「……さて、様子を見たいとは言ったものの……どうするか」

 気絶してしまった淫魔の少女を再度ベッドに寝かせて、私は今、その横に置いたイスに座って今後の対応を考えていた。

 あれから少し時間が経っているので、この淫魔の少女の正体についてはすでにフィリアにも伝えてある。
 襲われた、ということで言った当初は「だ、だだ、大丈夫ですかっ!?」とものすごく心配されたものだが、特に外傷もないことを知るとフィリアは安心したように息を吐いていた。
 ……まあ外傷がないだけで、なにもされなかったかと言われたら……うん。されたんだけど……。
 なにをされたかなんて、恥ずかしくてさすがに言えない……。

 今は、淫魔の少女が目覚めた時に二人(主にシィナ)がいたら緊張するだろうということで、フィリアとシィナには席を外してもらっている。
 席を外してほしい、と言った時にフィリアが珍しく強く反抗してきたことが印象的だった。
 魔眼は事前に対策しておけば脅威ではないから大丈夫だと言うと渋々引き下がってくれたけど……やはり、相当に心配させてしまったようだ。

「うーん。悪い子ではない、気はするんだけど……」

 お礼、いや、お礼とは名ばかりだったけども……。
 お礼に体のことを教えてあげる、と言った時に、この子は経験がないと言っていた。淫魔だというのに。
 そしてその後、自分のことを出来損ないだとも。
 魔眼のことも気がかりだ。成熟しなければ完成しないはずの魔眼を、この子は完璧に使いこなしていた。

 なにか事情があるような匂いはぷんぷんとしている。それがどんなものなのかはまだわからないが……。

「なんにしても、話を聞いてみないことには始まらないな」

 手持ち無沙汰だったが、本を読むような気分でもなく、なんとはなしに淫魔の少女の寝顔を眺める。

 どうにも苦しそうな寝顔で、たまに寝返りを打ったり呻いたりしている。
 元々体調が良くなかったことももちろんだが、直前の出来事……シィナに殺されかけたことが原因の一端であることは想像に難くない。

 たまにシィナほんと怖いからね……可愛いことも間違いないんだけど。
 一緒に暮らしていることもあって私はもうだいぶ慣れてきたと思うが、初対面のこの子にとっては恐怖の権化以外のなにものでもなかっただろう。

 ずっと辛そうな寝顔を浮かべている淫魔の少女がなんだか不憫に思えて、頭をそっと撫でてみる。
 そうすると、少しだけ顔色が良くなった……ような気がした。本当に気がしただけのような気もする。

「……ん、ぅ……」

 呻き声とともに、淫魔の少女の瞼がぴくぴくと動く。
 今まさに目覚めようとしていることを悟り、頭を撫でていた手をそっと引っ込めた。

「…………」
「目が覚めたかな?」

 ぼうっと半分だけ瞼を開いた淫魔の少女に、笑顔を意識しながら声をかける。
 できるだけ警戒させないように配慮したつもりだが、まあ、あんなことがあった後である。警戒するななんていうのは無理な話だ。

 淫魔の少女は驚愕に目を見開いた後、思い出したようにキッと私を睨みつけ、魔眼の力を使ってきた。
 魅了の魔眼の強力さは身をもって知っているにせよ、それはあくまで無防備に食らってしまった場合に訪れる事態だ。
 すでに対策の魔法を施してある私に、もう魔眼は通用しない。

「淫魔は魅了の魔眼と精神魔法への適性の高さ、そして特殊な体質を除けば、特筆する力を持たない。正体がばれている今、君に私を害することはもうできないよ」
「…………」

 すでに魔眼が通じないことなんて、淫魔の少女も最初からわかっていたことのはずだ。
 彼女は魔眼の行使をやめると、どこか諦めたように私を見た。

「……わたしを、どうするつもり……?」
「どうする、か」

 どう答えたものか悩む私を見て、淫魔の少女はぶるりと体を震わせた。

「……聞いたこと、ある。淫魔は……高く売れる、って。普通の状態じゃ危険だから、とても手を出せないけど……目を潰して、足の腱を切って、回復阻害と隷属の術式をかけて……それから」
「淫魔は第一級の危険生物に指定されてる。第一級は、どんな魔物調教師でも飼うことは禁止されてるよ」
「……そんなの、いくらでももみ消せる……地位と力があれば…………そうでしょ……?」

 確かに、一部の汚れた貴族の中にはそういうことをやっている輩がいてもなんら不思議ではない。
 魔物以上に悪意に肥えた人間なんて探せばいくらでもいるだろう。

 でもなぁ。いくら魔物でも、さすがにそれはかわいそうというか……。
 いや、私もその気持ち自体はわかる。この少女は例外として、淫魔は基本的にナイスバディな美女らしいし、そんなメロンなお体を好きにしたいって気持ちは痛いほどわかる。わかるよ。
 ほんとわかる……わかりみが深い。
 結局のところ、私だってフィリアを体目的で買ったわけですし……。

 でもやっぱり、目を潰したりなんてのは明らかにやりすぎだ。
 その淫魔のように人形の生き物ではなくて、犬や猫のような愛玩動物であると仮定しても、その行為は虐待以外のなにものでもない。たとえ魔物が人類の敵で、淫魔がその魔物だとしても。
 人の都合で人に飼われ、その欲求を満たす奴隷となってもらう以上は、それ以外の部分ではできる限り幸せになってもらいたいというのが私の個人的な考えである。
 まあ、奴隷となってもらう以上はっていうか、私、買ったはずのフィリアにまだなんにもできてないんだけど……。
 いつになったらフィリアの体を好きにできる日が来るんだろう……あとシィナも……。

「もみ消せる、か。確かにそうかもね。私もそこそこ有名な自覚がある。君の存在をもみ消すこともできるだろう」

 そう言うと、少女の目が怯えたように変わった。
 そんな彼女に、私はできるだけ優しく見えるよう意識しながら、微笑んでみせる。

「だからきっと、君をここに匿うこともできるよ」
「かくま、う……?」
「信じてほしい。私は君を傷つけない。目を潰したりも、足の腱を切ったりもしない。約束する」

 目をまっすぐに見つめてそう言うと、彼女の表情が困惑で染まった。

「どうし、て……そんな……わ、わたしはあなたに、魔眼、を……き、危害を加え、て」
「前も言ったと思うけど、君が小さいから」
「小さい、から……?」
「子どものうちは間違いなんていくらでもある。年上の仕事はね、その間違いを指摘して、叱って、正して、最後に甘やかすことだ。子どもを見捨てることじゃない」
「なに、それ……わ、わたしは……魔物、だよ?」
「そうかもね。でも、普通の魔物はきっとそんな泣きそうな顔はしないよ。普通の淫魔は、今の私のこの甘い考えを利用しようと考える。でも私が見るにきっと、君は違うと思うから」

 動揺したように淫魔の少女の瞳が揺れる。
 心の中で、なにかに迷っているように見えた。
 そんな彼女に、そっと手を差し出してみる。
 彼女はじっとそれを見下ろして、恐る恐る手を伸ばしては、引っ込める。
 そんなことを何度も繰り返す彼女に手を差し伸べたまま根気強く待っていると、やがて彼女の手が私の手に触れた。
 途端、彼女の手がビクッと跳ねて、また引っ込んだ。でもそれからまた、手を伸ばして触れてきた。
 やがて、お互いの手が重なる。彼女の方から、ぎゅぅっと重ねてきた。

「……あたた、かい……」

 にぎにぎと、手を握る力を強めたり、弱めたり。

「う、うぅ……ひ、っぐ……」

 しばらく好きにさせていると、彼女はこらえきれなくなったように、ぽろぽろと涙をこぼし始めた。

 うぅむ……予感通りと言うべきか。やはりこの子は、話に聞いていた淫魔ほど人を害そうとする意志を持っていないようだった。ただ必死に自分の身を守ろうとした結果、ああやって私に魔眼を使っただけで。
 きっとその精神も、見た目と変わらずまだ子どもなのだろう。

 だとすれば、たった一人で何日も、冒険者の鋭い視線を気にしながら街中を逃げ回ることは相当な心の負担だったはずだ。
 それに加え、ついさきほどは実際に殺されそうにもなったのだから、今の今まで怖くて怖くてしかたがなかったに違いない。

 その気持ちは私にも少しだけわかる。
 なにせ私もなんの脈絡もなく、唐突にこの世界に投げ出された身の上だ。

 私もこの世界に来た当初はわからないことだらけで怖かった、ような気がする。
 ……怖かった、はず。たぶん……えっと、不安だった? はずだ。
 ……あんまり自信がない。

 というのも、私はなんだかんだ私の魔法の師匠たる少女にいつも守られていたし、四六時中一緒だったから寂しいと感じることもなかったし……。
 だからぶっちゃけそんなに不安だったような記憶がない。
 全然不安感じないくらい過保護だったからなぁ……。
 あくまであの子自身の個人的な都合で守られていただけで、微塵も好かれていたわけではなかっただろうことが悲しいところだけど……。

 なんにせよ一人ではないという事実は、それだけで心の隙間を埋めてくれるものだ。
 かつて私のそばにあの子がいてくれたように、この淫魔の少女にとってもまた私がその隙間を埋める存在になれたら、なんて思うのは自惚れだろうか。

「……落ちついた?」
「……う、ん」

 ようやく、と言うべきか。
 最初に会ってからずっと警戒されていた様子だったが、ようやく彼女は私を少なからず信用してくれたようで、彼女のこわばった体から力が抜けていくのを感じた。

「……あなたは……」
「ん?」
「あなたは……わたしが、魔物だってわかっても……優しくして、くれるんだね」
「んー、そうだね」
「それも、わたしが小さい……から?」
「それもあるけど……うーん。一番は、サンドイッチをおいしそうに食べてくれたからかな」
「……ふふ。なに、それ」
「あのサンドイッチのふんわり柔らかいパン、探すの大変だったんだ。それをおいしそうに食べてくれたのが嬉しくてね」
「ふふ、ふふふ……おかしな、人」

 警戒がなくなったからか、初めて彼女の表情が笑顔に変わる。
 元々、彼女の容姿は凄まじく良い。それこそ、将来はすれ違った十人が十人全員振り向くような美人になると迷いなく言えるくらいに。
 そんな彼女が不意に見せた、笑顔。
 妖艶さは無邪気さに。一輪の花のような愛らしい綻びと、ぷっくりと色鮮やかに唇が描く美しい弧に、ほんの一瞬、目を奪われる。

「……どうした、の?」
「……えっ? あ、い、いやっ、べ、べつに」

 ……あ、あれ?
 もしかして今、顔赤い?

 ち、違うぞっ? 違う違う。断じて違う。
 ドキッとなんかしてない。

 私のストライクゾーンはフィリアくらいの子だ。シィナもその範疇に収まってる。
 でも、この子は違う。

 だってどう見ても一〇歳前後の子どもだよ? つるつるぺったんだよ?
 こんな幼気(いたいけ)な子にドキドキするなんて、それは完全にアウトだ。もう変態だ。そんな犯罪者予備軍は逮捕していい。
 私は違う。間違いなく絶対に、断じて違う。
 今のなんか心臓が跳ねたような感じは、あれだ。
 あの……あれ。あれだ。あの、あれである。
 そう、あれなのだ。あれ以外のなにものでもない。

 ……とにかく私はロリコンじゃない!

「こほんっ! えっと……一つ、君にお願いがあるんだ」
「おねが、い?」

 ベッドの上に寝転がりながら、こてん、とわずかに小首を傾ける仕草。

「君のことを、もっと教えてほしい。君は普通の淫魔とは明らかに違う。私に使った魔眼だって、本来君のような幼い淫魔が使えるレベルのものじゃなかった。その理由と……それから、今までどんなことがあったのか、これからどうしたいのか……君の気持ちを知りたいんだ」
「……わたしの気持ち……」

 当たり前だが、これは明るい話にはならない。
 今回、私たち冒険者が街中に潜む淫魔の捜索を行っていたのは、別のAランクチームが淫魔を討伐した際に討ち漏らしが発生し、その痕跡が街へと続いていたからだ。
 その討ち漏らしこそが今目の前にいる、この淫魔の少女。

 彼女にも仲間や家族がいたはずだ。そのすべてを私たち冒険者が殺した。
 本来なら、憎まれてもおかしくない。

 そういう暗い話は苦手なのだけども……。

「……わかった。全部、話す……わたしのこと……」
「ありがとう」
「お礼を言わなきゃいけないのは、たぶん……わたしの方だから」

 淫魔の少女は心に整理をつけるかのように、そっと目を閉じる。
 それからしばらくして瞼を開けると、静かに語り出した。