「……ハロ……ちゃ、ん……おきた、って……(ハロちゃん、いる? フィリアちゃんから、外で倒れてた子が起きたって聞いたけど……大丈夫かな)」
ひょこっ。
開いた扉から、そう顔を出したのは、シィナの方だった。
シィナは部屋の中を見渡し、私と淫魔の少女の姿を認めると「お、じゃま……します」と言って、中に入ってくる。
「シ……! っ……」
シィナに現状のすべてを打ち明けてしまいたかったが、隷属術式で縛られている今、それはできないようだ。
さきほど下された、『普段通りに振る舞う』という命令。それにほんの少し抵抗するくらいが限界だ。
私の様子に少しでも違和感を覚えてくれればいいんだけど……。
「シ、ィナ。うん。ちょうど……さっき持ってきたご飯も、食べてくれて、ね。誰か来るって……なった途端、布団の中に……隠れちゃった、けど。きっと、人見知り……するタイプ、なんだろう」
「……そう……(人見知りかぁ……わたしもそうだから、気持ちがよくわかるなぁ……初めての人と話す時は声がうまく出せなかったり、変にいいところ見せようって張り切って、空回りしちゃったり……)」
……これは、どうなんだ?
そ、そうってなんだ? 気づいてるの? 気づいてないの? 全然わからん……。
でもシィナのことだ。獣人だからいろいろと鋭いだろうし、スライム大作戦の時だって、私の企みに気づいていたわけではないだろうが、なんらかの危険を事前に察知しているかのごとく、敢えてスライムを浴びないようにしていた。
その勘のいいシィナが、私のこんな不自然な途切れ途切れの言葉に疑問を持たないはずがない。
さっきまであんな恥ずかしい目にあっていたのだから、まだ顔だって不自然に赤いはずだ。
きっと私がなんらかの異常事態に見舞われていることを察して、内心では警戒を強めている。
短く「そう」としか答えないのも、おそらくその表れだ。
情報を多く見せないことで、相手に隙を与えないようにしているのだ。
ふふふ、さすがシィナだ! すっかり油断していた私にはできなかったことを軽々とやってのける!
いいぞ、そのまま私の催眠をどうにか解いてくれ!
「…………(でも、ハロちゃんはそんなわたしの内心を察して、受け入れてくれたんだよね。えへへ……ハロちゃんの言い方だとハロちゃんの前じゃこの子も隠れてなかったみたいだし……この子もおんなじなのかなぁ。ハロちゃんのあったかい気持ちが、この子にも伝わったんだね)」
布団で身を隠している淫魔の少女を、シィナはじぃっと凝視している。
私の異常にこの子が絡んでいるのではないかと、明らかに訝しんでいた。
「……(おんなじ人見知りの子……な、なんだろう。この子となら仲良くなれそうな気がしてきた……!)」
「……シ、ィナ?」
「…………ねぇ(ハロちゃんの時はハロちゃんの方から声をかけてもらって、フィリアちゃんとは、ハロちゃんの紹介で仲良くなって……私の方から話しかけて友達になれたことなんて、まだ一度もなかった。でも……今のわたしなら……!)」
ふと、シィナが足を踏み出して、無防備に布団に近づく。
ん……? シ、シィナ? も、もうちょっと探りを入れてから近づくべきじゃ……。
い、いや、シィナがそれで大丈夫だって思うならいいんだけどね? 私はなにもできないし。
魔眼……魔眼だけは気をつけてね……。
「…………かお……みせて(まずはお互いの目を合わせて、自己紹介……でいいんだよね? 仲良くなるためには、まずはお互いのことを知り合わなきゃいけないって、この前辞書引きながら頑張って読んだ本に書いてあったし!)」
え? か、顔見るの……? 淫魔って魔眼あるんだよ?
あ、あれ?
ほんとにシィナ、この子が淫魔だってわかってるのかな……。
い、いや、気づいてるはず……大丈夫なはずだ!
だってシィナだぞ! あのシィナだ!
魔物のみならず、数々の冒険者さえも震え上がらせ、パーティも組まずにたった一人、ただその身一つで、世界で十数人しか存在しないSランクにまでのぼり詰めた殺戮の修羅……人呼んで《鮮血狂い》!
数多の魔物を屠ってきたそのシィナが、この少女が淫魔だと気づいていないはずがない! ……同じSランクの私はまったく気づかなかったけど!
だってほら! 現に淫魔の少女だって、突然の顔見せて発言に、もぞもぞと布団の中で躊躇している!
そう、彼女も感じているのだ……シィナが自分を疑っているということを!
……だい、大丈夫……だよね?
必死に希望的観測を重ねてみたけど、これ全部勘違いだったりしないよね……?
……というか……そういえば、今思い出したんですけど……。
なんか獣人って、他の種族と比べて魔法の抵抗力弱いらしいんですよね……。
あんな至近距離で魔眼を食らったら、おそらく一秒の半分もかからず催眠が完了する。
シィナって私が専用に改造した足場を作る魔法以外は一切魔法使えないらしいし、対策となる術式もきっと展開してない。
……もしかしたら。
シィナはもしかしたら、自分が催眠になんてかかるはずがないって思ってるのかもしれない。
すでに狂気の奥底まで染まっている自分の心は、誰にも侵されはしないと。
なにせこれほど無警戒に淫魔の顔を拝もうとしているんだ。きっと過去にも同じように催眠かなにかをかけられそうになって、それを自分の精神力で跳ね除けたことがあるんだろう。
確かに、単純な精神系の魔法ならそれで弾けてもおかしくない。
……いやホントはおかしいけど……あれほど自然体なシィナを見る限り、それしか思い至らない。
そしてもしその予想が正しいのだとしたら、この状況は非常に不味い。
淫魔の持つ魔眼は確かに魔法のような力ではあるが、厳密には魔法ではない。特性だ。
特性とは、一種の摂理である。
りんごが木から落ちるように。木の葉が枯れ落ちるように。人が老い、死ぬように。
その本質は、力ではない。決して揺るがない事実を具現化させたもの。それが特性なんだ。
だから、気持ちの持ちようなんかでどうにかなるような話ではない。
昔、特性について少し研究する機会があった私は、それをよく知っている。
「……わかった」
淫魔の少女の返事。
未だシィナの行動の意義をはかりかねて訝しんでいるようだったが、このまま膠着状態を維持していても意味はない。
そちらがそれを望むのなら、望み通りにしてやる。そう言わんばかりに、淫魔の少女は自分の顔と体を隠していた布団に手をかけた。
「シ、っ……!」
うぐっ! シ、シィナの名前を呼べない……!
このタイミングでシィナの名前を叫ぶのは、魔眼で指示された普段通りに振る舞うことに反するからか……!
あぁ、もうダメだぁ……おしまいだぁ……。
油断しすぎだよシィナ……きっとこのままシィナも魔眼の魅了にかかっちゃって、二人してあんなことやこんなことされちゃうんだ……。
シィナのそんな姿を見られるのなら役得ではあるけど……うぐぐ。無理矢理はよくないと思います。
あと、できれば攻めの立場は私でですね……!
「『あなたは、わたしの虜に――』」
淫魔の少女が顔をさらけ出し、シィナの目をまっすぐに見つめ、言葉とともに魔眼を発動する。
私はシィナが咄嗟に目をそらすことを期待していたが、もちろんそんなことはなく、二人の目はきっちりと正面から合ってしまっていた。
そして、やはり一秒とせずに魔眼の効果がシィナに及び、シィナがその術中に、
「――え」
術中に、かかることはなかった。
「……?(……あれ?)」
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
魔眼がシィナに対し効果を発揮する、一秒の半分。
その数瞬とも呼べるわずかな時間よりも、さらに早い一瞬のことだ。
シィナはその手で剣を持っていた。
いつも携えている、両腰と背中に二本ずつの計四本の小剣。そのうちの一本が瞬きの間に抜かれていて、振り切った体勢になっていた。
振り切った体勢……とは言っても、シィナは淫魔の少女を斬ったわけではないようだ。それなりに近くはあったが、二人の間は剣が届く距離ではなかった。
では、なにを斬ったのか。
なにもない宙空で振り切られた剣。見つめ合ったはずなのに、なんともないように立ち尽くしているシィナ。
ここから推理できることは、一つ。
シィナが斬ったのは、術式だ。魔眼の効果そのものを、その剣で切り払った。
自らに向かって突如飛来した見えない弾丸を切り払うかのような、人外の所業。
あまりにも非現実的な想像に、ありえないと頭が否定しかけるが、目の前の光景が嫌でもそれが現実だと突きつける。
私は呆然としながら、シィナを見た。
「シィ、ナ……」
え、ええ? シィナ、なんでそんなことできるの……?
術式が見えてたならまだギリギリわかるけど、シィナ見えないんだよね?
あれ? もしかしてシィナ、最初からこれを狙って……?
…………も、もちろん私は最初から信じてたぞ! あのシィナが無策に魔眼を見せることを催促するわけがないって!
いやぁ、わかってた! 知ってた! うむ、さすが私のシィナ!
これくらいのことなら軽くやってのけるって私は信じてたぞー!
まあ普通に考えればそうだよな。当たり前だ。あのシィナがそんな簡単に魅了にかかるわけがないじゃん。
まったく数十秒前の私はなにを心配していたんだ。
いや、信じてたけどね? 信じてたんだけど、やっぱりシィナが危ない目に合わないかっていうのが心配でね? はい。
「な、ん……え? な、なん……な、なに、が……?」
淫魔の少女は激しく混乱しているようだった。
目の前でなにが起きたのかを理解できないのか。あるいは、目の前で起きた出来事を認めることができないのか。
ただ右往左往とする今の彼女はあまりにも隙だらけで、シィナであればいつでも手にかけることができたはずだ。
だけどシィナはそれ以上動くことはせず、ただ冷たい表情と瞳で、言う。
「…………どう、して?(あ、あれ? ど、どうしてわたし、剣なんて持ってるの……? えっ? あれ? な、なんかこう、魔物と戦う時みたいに……反射的に体が動いた、ような……え?)」
どうして。シィナが発したのは、ただ問いかけるだけの言葉。
なにを問いかけているのか、いちいち聞くまでもない。
シィナは初めに淫魔の少女に対し、顔を見せてと言った。
淫魔にとって魔眼は絶対の武器。そしてそれは、獣人たるシィナにとっての絶対の弱点だ。
シィナは淫魔の少女の正体に気づいた上で、試していたのだ。
あなたは敵なのか。その武器を自分に向けるのかどうか。
そして淫魔の少女は、その武器をシィナに振りかざした。
だからシィナは、どうして、と。
なぜ敵対するのか。なぜ危害を加えようとするのか。
なぜ、いったいどんな大層な理由があって、私のものであるハロちゃんをそんなもので傷つけたのか。
シィナは今、怒っている――。
「…………なか、よく……なれそ、う……だった、のに(って、そんなのどうだっていいよ! は、早くしまわなきゃっ! せっかく仲良くなれそうだったのに、こんな風にいきなり刃物振り回したりしたら絶対危ない人だって思われちゃう……!)」
魔眼を使った時点で、きっとシィナはすでに少女を見限っていた。
無邪気で無機質な冷たい言葉とともに、シィナが剣を持っている手を再度動かす。
それに淫魔の少女は怯えたように体を震わせながら、必死になって口を開いた。
「あ、あなっ、ぅ、『あなたはっ! わたしの虜にな』」
二度目の、魔眼の発動。
だが、不意打ちでさえ失敗したというのに、そんな真正面からの魔眼が通用するはずもない。
シィナがまた、剣を振るう。それだけで魔眼の効果は打ち消された。
それでも淫魔の少女はまた魔眼を使おうとするが、そんなものよりもシィナの動きの方が速いのは歴然だ。
もう片方の手で二本目の剣を抜き放ち、シィナは瞬きの間にベッドに飛び乗った。
シィナの剣が届く射程内。もはや逃げ場はない。
淫魔の少女の顔が恐怖で歪み、そしてそんな少女の首元へ、シィナは容赦なく刃を――。
「シィナっ!!」
「っ……(――はっ!? えっ? ちょ、待って待って止まって私の体! なにしようとしてるのなんでこんなあれなんでわたしなんでぇ!?)」
私は今、魔眼の効果で縛られている。普段通りに振る舞え、と。
さきほどはそれで縛られてシィナの名前を呼べなかったが、ここでシィナの名前を叫ぶことは、普段の私なら間違いなくやっていたことだ。
シィナが振るっていた刃は、淫魔の少女の首を切り裂くほんの数ミリ前で止まっていた。
あと一瞬遅れていれば間に合わなかっただろう。
「ひ、っ……ぁ、ひぁ……ぇぁ……ぁぇ……」
絶対の自信があっただろう魔眼をたやすく打ち破られ、それを理解する間もない混乱の最中、襲いかかった死の恐怖。
常日頃から生死を賭けた闘争の日々に身を置いている冒険者ならばまだしも、ただの淫魔がそんなものに耐えられるはずもなかった。
淫魔の少女は、自らの首に迫った刃を見下ろした後、そのままパタンッと力なく倒れた。
それと同時に、私を縛っていた魔眼の効果が消え去るのがわかった。
魔眼はあくまで一時的な支配でしかない。それをかけた当人が気を失えば、魔力による繋がりが消えて効果を失う。
「……はぁ。ひとまず、ありがとうシィナ。おかげで助かったよ」
「…………あぶな、かった……(た、助かった? な、なんのこと……? いやそんなことより、なんでわたし知らない子にいきなり剣なんて向けちゃってるのぉ!? は、ハロちゃんが止めてくれなきゃ、こ、この子を殺して……あ、あぶなかったぁ……!)」
「ああ……そうだね。シィナが来てくれなきゃ、本当に危なかった。私が油断したせいだ。心配かけてごめんね、シィナ」
「……? ……ん(は、ハロちゃん本当になんのこと言ってるんだろ……よくわかんないけど、なんだかハロちゃんちょっと真剣そうだし、とりあえず頷いておこう……)」
これくらいなんてことない。
そう言いたげな短い返事と首肯は、なんとも頼もしかった。
念のため、倒れた淫魔の少女の様子を確認してみる。
……やはりと言うべきか、すっかり気絶してしまっているようだ。
加えて、真っ青な顔で苦悶の表情を浮かべている。
直前の出来事が原因だろうことは想像に難くない。
「……(わ、わたしのせいでこんな……うぅ、罪悪感が……なんでわたし、あんな勝手に体が動いちゃったんだろ……そういうこと、魔物と戦う時以外は一度もなかったはずなのに……)」
私の隣まできたシィナは覗き込むようにして、じーっ、と、またしてもこの子のことを凝視していた。
私もシィナと同じ冒険者だ。シィナの言わんとしていること、シィナが考えていることは、じゅうぶんわかっているつもりだった。
淫魔は、魔物だ。人類の敵だ。
たとえ人と同じ姿かたちをしていようとも、中身はまったくの別物である。
淫魔のような一部の魔物が人の姿をしているのは、人を油断させるためにすぎない。人の心を利用するため、人の優しさにつけ入るためだ。
人の言葉を用いることも、同じ理由だとされている。
そういう風に進化してきた生き物なのだ。決して、人と同じ系譜をたどったわけではない。
だから魔物を相手に、かわいそうなどと思ってはいけない。情けをかけてはいけない。
その甘さは死へと直結する。そしてその死とは、自分一人だけの命の終わりを指すのではない。
その魔物を生かしてしまうことによって生じるかもしれない、未来の多くの罪なき人々の命の終わり、そのすべてが含まれている。
それを常に心に刻んで動け、と。
その心構えは、冒険者になる一番始めに教えられることである。
だからシィナはきっと、思っているのだ。
この子を殺した方がいいと。
それが冒険者としてやるべきことだと。正しいことなのだと。
……けれど。
「……わかってるよ、シィナ。でも……ごめん。それはできない」
「……?(え? な……なにが? わたしなんにも言ってないけど……え? ハロちゃん、なにをわかってるの? わたしなんにもわかってないよ……?)」
「シィナが初めから気がついてたのはわかってる。そう……シィナの想像通り、この子は淫魔だ。雨宿りできる場所を探して、この屋敷に忍び込もうとしていたらしい」
「……!?(えぇ!? い、淫魔なのこの子!? こんな小さい子が!? ぜ、全然気づかなかった……)」
未だ無言を貫くシィナの方を見ず、気を失っている淫魔の少女をベッドに再度寝かせて、布団をかける。
「シィナの言いたいこと、その意図も、もちろんわかるよ。この子を殺した方がいいってことは……」
「……!?(え? こ、殺しちゃうの!? た、確かに冒険者ならそれが正しいのかもしれないけど……あと、わたしそんなこと言ってない……)」
「だけど、それはできない」
シィナはなにやら、もの言いたげな様子で私の方を見つめてきていた。
それも、当然だ。
この子は私を魔眼の支配下に置き、シィナさえも同じように魅了にかけようとした。それは決して許されざることだ。
殺すべきだと抗議するのは当然のことだ。
……けど。
「……この子、私が持ってきたサンドイッチをおいしそうに食べてくれたんだ。どうも、その時のこの子の顔が頭から離れてくれなくてね。バカなことだってわかってはいるけど……少し様子を見たい」
「……(あ、うん。わたしもそれがいいと思う。なんていうか、普通の魔物から感じる悪い気配みたいなものが全然なくて、そんな悪い子には見えないし……そもそもこの子がこんな風に気絶しちゃったの、私が剣を突きつけたせいだし……起きたら謝らなきゃ……)」
「ごめん。シィナは納得できないだろうけど……どうか許してほしい」
「…………ん(べ、別に反対してないんだけどな……ハロちゃん真剣な顔してるから、なんか言いづらい……結果は変わらないし、ここは水を差さずにもう一回頷いておこう……)」
シィナはまた、こくりと静かに頷いた。
「ありがとう、シィナ」
我ながら卑怯な言い方だった。
シィナが内心反対していたとしても、私が懇願すれば頷いてくれるだろうことはわかっていた。
シィナには今度、なにか埋め合わせのお礼でもしないといけないな。
そんな風に思いつつ、私はとりあえず、シィナのおかげでなんとか淫魔の少女に(性的に)襲われずに済んだことに安堵のため息を吐いたのだった。
ひょこっ。
開いた扉から、そう顔を出したのは、シィナの方だった。
シィナは部屋の中を見渡し、私と淫魔の少女の姿を認めると「お、じゃま……します」と言って、中に入ってくる。
「シ……! っ……」
シィナに現状のすべてを打ち明けてしまいたかったが、隷属術式で縛られている今、それはできないようだ。
さきほど下された、『普段通りに振る舞う』という命令。それにほんの少し抵抗するくらいが限界だ。
私の様子に少しでも違和感を覚えてくれればいいんだけど……。
「シ、ィナ。うん。ちょうど……さっき持ってきたご飯も、食べてくれて、ね。誰か来るって……なった途端、布団の中に……隠れちゃった、けど。きっと、人見知り……するタイプ、なんだろう」
「……そう……(人見知りかぁ……わたしもそうだから、気持ちがよくわかるなぁ……初めての人と話す時は声がうまく出せなかったり、変にいいところ見せようって張り切って、空回りしちゃったり……)」
……これは、どうなんだ?
そ、そうってなんだ? 気づいてるの? 気づいてないの? 全然わからん……。
でもシィナのことだ。獣人だからいろいろと鋭いだろうし、スライム大作戦の時だって、私の企みに気づいていたわけではないだろうが、なんらかの危険を事前に察知しているかのごとく、敢えてスライムを浴びないようにしていた。
その勘のいいシィナが、私のこんな不自然な途切れ途切れの言葉に疑問を持たないはずがない。
さっきまであんな恥ずかしい目にあっていたのだから、まだ顔だって不自然に赤いはずだ。
きっと私がなんらかの異常事態に見舞われていることを察して、内心では警戒を強めている。
短く「そう」としか答えないのも、おそらくその表れだ。
情報を多く見せないことで、相手に隙を与えないようにしているのだ。
ふふふ、さすがシィナだ! すっかり油断していた私にはできなかったことを軽々とやってのける!
いいぞ、そのまま私の催眠をどうにか解いてくれ!
「…………(でも、ハロちゃんはそんなわたしの内心を察して、受け入れてくれたんだよね。えへへ……ハロちゃんの言い方だとハロちゃんの前じゃこの子も隠れてなかったみたいだし……この子もおんなじなのかなぁ。ハロちゃんのあったかい気持ちが、この子にも伝わったんだね)」
布団で身を隠している淫魔の少女を、シィナはじぃっと凝視している。
私の異常にこの子が絡んでいるのではないかと、明らかに訝しんでいた。
「……(おんなじ人見知りの子……な、なんだろう。この子となら仲良くなれそうな気がしてきた……!)」
「……シ、ィナ?」
「…………ねぇ(ハロちゃんの時はハロちゃんの方から声をかけてもらって、フィリアちゃんとは、ハロちゃんの紹介で仲良くなって……私の方から話しかけて友達になれたことなんて、まだ一度もなかった。でも……今のわたしなら……!)」
ふと、シィナが足を踏み出して、無防備に布団に近づく。
ん……? シ、シィナ? も、もうちょっと探りを入れてから近づくべきじゃ……。
い、いや、シィナがそれで大丈夫だって思うならいいんだけどね? 私はなにもできないし。
魔眼……魔眼だけは気をつけてね……。
「…………かお……みせて(まずはお互いの目を合わせて、自己紹介……でいいんだよね? 仲良くなるためには、まずはお互いのことを知り合わなきゃいけないって、この前辞書引きながら頑張って読んだ本に書いてあったし!)」
え? か、顔見るの……? 淫魔って魔眼あるんだよ?
あ、あれ?
ほんとにシィナ、この子が淫魔だってわかってるのかな……。
い、いや、気づいてるはず……大丈夫なはずだ!
だってシィナだぞ! あのシィナだ!
魔物のみならず、数々の冒険者さえも震え上がらせ、パーティも組まずにたった一人、ただその身一つで、世界で十数人しか存在しないSランクにまでのぼり詰めた殺戮の修羅……人呼んで《鮮血狂い》!
数多の魔物を屠ってきたそのシィナが、この少女が淫魔だと気づいていないはずがない! ……同じSランクの私はまったく気づかなかったけど!
だってほら! 現に淫魔の少女だって、突然の顔見せて発言に、もぞもぞと布団の中で躊躇している!
そう、彼女も感じているのだ……シィナが自分を疑っているということを!
……だい、大丈夫……だよね?
必死に希望的観測を重ねてみたけど、これ全部勘違いだったりしないよね……?
……というか……そういえば、今思い出したんですけど……。
なんか獣人って、他の種族と比べて魔法の抵抗力弱いらしいんですよね……。
あんな至近距離で魔眼を食らったら、おそらく一秒の半分もかからず催眠が完了する。
シィナって私が専用に改造した足場を作る魔法以外は一切魔法使えないらしいし、対策となる術式もきっと展開してない。
……もしかしたら。
シィナはもしかしたら、自分が催眠になんてかかるはずがないって思ってるのかもしれない。
すでに狂気の奥底まで染まっている自分の心は、誰にも侵されはしないと。
なにせこれほど無警戒に淫魔の顔を拝もうとしているんだ。きっと過去にも同じように催眠かなにかをかけられそうになって、それを自分の精神力で跳ね除けたことがあるんだろう。
確かに、単純な精神系の魔法ならそれで弾けてもおかしくない。
……いやホントはおかしいけど……あれほど自然体なシィナを見る限り、それしか思い至らない。
そしてもしその予想が正しいのだとしたら、この状況は非常に不味い。
淫魔の持つ魔眼は確かに魔法のような力ではあるが、厳密には魔法ではない。特性だ。
特性とは、一種の摂理である。
りんごが木から落ちるように。木の葉が枯れ落ちるように。人が老い、死ぬように。
その本質は、力ではない。決して揺るがない事実を具現化させたもの。それが特性なんだ。
だから、気持ちの持ちようなんかでどうにかなるような話ではない。
昔、特性について少し研究する機会があった私は、それをよく知っている。
「……わかった」
淫魔の少女の返事。
未だシィナの行動の意義をはかりかねて訝しんでいるようだったが、このまま膠着状態を維持していても意味はない。
そちらがそれを望むのなら、望み通りにしてやる。そう言わんばかりに、淫魔の少女は自分の顔と体を隠していた布団に手をかけた。
「シ、っ……!」
うぐっ! シ、シィナの名前を呼べない……!
このタイミングでシィナの名前を叫ぶのは、魔眼で指示された普段通りに振る舞うことに反するからか……!
あぁ、もうダメだぁ……おしまいだぁ……。
油断しすぎだよシィナ……きっとこのままシィナも魔眼の魅了にかかっちゃって、二人してあんなことやこんなことされちゃうんだ……。
シィナのそんな姿を見られるのなら役得ではあるけど……うぐぐ。無理矢理はよくないと思います。
あと、できれば攻めの立場は私でですね……!
「『あなたは、わたしの虜に――』」
淫魔の少女が顔をさらけ出し、シィナの目をまっすぐに見つめ、言葉とともに魔眼を発動する。
私はシィナが咄嗟に目をそらすことを期待していたが、もちろんそんなことはなく、二人の目はきっちりと正面から合ってしまっていた。
そして、やはり一秒とせずに魔眼の効果がシィナに及び、シィナがその術中に、
「――え」
術中に、かかることはなかった。
「……?(……あれ?)」
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
魔眼がシィナに対し効果を発揮する、一秒の半分。
その数瞬とも呼べるわずかな時間よりも、さらに早い一瞬のことだ。
シィナはその手で剣を持っていた。
いつも携えている、両腰と背中に二本ずつの計四本の小剣。そのうちの一本が瞬きの間に抜かれていて、振り切った体勢になっていた。
振り切った体勢……とは言っても、シィナは淫魔の少女を斬ったわけではないようだ。それなりに近くはあったが、二人の間は剣が届く距離ではなかった。
では、なにを斬ったのか。
なにもない宙空で振り切られた剣。見つめ合ったはずなのに、なんともないように立ち尽くしているシィナ。
ここから推理できることは、一つ。
シィナが斬ったのは、術式だ。魔眼の効果そのものを、その剣で切り払った。
自らに向かって突如飛来した見えない弾丸を切り払うかのような、人外の所業。
あまりにも非現実的な想像に、ありえないと頭が否定しかけるが、目の前の光景が嫌でもそれが現実だと突きつける。
私は呆然としながら、シィナを見た。
「シィ、ナ……」
え、ええ? シィナ、なんでそんなことできるの……?
術式が見えてたならまだギリギリわかるけど、シィナ見えないんだよね?
あれ? もしかしてシィナ、最初からこれを狙って……?
…………も、もちろん私は最初から信じてたぞ! あのシィナが無策に魔眼を見せることを催促するわけがないって!
いやぁ、わかってた! 知ってた! うむ、さすが私のシィナ!
これくらいのことなら軽くやってのけるって私は信じてたぞー!
まあ普通に考えればそうだよな。当たり前だ。あのシィナがそんな簡単に魅了にかかるわけがないじゃん。
まったく数十秒前の私はなにを心配していたんだ。
いや、信じてたけどね? 信じてたんだけど、やっぱりシィナが危ない目に合わないかっていうのが心配でね? はい。
「な、ん……え? な、なん……な、なに、が……?」
淫魔の少女は激しく混乱しているようだった。
目の前でなにが起きたのかを理解できないのか。あるいは、目の前で起きた出来事を認めることができないのか。
ただ右往左往とする今の彼女はあまりにも隙だらけで、シィナであればいつでも手にかけることができたはずだ。
だけどシィナはそれ以上動くことはせず、ただ冷たい表情と瞳で、言う。
「…………どう、して?(あ、あれ? ど、どうしてわたし、剣なんて持ってるの……? えっ? あれ? な、なんかこう、魔物と戦う時みたいに……反射的に体が動いた、ような……え?)」
どうして。シィナが発したのは、ただ問いかけるだけの言葉。
なにを問いかけているのか、いちいち聞くまでもない。
シィナは初めに淫魔の少女に対し、顔を見せてと言った。
淫魔にとって魔眼は絶対の武器。そしてそれは、獣人たるシィナにとっての絶対の弱点だ。
シィナは淫魔の少女の正体に気づいた上で、試していたのだ。
あなたは敵なのか。その武器を自分に向けるのかどうか。
そして淫魔の少女は、その武器をシィナに振りかざした。
だからシィナは、どうして、と。
なぜ敵対するのか。なぜ危害を加えようとするのか。
なぜ、いったいどんな大層な理由があって、私のものであるハロちゃんをそんなもので傷つけたのか。
シィナは今、怒っている――。
「…………なか、よく……なれそ、う……だった、のに(って、そんなのどうだっていいよ! は、早くしまわなきゃっ! せっかく仲良くなれそうだったのに、こんな風にいきなり刃物振り回したりしたら絶対危ない人だって思われちゃう……!)」
魔眼を使った時点で、きっとシィナはすでに少女を見限っていた。
無邪気で無機質な冷たい言葉とともに、シィナが剣を持っている手を再度動かす。
それに淫魔の少女は怯えたように体を震わせながら、必死になって口を開いた。
「あ、あなっ、ぅ、『あなたはっ! わたしの虜にな』」
二度目の、魔眼の発動。
だが、不意打ちでさえ失敗したというのに、そんな真正面からの魔眼が通用するはずもない。
シィナがまた、剣を振るう。それだけで魔眼の効果は打ち消された。
それでも淫魔の少女はまた魔眼を使おうとするが、そんなものよりもシィナの動きの方が速いのは歴然だ。
もう片方の手で二本目の剣を抜き放ち、シィナは瞬きの間にベッドに飛び乗った。
シィナの剣が届く射程内。もはや逃げ場はない。
淫魔の少女の顔が恐怖で歪み、そしてそんな少女の首元へ、シィナは容赦なく刃を――。
「シィナっ!!」
「っ……(――はっ!? えっ? ちょ、待って待って止まって私の体! なにしようとしてるのなんでこんなあれなんでわたしなんでぇ!?)」
私は今、魔眼の効果で縛られている。普段通りに振る舞え、と。
さきほどはそれで縛られてシィナの名前を呼べなかったが、ここでシィナの名前を叫ぶことは、普段の私なら間違いなくやっていたことだ。
シィナが振るっていた刃は、淫魔の少女の首を切り裂くほんの数ミリ前で止まっていた。
あと一瞬遅れていれば間に合わなかっただろう。
「ひ、っ……ぁ、ひぁ……ぇぁ……ぁぇ……」
絶対の自信があっただろう魔眼をたやすく打ち破られ、それを理解する間もない混乱の最中、襲いかかった死の恐怖。
常日頃から生死を賭けた闘争の日々に身を置いている冒険者ならばまだしも、ただの淫魔がそんなものに耐えられるはずもなかった。
淫魔の少女は、自らの首に迫った刃を見下ろした後、そのままパタンッと力なく倒れた。
それと同時に、私を縛っていた魔眼の効果が消え去るのがわかった。
魔眼はあくまで一時的な支配でしかない。それをかけた当人が気を失えば、魔力による繋がりが消えて効果を失う。
「……はぁ。ひとまず、ありがとうシィナ。おかげで助かったよ」
「…………あぶな、かった……(た、助かった? な、なんのこと……? いやそんなことより、なんでわたし知らない子にいきなり剣なんて向けちゃってるのぉ!? は、ハロちゃんが止めてくれなきゃ、こ、この子を殺して……あ、あぶなかったぁ……!)」
「ああ……そうだね。シィナが来てくれなきゃ、本当に危なかった。私が油断したせいだ。心配かけてごめんね、シィナ」
「……? ……ん(は、ハロちゃん本当になんのこと言ってるんだろ……よくわかんないけど、なんだかハロちゃんちょっと真剣そうだし、とりあえず頷いておこう……)」
これくらいなんてことない。
そう言いたげな短い返事と首肯は、なんとも頼もしかった。
念のため、倒れた淫魔の少女の様子を確認してみる。
……やはりと言うべきか、すっかり気絶してしまっているようだ。
加えて、真っ青な顔で苦悶の表情を浮かべている。
直前の出来事が原因だろうことは想像に難くない。
「……(わ、わたしのせいでこんな……うぅ、罪悪感が……なんでわたし、あんな勝手に体が動いちゃったんだろ……そういうこと、魔物と戦う時以外は一度もなかったはずなのに……)」
私の隣まできたシィナは覗き込むようにして、じーっ、と、またしてもこの子のことを凝視していた。
私もシィナと同じ冒険者だ。シィナの言わんとしていること、シィナが考えていることは、じゅうぶんわかっているつもりだった。
淫魔は、魔物だ。人類の敵だ。
たとえ人と同じ姿かたちをしていようとも、中身はまったくの別物である。
淫魔のような一部の魔物が人の姿をしているのは、人を油断させるためにすぎない。人の心を利用するため、人の優しさにつけ入るためだ。
人の言葉を用いることも、同じ理由だとされている。
そういう風に進化してきた生き物なのだ。決して、人と同じ系譜をたどったわけではない。
だから魔物を相手に、かわいそうなどと思ってはいけない。情けをかけてはいけない。
その甘さは死へと直結する。そしてその死とは、自分一人だけの命の終わりを指すのではない。
その魔物を生かしてしまうことによって生じるかもしれない、未来の多くの罪なき人々の命の終わり、そのすべてが含まれている。
それを常に心に刻んで動け、と。
その心構えは、冒険者になる一番始めに教えられることである。
だからシィナはきっと、思っているのだ。
この子を殺した方がいいと。
それが冒険者としてやるべきことだと。正しいことなのだと。
……けれど。
「……わかってるよ、シィナ。でも……ごめん。それはできない」
「……?(え? な……なにが? わたしなんにも言ってないけど……え? ハロちゃん、なにをわかってるの? わたしなんにもわかってないよ……?)」
「シィナが初めから気がついてたのはわかってる。そう……シィナの想像通り、この子は淫魔だ。雨宿りできる場所を探して、この屋敷に忍び込もうとしていたらしい」
「……!?(えぇ!? い、淫魔なのこの子!? こんな小さい子が!? ぜ、全然気づかなかった……)」
未だ無言を貫くシィナの方を見ず、気を失っている淫魔の少女をベッドに再度寝かせて、布団をかける。
「シィナの言いたいこと、その意図も、もちろんわかるよ。この子を殺した方がいいってことは……」
「……!?(え? こ、殺しちゃうの!? た、確かに冒険者ならそれが正しいのかもしれないけど……あと、わたしそんなこと言ってない……)」
「だけど、それはできない」
シィナはなにやら、もの言いたげな様子で私の方を見つめてきていた。
それも、当然だ。
この子は私を魔眼の支配下に置き、シィナさえも同じように魅了にかけようとした。それは決して許されざることだ。
殺すべきだと抗議するのは当然のことだ。
……けど。
「……この子、私が持ってきたサンドイッチをおいしそうに食べてくれたんだ。どうも、その時のこの子の顔が頭から離れてくれなくてね。バカなことだってわかってはいるけど……少し様子を見たい」
「……(あ、うん。わたしもそれがいいと思う。なんていうか、普通の魔物から感じる悪い気配みたいなものが全然なくて、そんな悪い子には見えないし……そもそもこの子がこんな風に気絶しちゃったの、私が剣を突きつけたせいだし……起きたら謝らなきゃ……)」
「ごめん。シィナは納得できないだろうけど……どうか許してほしい」
「…………ん(べ、別に反対してないんだけどな……ハロちゃん真剣な顔してるから、なんか言いづらい……結果は変わらないし、ここは水を差さずにもう一回頷いておこう……)」
シィナはまた、こくりと静かに頷いた。
「ありがとう、シィナ」
我ながら卑怯な言い方だった。
シィナが内心反対していたとしても、私が懇願すれば頷いてくれるだろうことはわかっていた。
シィナには今度、なにか埋め合わせのお礼でもしないといけないな。
そんな風に思いつつ、私はとりあえず、シィナのおかげでなんとか淫魔の少女に(性的に)襲われずに済んだことに安堵のため息を吐いたのだった。