シュレディンガーの入浴を終えた私は、ひとまず自室に戻ってきていた。
 机の前のイスに腰をかけ、腕を組んで、少し考えごとにふける。
 窓の外の嵐はさらに勢いを増し、まだ夕方くらいであるはずなのに、夜かと疑うくらいに真っ暗だ。

 ちなみに今、アモルは近くにはいない。
 空き部屋の一つを彼女の自室として与えて、今はそこで休ませている。
 今まで大変だっただろうし、今日だけでもいろいろあった。そろそろちゃんと体を休ませないと辛いはずだ。

 そして私が今考えていることは、そのアモルのことだった。
 こればかりは、私にしては珍しくちょっと真剣な話になるのだが……冒険者ギルドの一員という立場として、アモルのことをどう報告するべきかを悩んでいたのだ。

 なにせ、街に忍び込んだ淫魔の捜索は現在、最優先事項とされてしまっている。

 例によって、報告しないという選択肢はない。そんなことをしてもどんどん事が大きくなって、いずれアモルがここにいることは割れてしまう。
 表向きは退治したということにしてしまうのが一番事を荒立てなくて済むが……それではアモルに外を歩かせてあげられないのが問題だ。

 アモルが街の外でも気兼ねなく振る舞えるようになる、そんな都合のいい選択はないだろうか。
 欲張りだとはわかっているが、フィリアやシィナと同じように辛い経験ばかりしてきた彼女には、せめてこの先くらいは自由な生活を送らせてあげたい。

「…………やっぱり、ギルド長に直接話をつけるしかないか」

 私がアモルを責任を持って保護することを伝えた上で、なんらかの対価を差し出して要求を飲んでもらう。
 いくら考えても、それくらいしか思いつかない。

 悪い言い方をすると賄賂(わいろ)だ。

 私はこれでも《至全の魔術師》とか呼ばれてる凄腕の魔法使いだ。
 私の要求を断ることは、それすなわち私という強大な力を手放し、敵対させることにほかならない。
 もはや害のない小さな淫魔と、世界でも有数のSランク冒険者。どちらを取るかなんて考えるまでもないだろう、と。
 私がしようとしているのは、そういう脅しの類だ。

 名声を悪用するようであまり気は進まない……けど、それ以外方法がないならやるしかない。
 アモルは私をお姉ちゃんと呼んでくれた。当たり前のように、家族みたいに。
 そのアモルのためになるというなら、私が多少悪名をかぶるくらい安いものだ。

「そうと決まったら、嵐が止んで落ちついたらアモルも連れてギルドに行かなくちゃね。あと、他に問題は……」

 ……やっぱり、フィリアとシィナの二人とアモルの確執だなぁ。
 このままではアモルにとって、ここは住みにくい家になってしまう。

 食堂でのアモルの発言のいくつかで、アモルが過去に辛い目にあってきたことは二人ももう察してくれているはずだ。
 フィリアも親に愛されようと頑張ったのにその親に奴隷として売られてしまった過去があるし、シィナもシィナで血にまみれた凄惨な過去があることは明らかだ。
 だからなにかきっかけさえあれば仲良くなってくれる、とは思うんだけども……うーむ、どうしたもんかな。

「……お師匠さま、いらっしゃいますか?」
「ん……フィリア?」

 アモルにこの家に馴染んでもらうための方法をつらつらと考えていると、扉がノックされ、フィリアの声が向こうから響いてきた。
 入っていいよと招き入れると、彼女は俯いたまま部屋に入ってきて、私が座るイスの前で立ち止まった。

「……どうかしたのかい?」
「……ごめんなさい、お師匠さま。私は……」

 なにか悔やんでいるような、自分を責めているような、そんな表情だ。
 まあ、十中八九アモルのことだろうな。フィリアは優しいから、少なからず邪険に扱ったことを気にしてしまっている。
 このぶんなら、フィリアとアモルの仲を取り持つのはそう難しいことではないかもしれない。

「大丈夫だよ、フィリア。私はなにも怒ってない」
「お師匠さま……」
「なにか相談したいことがあるなら、ゆっくり自分のペースでしゃべってくれて大丈夫だよ。それまでずっと待ってるから」

 私がそう言うと、フィリアはちょっと泣きそうな顔になる。

 あ、泣くのを堪えてるフィリアの顔、めっちゃ可愛い。
 ……って、なに邪なこと考えてるんだ私は!
 フィリアは真面目に悩んでるんだ。もうちょっと真剣に話を聞かねば……。

「……最初、お師匠さまがアモルちゃんに危害を加えられそうになったって聞いた時……私、怖かったんです」

 待っていると、フィリアがぽつりと話し始める。
 少し雨の音がうるさい、薄暗い部屋の中。俯けばその表情も見えなくなる。

「もしかしたら、お師匠さまがいなくなっちゃうかもしれなかったって……そう思うと、私……また一人になるんじゃないかって、怖くて……」
「……一人、か。でも今は、この家にはシィナもいるよ」
「わかってます。でも……違うんです。シィナちゃんは確かに大事な友達で、家族ですけど……お師匠さまに感じるこの気持ちとは、違うんです」

 一歩ずつ近づいてきて、私が座るイスの横まで来ると、フィリアはそっと私の手を取った。
 そこでようやく、私は話し始めてからのフィリアの表情を見た。
 私のことだけを見ている。怯えを含んだ、どこか縋るような目をしていた。

「暗くて、冷たくて、どれだけ頑張っても、どこにも届かない。なんの光も見えない世界で……お師匠さまは、私がほしかった全部をくれました。それがどれだけ嬉しかったか、お師匠さまは知らないんです」
「……」
「お師匠さまに出会って、私は報われました。頑張ることが無駄じゃないって思えるようになりました。魔法を学ぶたび、新しいことを知るたびに、少しずつお師匠さまに近づけている気がして、嬉しくて……」

 意を決したように、フィリアが私を見据える。

「お師匠さまにとって、私はどういう存在ですか? ただの弟子ですか? 家族ですか? それとも……」
「……私にとってのフィリア、か」

 ……うぅむ、どうしたものか……。
 そろそろ本当のことを言った方がいい気がしてきた。

 本当のことというのは、もちろんフィリアを買った真の理由だ。
 可愛い女の子といちゃいちゃにゃんにゃんしたいから買ったという、あれである。

 フィリアは本気で私のことを思ってくれている。
 そんな彼女にずっと嘘をつき続けている罪悪感はあれど、あまりに真の理由が恥ずかしすぎて、言うに言えない状況が続いてきた。
 もしかしたらこれ、最後のチャンスなんじゃないだろうか。
 ここまで私を思ってくれている彼女にこれ以上嘘をつき続けるのは絶対によくない。

 軽蔑されたり、失望されたり、ゴミのような目で見られるかもしれないけど……耐え、た、耐えなければ……。
 ……や、やっぱりやめようかな……。
 いやいや! 私はそれだけのことをされてもしかたがない嘘をつき続けてきているんだ! もしそうなったら甘んじて受け入れなくちゃいけない!
 フィリアを傷つけるかもしれなくても……そうすることがフィリアの好意に応える一番の行動のはずだ!

 ……よし! 言う……言ってやるぞ!

「……フィリア、前にも言ったと思うけどね。私は、フィリアに魔法を教えるためだけに買ったわけじゃないんだ」

 フィリアと同じように私も意を決すると、私の手を握る彼女の手を握り返した。

「一人が寂しくて、虚しくて、満たされないから、君を買った。そう、私は言ったね」
「……はい」
「でも、たぶん……フィリアはその意味を、少し誤解しているのだと思う」
「え……?」

 私は、たぶんちょっと顔が赤くなってるだろう。
 だって今からすごい恥ずかしいこと暴露しようとしてるわけですし。

 それでも一度言い始めた言葉は止まらない。止めるつもりも……ない!

「奴隷を、それも完全奴隷を買う人間なんてのは、例外なくろくでもないやつさ。人の心をかえりみず従えて、自分の欲求だけを満たす……私も同じなんだよ。身勝手な欲望を……どうしようもない寂しさをぶつけて満たすために奴隷を求めたんだ」
「お師匠さま……」
「……普通の寂しいって気持ちじゃない。人の尊厳を奪って、辱めることが目的だった。強引にでも言うことを聞かせることすらいとわない。相手の気持ちなんか度外視して……そうだ。一人じゃなくなるなら、誰でもよかったんだ。信頼も親愛もなくてよかった」

 要は「誰でもいいからなんでも言うことを聞いてくれる可愛い女の子と無理矢理にでもにゃんにゃんしたかった!」ってことだ。清々しいほどのクズである。
 さすがにその本心をそっくりそのまま言ってしまうのは憚られたので、ちょっと迂遠な言い回しをしてしまったが、ちゃんと伝わってくれているはずだ。

 もちろん、できるだけ裕福な暮らしはさせてあげるつもりではあった。
 けど、その対価としてえっちなことをさせてくれることを要求するつもりだったのは間違いないし、可愛い女の子なら誰でもいいと思っていたのも本当の話だ。

 ……う、うぐぐ……。
 フィリアの捨てられた子犬のような目が痛い……!

 なんだか見ていられなくなって、私は顔を俯かせる。
 それでも伝えなければいけないと、口だけは絶えず動かし続けた。

「最初は、そう、思ってたんだ。誰でもいいって……でも……フィリアを初めて見た時に……私は私の中に、強い執着が芽生えたのがわかった」
「執着……ですか?」
「……えぇと、その、なんというか……この子がいい、って、思ったんだ」
「え……?」
「この子以外考えられない、って」

 フィリアが少し驚くような気配がしたが、私は目線を下げているのでどんな顔をしているかまではわからなかった。

「そ、それってっ……?」
「魔法の才能がどうこうじゃない。ただ、その……見惚れたんだよ。あんまりにもフィリアが、魅力的で」
「み、魅力的っ?」
「……フィリアを一目見た時にはもう目が釘付けになったようで……どうしようもない寂しさをぶつける相手として、私は、この子がほしいと強く願っていた」

 …………こ、こいつ気持ち悪い、とか思われてないだろうか……?

 いやでも、しかたがないはずだ!
 フィリアのその、あまりにも豊満で形のいい双丘。
 今までの人生で一度として見たことがなかったような、見てるだけで極上の柔らかさが伝わってきそうなそれは、あまりにも魅力的すぎた。
 誰でもいいって気持ちが、絶対この子がいい! って感じになるのも、見惚れて目が釘付けにされてしまうのもしかたがない!

 あれに心惹かれないなら、きっとそいつは性欲とか存在しない人間とはなんか別の生物である!

「最低なのはわかってる。それでも私は、君と一緒にいたいと……声を聞きたい……君に、その……触れたい、と。そう思って、君を買ったんだよ。私は……」

 よ、よし……ちゃんと言ったぞ。言ってしまった。
 ……ちゃんと言えたよね?

 君と一緒に(一晩中でもえっちなことをして)いたい!
 君の(えっちな)声を聞きたい!
 君(のえっちなお体に)に触れたい!

 恥ずかしかったから結構表現は省いちゃったけど、ちゃんと伝わったはず!

 審判を待つかのように、私は目を強く瞑ってビクビクとフィリアの次の言葉を待つ。
 フィリアが再度口を開くまでの数秒間。それが私には、数十秒にも数分にも感じられた。
 その時だけ雷の音も止んで、耳障りな雨の音だけが、部屋の中に響いていた。

「…………嬉しいです。お師匠さま……」
「え……」

 軽蔑される。そんな私の予想と反して、意外にもその声は安らかな喜びに満ちていた。

 思わず目を開けて顔を上げると、そこにはあいかわらず涙を目に溜めたフィリアがいた。
 だけどその潤み方が、なんというか、さっきとはちょっと違うような気がした。

「もしかしたらお師匠さまにとって、私なんて大した存在じゃないかもしれないって、怖かったけど……聞いてよかった……」

 優しく頭の後ろに手を回される。
 初めて会ったフィリアにあの日、食堂で抱きしめられた時に似ていた。

 私がイスに座っている状態で、フィリアは立っている状態で。
 そんな体勢で抱きしめられれば、当然フィリアの豊満な胸の中に私の頭がすっぽりと埋まる。

 谷間に顔を押し付けられて、その柔らかさととろけるような感覚に、ちょっと思考の方が追いつかない。
 き、気持ちいい。え、なにこれやばいすごい良い匂いするなにこれ天国? 私死んだ? あれフィリア天使だっけ? マシュマロ食べたい。

「お師匠さまは最低なんかじゃありません……覚えてますか? 初めて会った日、お師匠さまにこうした時……私が言ったこと」
「えっ……あ、ぅ、そのっ……?」

 お師匠さまなら当然覚えていますよね? みたいな口調で放たれた言葉に、私は心の中でマジ焦りする。

 いや、あの、ごめん。その、あの時フィリアのおっぱいさまに夢中で話全然聞いてなかったんです……。
 な、なんて言ってたのフィリア? なんて言ってたんだっけっ? ……ま、マシュマロ食べたい。

「ふふっ、慌てちゃって……可愛いです、お師匠さま」
「か、可愛くは、ないが……」

 どうやら突然のことで混乱して過去のことにまで頭が回っていないと判断されたらしい。
 フィリアは妖艶に微笑んで、よしよしと私の頭を撫でてくる。

 あ、あれ? フィ、フィリアってこんなえろかったっけ?
 いや、元からすごくえっちなお体はしてたけど、そうじゃなくて。
 もっとこう、無邪気で無意識な感じだった、ような……?

「お師匠さま。私はあの時、こう言ったんですよ。こうして、お師匠さまと見つめ合って……」

 両頬に手を添えられて、顔を上の方に向かされる。
 フィリアの胸に私の顔が擦れて、ムニッとした極上の感触に、頭がどんどん熱くなっていくのを感じた。

 記憶が蘇る。あの日、同じことをされた時と光景が重なる。
 だけどあの時と違うのは、フィリアの頬が鮮やかな赤みを帯びていて、その口元が嬉しそうな弧を描いていること。
 ただただ純粋だったあの頃と違い、どこか色気すら感じさせる彼女の表情に、息を呑み、目を奪われる。

「どうか、私を頼ってください。だって私は、あなたのために……ここにいるんですから」

 その言葉は、耳からするりと私の中に入って、ゾクリと背筋が震えた。

「……私の全部はお師匠さまのものなんです。この手も、体も、心だって。私は、お師匠さまのためならなんだってできます。お師匠さまが望むなら、どんなことでも、なんでもしてあげたいって思います」
「な、なんでも……」
「はい。なんでもです」

 ごくり、と生唾を飲み込む。
 ここでえっちな方向で妄想を繰り広げてしまうのは、私の心が汚れているからに違いない。

 し、しかし、どういうことだっ?
 よ、様子がおかしい。なぜ私はまだフィリアに軽蔑されてないんだっ?
 あれ? どういう……うん? ちょっとまって……あれぇ?

「フィ、フィリア……!?」

 徐々にフィリアの顔が近づいてくる。それの意味がわからないほど私は鈍感ではない。

 なにせ以前にも二回ほど、同じようなことがあった。
 ……しかし、だとすればこれは、三度目の正直なのだろうか。
 ここまでくれば、もう疑うことはできない。

 フィリアは。今、目の前にいるこの子は。
 私と、キスをしたいと思っている。

「お師匠さま……お師匠さまが私にそう感じてくれたように……私も……」
「……フィ、リア……」
「……お師匠さまのこと…………好き、です」
「――――」

 目を見開き、硬直する。
 そんな私の目の前で、あと数センチというところまでフィリアの唇が迫って、そして――。