わず笑みがこぼれる。
「私にとってももう宝物だよ。シィナとこうして出会えたこと、私もこの先なにがあっても後悔なんかしない」
「ううん……だめ。まだ、だめ……なの。ひとりの、さびしさ……ぜんぶ、けしちゃう、くらい……わたし、が……ハロちゃんの、こと……しあわせに、するの(ううん。ダメだよハロちゃん。まだダメ。いつかハロちゃんが私のことを思い出す時、いつだって笑顔になれるように……もっと、もーっと! 私がハロちゃんのこと、幸せにしてあげたいの)」
「ふふっ。そっか。私、今よりもっと幸せになれるんだ。なんだか想像もつかないや」
でも、と私はシィナを見返す。
「それでシィナは幸せになれるのかい? 私の幸せを考えてくれるのは嬉しいけど、私はシィナにも同じくらい幸せになってほしいよ」
「……へいき、だよ。だって、わたしは……(えへへ……それなら全然大丈夫だよ。だってわたしは――)」
胸の前に手を置いて、どこか嬉しそうにしながらシィナは言う。
「ハロちゃんの、ことが……せかいで、いちばん……だいすき、だから……(ハロちゃんのことが、世界で一番大好きだから)」
「――――」
「すきな、ひとが……うれし、そうだと……わたしも、おなじくらい……うれしくなる……の…………えへへ……(知ってる? ハロちゃん。好きな人が嬉しそうにしてるとね、自分も同じくらい嬉しくなれるんだよ? えへへ……)」
綺麗だった。
今まで一度だって見たことがない、花が咲くような満面の笑みに目が奪われる。
私もシィナのことが好きだよ、とか。私も同じ気持ちだよ、とか。
気の利いた返事でもできればよかったのに、どうしてか言葉が出てこない。
見惚れるとはこういうことを言うのだろうか。
ほんの一言でもなにか言ってしまえば、目の前にある美しい光景が崩れてしまう気がして、言葉を発しようという気にもなれなかった。
この時間がずっと続いてほしい。
無意識のうちにそう願ってしまうくらい、初めて見たシィナの心からの笑顔は綺麗で、可愛らしくて、どうしようもないくらい魅力的だったんだ。
言いたいことを言い切ることができたからか、シィナは満足そうに頷くと、スッと私に体を寄せてきた。
そしていつものように、スリスリと自分と私の頬をすり合わせる。
まるで大好きな主人に甘える猫のように――まるで大好きな恋人に甘える、ただの女の子のように。
照れくさそうに、幸せそうに、彼女は私に抱きついて離れようとしない。
……思えば私の初恋は、シィナだったんだっけ。
シィナに声をかけることにした始まりが、今と同じように彼女に見惚れたことが理由で。
話しているうちにどんどん好きになっていってしまって……それが私の初恋になった。
その後すぐに恐怖を植え付けられてすっかり玉砕してしまったのだが、今はもう、あの時感じた印象のすべてが誤解であることを私は知っている。
あの日、シィナに感じた気持ちが私の中に蘇ってくる。
友達でもいいからそばにいたい。もっといっぱい話をして、一緒に街を歩いたりしてみたい。
そうだ。私はシィナに恋をしたあの日、いつかこの子の笑顔が見てみたいって、そう思ってたんだ。
シィナの笑顔は、本当に綺麗だった。
たとえこの先どれだけ長い時を生きようとも、忘れようがないくらいに。
「……シィナ。私も、シィナのことが――」
と、そこまで言いかけたところで、私はシィナがどこか訝しげに鼻をスンスンと動かしていることに気がついた。
私が言いかけた言葉が耳に入らないくらい、なにかが気にかかっているようだった。
表情もさきほどの満面の笑みとは打って変わって普段通りの無表情に戻っており、それもどこか不満そうにも見える。
「えっと……シィナ? どうかしたの?」
「……(……)」
しばらく沈黙した後、彼女は私の耳元に自分の口を近づけると、ボソリと静かに呟いた。
「…………ほかの……おんなの……においが、する(なんか……フィリアちゃんの匂いがする。しかも、すごく濃い……)」
ひえっ。
「……(ここまで濃い匂い、ちょっと抱きつくくらいじゃ絶対移らないよね……? なんでこんなに色濃く残って……むー。今ここにいるのはわたしとハロちゃんだけで、今はわたしのハロちゃんなのに……)」
「えっとぉ……そ、そのぉ……」
や、やばい……この状況は、本当にやばい……。
そうだ……昨夜はフィリアに半ば強引に迫られて、フィリアのことで頭がいっぱいになっちゃったせいですっかり頭からすっぽ抜けてしまっていたが、私はそもそもシィナから告白を受けていたんだ。
ただ好きだって言われただけで、特に返事を要求されたわけでもなかったけど……だからって放置したままにしていいはずがない。
そもそも返事を要求されなかったのは、たぶん私が答えを出すまで待つ的な意味合いだったはずだ。
なのに、その返事の答えを出す前に、私はあろうことか他の女の子と行為に及んでしまった。
うん、最低だ。まごうことなきクズだ。
しかもフィリアと行為に及んでしまった一番の理由が『場の空気に流された』であることがとんでもなく最低度合いを加速させている。
どうしよう……私、シィナに刺されても文句言えない……。
い、いや、シィナがそういうことする子じゃないっていうのは今の私ならもちろんわかってるけど! でも正直これ私を刺す権利あるよシィナは!
フィリアとはえっちなことをしちゃっただけで、まだ付き合ってるとかではないけど……苦しすぎる言い逃れだ。
告白の返事もまだなのに、他の子と行為に及んでる時点で普通に論外である。
「シィナ……その……じ、実は――」
「――お姉ちゃん!」
私に向けてくれているシィナの好意に報いるため、意を決して真実を告げようとした瞬間、甲高く私を呼ぶ声とともに小さな影が私に突っ込んできた。
すんでのところでシィナを離して小さな影を抱きとめた私は、その衝撃を若干受け止めきれずにその場でたたらを踏む。
「アモル……」
危ないから廊下は走っちゃいけないよ、と注意しようかとも思ったけれど、人恋しそうに私のお腹に顔を埋めるアモルを見てしまったら、その気も失せてしまった。
髪はボサボサで、肌もカサカサとしており、シィナと同様に昨晩はあまり眠れなかっただろうことは一目でわかった。
ふとシィナの方を見れば、彼女は私とアモルの邪魔にならないように一歩引いていた。
彼女なりに気を遣ってくれたみたいだ。
私は心の中でシィナにお礼を言うとともに、後で必ずシィナにフィリアとのことを話すと誓って、その場に膝をついてアモルと視線を合わせるのだった。
昨日まで降っていた大雨が嘘のような快晴だった。
平和な一日の訪れを予感させる穏やかな朝の空気の中、窓から差し込む柔らかな朝日が寝起きでまだ重たい私の瞼の奥を刺激して、脳に刺激を与えてくる。
段々と頭が覚醒してきた私は、ゆっくりと上半身を起こすと、その視線を自分の隣に向けた。
幸か不幸か、そこには誰もいない。
どうやらベッドの中にいるのは私だけのようだ。
ついでに部屋の中を見渡して、今この部屋にいるのが私一人ということが確認できたら、私はおぼろげな記憶を掘り返すようにボーッと天井を見上げた。
そして、昨夜の情景が脳裏に浮かんだ次の瞬間――私はガバッと勢いよく毛布をかぶって、盛大に悶えた。
「――うぁぁあぁぁー……! うぅ……バカッ! バカバカバカバカバカバカッ! 私のバカ! あぅぅ……私は、私はなんで、あんなことを……!」
バタバタと足を動かす。
顔が熱い。鏡なんか見なくても、耳まで真っ赤になってしまっているのがわかった。
目を閉じれば……いや別に目を閉じなくたって、鮮明に思い出すことができる。
昨夜の出来事は、私にとってそれほどまでに大きかった。
ずっと隠していた本音をフィリアに告げて、フィリアにそれを受け入れてもらえて……フィリアとキスをして。
ずっと攻めの立場にこだわっていたはずなのに、私が欲しいと懸命に訴えるフィリアの熱っぽい顔を見ていたら、受けでもいいかな、なんて思ってしまって。
それから……それから私は、フィリアにたくさん……。
「……でも……可愛かったな、フィリア……」
幼い頃から母親に愛してもらえなかった彼女は、きっと常に愛情に飢えているんだろう。
それは普段の言動からもなんとなく窺えたし、情事でもそれは変わらなかった。
たどたどしくも、もっと、もっとと。際限なく私を求めてくる。
そんなフィリアとの行為は、彼女が今まで溜め込んできた感情をすべて吐き出すかのように激しくて……。
……うん。まあその、激しすぎて途中から自分がなにをしているのかもよくわかってなかったけど……とにかく、どうしようもないくらい気持ちよかったことだけは覚えている。
体は私より大きいのに、まるで子どもみたいに甘えたがりで……赤ちゃんみたいに夢中になって、私のあちこちに吸いついてきた。
ぽうっ、と熱を持った思考のまま、私はペタリと、自分の胸に両手で触れる。
少し力を込めてみれば、ふにょんと柔らかい感触とともに、わずかな膨らみに指先が沈み込む。
……うーん……。
やっぱりまだまだ小さいというか、発展途上というか……。
当然ながらフィリアとは比べるべくもない。シィナと比較しても、私の方が小さいだろう。
さすがにアモルやリザには勝てるけど、私より一回り以上も背丈が低い二人に勝ち誇ったところで虚しいだけだ。リザに至ってはフィギュアサイズだし。
……こんな小さい胸で、フィリア、ちゃんと満足してくれたのかな……。
「~~っ!! 違う違う違う! そうじゃないぞ私! どうして受けに甘んじたことをよしとしてるんだっ!」
ブンブンと頭を振って、昨夜の甘い余韻に支配されている思考を追い払う。
昨夜の私は、その……なにかがおかしかった!
本当の私をフィリアに受け入れてもらえたのが嬉しかったせいか、フィリアのことをすごく愛おしく感じてしまって、ついつい場の空気に流されてしまったんだ!
もちろん、あの時の気持ちが全部気の迷い……ってわけではないけど……。
フィリアが私を求めてくれたあの時、逆に私がフィリアを押し倒すことだって、やろうと思えばできたし!
ただどうしてかその、体の奥の方が疼いて胸がキュンキュンして、思うように体が動かなかっただけで……!
そう、あれは絶対にいつもの私じゃなかった! なにかがおかしかった!
だってそうじゃなきゃ、あんな……あんな……うぅぅ……。
……あんな初心な女の子みたいな反応……私がするわけないもん……。
「つ、次……! 次こそは、私が主導権を握る! 絶対……!」
決意を新たに、私はベッドから飛び出した。
……まあ次とは言ったものの、次がいつまたあるかわからないけど。
フィリアと二人だけだった頃はともかくとして、今はシィナにアモル、リザもいる。
三人にばれないようにフィリアとまた……その、えっちなことをするのは、正直だいぶ厳しい。
わざわざそういうことしますって宣言するわけにもいかないし。
そんなことしたらただの変態だ。
乱れた寝間着から普通の服装に着替えたら、私は部屋を出る。
「フィリアは……台所かな」
同じベッドで寝たはずなのに、起きた時に横にフィリアがいなかったことを鑑みるに、たぶん朝食を作ってくれているんだろう。
昨夜はその、だいぶ激しかったし……疲れのせいか、私はいつもより起きるのが遅くなってしまったから。
台所が近づくにつれ、私の予想通り、朝食を作る音が聞こえてきた。
「……さて」
台所の方に行く前に、一旦身だしなみを整えて、おかしなところがないか確認する。
……よ、よし……いくぞ!
「こほん! ……お、おはよう。フィリア」
「あ、お師匠さま……はい、えっと……え、えへへ。おはようございます……」
角からひょっこりと顔を出して挨拶をすると、ちょうど料理中だったフィリアがこちらに振り向いた。
恥ずかしげに頬を染めて、たどたどしい口調で返事をする彼女を見て、思わず胸がドキッとする。
ついつい昨夜の情景が脳裏に浮かんでしまい、私は慌てて首を振って振り払った。
「……」
「……」
……うぅ……。
なんだろう……フィリアって、こんなに可愛かったっけ……?
いや、もちろん普段からフィリアは可愛いけど!
なんだか以前より一段と可愛く見えるっていうか……。
「……しちゃい、ましたね……私たち……」
頬を染め、どこか艶っぽい声でフィリアが照れくさそうに呟く。
それを見ただけで私の心臓が大きく高鳴ったが、私は平静を取り繕うように咳払いをして、彼女の言葉に同意するように小さく首肯した。
「そう、だね。しちゃった……ね」
二人して頬を紅潮させ、モジモジと恥じらうように下を向く。
私もフィリアも、興奮していた昨夜はいろいろと積極的だったけど……こうして落ちついてから向き合うと、なにを話すにも気恥ずかしさが勝ってしまう。
なにせ私とフィリアは、一日二日と言った短い間柄じゃない。
何か月も一緒に暮らしてきた家族にも等しい相手だ。
そんな近しい相手と、つい昨晩、私たちは体を重ねた。
意識すればするほど顔が熱くなる思いだったが、いつまでもこんな気まずい空気のままなのはよろしくない。
多少無理にでも話題を変えるべく、私は努めて明るい声音で口を開いた。
「フィ、フィリア!」
「は、はいっ!」
「あっ、いや、えぇと……ちょ、朝食の具合はどんな感じ? 手伝った方がいいかな……?」
やっぱりなんだかんだで気恥ずかしさは抜けない。
それでもなんとかいつも通りに振舞おうとする私の努力を汲むように、フィリアもぎこちなく言葉を返す。
「は、はい……えっと、そうですね。朝食の方はもうすぐ作り終わるので、お師匠さまの手を借りなくとも大丈夫だと思います」
「そっか……その、ごめんね。起きるのが遅くなって」
「い、いえっ! 元はと言えば私のせいなので、お師匠さまは気になさらないでください! お師匠さまは息も絶え絶えだったのに、私ったらあんなにはしゃいじゃって……あっ」
「……」
話題を変えようとしていたはずが昨夜のことに戻ってきてしまい、フィリアは「しまった!」と言いたげに声を上げる。
耳まで真っ赤に染め上げて俯く私と、オロオロと狼狽えるフィリアの間で、再び気まずい沈黙が流れる。
……い、いたたまれない……。
「そ……そうです! 朝食のことは私に任せていただいて大丈夫なので、お師匠さまはシィナちゃんたちを起こしてきてもらってもいいですかっ?」
自分のミスは自分で挽回する! そう言わんばかりにフィリアが勢いよく提案する。
「シィナちゃんたち、昨晩はなにも食べていないはずなので……きっと皆、お腹が空いてると思うんです」
「そっか……シィナとアモルも、フィリアが昨日話してくれたことは知ってるんだよね?」
フィリアが昨日話してくれたこと。
すなわち、リザがこの世に誕生した時から患っていた不老不死の呪いのことと、それにまつわる苦痛の軌跡。
そしてリザをそんな不死の苦しみから解放するために、私がその呪いをリザから私の中へと移したことだ。
私の確認に、フィリアは神妙に頷きを返す。
「はい、知っています。私はただ魔法を極める覚悟を固めればいいだけでしたけど……道が示されていた私と違って、お二人は悩むことがたくさんあったはずですから。どうかお師匠さまに、直接声をかけていただいてほしいんです」
うーん……私のことなんか、そんな気にしないでくれていいんだけど……。
シィナもアモルも……もちろんフィリアや、リザだって。今までたくさん辛い思いをしてきたんだから。
私のことなんか気にしないで、ただこの家で楽しく過ごせてもらえたらそれだけでいいのに。
だけどそうやって話も聞かず突っぱねてしまうのは、私を思ってくれる彼女たちの気持ちを袖にすることと同じことだ。
本当に皆のことを思うなら、昨晩フィリアと話し合ったように、シィナたちともまっすぐ向き合わなきゃ……か。
「わかったよ、フィリア。私、ちょっと行ってくる」
「ふふっ。はい、行ってあげてください! たくさんおいしいご飯を作って待ってますから!」
大げさなくらい手を振るフィリアに送り出されて、私は台所を出る。
廊下を歩いてまず向かった先は、シィナの部屋だ。
扉の前に立ったら、深呼吸を一つ。
それからノックしようと手を上げて――。
「あ」
「あ……(あ……ハロちゃ……)」
コンコンと叩く寸前でガチャリと扉が開かれて、ちょうど出てこようとしたシィナとばったり出くわした。
私と目が合うなり、シィナの猫耳が嬉しそうにピョコンと跳ねる。
だけどその後すぐになにかを思い出したかのように、しなしなぁ……と萎んでしまった。
朝一番に私と会えたことを反射的に喜びかけたが、昨日のリザの話を思い出して落ち込んでしまった……って感じだ。
「おはよう、シィナ」
「……う、ん……おは、よう……(う、うん。おはよう、ハロちゃん)」
普段ならここで間髪入れずに肌が触れ合うくらいまで寄ってきて、スリスリと猫のように頬や顎を擦りつけて甘えてくるところなのだが……今日は残念ながらお預けみたいだ。
開かれた部屋の扉を隔てて、立ち尽くしたまま互いの視線が交錯する。
よく見るとシィナの目の下は若干だが隈ができていて、猫耳や尻尾の毛も少しだけ逆立っていた。
きっと私のことで、一晩中悩んでくれていたんだろう。
不安にさせてしまったことを申しわけなく感じると同時に、それだけ私が彼女に思われているのだと思うと、不誠実かもしれないが少々頬が緩んでしまった。
「……(あ……ハロちゃん、今ちょっとだけ笑った……可愛い……)」
話をするために来たのは良いものの、いざこうして向き合うとなにから切り出せばいいかわからず、どうにも言葉が出てこなかった。
シィナも同じ気持ちなのか、お互いに無言のまま、すでに十秒以上の時が経過している。
「……(……はっ!? い、いけないいけないっ。いつまでハロちゃんに見惚れてるの、わたし! なんでかわからないけど、いつもよりハロちゃんが色っぽく見えてドキドキしちゃうからって……そんなことより、今は先に話さなきゃいけないことがあるでしょ!)」
沈黙を不思議と気まずいとは感じないのは、昔と違って、今の私にはシィナの優しさが理解できているからなのか。
とは言え、いつまでもこうして見つめ合っているだけでは話が進まない。
意を決して話を切り出そうとしたのだが、それより一瞬早くシィナが口を開いた。
「ハ、ハロちゃ……!(ハ、ハロちゃん……わ、わたし、ハロちゃんと話したいことがあるの!)」
「シィナ……うん。私に伝えたいことがあるなら、ちゃんと聞くよ」
扉の沓摺を超えて私の方に一歩踏み出してきたシィナに、私は逃げずに向き合う。
シィナは初めこそモジモジと下を向いていたが、勇気を振り絞るように顔を上げると、私の目をまっすぐに見つめてきた。
「ハロ、ちゃん……が、ふし、っていうの、は……ほんと……?(昨日、リームザードちゃんからハロちゃんが不死の呪いを受け継いだって聞いたけど……本当、なの?)」
「うん、本当だよ」
私が肯定すると、シィナは少し元気がなさそうに猫耳を伏せた。
「……ふしに、ついて……ずっと、かんがえてた……の。でも、わたし……うまく、そうぞう……できな、かった(わたしね……ハロちゃんが不老不死だって聞かされて、それがどういうものなのかって、いっぱい考えようとしてみたんだけど……わたしあんまり頭が良くないから、うまく想像できなかったの……)」
「……そっか」
不死がどういうものなのか想像がつかない――。
正直、それは当人である私も同じ感想だ。
いくら不老不死だって言っても、私はまだそこまで長く生きてるわけでもない。
リザからその苦しみについて幾度も聞いていたから、それが相当に過酷なものであるという認識はあるけど……。
自分がこれからリザと同じ道をたどるかもしれないという実感が、そこまで明確にあるわけじゃなかった。
「だから……わたしなり、に……かんがえて、みたの。もし、また……ひとり、ぼっちに……なったら、って……(だからね、わたしなりに考えてみたの。もしハロちゃんが先にどこかにいっちゃって、わたし一人だけが残されたら、わたしはどんな風に感じるのかな……って)」
「それは……」
今の私は、シィナが人との繋がりをとても大切にしていることを知っている。
いつも私の力になってくれて、私のことを好きだと言ってくれて。
アモルとも仲良くなろうと努力して、アモルがソパーダに斬りかかられた時もシィナは身を挺して守ってくれた。
この家に来たばかりの頃のリザにフィリアが危うく殺されそうになった時にも、必死にフィリアを守ると同時にとても怒っていたとフィリアに聞いた。
そしてその怒った相手のリザとだって、仲直りしてからは友達のように接しようとしていることを知っている。
そんなシィナが、自分が一人ぼっちになった時のことを想像することは、とても辛かっただろうと容易に想像がついた。
「ひとりは……くらくて……さびし、かった。つらくて……くるし、くて……(ハロちゃんがいなくなって、ほんのちょっとでも自分一人だけになった時のことを考えると、すごく暗くて寂しかったの……どうしようもないくらい辛くて、苦しくて……)」
「シィナ……」
「……でも……ハロちゃ、と……であわなければ、なんて……それだけ、は……ぜったい、おもわなかった(でも、でもね。わたし、何度繰り返し想像しても、ハロちゃんと出会わなければよかっただなんて、それだけは思わなかったよ)」
ほんの少し目を見開いて硬直する私の手を、シィナがギュッと握る。
温かく包み込むような、優しい手つきだ。
「ハロちゃ、と……すごした、ひび……ぜんぶ……わたしの、だいじな、たからもの……だから(私にとってハロちゃんと過ごした日々は、全部かけがえのない宝物で……思い出すだけで笑顔になれるような、幸せの記憶で溢れてたから)」
「宝物……か」
「ハロちゃん、と……であえた、こと……わたし……こうかい、なんて……ぜったい、しない(たとえこの先なにがあっても、わたしは絶対ハロちゃんと出会えたことを後悔なんてしないよ)」
私の手を握る温もりを通して、シィナの気持ちが伝わってくるようだった。
「だから……わたし、ハロちゃ、にも……おなじよう、に……おもって、もらえるよう……がんばる(だからわたし、ハロちゃんにも同じように思ってもらえるよう頑張りたい)」
伏せられていた彼女の猫耳はいつの間にか元気を取り戻して、ピコピコと跳ねている。
彼女のやる気を表すかのような、そんな何気ない仕草がとても愛おしく感じて、私の頬に思わず笑みがこぼれる。
「私にとってももう宝物だよ。シィナとこうして出会えたこと、私もこの先なにがあっても後悔なんかしない」
「ううん……だめ。まだ、だめ……なの。ひとりの、さびしさ……ぜんぶ、けしちゃう、くらい……わたし、が……ハロちゃんの、こと……しあわせに、するの(ううん。ダメだよハロちゃん。まだダメ。いつかハロちゃんが私のことを思い出す時、いつだって笑顔になれるように……もっと、もーっと! 私がハロちゃんのこと、幸せにしてあげたいの)」
「ふふっ。そっか。私、今よりもっと幸せになれるんだ。なんだか想像もつかないや」
でも、と私はシィナを見返す。
「それでシィナは幸せになれるのかい? 私の幸せを考えてくれるのは嬉しいけど、私はシィナにも同じくらい幸せになってほしいよ」
「……へいき、だよ。だって、わたしは……(えへへ……それなら全然大丈夫だよ。だってわたしは――)」
胸の前に手を置いて、どこか嬉しそうにしながらシィナは言う。
「ハロちゃんの、ことが……せかいで、いちばん……だいすき、だから……(ハロちゃんのことが、世界で一番大好きだから)」
「――――」
「すきな、ひとが……うれし、そうだと……わたしも、おなじくらい……うれしくなる……の…………えへへ……(知ってる? ハロちゃん。好きな人が嬉しそうにしてるとね、自分も同じくらい嬉しくなれるんだよ? えへへ……)」
綺麗だった。
今まで一度だって見たことがない、花が咲くような満面の笑みに目が奪われる。
私もシィナのことが好きだよ、とか。私も同じ気持ちだよ、とか。
気の利いた返事でもできればよかったのに、どうしてか言葉が出てこない。
見惚れるとはこういうことを言うのだろうか。
ほんの一言でもなにか言ってしまえば、目の前にある美しい光景が崩れてしまう気がして、言葉を発しようという気にもなれなかった。
この時間がずっと続いてほしい。
無意識のうちにそう願ってしまうくらい、初めて見たシィナの心からの笑顔は綺麗で、可愛らしくて、どうしようもないくらい魅力的だったんだ。
言いたいことを言い切ることができたからか、シィナは満足そうに頷くと、スッと私に体を寄せてきた。
そしていつものように、スリスリと自分と私の頬をすり合わせる。
まるで大好きな主人に甘える猫のように――まるで大好きな恋人に甘える、ただの女の子のように。
照れくさそうに、幸せそうに、彼女は私に抱きついて離れようとしない。
……思えば私の初恋は、シィナだったんだっけ。
シィナに声をかけることにした始まりが、今と同じように彼女に見惚れたことが理由で。
話しているうちにどんどん好きになっていってしまって……それが私の初恋になった。
その後すぐに恐怖を植え付けられてすっかり玉砕してしまったのだが、今はもう、あの時感じた印象のすべてが誤解であることを私は知っている。
あの日、シィナに感じた気持ちが私の中に蘇ってくる。
友達でもいいからそばにいたい。もっといっぱい話をして、一緒に街を歩いたりしてみたい。
そうだ。私はシィナに恋をしたあの日、いつかこの子の笑顔が見てみたいって、そう思ってたんだ。
シィナの笑顔は、本当に綺麗だった。
たとえこの先どれだけ長い時を生きようとも、忘れようがないくらいに。
「……シィナ。私も、シィナのことが――」
と、そこまで言いかけたところで、私はシィナがどこか訝しげに鼻をスンスンと動かしていることに気がついた。
私が言いかけた言葉が耳に入らないくらい、なにかが気にかかっているようだった。
表情もさきほどの満面の笑みとは打って変わって普段通りの無表情に戻っており、それもどこか不満そうにも見える。
「えっと……シィナ? どうかしたの?」
「……(……)」
しばらく沈黙した後、彼女は私の耳元に自分の口を近づけると、ボソリと静かに呟いた。
「…………ほかの……おんなの……においが、する(なんか……フィリアちゃんの匂いがする。しかも、すごく濃い……)」
ひえっ。
「……(ここまで濃い匂い、ちょっと抱きつくくらいじゃ絶対移らないよね……? なんでこんなに色濃く残って……むー。今ここにいるのはわたしとハロちゃんだけで、今はわたしのハロちゃんなのに……)」
「えっとぉ……そ、そのぉ……」
や、やばい……この状況は、本当にやばい……。
そうだ……昨夜はフィリアに半ば強引に迫られて、フィリアのことで頭がいっぱいになっちゃったせいですっかり頭からすっぽ抜けてしまっていたが、私はそもそもシィナから告白を受けていたんだ。
ただ好きだって言われただけで、特に返事を要求されたわけでもなかったけど……だからって放置したままにしていいはずがない。
そもそも返事を要求されなかったのは、たぶん私が答えを出すまで待つ的な意味合いだったはずだ。
なのに、その返事の答えを出す前に、私はあろうことか他の女の子と行為に及んでしまった。
うん、最低だ。まごうことなきクズだ。
しかもフィリアと行為に及んでしまった一番の理由が『場の空気に流された』であることがとんでもなく最低度合いを加速させている。
どうしよう……私、シィナに刺されても文句言えない……。
い、いや、シィナがそういうことする子じゃないっていうのは今の私ならもちろんわかってるけど! でも正直これ私を刺す権利あるよシィナは!
フィリアとはえっちなことをしちゃっただけで、まだ付き合ってるとかではないけど……苦しすぎる言い逃れだ。
告白の返事もまだなのに、他の子と行為に及んでる時点で普通に論外である。
「シィナ……その……じ、実は――」
「――お姉ちゃん!」
私に向けてくれているシィナの好意に報いるため、意を決して真実を告げようとした瞬間、甲高く私を呼ぶ声とともに小さな影が私に突っ込んできた。
すんでのところでシィナを離して小さな影を抱きとめた私は、その衝撃を若干受け止めきれずにその場でたたらを踏む。
「アモル……」
危ないから廊下は走っちゃいけないよ、と注意しようかとも思ったけれど、人恋しそうに私のお腹に顔を埋めるアモルを見てしまったら、その気も失せてしまった。
髪はボサボサで、肌もカサカサとしており、シィナと同様に昨晩はあまり眠れなかっただろうことは一目でわかった。
ふとシィナの方を見れば、彼女は私とアモルの邪魔にならないように一歩引いていた。
彼女なりに気を遣ってくれたみたいだ。
私は心の中でシィナにお礼を言うとともに、後で必ずシィナにフィリアとのことを話すと誓って、その場に膝をついてアモルと視線を合わせるのだった。