今日はお師匠さまが冒険者として活動をなさる日でした。
 お師匠さまが冒険者活動を再開してからというもの、お師匠さまがそうしてお出かけになることは定期的にあります。
 そして、そういう日は私が一人で留守を預かることになっています。

 そう、一人で……。

 このお屋敷には今、私とお師匠さま以外にも一人の女の子が暮らしています。
 その子ことシィナちゃんも、お師匠さまと同じ冒険者とのことです。
 だからお師匠さまがそうして冒険者としてお出かけになる日は、毎回二人一緒に家を出ていきます。

 お師匠さまの弟子として魔法を学ぶ毎日を苦痛に感じたことはありません。
 でも、こういう時だけは……どうしても少しだけ、シィナちゃんが羨ましくなってしまいます。

 というかシィナちゃん、お師匠さまが冒険者として活動する日にだけ一緒に行くんですよね。
 一人で行くところを見たことがありません。
 うぅー。そういうの、ちょっとずるいです……。

「……って、あれ? シィナちゃん?」

 そんなこんなで中庭で、日課の魔法の練習をしていた時のことです。
 お師匠さまとお仕事に出かけていたはずのシィナちゃんが、なぜか屋敷の中から出てきました。

 私が目を丸くしていると、シィナちゃんがとことこと近づいてきます。

「……ただ、いま……(フィリアちゃん、ただいまー)」
「あ、はい。おかえりなさいです……あの、どうして屋敷の中から……? いつの間に帰っていらしたんですか?」
「……てん、い……(あ、それはハロちゃんの転移魔法で帰ってきたからだね)」
「転移……そういえばそんな魔法を使えるとお師匠さまから聞いたことがあります。では、お師匠さまももう中に?」
「ん。おふろ、ば……(うん。今ちょうどお風呂に入ってるところだと思う)」
「お風呂、ですか? こんな時間から……?」
「……いろいろ、あった(いろいろあったの……い、いろいろ……)」
「いろいろ、ですか……」

 どうやらなにかトラブルがあって帰ってきたようですが……お師匠さま、大丈夫でしょうか……。

「……ぎるど……いって、くる……(わたしはギルドの方に依頼達成の報告しないといけないから、また行ってくるね)」
「え? あ、はい。わかりました。いってらっしゃい、シィナちゃん」
「ん……(えへへ、誰かに見送ってもらえるのってやっぱりいいなぁ。またね、フィリアちゃんっ)」

 よくわかりませんが……シィナちゃんはまたギルドに行くそうなので、手を振って見送ります。
 一人でまた新しい依頼でも受けたりするんでしょうか。
 お師匠さまが活動する時だけ一緒に行くかとも思ってましたが、ちゃんと一人でも活動するんですね……。
 うぅ、勝手にずるいとか思ってしまって、ちょっと後ろめたい気持ちです……。

「……お師匠さまはお風呂場、でしたよね?」

 本当はこんなことあまりしたくないのですが……こんな集中できない状態で続けても意味はありません。
 断腸の思いで魔法の練習を中断して、お風呂場に向かいます。

 お風呂場の奥の方からは、パチャパチャと水の跳ねる音がかすかに聞こえてきます。
 私が近づいてきたことに気づいたらしく、その音がぽちゃりと大きくなりました。

「フィリアかい?」
「はい。おかえりなさいませ、お師匠さま」

 奥まで足を踏み入れることは私ではとても恐れ多くてできないので、脱衣所で足を止めます。

「ただいま。えっと、シィナに軽く事情を説明してほしいって言っておいたけど……」
「なにかトラブルがあって転移の魔法で帰ってきたということだけはお聞きしました」
「そうか。ごめんね、帰りの挨拶もなしにお風呂になんて入っていて」
「いえ、そのくらい全然平気ですっ」
「少し手痛い攻撃、というか……魔法で防御していたから特に怪我はしなかったんだけど、相手がスライムでね。結構体液を浴びちゃったから、あまり気分がいい状態じゃなくて。早くお風呂に入りたかったんだ」
「スライム……畑に現れるととんでもないことになるっていう、あれですか?」
「ああ。そのあれだ」

 スライム。それは昔、奴隷になる前に何度も耳にした魔物の名前でした。
 核がある限り無限に再生を繰り返し、その核への攻撃も特殊な体液に阻まれて届かない。触れた物体すべてを取り込んで力を得る、悪魔のごとき魔物だと……。
 特に、畑の水に紛れ込んだ時などは最悪の結果をもたらすと聞いたことがあります。
 知らないうちに作物がすべて食い荒らされるだけならまだしも、到底手につけられない巨大な姿に変貌してしまうらしいです……そして家畜や家さえも丸ごと食べられてしまうのだと……恐ろしいです。

 冒険者はそんな悪魔をいとも簡単に討伐してしまうのですから、本当にすごいです。

「ほ、本当にお怪我はないのですかっ?」
「それは保障する。ちゃんと五体満足さ。ただ、服がちょっと……」
「服ですか?」
「そこにボロ布があるだろう?」
「あ、はい。ありますね」
「それがさっきまで着てた私の服だ」
「こ、これがですか……?」

 かごの中に放られていたそれを広げると、見るも無残な洋服だったものがあらわになりました。
 特に肩や胸の部分の破損がすごいです。これではなにも隠せません……。

 さ、さっきまでお師匠さまはこんなあられもない格好を……ど、どうしてでしょう。ドキドキしてきました……。

 ……シィナちゃんはそれを見れたんですよね?
 うぅ……羨まし――じゃありません!
 う、羨ましいってなんですかっ? お師匠さまをそんな卑しい目で見るなんて言語道断です! 不敬罪です!

「と、ところで! こ、この服はどうしましょうか……?」
「それだけ破れたら縫い直したりもできないし、捨てるしかないだろうね」
「そうですか……そうですね」

 このお洋服を着ているお師匠さまも素敵だったのですが……確かにこれはもう修復できそうにありません。

「じゃあ、私が捨てておきます」
「ああ。ありがとう、フィリア」
「いえっ。これくらいお師匠さまの奴隷(どれ)、じゃなくて、弟子として当然のことですから!」

 私としてはお師匠さまの奴隷であることを幸福だと感じていますが、お師匠さまは恐れ多くも家族だと訂正してくださるので、ここは敢えて弟子という表現を使わせていただきます。
 お師匠さまの奴隷であり、家族であり、一番弟子……えへへ、欲張りセットですね。素敵です。

 そんなことを考えながら、お師匠さまの服だったボロ布を持って脱衣所を出ます。
 そうしてお師匠さまと話していた通りにこれを捨てに行こうとしたところで、ふと、なんとなくそれをまた広げてみました。

 ……やはりひどい状態ですね。服だと言われなければ気づけなかったかもしれないくらいです。
 お師匠さまは本当に大丈夫なんでしょうか。まだ実際に見たわけではないので、やっぱり少し心配です……。

 …………それにしても……。
 その、なんというか。
 いえ、別に特に意味はなくて、ただ事実を振り返っているだけなんですけど……。

 ……さ、さきほどまで、お師匠さまはこれを着ていらしたんですよね……?

「………………」

 …………お、お師匠さまの匂いがしますね……。

「――って! わ、私はなにをしているんですかっ!?」

 ち、違います違います! 断じて違いますっ!
 別に鼻を近づけて匂いを嗅いでみたりしたわけではありません! そんなことしてません!

 ただ、その、あのっ、て、手が! そう、手がすべってしまって、偶然そこでタイミング悪く息を吸ってしまっただけです!
 それ以外なにもありません! 他意なんてありませんから!

「……で、でも…………」

 そ、そうです。そうなんです。手がすべってしまっただけ……。
 ……でもあの、その……二回三回手がすべっちゃうくらい、よくあることですよね……?

 だってお師匠さまの匂いが染みついた服なんです。いくらこれから捨てるものとは言え、丁重に扱わないといけません。
 そ、それで慎重に扱おうとしすぎて手がすべっちゃうくらい……よ、よくあることのはずです……。

 も、もう一度……もう一度……。
 そう、もう一度だけですから……。

「…………すぅー……」

 ……あぁ……間違いありません。これはお師匠さまの匂いです……。
 お師匠さまのお優しい匂いで、頭の中が満ちていきます。
 全身に、お師匠さまの匂いが染み渡っていきます……。

 なんでしょう……この感覚は。
 体中がふわふわとして、頬が緩んでしまうことが抑えられません。
 こんな感覚、初めてです……。

 ……えへ、えへへ……あぁ……こんなの、幸せすぎます……。
 お師匠さまの着ていた服……ほんの少し前までお師匠さまが着ていた、まだかすかに温もりが残った……。

 …………つ、次は、もっと内側から…………。

 ……ふぁぁっ、さ、さっきよりも濃いお師匠さまの匂いが、また私の中に――。

「あれ、フィリア?」
「ひゃぃみゃひぇぁわっふぁぁあっ!?」
「フィリアっ!?」

 突然後ろからお師匠さまに声をかけられて、私は一瞬で正気に戻ります。
 そして顔に押し当てていたお師匠さまのボロ布をこれ以上ないくらいの速さで離して、すぐに体の後ろに隠しました。

 ど、どうやら……お師匠さまがお風呂から上がって着替えてくるまで、私はああしてしまっていたようです……。
 ……まさかお師匠さまに見られていたりとか……してません、よね?
 ダ、ダメです! あんなことしていたのがお師匠さまにバレたら、きっと軽蔑されてしまいます!
 なんとか誤魔化さないと……!

「えっと……フィリア、どうかしたのかい? なんだか様子が変に見えるけど……」
「べ、べべべべりゅに、へしゅ、べ、べしゅ、べちゅにな、なにもありみゃせんよっ!?」
「いや、なんか尋常じゃないくらい噛んでるよ? それに……その手の後ろのやつ、捨てておいてくれるって言ってたやつじゃ……?」
「こっ、ここここれはあの、えっと、その、さ、裁縫をですねっ! そう、裁縫の練習に使おうかなと思いましてっ! さ、裁縫ができるようになれば多少のほつれとか直せて便利ですしっ、あの、い、いつかはお師匠さまのお洋服とか作れるようになるかもしれませんしっ!」
「そうだったんだね。なら、それは好きに使ってくれていいよ。ただ捨てるより、フィリアの役に立ってくれた方が断然いいからね」
「す、好きに……ですか? あ、あの……ほ、本当に好きに使ってしまって、い、いいんです、か……?」

 ち、違いますよっ? べ、別に変なことに使おうとは思ってません! 違いますから!
 ちゃんと裁縫の練習に使うつもりです! ちゃ、ちゃんと……。

「ああ。フィリアの好きにしてくれていい」
「あっ、ありがとう、ございますっ……」
「いいさ。でも、それなら先に洗った方が――」
「い、いえっ、それはあとで自分で洗っておきますので大丈夫ですっ!」
「……そっか。わかったよ。でも……フィリア、ちょっとごめんね」
「へ? はわぁっ!?」

 お、お師匠さまの顔が近くにっ!?
 ダ、ダメです! 今はダメです! まともにお師匠さまの顔を見られません……!

 ぎゅっと両目を閉じていましたが……そんな私を襲ったのは、そっと手で額に触れられるような感触でした。

「……やっぱり少し熱があるね。魔法の頑張りすぎかな……フィリア。今日はもう訓練は終わりでいいよ。いや、いいよじゃないね。今日はもう終わりだ」
「お、終わりですか? でも……」
「でもじゃない。熱があるんだ。これ以上続けさせるわけにはいかない。フィリア……頑張るのはいいことだけどね。これはきっと私のわがままなんだろうけど……私は、フィリアにもっと自分の時間を大切にしてほしいと思ってる」

 あ、あぁ……ち、違うんですお師匠さま。熱があったわけじゃないんです……全部私のせいで……。

「……決めた。これからは七日間のうち二日を、訓練が休みの日ということにしよう。その二日だけは絶対に魔法の練習はしちゃダメだっていう、そういう日にする」
「や、休みですかっ?」
「ごめんね……フィリアにとっては迷惑かもしれないけど、これは前々から考えていたことでもあるんだ。私は
フィリアを、私のためという言葉だけに縛りつけたくない。もっといろんなことを見てほしいんだよ」
「お、お師匠さま……」

 あぅぅ、お師匠さまのお心遣いが痛い……。
 お優しいお師匠さまにできる限りの厳しい言葉遣いで、でも私を傷つけないようにというお気持ちが、これでもかというほど伝わってきます……。
 うぅ、お師匠さまはこんなにお優しいのに、なんで私はあんなことを……お師匠さまに嘘までついて……。

 汚いです、私は……。
 お師匠さまが眩しい……。

「ごめん、なさい……それから、ありがとうございます……お師匠さま」
「ああ。そうだね……一緒に台所にでも行こうか。飲み物でも淹れるから、一緒に飲もう。うーん……温かいのと冷たいの、どっちがいいかな」

 あうぅ……やっぱりお師匠さまは甘すぎます……。
 私は悪い子なのに……怒られなきゃいけないのに。
 お願いですから、そんな無条件に甘やかさないでください……こんな悪い子に、優しくしないでくださいよぅ……。

 そうじゃないと私、このままじゃ……もしかしたら、もっと悪い子になっちゃうかもしれませんからぁ……。