黒一色に染まっていたわたしの視界に、不意に赤みが差す。
 ほんの些細な変化だったけど、その小さな刺激で眠りに落ちていたわたしの意識がほんのわずかに浮上する。

「…………ん……(……んー……)」

 ベッドで横になっていたわたしの顔の上に、偶然カーテンの隙間から日差しが差し込んできたのだろう。
 お日さまの光を感じるってことは、今はもう朝ってことになる。
 朝ならそろそろ起きないといけないんだけど……全身を包み込むお布団の温もりはいっそ殺人的なくらい気持ちよくて、自分から手放す気分には到底なれなかった。

 心地いい眠りを邪魔しようとする憎きお日さまから逃れるように、ゴロンと寝返りをうつ。
 反対側を向けば瞼の上に感じていた日の光の刺激も収まって、わたしの意識はまた微睡みの中へ落ちていくようだった。

 それから――それからわたしは、さっきまで見ていた夢の続きを見ようと試みる。

 そう、そうなのだ。
 今ちょっと起きちゃったせいで夢の内容が頭の中から吹っ飛んじゃったけど、さっきまでわたしはすっごく幸せな夢を見てたはずだった。

 朧気に霞んで、今にも消えてしまいそうだったその夢をどうしてももう一度見たい思いで、布団を頭から被り込んで睡眠に没頭する。

 ……あ、段々思い出してきた。わたしが見てた夢……。

『ハロちゃん、これはなんて読むの?』

 そうだ。わたしはハロちゃんの部屋で、ハロちゃんに絵本を読み聞かせてもらってたんだった。

 わたしはハロちゃんやフィリアちゃんと違って、あんまり読み書きができない。
 せいぜい自分の名前がなんとか書けるくらいだ。
 ただ生きていくだけならそれだけできれば問題ないけれど、わたしの一番のお友達であるハロちゃんはよく本を読んでいる。
 そんなハロちゃんと同じものをわたしも読んでみたくて……もっとハロちゃんのことを知りたくて、わたしは最近、文字の勉強を頑張っていた。
 そしてそんなわたしを見つけてくれたハロちゃんが、わたしのために絵本を読み聞かせてくれることになったんだった。

『めでたしめでたし、だね。物語がハッピーエンドで終わった時によく使われる言葉なんだよ』
『わぁっ、そうなんだ! じゃあこの三匹の羊さんたちは、この後も幸せに暮らせたのかな?』
『きっとそうだよ。この羊さんたちは皆で協力して苦難を乗り越えたんだ。物語が終わった先でたとえどんな困難が訪れたって、三匹が揃ってればなんだって乗り越えられるさ』
『えへへ、そうだよね! わたしもそう思う!』

 ハロちゃんが笑っている。
 ハロちゃんが笑顔だとわたしも嬉しくなって、勝手に頬が緩んできてしまう。

 そんなわたしの頭をハロちゃんは撫でてくれる。
 わたしとハロちゃんの身長は同じくらいだ。エルフの人は寿命が他の種族の人よりも長いみたいだけど、あくまで大人になってから老いるまでの時間がゆっくりなだけで、子どもから大人になるまでの早さは同じだって聞く。
 つまり、わたしとハロちゃんの年齢は同じくらいってことになる。

 だからこうして同年代のお友達に頭を撫でられてる今の状況は、ほんのちょっと恥ずかしさもあるんだけど……それより嬉しさの方が断然大きかった。
 頭を撫でられながら、わたしのために絵本を読み聞かせてくれた優しいハロちゃんにスリスリって頬を擦りつけて、感謝の親愛の気持ちを精一杯示す。

『わたしもね、ハロちゃんがそばにいてくれれば、この羊さんたちみたいにどんな辛いことだって乗り越えられる気がするの。ハロちゃんが一緒にいてくれる……それだけでわたしは、どんなに苦しいことだって耐えられるんだよ』
『ふふ、そっか。それは嬉しいね。でもシィナ、一つだけ訂正させてもらってもいいかな』
『訂正?』
『そう、訂正。シィナは私がいればどんなことも乗り越えられるって言うけど……私がいる限り、どんな辛い目にも苦しい目にも遭わせないよ。私が必ずシィナを守る。絶対に、誰にもシィナを傷つけさせはしない』
『ハロちゃん……』

 ああ、なんてかっこいいんだろうハロちゃん……。
 ただでさえハロちゃん天使みたいに可愛いのに、その上かっこいいなんて最強すぎるよぉ……。

 ハロちゃんはいつも優しいけど、今日はなんだかいつもより積極的な気がする。
 こころなしかいつもより目元もキリッとしてるようにも見えて……そんなハロちゃんに見つめられると、不思議とドキドキが止まらなくなってきちゃう。

『……シィナ……』
『ハ、ハロちゃんっ!?』

 段々とハロちゃんの顔が近づいてくる。
 至近距離で見る彼女の瞳はわたしだけをまっすぐに捉えていて、突然のことに狼狽えるわたしの姿がその瞳に反射して見えた。

 こ、これはまさか……だ、だだだっ、ダメだよハロちゃんっ!
 わたしたちただのお友達で……お、女同士なのにっ。
 こんなこと……ほ、本当はしちゃいけないんだよ……?

 ……うぅぅ、でも、ハ、ハロちゃんがどうしてもって言うなら……わ、わたし……わたしっ……!

 真剣そのものなハロちゃんのクールな顔が、目と鼻の先まで迫る。
 彼女の傷一つない綺麗な白い肌に浮かぶ、ぷっくりと柔らかそうな桜色の唇があまりにも魅惑的で、どうしても視線が吸い寄せられる。
 これからこのハロちゃんの唇と、わたしの唇が……あ、あぅあぅぅ……!
 顔から火が出る思いだった。意識してしまうとどうしても恥ずかしさが抑えきれなくなっちゃって、耳まで真っ赤に染め上げて……これから訪れる未知の感触を恐れるように、わたしはギュッと目を瞑った。
 それでいてほんの少し期待するみたいに、唇をちょっとだけ突き出して……。

 そうしてわたしは、ハロちゃんと……。
 ハロちゃんと……。

 …………?
 ……あ、あれ……?
 ……まだ、なのかな……?

 一秒、五秒、十秒……。
 どういうわけか、その状態のままいつまで待てど、予想していた感触が訪れることはなかった。
 疑問を覚えたわたしは、閉じていた瞼を恐る恐る開けてみる。

 するとそこはハロちゃんの部屋の前だった。
 さっきまでこの部屋の中でハロちゃんと一緒にいたはずなのに、辺りを見渡してもハロちゃんはどこにもいなくて、どうしてかわたし一人で扉の前に立っている。

『ハロちゃん……?』

 扉の向こうから、人の気配がする。
 ハロちゃんの部屋の中からする気配だから、きっとハロちゃんのものに違いない。

 なんで急にわたしだけ部屋の前に移動しちゃってたのかわからなかったけど、ハロちゃんにもう一度会いたい思いで、わたしは扉の取っ手に手をかけた。
 またハロちゃんに本を読み聞かせてもらいたい。笑いかけてほしい。
 無邪気にそんなことを考えながら、わたしはハロちゃんの部屋の扉を開け放つ。

『あ……』

 そこにはわたしが予想した通り、ハロちゃんがいた。
 でもそこにいたのは、ハロちゃんだけじゃなかった。

 フィリアちゃん。ハロちゃんのお弟子さんで、わたしの二人目のお友達。
 ハロちゃんと同じで、わたしの怖い雰囲気なんて全然気にしないでくれる、とっても明るくて笑顔が似合う人。

 そのフィリアちゃんとハロちゃんが、わたしがさっきハロちゃんとしようとしていたはずのキスをしていて――。

「っ……(っ……! ……あ、あれ……?)」

 気がつけば、わたしはガバッとベッドから上半身を起こしていた。
 起き上がった姿勢のまま呆然と壁を見つめて、数秒ほどしてようやく、さきほどまでの経験すべてが夢であることを思い出す。

「…………はぁ……(……はぁぁぁー……)

 現実を認識したわたしは、心の中で猛烈にため息をつく。
 ……実を言うと今見た夢は、今日だけのものではなかったりした。

 ここ数日、わたしは毎日のように同じ夢を見ている。
 同じ夢とは言ったけど、細かい部分はちょっとだけ違っていて、時にはハロちゃんと街を歩いたり、お食事したり、日向ぼっこしていたりする。
 とにかくわたしはハロちゃんと幸せな時間を過ごしていて……だけど最後には必ず、ハロちゃんとフィリアちゃんがキスをするシーンで夢が終わってしまう。

「……(うぅ。なんでこんな夢見るんだろ、わたし……)」

 ……ハロちゃんとフィリアちゃんがどんな関係だって、わたしには関係ないはずなのに……。

 いつの間にやら眠気は跡形もなく吹き飛んで、微睡みに揺れていたはずの頭も冴え渡っている。
 これもいつものことだ。起こしに来てくれたフィリアちゃんが、わたしが完全に目を覚ましているのを見て驚いていた姿は記憶に新しい。

 今日はフィリアちゃんが起こしに来てくれるよりもだいぶ早く起きてしまったみたいだ。
 すっかり頭が冴えちゃってるせいで、三度寝はできそうもない。
 かと言って特にすることも思いつかなかったから、なにをするでもなく壁をぼーっと見つめながら、さっきまで見ていた夢の内容をもう一度思い返す。

 ……ハロちゃんと幸せな時間を過ごすのはいつも通りだけど、実のところ、あれだけ刺激的な内容は初めてだったりした。
 刺激的っていうのは、その……ハ、ハロちゃんとわたしがキスをしそうになるとこのことで……。
 いつもは二人で笑い合ったり、手を繋いだり……そのくらいで終わってたのに、今日はなぜかあんなこっ恥ずかしい感じになってしまっていた。

 ハロちゃんにはフィリアちゃんがいるのに……。
 もしあのまま夢が続いちゃってたら……ど、どうなっちゃってたんだろう……?

「……(あ、あぅ……! わたし、お友達でなんてこと妄想してるの……!)」

 照れくさいやら恥ずかしいやらいたたまれないやら、よくわからない感情が胸の内にたくさん渦巻いて、思いっ切り枕に顔を埋めた。
 でもそれだけじゃこそばゆい気持ちは全然収まってくれなくて、パタパタと忙しなく足も動かす。
 むず痒い衝動のまま、枕をギュッと両手で抱きしめたりもして……。

 しばらくそうしていると呼吸が苦しくなってきたので、枕から顔を上げて、ぷはぁ、と息を漏らす。
 その頃にはもう心も落ちついてきてくれていた。

「……(顔、洗おうかなぁ……)」

 このままいつまでも寝転がっていてもしょうがない。
 のそのそと起き上がると部屋を出て、洗面所へと足を向ける。

 ……そういえば、最近ハロちゃんとまともに話せてないなぁ……。
 って言っても、その、わたしが自分からあんまり近づかないようにしてるんだけど。

 ハロちゃんは最近、新しく一緒に暮らすことになったアモルちゃんにかかりっきりだ。
 聞くところによるとアモルちゃんは、同じ種族の人たちから虐待にも等しい扱いを受けて育ってきたらしい。
 そんな彼女に唯一手を差し伸べたのがハロちゃんで、当然、そんなハロちゃんにアモルちゃんはものすごく懐いている。

 でも逆に、わたしは彼女にものすっごく怖がられちゃってるみたいだった……。
 その原因は火を見るより明らかで、初対面の時にわたしが自分でもよくわからないうちに反射的に彼女に剣を振るってしまったからだ。
 幸い、実際に斬っちゃう前にハロちゃんが止めてくれたけど……あの時のことがアモルちゃんはすっかりトラウマになっちゃってるみたいだった。

 彼女はわたしを見ると、いつもかわいそうなくらい顔を青白く染め上げて震え出す。
 ハロちゃんがいる時はハロちゃんの後ろに隠れることでなんとか恐怖に耐えてる様子だけど、もしもわたしと二人きりなんかになったりしたら三秒で気絶するだろう勢いだ。

 こんなに怖がられることになっちゃったのは全部わたしの自業自得だ。
 だからせめて彼女が今の暮らしに慣れるまではできる限り彼女の前に姿を現さないようにと、わたしは密かに気をつけていた。
 ハロちゃんは最近は大抵アモルちゃんと一緒にいるから、そうなると必然的にハロちゃんとはほとんど話せなくなる。

 ただそれだけ。うん、それだけだ。
 ……それ以外に、ハロちゃんと話せてない理由はない。

「……(よ、よし。今日は……今日こそはちゃんとハロちゃんと話そう……!)」

 そろそろアモルちゃんも今の暮らしに慣れてきた頃だろうし……ちょっとずつ、うん。ちょっとずつ、ハロちゃんともいつも通りの関係に戻っていこう。
 もしかしたらハロちゃんだって、わたしのことを心配してくれてるかもしれないし。

 それから少しだけでもいいから、アモルちゃんとも打ち解けられたらいいなぁ。
 わたしのせいで怖がらせちゃったけど……一緒に暮らしてく以上、いつまでもこのままでいるわけにもいかないんだし。
 せめて普通に挨拶できるくらいには距離を縮められたらいいなぁ。

 そんなことをつらつらと考えながら、廊下の角を曲がる。
 するとわたしが進もうとした先に、並んで歩く二人の人影が見えた。
 ハロちゃんとフィリアちゃんだ。たぶん、朝食を作りに食堂へ向かう最中なんだろう。

 以前までのわたしならなにも気にすることなく、このほとんど働いてくれない声帯から頑張って朝の挨拶を絞り出していたと思う。
 だけど二人の姿を見た時、わたしは思わずピタリと足を止めてしまった。
 あの日あの時の、二人がキスをしているシーンが頭をよぎる。

「シ――」
「っ……(っ……)」

 気がついたらわたしは、その場から逃げ出してしまっていた。
 わたしの名前を呼びかけただろうハロちゃんに背中を向け、来た道をがむしゃらに戻る。
 走ってきた勢いのまま自分の部屋に駆け込んで、扉を締めて……そこまでやってから、はたと我に返った。

「……な、んで……(な……なんでわたし、ハロちゃんから逃げちゃったの……?)」

 わたしはついさっき、今日こそはハロちゃんと以前みたいに話そうって決めたはずだった。
 アモルちゃんはまだ寝てるのか、ハロちゃんの近くにはいなかったから、ぎこちなくなってしまっていた関係を元に戻す絶好のチャンスだったはずだ。

 そ、そりゃあ二人がキスするとこを見ちゃったっていう気まずさはちょっとはあるけど……二人はそういうの、全然気にしてないみたいだし。
 わたしがあんな風にあからさまに二人を避けちゃったら、わたしが二人を気持ち悪がってるみたいに思われちゃうよぉ……。
 全然そんなこと思ってないのに……うぅ。ほんとになんで逃げちゃったの、わたし……。

 今更になって後悔の感情がわたしを襲うけれど、自分でもわからないうちに逃げ出してしまっていたのだから、どうしようもない。

「……つ、つぎ……は……かなら、ず……(つ、次は! とにかく次は必ずハロちゃんと話して、逃げちゃったこともちゃんと謝って……いつもの関係に戻るんだ!)」

 わたしにとってハロちゃんは一番最初にできた、一番大事なお友達なんだ。
 このままぎこちなくなった状態が続いて、それが普通になっちゃうなんてのだけは絶対に嫌だ。
 だから……だから次こそはちゃんとハロちゃんと顔を合わせて、さっきのことも謝るんだ!

 次こそは、次こそはと自分に言い聞かせて奮起する。
 ……ハロちゃんとフィリアちゃんが仲睦まじく歩いている姿を見た時、一瞬胸が張り裂けそうなくらい強く痛んだのは、気のせいだと思いたかった。