今日も今日とて早く起きてしまった私ことフィリアは、屋敷の庭で朝練を行っていました。
 まだ日の出には少し早いですが、東の空はすでに白み始めているので、お日さまが顔を見せてくださるのも時間の問題と言ったところです。

「……アイシクルランス!」

 そんな肌寒い空気の中、光を反射して煌めく氷の槍が一直線に突き進み、その直線状に設置された土の塊を穿ちます。

「なるほど、ここはこういう構造になって……では、ここをこうしたら……」

 私は今放ったばかりの魔法の術式に、自分で少しだけ手を加えてみます。

 少し前までは闇雲に魔法の鍛錬を続けていただけでしたが、リームザードさんから魔術師としてのあり方と、術式の最適化について教わって以来、こんな風に魔法について考える時間が増えていました。
 こう、見るべき場所が変わったと言いますか……すでに使いこなしたと思い込んでいた魔法にもまだまだ学ぶべきものがたくさんあると、そう気づくことができたんです。

 術式の構造や役割、それぞれの相性。
 より素早く、より正確に魔法を使うことではなくて……新たな魔法を創り出すことや、既存の魔法を書き換えることに重点を置いた思考。

 魔法に対するこの視点の差異が、リームザードさんが言っていた魔法使いと魔術師の違いなんでしょうか?
 だとしたら、これが……今見えているこの景色こそが、魔術師の……お師匠さまがいつも見ている世界。

 えへへ……もちろん私はまだまだ未熟なので、お師匠さまやリームザードさんと比べたら見えている範囲も理解度も全然でしょうし……魔法だって、私が手を加えた程度のものなんて子どもの落書きにも等しいものなのかもしれませんが……。
 一歩ずつでも確実にお師匠さまに近づいている。その実感は、なににも耐えがたい喜びをもたらしてくれるようでした。

「……よーし! できました! もう一度……アイシクルランス!」

 浮かれた気分のまま、私は再度魔法を生み出します。

 アイシクルランス。お師匠さまいわく、中級魔法の基本とされるランス系統魔法の一つだそうです。
 威力、速度、難易度、使いやすさ等々。ランス系統魔法はいろんなものが程よくまとまっていて、冒険者の方にはよく愛用されているとおっしゃっていました。
 そのぶん術式の完成度も非常に高く、参考にすべき部分がたくさんあります。

 今回はその術式を敢えて一部分だけ書き換えてみて、術式の変化による挙動の変化を細かく確認してみようとしたのですが……。

「……あれ?」

 氷の槍自体は生み出すことができたのですが、それが発射されることはありませんでした。
 ただ空中に留まったまま、冷気だけを発し続けています。

 ……えっと……これはどういう……?

「……あっ! ま、まさか私、術式を繋げ忘れて……?」

 こう、部品を外して新しい替えの部品を用意したはいいものの、用意するだけして取り付けていなかったというか……。
 本体の隣にちょこんと部品が置いてあるイメージです。

 ど、どうやらお師匠さまのことを考えていたせいで気が緩んでしまっていたみたいです……。

「も、もしかしなくてもまずいですよね? これ……」

 氷の槍が放つ冷気は留まるところを知らず、それどころかどんどん周囲の温度を下げていきます。
 感じる魔力も強くなるばかりで収まる気配がありません。
 このままだと魔力の膨張に耐え切れず、氷の槍が爆発するだろうことは火を見るよりも明らかでした。

 お師匠さまならこの状態からでも制御し直せるのでしょうが、まだ術式への理解の浅い私ではそんなことは到底無理です。
 早く逃げなきゃ大怪我しちゃいます……!

「あっ!?」

 ――ドテンッ!
 急いでこの場を離れようとした私でしたが、焦っていたせいで足がもつれて転んでしまいました。

 う、うぅ……最近はあまりドジをしなくなったと、実は密かに自信を持っていたのですが……残念ながらそう簡単におっちょこちょいは直らないみたいです……。

 もう逃げるのは間に合いません。
 魔力の膨張が限界にまで達した氷の槍がひび割れ始めたのを見て、私は咄嗟に頭をかばいました。

「なにしてんのお前……」
「あ……」

 どこか聞き覚えがある、きつい口調の割にずいぶんと可愛らしい声。

 それが風鈴のように鳴り響いた途端、半透明な魔力の障壁が現れ、氷の槍の四方を一瞬で包み込みました。
 直後に障壁の中で氷の槍が爆発しますが、障壁はビクともせず、砕け散った氷の破片がパラパラと箱の中を舞っていました。

 声が聞こえた方向に振り返ってみれば、小さな妖精の少女が腰に手を当てながら、呆れた顔で私を見下ろしています。
 やっぱり彼女が私を助けてくれたみたいです。

「た、助かりました……ありがとうございます、リームザードさん」

 立ち上がった私は礼儀として、ペコリと頭を下げます。
 それに対しリームザードさんは、いつものようにフンと鼻を鳴らします。

「礼なんかいいよ別に。お前が怪我するとハロが悲しむからしかたなく守ってやっただけ。お前を思って助けたわけじゃないから、勘違いすんなよな」
「そ、そうですか」

 あいかわらずですね、この人は……。

 セリフだけ聞くと照れ隠しで否定しているようにも受け取れますが、嫌そうに顔を顰めているところから察するに本心なのでしょう。
 もしこれが私ではなくてお師匠さまだったなら『ハロのためなんだから当然だよ! ワタシがいる限りハロにはかすり傷一つ負わせないからね!』と褒めてほしそうな甘々な声ですり寄るのでしょうが……うーん……。

「えっと……リームザードさんはこんな朝早くからどうしたんですか? 確か、お師匠さまとアモルちゃんと寝ていたはずじゃ……」

 正直なところ、私とリームザードさんとの相性はあまりよくないと自覚しているのですが、かと言ってこのまま黙っているというのも性に合いません。
 ひとまずは気になったことを聞いてみることにします。

 お師匠さまと一緒に寝る……はっきり言って、羨ましい限りです。
 一緒に寝るということはつまり、お師匠さまの汗が染み込んだお布団の中で、お師匠さまの温もりを直に感じながら、お師匠さまの香りに包まれて一夜を過ごせるということなんですから。

 距離だってきっと、お互いの吐息が当たりそうなほど近くで……お師匠さまのあの絹のような髪の匂いだって嗅ぎ放題で……。
 ちょっと悪い子になって夜更かししたりなんかしちゃえば、お師匠さまの無防備な寝顔だって見放題に違いありません。

 うぅ、私もお師匠さまと一緒のお布団で寝たいです……。

「……いや、その物欲しそうな顔はなんだよ。別にどうもこうもないよ。単にワタシがあんまり深く眠るタイプじゃないってだけ。昨日だってお前とはこのくらいの時間に会っただろ」
「あ、言われてみればそうでしたね」

 フードで顔を隠した、見るからに怪しい不審者が突如としてやってきたのは記憶に新しいです。

「それに、昨晩は思ってたより早く寝ることになっちゃったし……目が覚めるのも早かったんだ」
「思ってたより早く……? 夜更かしでもするつもりだったんですか?」
「まーそんな感じ。結局しなかったけどね」

 ふむ。なるほど……私と同じで、リームザードさんもお師匠さまの愛らしい寝顔を盗み見ようとしていたと。
 お師匠さまを譲るつもりは毛頭ありませんが、そこに関しては気が合いそうです。

 リームザードさんは軽くため息をつくと、少しだけ羨むように私を眺めました。

「あーあ。ワタシもお前くらい大きかったらよかったのになぁ。そしたらハロだって、もっと積極的になってくれたかもしれないのに」
「大きく……もしかして胸の話ですか? 私はリームザードさんくらい控えめな方が良いと思いますよ」
「…………誰が胸の話なんて言ったんだよ。身長に決まってるだろ。メス牛」
「だからその呼び方はやめてくださいって言ってるじゃないですか!」

 ペタペタと自分の胸を確かめながらジト目で悪口を言うリームザードさんに、私もガルルルと怒った番犬のごとく言い返します。

 そりゃあ私だって、自分の体が人と比べると少しはしたない自覚はありますけど……いくらなんでもメス牛は酷すぎます!
 胸だって、大きくなりたくて大きくなったわけでもないんです。
 むしろ正直言ってちょっと邪魔です。
 ただでさえ私はおっちょこちょいなのに、無駄に肉がついてしまった胸のせいで、うまく足元が見えなくて余計に転びやすくなっちゃったんですから。

 私としては、やっぱり慎ましい胸が理想的だと思っています。
 そう、たとえばそれはお師匠さまような……。

 お師匠さまのお胸が誇る、服の上をスラリと流れる美しくなだらかな傾斜は、お師匠さまのクールな雰囲気に見事に合致しています。
 一見するとほとんど膨らみがないようにも見えますが、服の脱ぐとあらわになる小さなお椀が、お師匠さまが確かに年頃の少女であることを主張します。
 普段あまり意識することがないぶん、手のひらで包み込んでしまいたくなる不思議な魅力があるのも特徴ですね!
 細い肢体にぷっくりと浮き上がっていて……まるで洋菓子のように柔らかく、とろけるように甘いことは想像にかたくありません。
 まだ直接お目にかかったことはありませんが、その先端の美味しそうなさくらんぼを口に含んだりなんかしたら、普段凛としたお師匠さまもその時ばかりは一人の女の子として可愛らしく喘いで……はぁ、はぁ……じゅるり……。

「――い、おーい! 無視すんな、おーい!」
「……はっ!?」

 リームザードさんの声がかすかに聞こえて、私はふと我に帰ります。
 あ、危なかったです……妄想の中と言えど、お師匠さまがあまりにも愛らしすぎて……思わず我を失うところでした。

 見れば、リームザードさんが訝しげに私を覗き込んでいます。

「え、えぇと……す、すみません。ついボーッとしちゃってました」
「……はぁ。どうせハロのこと考えてたんでしょ。見るからに気持ち悪い顔してたし」
「気持ち悪い顔!?」
「うん。まるで欲情したゴブ……」

 言いかけて、リームザードさんがサッと自分で自分の口を塞ぎます。

「あー……さ、さすがにこれは酷いか……じゃなくて、えぇと、そう。発情期の獣みたいな感じだったね。すっごくお盛んな」

 ま、待ってください。今なにか誤魔化しましたよね?
 ゴブ……? ゴブってなんですか? その続きになにを言おうとしたんですか!? 常日頃から口が悪いリームザードさんが口を噤むほどの表現ってなんですかっ!?
 というか発情期の獣も普通に酷いです! 少なくとも女の子に言って良い言葉じゃありません!

「き、気のせいです! 私はお師匠さまのことをそんなえっちな目では見てません! その……お師匠さまのことは確かに慕ってはいますが、それはあくまで師弟として尊敬しているという意味であって」
「それ、ハロの前でも同じこと言えんの? もしハロがお前のことがそういう意味で好きだって告白してきても?」
「うっ……」

 ぽわわーん、と、想像上の(イマジナリー)お師匠さまが私の頭の中に現れます。
 そのお師匠さまは、いじらしくもじもじとしながらチラチラと私を盗み見てきていて、ふと私と目が合うと、恥じらうように顔を真っ赤に染めて俯かせます。
 もうその時点でいっそ押し倒してしまいたいくらい可愛らしいのですが、そのお師匠さまはいざ覚悟を決めるように大きく息をつくと、私の服の裾をギュッと摘みながら不安そうな上目遣いで私を見上げてきました。

『フィリア……私、ずっとフィリアのことが――』

「あぁあああああああっ!」
「!?」

 ガンガンと地面に頭を打ちつけて想像上……もとい、妄想上のお師匠さまを必死にかき消します。

 ダメですダメです! 不敬です!
 お師匠さまのことをえっちな目で見ていない……というのは確かに真っ赤な嘘でしたが! 屋敷に私一人だけの時や、お師匠さまが寝静まった後なんかに、その……よく、じゃなくて! た、たまに! たまに一人でしたりしてるのは認めますが!
 それはあくまで記憶にあるお師匠さまのお姿や声を思い出しながらです!
 妄想上のお師匠さまに、私の願望に当てはめて私が言ってほしいことを言わせたり、してほしいことをしてもらうだなんて、万死に値します!
 そういうのは実際にお師匠さまと結ばれてからです……! わかりましたか? 私!

「はぁ、はぁ……ふぅ。落ちつきました……」
「……」

 すっくと立ち上がると、じんじんと痛む額に回復魔法をかけておきます。
 傷はすぐに塞がりましたが、垂れてしまった血は消えません。鼻の近くまで垂れてきてしまっていて、少し鉄の匂いがします。あとで顔を洗わないとですね。
 そろそろお師匠さまも起きてくる頃合いでしょうし、お師匠さまの部屋にも向かわないとです。

 ……あ、そういえばリームザードさんとお話中なんでした。
 視線を戻してみると、リームザードさんは明らかに引いた様子で私を見つめていました。

「……ハロ、誰ともしたことないって言ってたけど……よく今まで無事だったな……」
「……? すみません。声が小さくて、あまりよく……なんて言ったんですか?」
「ううん。別に。なんていうか……お前、本当にハロのこと好きなんだね」

 なんだか不思議と、だいぶオブラートに包まれた気がするような……。
 いえ、気のせいですね。普通のことしか言ってませんしね。

 私はコクリと勢いよく頷きます。

「もちろんです! だってお師匠さまは、私が欲しかった全部をくれましたから」
「全部、ね」
「はい! 本物の家族と同じように受け入れてくれて、空回りしてばかりだった努力を認めてくれて、時には甘やかしたり、私を思って叱ってくれたり……お師匠さまに出会ったあの日から私、毎日が幸せで。本当に、私の全部が変わったんです」
「……そう」

 もしもあの日、お師匠さまに出会えなかったなら、きっと今頃、私は別の誰かの奴隷になっていたのでしょう。
 お金持ちの貴族か、商人か。もしかしたらお師匠さまと同じ魔術師の方だったりするかもしれませんが……私は、お師匠さまがいないその世界で笑っている自分の姿が、どうしてもうまく想像できません。
 それは私を買うだろう人が酷い人だから、というわけではありません。私の中でお師匠さまの存在があまりにも大きすぎて、別の誰かを当てはめようなんて気が一切起きないんです。

 お師匠さま以外の誰かなんて考えられない。お師匠さまが良い。いえ……お師匠さまじゃないと嫌だ。
 だって私はお師匠さまのことが、本当に心の底から好きなんですから。

 そんなありのままの気持ちで笑いかけると、リームザードさんは静かに瞼を閉じました。
 その反応を私が不思議がっていると、リームザードさんは再び目を開いて、意を決したように私を見つめてきます。

「お前、こんな朝早くからどうしたってワタシに言ってたよな」
「……? はい。言いましたけど……確か、深く寝るタイプじゃないからって」
「それは本当だけど全部じゃない。元々お前には……いや、お前とシィナとアモルには、ハロには内緒で少し話しておきたいことがあってね」
「話しておきたいことですか? それって……」
「昨日もこの庭で言っただろ――ハロがずっと抱えてる苦しみと、絶望についてだ」
「っ……」
「お前はそれを知らなきゃいけない」

 お師匠さまの苦しみ。昨日この庭でリームザードさんとお師匠さまのやり取りを見てから、ずっと気になっていたこと。
 リームザードさんの真剣な表情を見て、私はゴクリと唾を飲み込むのでした。