私ことフィリアには、ここ最近、ほんの少し不満なことがあります。

 いつも通りの朝。
 窓から差し込む日の光で目を覚ました私は、すぐに着替えを終え、身だしなみを整えて、お師匠さまのお部屋に向かいます。
 この時間はお師匠さまはまだ起きていないので、お師匠さまが起きるまでの間、私はお師匠さまの愛らしい寝顔を眺めていられます。

 ここまではいつもと変わりありません。

「……ん……フィリア……おはよう」
「はい。おはようございますっ」

 体を起こしたお師匠さまが、少し眠そうな半眼を私に向けました。
 そして両手を大きく上げて伸びをして、だらりと全身の力を抜きます。

 あぁ、この油断しきった無防備なお姿……。
 こんなお師匠さまの一面を私だけが知っているのだと思うと、不思議と胸の内が満たされたような気持ちになります。

 気づかないうちにそれが顔に出てしまっていたようで、お師匠さまがそんな私を見て、小さく微笑みました。

「今日は機嫌がよさそうだね、フィリアは」
「はいっ! たった今よくなりましたっ。お師匠さまのおかげです!」
「私のおかげ……? なんにもしてないんだけど……まあ、フィリアが嬉しいなら別にいいか」

 私と話しているうちに眠気はほとんどなくなったようで、お師匠さまはすでにいつもの調子です。

 惜しむらくは、今日はあくびが見られなかったことでしょうか……。
 でもでも、お師匠さまにああして伸びを見せていただけるようになったのは、実は結構最近のことです。
 無意識のうちに、お師匠さまがそれだけ私に心を許してくださってきているということなのでしょう。

 それを思えば、あくびくらいどうってことありません!

「それではお師匠さま、お着替えをお手伝いいたします!」
「ああ……ありがとう」

 お師匠さまは私のことを奴隷ではなく、一人の家族として扱ってくれます。
 だからこそ、初めの頃はこうして奴隷らしくご主人さまのお世話をしようとする私のことを、お師匠さまは度々「しなくてもいい」と気を遣ってくださいました。
 今も、少しばかりなにかを言いたそうにしている印象を受けました。

 そんなお師匠さまの気持ちはとても嬉しくて……でも実は、私はすでに違う答えを自分の中に見つけていました。

 それは、私はお師匠さまの奴隷であり、そして家族でもあるという答えです。
 私は私自身の意思で、お師匠さまの奴隷でありたいと思っています。

 お師匠さまのそばにずっといたい。
 お師匠さまのためになることならなんでもしてあげたい……。

 お師匠さまは私のことを家族と言ってくださいますが、当然、私たちの血は繋がっていません。
 でも、なにも血だけが繋がりではありません。
 この首の後ろにある隷属契約の術式で、私とお師匠さまは繋がっているんです。

 これがある限り、私はお師匠さまの所有物で。
 お師匠さまからは、決して逃れられない……。

 えへへ……とっても素敵な繋がりですっ。
 一生お仕えいたします、お師匠さま!

「あ、そうだ」

 お師匠さまのお着替えを終えて、一緒に部屋を出たところで、お師匠さまが思い出したように声を上げます。

「フィリア、先に台所に行っててほしい」
「先に、ですか? ……もしかして」

 お師匠さまが、こくりと頷きます。

「ああ。私はシィナを起こしてくるよ。あの子は朝が苦手だから」
「…………」

 ……これがここ最近、私がほんの少し不満だと感じているところでした。

 シィナ。
 それは以前、お師匠さまが冒険者活動を再開した初日に、私とお師匠さまが暮らしていたこの屋敷に突如新しく住まうことになった、女の子の名前です。

 別に私は、シィナちゃんが嫌いというわけではありません。
 初対面の時は確かに、ちょっとした意地悪のようなことをされましたが……。

 ……お師匠さまの目が私だけを見てくれなくなったことを、私は不満に思ってしまっています。
 欲張り、なのかもしれません。
 でも……。

「……いえ、お師匠さま。シィナちゃんは私が起こしてきます」
「フィリアが?」

 お師匠さまは少し面食らったように目をぱちぱちとさせた後、顎に手を添えて考え込みます。

「んー……」
「大丈夫ですっ。お師匠さまが心配なさるようなことはありませんから」
「……わかった。フィリアに任せるよ」

 お師匠さまは、私とシィナちゃんが未だ少しぎこちないことを、ずっと気にしてくださっています。
 でも、これ以上お師匠さまに心配をかけるわけにはいきません。

 初対面の時の印象のせいで、私はずっと彼女に苦手意識を抱いてしまっていました。
 これをいつまでも引きずり続けているわけにはいきません。

 私は……私は今日で、この苦手意識を克服してみせます!
 お師匠さまのためにも!

「……シィナちゃん? 入りますよー……?」

 シィナちゃんの部屋の前まで来て、何度かノックを繰り返してみましたが、反応はありません。
 やはりまだ寝ているのでしょう。
 一応、「失礼します」と口に出してから、ドアノブを回して部屋の中に入ります。

「やっぱり、寝ていますね……」

 生活に必要な家具以外ほとんどなにもない、簡素な部屋です。
 まだ越してきたばかりなので当たり前と言えば当たり前ですが……。
 強いて言うのなら、ナイトテーブルの上に何冊かの本が置いてあることでしょうか。

 少し気になって、そのうちの一つを手に取ってみました。

「……『ゴブリンでもわかる読み書き講座』……」

 ……シィナちゃん、文字が読めないんでしょうか?

 私は奴隷として売られる以前に独学で学んだことがあるので読み書きができます。
 でも、商人や貴族などと違い、文字に馴染みのない人が読み書きができないことは珍しいことではありません。
 文字の読み書きを代行することを職業とする人もいるくらいですから。

「ハ、ロ……ちゃ……」

 ふと、シィナちゃんが寝ているベッドの方から声が聞こえました。
 起きたのかとも思いましたが、シィナちゃんはまだ目を閉じたままでした。
 どうやら寝言のようです。 

「い……っしょ……ずっ、と…………い、しょ……」

 シィナちゃんはいつも無表情で、なにを考えているかを読み取ることは困難を極めます。
 口数が少ないこともあって、私は未だにシィナちゃんがどういう人物なのかを掴み切れていませんでした。

 ただ唯一、そんな彼女がわずかながら、だけれどはっきりと、自分の感情をあらわにする時があります。
 それは、お師匠さまと一緒にいる時です。

 お師匠さまと一緒にいる時だけ、彼女は確かに嬉しそうにしています。
 ほんの少しだけ口の端が上がっていて、ほんの少しだけ声が上ずっていて、ほんの少しだけ猫耳がぴくぴくと動いていて。
 今もそうでした。
 きっと、お師匠さまが出てくる夢でも見ているのでしょう。

 そんなシィナちゃんが眠るベッドに、私は足を進めます。

「シィナちゃん、朝ですよ。起きてください」
「……ん……」
「起きてください、シィナちゃん」

 初めはなんの反応もありませんでしたが、声をかけながら揺さぶっているうちに、かすかにその瞼が開きました。
 でも、その眼はまだぼんやりとしています。

「……あと……いち、じかん……」
「長いですね……そんなに経ったら、せっかくのお師匠さまのご飯が冷めてしまいますよ?」
「……それ、は……だめ……」
「じゃあ、起きないといけませんね」
「…………んー……」

 そんなやり取りの後、しばらくはごろごろと何度か寝返りを打っていました。
 しかし根気よく待っていると、シィナちゃんはゆっくりとその体を起こしました。

 まだ寝ぼけ眼ですが、その瞳にはさきほどはなかった理性の光が見えます。

「おはようございます、シィナちゃん」
「…………おは、よう……?」

 シィナちゃんは私を見ると、不思議そうに首を傾げました。
 これまでは毎回お師匠さまが起こしに来ていたので、私が来たことを不思議に思っているのでしょう。

 そのことを問いかけようとしたのか、シィナちゃんが口を開きました。
 しかしその言葉が発せられるより先に、なにかに気づいたように、シィナちゃんの目が私の手元に向きます。

「……それ……」

 シィナちゃんの視線の先、すなわち私の手の中には、さきほど手に取ったシィナちゃんの本がありました。

「あ、勝手にごめんなさい。シィナちゃんがどんな本に興味があるのか、気になってしまって……」

 ぺこりと頭を下げて、私は本を元の場所に戻しました。
 シィナちゃんはそんな私をじっと見つめながら、再びその口を開きます。

「……ほん、は……よめない……もじ……が、わから、ない……から……」
「……シィナちゃんは、本を読めるようになりたいんですか?」
「……ん……」
「どうして、読めるようになりたいんですか?」

 私のその質問に、シィナちゃんは少しだけ逡巡した後、答えます。

「……ハロ、ちゃん……のこと……もっ、と……しりたい、から」
「お師匠さまのことを、ですか?」

 目をぱちぱちとさせた私に、シィナちゃんは続けて言います。

「……ハロちゃ、ん……よく、ほん……よんでる、から……わたし、も……よみ、たい、の」
「お師匠さまが読んでるから……?」
「ハロちゃん、の……すきな、こと……しりたい……いっしょ、に……もっと、おはなし、して……ハロ、ちゃんの、えがお……たく、さん……みたい、から」
「……!」

 ……私は少し、思い違いをしていたのかもしれません。

 以前、私はお師匠さまの前で、お師匠さまの考えを尊重するというような態度を取りました。
 でもそれは、もしかしたら私の本心ではなくて、ただ単にお師匠さまに私の汚い部分を見せたくなかっただけだったのかもしれません。
 
 私の方がお師匠さまを愛している。お師匠さまの役に立てる。
 私はお師匠さまのためになら、なんだってしてあげられる。
 なのに、どうして。

 ……直視することを無意識に避けてしまうような、醜い色の心。

 でも、違いました。私だけじゃなかったんです。
 きっと私と同じように、シィナちゃんもお師匠さまのことがたまらなく好きなんです。

 お師匠さまに甘えるだけじゃない。
 お師匠さまのことを幸せにしたい。笑顔にしたい。
 そう心から思って、思わず努力したくなるくらい、お師匠さまのことが大好きなんです。

 私は……。

「……負けません。私、シィナちゃんには負けませんから!」
「……?」

 シィナちゃんと初めて顔を合わせた日、私は「私の方がお師匠さまを愛しているということを、必ず証明してみせます……!」と言いました。
 でも、今口にした言葉はあの時の宣言とは違います。

 どちらの方がお師匠さまを愛しているか、ではありません。
 どちらの方が、お師匠さまに愛されることができるかです。

 私は……お師匠さまのことが好きです。
 この好きがどういう好きなのかは、よくわかりません……。
 家族としてお師匠さまを愛していることは確かです。
 でも、それだけでは説明できない気持ちも私の中にあるんです。

 お師匠さまのことを考えるといつも胸の奥がきゅっと縮こまるように切なくなって、名前を呼んでもらえるだけで胸の奥がぽかぽかして。
 肌と肌が触れ合うたびに、胸の奥で鼓動が強さを増していきます。

 こんな私を、お師匠さまは受け入れてくださらないかもしれません……。
 でも……それでも、こんなにも激しく主張する自分の感情を無視することなんて、どうしてもできないんです。

 シィナちゃんには負けません……! 絶対に!

「シィナちゃん。行きましょうか。お師匠さまが待ってますっ」

 その言葉は、自分でも驚くくらい裏表ない気持ちで口にすることができました。

「……?」

 シィナちゃんはなにやらよくわからないという風に首を傾げていましたが、そのうち考えることをやめたようで、首を元の位置に戻しました。

「……う、ん……でも……まだ、きがえて……ない、から」
「あ、そういえばそうでしたね。うっかりしていました。えっと……お手伝い、いたししましょうか?」
「……!? べ、べつに、いい……さきに、いってて……すぐいく、から……」
「そうですか、わかりました。ご飯が出来上がるまでには来てくださいね」
「…………ま、まって」

 言われた通りに出て行こうとすると、ドアノブに手をかけた辺りでシィナちゃんが引き止めてきます。

「どうかしましたか?」
「……て、てつだい、って……いつも、やってる……の? ハロちゃ、ん……に」
「はい、そうですけど……それがどうかしましたか?」
「…………べ、べつに……どうも、しない……」
「……?」

 どことなく落ちつかない様子ですが……どうしたんでしょうか。
 お着替えを手伝うくらい、奴隷として当然の行いだと思うのですけど……。

 はっ!
 まさかシィナちゃん、この役割を私から奪おうと考えて……!?

 だ、だめです! 渡しません!
 お師匠さまのその日のお洋服の選択と着衣の手伝い係は私だけのものです!
 絶対に譲りませんからね!

「……あり、がと……もう、いい……」
「わかりました。それじゃあ私、先に行っていますね」
「……ん」

 シィナちゃんの部屋を出て、台所に向かいます。

 とりあえず……当初の目的は果たせた、でしょうか。
 シィナちゃんの本音を聞いたおかげか、今はもうすっかりシィナちゃんへの苦手意識はなくなっていました。

 むしろ、ちょっとだけ仲良くなれそうな気もしています。
 お師匠さまを愛している者同士として、割と話も合うかもしれません。

 もっとも、お師匠さまの一番を譲るつもりはまったくありませんけどね。