「……ふぅ」
赤みを帯びた夕暮れの明かりが窓から差し込み、部屋の中を照らしていた。
ずっと座っていたせいで、ちょっと腰が痛い。
結構な時間でもあるから、そろそろ夕食を作り始めないと食べる時間まで遅くなってしまう。
だけど後もう少しだからと、私は今一度心の中で奮起する。
――冒険者ギルドのギルドマスターことソパーダ・スードから出された、アモルを匿うことに協力してもらうことへの対価は三つだ。
一つが隷属契約の魔法の改良と寄贈、一つが魔物調教師の免許の取得、そして最後の一つが、今以上に冒険者ギルドに貢献しソパーダの仕事に協力すること。
魔物調教師の免許の取得は専門知識の勉強が必要になるから、そんなに早くは達成できない。ソパーダの仕事を手伝うことも継続的に払う対価であるので、すぐに終わらせるようなことは不可能である。
だけど三つのうちの一つ、隷属契約の魔法の改良に関しては、今の段階でも終わらせることは十二分に可能だ。
そんなこんなで、今日は朝からずっと新たな魔法の開発に勤しんでいた。
いつもならこんな魔法開発なんて滅多にしない、魔術師としては不真面目に分類される私ではあるが、私を姉と慕ってくれるアモルのためとなれば話は別である。
こんなにも真剣に魔法と向き合ったのはずいぶんと久しぶりな気がする。
私の師匠に当たるあの子との約束を果たそうと私なりに一所懸命だった、あの頃以来かもしれない。
「よし……それじゃあアモル、あともう一度だけお願いしていいかな」
魔導書に書き込んでいた手を止めて、隣に用意したイスに座っていたアモルに話しかける。
アモルは読んでいた絵本から私に視線を移すと、申しわけなさそうに絵本の背表紙で目元より下を隠した。
「また……いいの? ……しても」
「むしろ私の方からお願いしてるんだよ。アモルの力が必要なんだ。頼めるかな」
「……わかった。お姉ちゃんが望むなら……」
アモルは絵本を膝の上に置くと、その妖艶に微睡んだ眼で私を見つめた。
「いくよ? ……『あなたは、わたしの虜になる』」
「っ……」
「『あなたの体はわたしのもの。あなたの心はわたしのもの。あなたの魂はわたしのもの。あなたはもうわたしに逆らえない』」
アモルの魔眼の効果が発揮され、私は体の自由がきかなくなる。
だけどすぐにアモルは「『自分の意思で好きに動いてもいいよ』」と私の動きの抑制をなくしてくれる。
「よし、解析……」
魔眼にかかった時の感覚、そして命令を下された際の体内の術式の変化を魔法で集中して観測し、分析する。
今回の魔法の開発には、こんな感じでアモルにも協力してもらっていた。
なにを隠そうアモルの正体は……いや隠さないといけないんだけど、この子は淫魔だ。
精神を支配する隷属の魔法ともなれば、淫魔の十八番に当たる。
アモルはあまり魔法に詳しくないみたいだけど……その身が誇る適性の高さゆえか、アモルは精神に干渉する魔法についてならば、その術式の不備や非効率さに目ざとく気づくことができた。
もちろん私でも見抜くことはできるけど、単純に人手が二倍になるのはとても助かる。
さまざまな精神干渉系の魔法を記した魔導書をもとに、便利そうな術式を洗い出すことを手伝ってもらったりしていた。
そしてなによりも、アモルが保有するこの『魅了の魔眼』だ。
魔法と同様に術式を用いてはいるものの、これは厳密には魔法ではない、私が特性と呼んでいる類の力だ。
この特性というものは非常に厄介な代物で、魔法で完全な再現をすることができない。
だけどやはり術式という、魔法と同じ術理を用いているという点に間違いはなかった。
こうして自分で受けてみて術式の仕組みを直接確かめることで、参考にできる部分は大いにある。
「うん……なるほど。やっぱりこういう手順で……ありがとうアモル。これで魔法を完成させられそうだ」
「……」
「……アモル?」
少し、アモルの様子がおかしい。
不思議に思って彼女の方を向くと、彼女は私と視線を合わせることを恐れるように目線を斜め下にそらした。
だけどその一方で、離れたくないというように彼女の手は私の服の袖を摘んでいる。
「どうかした? アモル。大丈夫、私はどこにも行かないよ」
アモルがどうしてこんな反応をするのかまるでわからなかったものだから、内心ちょっと慌てながら、私の袖を摘むアモルの手を両手で包み込む。
アモルはそれで少しだけ安心してくれたのか、おずおずと口を開いた。
「お、お姉ちゃんは……その……こわく、ないの……?」
「えっと……怖い? なにがだい?」
質問の意図を理解できなかった私は首を傾げる。
「だから、えと……わ、わたしの魔眼……かかってるのに……わたしが魔力を込めて、なにか言うだけで……今のお姉ちゃん、少しもわたしに逆らえないのに……」
「え? ああ、そのことか……うん。別に怖くないよ」
「ど、どうして……? またわたし、お姉ちゃんに無理矢理ひどいこと、して……お姉ちゃんを……な、泣かせちゃうかも、しれないんだよ……?」
初めて会った日の夜にしでかしてしまったことを、アモルはまだ気にしていたようだ。
怯えたように涙目でそんなことを言うアモルに、私は思わずクスリと笑ってしまった。
「アモルはそんなことしないよ。私はアモルがそういう子だって知ってるから」
「……で、でも……」
「大丈夫だよ。アモルがどんな力を持ってたって、私はアモルを捨てたりなんかしない。アモルは私の妹なんだ。お姉ちゃんっていうのは、皆妹のことが大好きなんだよ」
ずいぶんと適当なことを言ってしまっている自覚はあったが、アモルを安心させるためならこれくらい言い切った方が効果的だろう。
私がアモルを抱き寄せると、アモルはさらにジワリと瞳を潤ませる。
堪え切れなくなったように私の胸の中に顔を埋めたアモルの背中を、よしよしと撫でてあげた。
人類とはまったく違う価値観の中で、ずっと仲間たちから蔑まれて生きてきたアモルの傷は深い。
捨てられるかも、と不安になる気持ちは、ふとした拍子でどうしても湧いてしまうんだろう。
「……おねえちゃんのむねのなか……すごく、きもちいいね。あったかくて……とっても、やわらかい」
「うーん、そうかな……? 私、あんまり体温高い方じゃないよ。胸もそんなに大きくないから、結構固いと思うけど……」
「んーん……そんなことない。わたし……ここ、すき。せかいでいちばん、すき……」
「ふふ、そっか。私もアモルのこと大好きだよ。世界で一番大切な妹だ。好きなだけ、甘えていいからね」
「うん……」
グリグリと頭を押しつけて、可愛らしく甘えてくる。少しだけくすぐったい。
「わたし……ずっと、ずっとおねえちゃんといっしょにいたい。しぬまで、ずっと……」
「一緒だよ。私なんかでいいなら、アモルが望む限り、ずっと」
「……えへ、へ……」
しばらくそうしてあやしてあげていると、胸の中からスースーと彼女の寝息が聞こえ始めた。
今日は一日中付き合ってもらっていたし、ずいぶんと疲れちゃってたみたいだ。
安心したように可愛らしい寝顔を見せるアモルに、私も自然と頬が緩む。
私はアモルが持っていた絵本を机の上に置くと、彼女を私のベッドに横たえて、そっと上から布団をかけた。
さて……あと少しだ。
アモルが起きる頃にはご飯を作り終えておきたいし、ちゃっちゃと書き上げちゃおうか。
机の前に戻ると、再びペンを持ち、気合いを入れて魔導書に向き直る。
アモルのおかげでここまでだいぶ効率的に進められたこともあり、スラスラと筆が進んでいった。
「……ふぅ。終わった……」
最後の一ページも無事に書き終えて、私はようやく完成した魔導書を閉じ、ペンを机の上に置いた。
朝からずっと続けていた作業がやっと終了し、肩の力が抜けたこともあって、なんだかドッと疲れが押し寄せてくる。
凝り固まった体をほぐすように、両腕を伸ばして伸びをする。
心地の良い独特の脱力感に包まれて、ちょっとばかり眠くなってきてしまったが、まだ寝るわけにはいかないので、軽く頭を振ってどうにか眠気を振り払う。
「……ん?」
少し休んだら夕食を作ろうと、背もたれに体を預け、アモルの幸せそうな寝姿を眺めて和んでいると、ノック音が部屋の中に響いた。
「入っていいよ」
「失礼します、お師匠さま」
ギィ、と扉を開けて、フィリアが部屋に入ってくる。
「帰ってたんだね。おかえり、フィリア」
「はい。ただいまです、お師匠さま」
いつもはもっと元気いっぱいなフィリアだが、寝ているアモルに配慮したのか、ちょっと控えめな声量の返答だ。
しかしその笑顔はいつも通りニコニコと、太陽のように眩しかった。
「フィリアは、今日はシィナと出かけてたんだよね。どうだった? 楽しかったかい?」
「はい、とても楽しかったです。今まで以上にシィナちゃんのことも知れて……帰り道の途中で、また一緒に出かける約束もしちゃいました」
「ふふ、そっか。それはいいね。二人の仲が良いと私も嬉しいよ」
いつも明るいせいで忘れがちになるけど、フィリアは奴隷だ。
半年ほどの間買い手がつかず、いろんな人たちに商品として見られてきた。そんな経験もあってか、彼女は心なしか他人を無意識に怖がる節があった。
今まで私が一緒の時以外は一度も街に出ようとはしなかったし、まだ人のことが怖いんだろうと心配していたんだけど……このぶんだと、もう心配する必要はなさそうだ。
「お師匠さまは今日はアモルちゃんと一緒だったんですね」
「ああ。アモルには、魔法を作るのを手伝ってもらってたんだ」
「魔法を……アモルちゃんとですか?」
「ギルドマスターに提示されたアモルのことを黙認する条件の一つに、隷属契約の魔法の改良があってね。アモルは淫魔だからそういう魔法には高い適性があるし、淫魔が持つ魔眼はこれ以上ない参考資料だから、少し協力してもらってたんだよ」
「なるほど、そうだったんですね……ギルドマスターからの……」
不意に考え込むようにしてフィリアが黙り込む。
「……? フィリア? どうかしたのかい?」
「あっ。いえ……その……」
「……おいで、フィリア」
悩みというほどではないが、なにか気がかりなことがある、と言った雰囲気。
私は微笑みながらフィリアに手招きをして、隣に座るように促した。
隣に腰かけたフィリアは、最初こそなにも言わずチラチラと私の様子を窺うだけだったが、やがて決心したように私に向き直った。
「あの……お師匠さまのお師匠さまって、どんな方だったんですか?」
「私の師匠? えっと……それは、魔法の?」
予想もしていなかった内容の質問に、私はパチパチと目を瞬かせた。
「はい。その、今日はシィナちゃんと一緒にお師匠さまの二つ名の由来について調べていて……冒険者ギルドのギルドマスター、ソパーダさんに聞いたんです。お師匠さまの二つ名は、お師匠さまのお師匠さまを元にしてるものだって」
「え……」
私の二つ名? それってあれ? あの《至全の魔術師》とかいう、なんかすごそうなんだけど意味はよくわからんやつ?
それの由来が、私の師匠……? どういうことなの……?
「各地の伝承や文献で《全》と謳われる、異端の妖精さん……それがお師匠さまのお師匠さまで、その通り名がお師匠さまの二つ名の元になってるんですよね?」
「…………」
そ、そうだったの? 私の魔法の師匠が妖精っていうのはあってるけど……。
で、でも知らんぞ私そんな話。あの子なに? 他の人たちからは《全》とか呼ばれてたの?
そんな話、私あの子からはなんにも聞いてなかったんだけど?
「……えっと、違うんですか? お師匠さま」
「え。い、いや……あ、合ってる。合ってるよ、うん……よくわかったねそんなこと……」
ここで正直に知らなかったと答えると師匠としての威厳やらなんやらがどこかへ行ってしまいそうだったので、全力で知ったかぶる。
あの子のことではない可能性もわずかながらあったが、まああの子を指していると思って間違いないだろう。
あの子が教えてくれなかった理由も簡単に推察できる。
あの子、他人に全然興味ないし。他人からどう呼ばれてるかとか毛ほども興味ないしどうでもよかったんだろう。
そっか……全ってなんだよってずっと思ってたけど、あの子のことだったのか……。
……あの子も結構恥ずかしい通り名つけられてたんだなぁ。
「お師匠さま。私、シィナちゃんから聞いちゃったんです……お師匠さま、自分の二つ名のことを言及された時、どこか憂うような顔をしてたって……」
「そ……そうだったっけ?」
「はい。お師匠さまはきっとその時……お師匠さまのお師匠さまのことを考えていらしたんですよね? だから、そんな表情を……」
ま、待って待って。ついていけてない。状況についていけてない。それいつの話?
シィナが一緒にいて、最近二つ名について言及されたタイミングと言うと……あ、もしかしてこの前ギルドマスターに会いに行った時のこと?
いやあれ、『全ってなんなのかよくわからないのにそこを褒められても』って微妙な気持ちになってただけだよ?
特に深い意味はなかったんだけど……。
……というかもしかして、それが理由で私の二つ名のこととかギルドマスターに聞きに行ってたの?
完全に勘違いだし、なんかちょっと申しわけない感じが……。
「お師匠さまは以前、シィナちゃん以外に仲の良かった方がもう一人いるって言ってらっしゃいましたよね。その方とは、今は少しすれ違ってしまっている、って……」
「あ、ああ……言ったね」
「それは、お師匠さまのお師匠さまのことで合っていますか?」
どこか神妙な眼差しで、フィリアが私を見つめてくる。
質問という体を取ってはいるが、彼女の声音はもはや確信の色を帯びている。
なんか私の知らない新事実が判明したりして、ちょっと混乱していたが……話の流れは大体掴めてきた。
つまるところフィリアが私の魔法の師匠について聞いてきたのは、私のことを心配してくれたから、というわけだ。
「……ふふ」
「お師匠さま……?」
一度深呼吸をして、心を落ちつかせる。
少し勘違いされてしまっていたようだけれど……うん。
私のことを心配してくれたのは、素直に嬉しかった。
「うん。合ってるよ。まさしくそのすれ違ってしまった子が、私の魔法の師匠だ」
「……お師匠さま。どうか、聞かせていただけませんか? そのお師匠さまのお師匠さま……大師匠さまのこと」
「……そうだね。あの子のことを誰かに話すのは初めてだから、うまく話せないかもしれないけど……わかった。フィリアが望むなら、話そうか。私とあの子の間にあったことを」
私のことを思ってくれたフィリアの懇願は無下にはできない。
フィリアの方から、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が聞こえた。
瞼を閉じ、思い出に浸るように思い出す。
いつも不機嫌そうに口を尖らせた、まるで傍若無人が服を着て歩いているようだった女の子のこと。
その子と過ごした、二人だけの騒がしかった毎日を。
「……あれは今から、五年前のことだったかな――――」
赤みを帯びた夕暮れの明かりが窓から差し込み、部屋の中を照らしていた。
ずっと座っていたせいで、ちょっと腰が痛い。
結構な時間でもあるから、そろそろ夕食を作り始めないと食べる時間まで遅くなってしまう。
だけど後もう少しだからと、私は今一度心の中で奮起する。
――冒険者ギルドのギルドマスターことソパーダ・スードから出された、アモルを匿うことに協力してもらうことへの対価は三つだ。
一つが隷属契約の魔法の改良と寄贈、一つが魔物調教師の免許の取得、そして最後の一つが、今以上に冒険者ギルドに貢献しソパーダの仕事に協力すること。
魔物調教師の免許の取得は専門知識の勉強が必要になるから、そんなに早くは達成できない。ソパーダの仕事を手伝うことも継続的に払う対価であるので、すぐに終わらせるようなことは不可能である。
だけど三つのうちの一つ、隷属契約の魔法の改良に関しては、今の段階でも終わらせることは十二分に可能だ。
そんなこんなで、今日は朝からずっと新たな魔法の開発に勤しんでいた。
いつもならこんな魔法開発なんて滅多にしない、魔術師としては不真面目に分類される私ではあるが、私を姉と慕ってくれるアモルのためとなれば話は別である。
こんなにも真剣に魔法と向き合ったのはずいぶんと久しぶりな気がする。
私の師匠に当たるあの子との約束を果たそうと私なりに一所懸命だった、あの頃以来かもしれない。
「よし……それじゃあアモル、あともう一度だけお願いしていいかな」
魔導書に書き込んでいた手を止めて、隣に用意したイスに座っていたアモルに話しかける。
アモルは読んでいた絵本から私に視線を移すと、申しわけなさそうに絵本の背表紙で目元より下を隠した。
「また……いいの? ……しても」
「むしろ私の方からお願いしてるんだよ。アモルの力が必要なんだ。頼めるかな」
「……わかった。お姉ちゃんが望むなら……」
アモルは絵本を膝の上に置くと、その妖艶に微睡んだ眼で私を見つめた。
「いくよ? ……『あなたは、わたしの虜になる』」
「っ……」
「『あなたの体はわたしのもの。あなたの心はわたしのもの。あなたの魂はわたしのもの。あなたはもうわたしに逆らえない』」
アモルの魔眼の効果が発揮され、私は体の自由がきかなくなる。
だけどすぐにアモルは「『自分の意思で好きに動いてもいいよ』」と私の動きの抑制をなくしてくれる。
「よし、解析……」
魔眼にかかった時の感覚、そして命令を下された際の体内の術式の変化を魔法で集中して観測し、分析する。
今回の魔法の開発には、こんな感じでアモルにも協力してもらっていた。
なにを隠そうアモルの正体は……いや隠さないといけないんだけど、この子は淫魔だ。
精神を支配する隷属の魔法ともなれば、淫魔の十八番に当たる。
アモルはあまり魔法に詳しくないみたいだけど……その身が誇る適性の高さゆえか、アモルは精神に干渉する魔法についてならば、その術式の不備や非効率さに目ざとく気づくことができた。
もちろん私でも見抜くことはできるけど、単純に人手が二倍になるのはとても助かる。
さまざまな精神干渉系の魔法を記した魔導書をもとに、便利そうな術式を洗い出すことを手伝ってもらったりしていた。
そしてなによりも、アモルが保有するこの『魅了の魔眼』だ。
魔法と同様に術式を用いてはいるものの、これは厳密には魔法ではない、私が特性と呼んでいる類の力だ。
この特性というものは非常に厄介な代物で、魔法で完全な再現をすることができない。
だけどやはり術式という、魔法と同じ術理を用いているという点に間違いはなかった。
こうして自分で受けてみて術式の仕組みを直接確かめることで、参考にできる部分は大いにある。
「うん……なるほど。やっぱりこういう手順で……ありがとうアモル。これで魔法を完成させられそうだ」
「……」
「……アモル?」
少し、アモルの様子がおかしい。
不思議に思って彼女の方を向くと、彼女は私と視線を合わせることを恐れるように目線を斜め下にそらした。
だけどその一方で、離れたくないというように彼女の手は私の服の袖を摘んでいる。
「どうかした? アモル。大丈夫、私はどこにも行かないよ」
アモルがどうしてこんな反応をするのかまるでわからなかったものだから、内心ちょっと慌てながら、私の袖を摘むアモルの手を両手で包み込む。
アモルはそれで少しだけ安心してくれたのか、おずおずと口を開いた。
「お、お姉ちゃんは……その……こわく、ないの……?」
「えっと……怖い? なにがだい?」
質問の意図を理解できなかった私は首を傾げる。
「だから、えと……わ、わたしの魔眼……かかってるのに……わたしが魔力を込めて、なにか言うだけで……今のお姉ちゃん、少しもわたしに逆らえないのに……」
「え? ああ、そのことか……うん。別に怖くないよ」
「ど、どうして……? またわたし、お姉ちゃんに無理矢理ひどいこと、して……お姉ちゃんを……な、泣かせちゃうかも、しれないんだよ……?」
初めて会った日の夜にしでかしてしまったことを、アモルはまだ気にしていたようだ。
怯えたように涙目でそんなことを言うアモルに、私は思わずクスリと笑ってしまった。
「アモルはそんなことしないよ。私はアモルがそういう子だって知ってるから」
「……で、でも……」
「大丈夫だよ。アモルがどんな力を持ってたって、私はアモルを捨てたりなんかしない。アモルは私の妹なんだ。お姉ちゃんっていうのは、皆妹のことが大好きなんだよ」
ずいぶんと適当なことを言ってしまっている自覚はあったが、アモルを安心させるためならこれくらい言い切った方が効果的だろう。
私がアモルを抱き寄せると、アモルはさらにジワリと瞳を潤ませる。
堪え切れなくなったように私の胸の中に顔を埋めたアモルの背中を、よしよしと撫でてあげた。
人類とはまったく違う価値観の中で、ずっと仲間たちから蔑まれて生きてきたアモルの傷は深い。
捨てられるかも、と不安になる気持ちは、ふとした拍子でどうしても湧いてしまうんだろう。
「……おねえちゃんのむねのなか……すごく、きもちいいね。あったかくて……とっても、やわらかい」
「うーん、そうかな……? 私、あんまり体温高い方じゃないよ。胸もそんなに大きくないから、結構固いと思うけど……」
「んーん……そんなことない。わたし……ここ、すき。せかいでいちばん、すき……」
「ふふ、そっか。私もアモルのこと大好きだよ。世界で一番大切な妹だ。好きなだけ、甘えていいからね」
「うん……」
グリグリと頭を押しつけて、可愛らしく甘えてくる。少しだけくすぐったい。
「わたし……ずっと、ずっとおねえちゃんといっしょにいたい。しぬまで、ずっと……」
「一緒だよ。私なんかでいいなら、アモルが望む限り、ずっと」
「……えへ、へ……」
しばらくそうしてあやしてあげていると、胸の中からスースーと彼女の寝息が聞こえ始めた。
今日は一日中付き合ってもらっていたし、ずいぶんと疲れちゃってたみたいだ。
安心したように可愛らしい寝顔を見せるアモルに、私も自然と頬が緩む。
私はアモルが持っていた絵本を机の上に置くと、彼女を私のベッドに横たえて、そっと上から布団をかけた。
さて……あと少しだ。
アモルが起きる頃にはご飯を作り終えておきたいし、ちゃっちゃと書き上げちゃおうか。
机の前に戻ると、再びペンを持ち、気合いを入れて魔導書に向き直る。
アモルのおかげでここまでだいぶ効率的に進められたこともあり、スラスラと筆が進んでいった。
「……ふぅ。終わった……」
最後の一ページも無事に書き終えて、私はようやく完成した魔導書を閉じ、ペンを机の上に置いた。
朝からずっと続けていた作業がやっと終了し、肩の力が抜けたこともあって、なんだかドッと疲れが押し寄せてくる。
凝り固まった体をほぐすように、両腕を伸ばして伸びをする。
心地の良い独特の脱力感に包まれて、ちょっとばかり眠くなってきてしまったが、まだ寝るわけにはいかないので、軽く頭を振ってどうにか眠気を振り払う。
「……ん?」
少し休んだら夕食を作ろうと、背もたれに体を預け、アモルの幸せそうな寝姿を眺めて和んでいると、ノック音が部屋の中に響いた。
「入っていいよ」
「失礼します、お師匠さま」
ギィ、と扉を開けて、フィリアが部屋に入ってくる。
「帰ってたんだね。おかえり、フィリア」
「はい。ただいまです、お師匠さま」
いつもはもっと元気いっぱいなフィリアだが、寝ているアモルに配慮したのか、ちょっと控えめな声量の返答だ。
しかしその笑顔はいつも通りニコニコと、太陽のように眩しかった。
「フィリアは、今日はシィナと出かけてたんだよね。どうだった? 楽しかったかい?」
「はい、とても楽しかったです。今まで以上にシィナちゃんのことも知れて……帰り道の途中で、また一緒に出かける約束もしちゃいました」
「ふふ、そっか。それはいいね。二人の仲が良いと私も嬉しいよ」
いつも明るいせいで忘れがちになるけど、フィリアは奴隷だ。
半年ほどの間買い手がつかず、いろんな人たちに商品として見られてきた。そんな経験もあってか、彼女は心なしか他人を無意識に怖がる節があった。
今まで私が一緒の時以外は一度も街に出ようとはしなかったし、まだ人のことが怖いんだろうと心配していたんだけど……このぶんだと、もう心配する必要はなさそうだ。
「お師匠さまは今日はアモルちゃんと一緒だったんですね」
「ああ。アモルには、魔法を作るのを手伝ってもらってたんだ」
「魔法を……アモルちゃんとですか?」
「ギルドマスターに提示されたアモルのことを黙認する条件の一つに、隷属契約の魔法の改良があってね。アモルは淫魔だからそういう魔法には高い適性があるし、淫魔が持つ魔眼はこれ以上ない参考資料だから、少し協力してもらってたんだよ」
「なるほど、そうだったんですね……ギルドマスターからの……」
不意に考え込むようにしてフィリアが黙り込む。
「……? フィリア? どうかしたのかい?」
「あっ。いえ……その……」
「……おいで、フィリア」
悩みというほどではないが、なにか気がかりなことがある、と言った雰囲気。
私は微笑みながらフィリアに手招きをして、隣に座るように促した。
隣に腰かけたフィリアは、最初こそなにも言わずチラチラと私の様子を窺うだけだったが、やがて決心したように私に向き直った。
「あの……お師匠さまのお師匠さまって、どんな方だったんですか?」
「私の師匠? えっと……それは、魔法の?」
予想もしていなかった内容の質問に、私はパチパチと目を瞬かせた。
「はい。その、今日はシィナちゃんと一緒にお師匠さまの二つ名の由来について調べていて……冒険者ギルドのギルドマスター、ソパーダさんに聞いたんです。お師匠さまの二つ名は、お師匠さまのお師匠さまを元にしてるものだって」
「え……」
私の二つ名? それってあれ? あの《至全の魔術師》とかいう、なんかすごそうなんだけど意味はよくわからんやつ?
それの由来が、私の師匠……? どういうことなの……?
「各地の伝承や文献で《全》と謳われる、異端の妖精さん……それがお師匠さまのお師匠さまで、その通り名がお師匠さまの二つ名の元になってるんですよね?」
「…………」
そ、そうだったの? 私の魔法の師匠が妖精っていうのはあってるけど……。
で、でも知らんぞ私そんな話。あの子なに? 他の人たちからは《全》とか呼ばれてたの?
そんな話、私あの子からはなんにも聞いてなかったんだけど?
「……えっと、違うんですか? お師匠さま」
「え。い、いや……あ、合ってる。合ってるよ、うん……よくわかったねそんなこと……」
ここで正直に知らなかったと答えると師匠としての威厳やらなんやらがどこかへ行ってしまいそうだったので、全力で知ったかぶる。
あの子のことではない可能性もわずかながらあったが、まああの子を指していると思って間違いないだろう。
あの子が教えてくれなかった理由も簡単に推察できる。
あの子、他人に全然興味ないし。他人からどう呼ばれてるかとか毛ほども興味ないしどうでもよかったんだろう。
そっか……全ってなんだよってずっと思ってたけど、あの子のことだったのか……。
……あの子も結構恥ずかしい通り名つけられてたんだなぁ。
「お師匠さま。私、シィナちゃんから聞いちゃったんです……お師匠さま、自分の二つ名のことを言及された時、どこか憂うような顔をしてたって……」
「そ……そうだったっけ?」
「はい。お師匠さまはきっとその時……お師匠さまのお師匠さまのことを考えていらしたんですよね? だから、そんな表情を……」
ま、待って待って。ついていけてない。状況についていけてない。それいつの話?
シィナが一緒にいて、最近二つ名について言及されたタイミングと言うと……あ、もしかしてこの前ギルドマスターに会いに行った時のこと?
いやあれ、『全ってなんなのかよくわからないのにそこを褒められても』って微妙な気持ちになってただけだよ?
特に深い意味はなかったんだけど……。
……というかもしかして、それが理由で私の二つ名のこととかギルドマスターに聞きに行ってたの?
完全に勘違いだし、なんかちょっと申しわけない感じが……。
「お師匠さまは以前、シィナちゃん以外に仲の良かった方がもう一人いるって言ってらっしゃいましたよね。その方とは、今は少しすれ違ってしまっている、って……」
「あ、ああ……言ったね」
「それは、お師匠さまのお師匠さまのことで合っていますか?」
どこか神妙な眼差しで、フィリアが私を見つめてくる。
質問という体を取ってはいるが、彼女の声音はもはや確信の色を帯びている。
なんか私の知らない新事実が判明したりして、ちょっと混乱していたが……話の流れは大体掴めてきた。
つまるところフィリアが私の魔法の師匠について聞いてきたのは、私のことを心配してくれたから、というわけだ。
「……ふふ」
「お師匠さま……?」
一度深呼吸をして、心を落ちつかせる。
少し勘違いされてしまっていたようだけれど……うん。
私のことを心配してくれたのは、素直に嬉しかった。
「うん。合ってるよ。まさしくそのすれ違ってしまった子が、私の魔法の師匠だ」
「……お師匠さま。どうか、聞かせていただけませんか? そのお師匠さまのお師匠さま……大師匠さまのこと」
「……そうだね。あの子のことを誰かに話すのは初めてだから、うまく話せないかもしれないけど……わかった。フィリアが望むなら、話そうか。私とあの子の間にあったことを」
私のことを思ってくれたフィリアの懇願は無下にはできない。
フィリアの方から、ゴクリ、と生唾を飲み込む音が聞こえた。
瞼を閉じ、思い出に浸るように思い出す。
いつも不機嫌そうに口を尖らせた、まるで傍若無人が服を着て歩いているようだった女の子のこと。
その子と過ごした、二人だけの騒がしかった毎日を。
「……あれは今から、五年前のことだったかな――――」