「……!(わー……! ここがハロちゃんの家かぁ。すっごく広くて、良いお家だなぁ……)」

 シィナを連れて、廊下を歩く。

 シィナは無表情ながら、どことなく目を輝かせてきょろきょろと辺りを見渡している。
 今ばかりはそこに常日頃のような狂気的な雰囲気はほとんどなく、ともすればただの無邪気な子どものようにさえ見えた。
 実際の年齢を聞いたことはないが、見た目からしてシィナは十代前半くらいだろう。子どもという表現はあながち間違っていないかもしれない。

 ……それにしても、一緒に暮らす、か。

 それは一度、今日お風呂に入っている時に考えたことでもあった。
 家族のように一緒に暮らしていればシィナと接することにも慣れるだろうと。

 なんだかんだ言って、シィナが自らの意思で私を傷つけたことは今まで一度もない。
 怖いには怖いけれど、私は私がシィナに懐かれていることを正しく理解している。
 シィナは虎だ。虎を飼うのは初めは怖いもの。
 しかし一緒に過ごす時間が増えていけば、いつか必ず克服できるはずだ。いずれはきっと、それこそ猫と同じように接することができるようになる。
 これまたなんだかんだ言ってやっぱりシィナは可愛い。痛いことをされないのなら、シィナと夜のあれこれをしてみたいという気持ちだってきちんとある。

 だから私はシィナが一緒に暮らすことには割と前向きに考えていた。
 問題はフィリアだ。

 シィナはおそらくフィリアを始末するために私の家にやってきた。
 しかし私の必死の奮闘でそれは密かに阻止することができたはずである。そうして代わりにシィナが要求してきたことが、この一緒に暮らすということ。
 フィリアを始末できないぶん、フィリア以上に私のそばにいたいという思考回路だろうか。
 そう考えると本当に懐かれていることがわかって、普段は怖がってばかりいるシィナのことをちょっと愛らしいとさえ思える。

 ただ……フィリアの方は、シィナのことを怖がらないだろうか?

 初めてシィナと会った時はその美少女さに完全に目が眩んでいて、怖いだなんて欠片も思っていなかった私だが、本当に客観的に見た場合はそうではないはずだ。
 彼女自身が内包する狂気。そして人外とされるSランク冒険者にまで至る、その実力。
 ただそこにいるだけで、隠し切れない凄惨な雰囲気が漏れ出して、周囲の温度が下がったかのような錯覚さえ覚える。
 感覚が鈍い人ならば気にしないかもしれない。だが下手に鋭い人であれば、ただ相対しただけであまりの鮮烈さに恐怖で膝を震わせるであろう。

 フィリアは……うーん。
 普段の言動から見るに、割と鈍い方だとは思うけど……万が一ってこともある。
 もしフィリアがシィナのことを怖がってしまったら、さすがに一緒に住むわけにはいかなくなる。

 その時は……まあ、近いところに新しい家でもシィナに買ってあげようかな。
 まだそのくらいのお金は普通にあるし。
 近場なら、シィナもどうにか説得できる……はずだ。

「シィナ。こっちだよ」
「……ん……(あ、うん! ごめんねハロちゃん、ふらふらして……広いお家って入るの初めてだから、新鮮で)」

 台所を離れてからそれなりに時間は経っている。フィリアもそろそろ落ちついている頃だろう。
 そんな風に思いつつ、シィナを連れて台所に戻ると、私を発見したフィリアが即座に駆け寄ってきて、言葉を発するよりも早く真っ先に頭を下げた。

「お、お師匠さまっ! さ、さっきは本当にごめんなさい……わ、私、取り乱してしまって……」

 突然のことにシィナが少し驚いて……いる?
 うん。たぶん驚いてる。ちょっとだけ瞬きがいつもより早いからな。目をぱちぱちとさせて驚いているって感じだ。

 ふふふ、この調子で少しずつシィナのことを理解していくんだ。
 そうすれば徐々にシィナのことを怖いと思わなくなるはずだからな。
 そしていつかはにゃんにゃんを……!
 今はまだ怖くとも、明るい未来のことを想像すれば前向きになれるというものだ。

「気にしてないよ。それよりフィリア、急な話だけど、今日はお客さんがいるんだ」
「お客さま……ですか?」
「ああ。ほら、シィナ」

 フィリアが顔を上げ、私が体をどけてシィナに正面を譲る。
 そうしてようやく、フィリアは私の他にもう一人がいることに気がついたようだった。

 私自身は一歩引いた位置で、少し緊張した心持ちで二人を見守ることにする。

「えっと……お師匠さまのお友達、でしょうか」

 こてん、と首を傾げて。
 まずはいつも通りの様子でフィリアがシィナに歩み寄った。

「……!?(は、ハロちゃん……!? え、この人誰? あれ、ハロちゃん一人暮らしじゃなかったのっ? わたしなんにも聞いてないよ!? きゅ、急に知らない人とだなんて、こ、ここ、心の準備が……)」

 シィナはなにも答えない。ただ憮然と、まるで観察するかのようにフィリアを見据えている。

「私、フィリアって言うんです。お師匠さまに魔法を教わっている、お師匠さまの奴隷です。あ、奴隷と言ってもお師匠さまにひどい扱いをされたことなんて一度もないんですよ? お師匠さまはいつも私のことを家族だって言って優しく接してくれて……」
「……!(は、ハロちゃんの家族さんっ? ど、どうしよう、失礼のないようにしなきゃ! と、とにかく、いつもみたいに怖がられるような言動は絶対だめ! ちゃんと好かれるような……あぅう、いつも怖がられてばっかりだから好かれるような言動がどんななのか全然わかんないよぉー!)」
「あ、ごめんなさい。勝手に一人で話してしまって……まだあなたのことを聞いていませんでした。私にあなたのお名前、教えてくれませんか?」
「……!!(な、名前! わ、わたしはっ、わたしはし、しし、シィナ、シィナっ! ……なんで声が出ないのー! 緊張で声帯固まっちゃった!? こんなんじゃ態度悪い人だって思われちゃう……ど、どうにかしなきゃっ。で、でも、どうやって……)」
「あの……?」

 ……うーむ。
 やはりシィナはフィリアのことをあんまりよく思っていない、んだろうか。
 元々全然しゃべらない方ではあるが、ここまで話しかけられて相槌の一つも打たないことはさすがにない。

 シィナは「……あなた、は……わたし、だけの……もの……」などのこれまでの発言的に、どこか私を独り占めしたいと思っている節がある。
 さっき門を開けて最初に抱きついてすりすりしてきた時も、少なからずフィリアの匂いがついていたからか、機嫌はあまりよくなかった。

 私としては二人には仲良くなってもらって、あわよくば二人一緒にいただけるのが理想だけど……。
 さすがに高望みしすぎかな? 人には人の価値観があって、好きな人には自分だけを見ていてほしいって人の方が多いだろうし。
 でもまあ、仲違いはできるならしてほしくはない。

 もしかすればこのまま無言を貫くかもしれない。そうなるとさすがにフィリアが可愛そうだ。
 ここは私がフィリアに助け舟を出してあげた方がいいか。

「この子の名前はシィナだよ。悪いね、フィリア。シィナは少し人見知りするタイプなんだ。普段はもう少しだけ話してくれるんだけどね……悪気はないだろうから、どうか許してあげてほしい」
「そうなんですか。わかりましたっ。えっと、シィナちゃん、って言うんですね? 可愛らしいお名前ですね。よろしくお願いしますっ、シィナちゃん」

 あいかわらずの眩しい笑顔で、フィリアが言う。

 ……フィリアが怖がるかも、なんて私の心配は完全に杞憂だったみたいだな。
 まあ、フィリアは人を見た目や雰囲気だけで判断するようなタイプじゃないか。

 フィリアは私にはもったいないくらいの本当にできた弟子だからな。人間性もしかり。
 ちょっと思い込みが激しいところはあるけれど、その前向きで明るい性格はちょっとやそっとのことでは揺らがない。

 で、あとはシィナなんだけど……。

「……!!!(よ、よろしくっ! よろしくお願いしますっ! こ、こんなに簡単に受け入れてもらえるなんて……しかも名前を可愛いって! そんなこと初めて言われたよぉ! 嬉しいなぁ……)」

 あいかわらずの、無言。
 なにか反応があるのかとも思ったが、特になにもない。

 ただただ、じーっとフィリアを見つめている。

 ――かと思うと、シィナは突然私の方に向いてきた。

「……!(それもこれもハロちゃんが助け舟を出してくれたおかげだね……えへへっ、ハロちゃんはいつもわたしがなにも言わなくたってわたしのことを理解してくれるねっ。ありがとう、ハロちゃんっ!)」

 そして、いつものように私に抱きついてくる。
 これまたいつものようにすりすりと、機嫌よさそうに頬と顎を寄せてきて。

 そしてその瞬間、ぴきっ、と。空気が凍ったような気がした。

「……?(……あれ……? なんだろうこの沈黙……なんだか少し居心地が悪いような……)」

 ……状況を整理しよう。

 まず、フィリアが笑顔でシィナに挨拶をした。
 しかしシィナは答えなかったので、困っていたフィリアに助け舟を出す形で、私が代わりに答えた。
 そうしてフィリアが再びよろしくと告げたのだが……やはり、シィナはろくに反応を示さない。
 かと思えば、ぷいっと首を振って、おもむろに私に抱きついてきたのである。

 機嫌よさそうに、すりすりまで添えて。
 フィリアのよろしくという挨拶を突っぱねて、まるで見せつけるように。
 私ことハロという存在が、誰でもないシィナだけのものであると主張するように。

 ……フィリアは笑顔だ。
 笑顔ではあるのだが……うん。
 ちょっと目元がぴくついて、目尻に涙が滲んでいる。

「……あの、えっと、フィリア。シィナにも悪気があってのものじゃなくて、その」
「わ、わかってます……大丈夫、です。お師匠さまは魅力的ですから。私だけじゃなくて、いろんな方に好かれるような(かた)だって初めからわかってましたから……だから、大丈夫です。大丈夫、ですから……」
「……?(え? なんの話? ハロちゃんが、魅力的?)」

 ちょっと泣いているような声音と、私を安心させるために必死に作ったであろう不器用な笑顔。
 フィリアは今までずっと、家族に煙たがられて生きてきたと言っていた。最後の最後まで誰にも愛されず、そして奴隷商に売られたのだと。
 きっと彼女はその見た目に反して、根本の部分の精神性は驚くほど幼い。

 そんな彼女にとって、唯一自分を大切に思ってくれた存在が、私ことお師匠さまだという認識が彼女の中にはある。
 それを急に目の前で取られてしまって、反射的に泣きたくなってしまうのもしかたがないことだろう。

 必死に笑顔を取り繕う彼女に、無理しなくていいいんだよと思わず頭を撫でてあげたくなるが、シィナに抱きつかれているせいで動けないし、手も届かない。

 そんなフィリアの顔を、シィナはじっと眺め、ふっ、と。
 今までその表情を変えず、無言を貫いていた彼女が、わずかに笑った。

「……!(だよね! わかる……! ハロちゃんって本当、いつもすっごく優しくて温かくて……)」

 まるで無様なフィリアをあざ笑い、勝ち誇るかのよう。
 そんなシィナを見たフィリアの表情が、完全に固まった。

「う……う、うぅ……」
「……(……この人も、ハロちゃんのこと好き、なのかな……あ、ち、ちがっ! 好きっていうのはっ、えっと、もちろん友達としてって意味だけど! うんっ!)」

 ……な、なんだ……この気まずすぎる空気は。
 最初にフィリアが笑顔で話しかけた時は割とうまくいくかな? なんて思ったのに……ど、どうしてこうなった。
 いやどうしてというかシィナが挑発したせいだけど。
 どうやら私はシィナのフィリア抹殺計画を防げたからと油断して、独占欲を甘くみすぎていたらしい。

 フィリアは本当、今にも泣きそうな顔をしている。
 大好きなお母さんを取られた娘。はたまた、大好きな姉を取られた妹。
 必死に我慢しているようだが、いつ爆発してもおかしくはなく、私はハラハラでいっぱいになる。

「……ねぇ……(って、そうだっ! 今日は泊まっていくってこの人にも言わなきゃ! この人もハロちゃんと一緒に暮らしてる家族さんなんだもんね? ちゃんと挨拶しなきゃ失礼だよ!)」
「……ぐす……なんで、しょうか?」

 静かに、初めて自らフィリアに声をかけるシィナ。
 そんな彼女に、泣くのを必死に我慢する、少しくぐもった声で返答するフィリア。

 こ、今度はなにを言い出す気なんだシィナ……お願いだからフィリアを泣かせないで……ね?
 どうか平和的解決を……。

「……この、いえ……で……くらす…………だから……よろ、しく……ね(急な話でごめんね。実は私、今日はここに泊めさせてもらいたくて……迷惑をかけちゃうかもしれないけど、よろしくね……?)」

 それはまさしく、宣戦布告だった。
 この人はもう私だけのもの。誰にも、たとえ先に住んでいたあなたにも渡さない。
 そう暗に、否。もはや直球に、シィナは告げている。

 さすがにここまで来るとフィリアは泣き出してしまうかと私は思っていた。
 そうなったらやはりもう、フィリアとシィナを同じ場所で暮らさせるわけにはいかない。
 今すぐにでもシィナを止めて、二人を引き剥がす必要がある。

 しかしフィリアの反応は、そんな私の予想とは少し違っていた。

 フィリアはシィナの発言に目を見開いて、確かにすぐに泣き出しそうになった。
 だが、その最中で私を見ると、すぐになにかにハっとしたような顔になる。
 即座に目元をごしごしと拭って、そしてなにかを決意したかのような、キリッとした表情になって。

 そして、シィナを真正面から見据えたのだ。

「……いいでしょう。わかりました。受けて立ちます……! 私の方がお師匠さまを愛しているということを、必ず証明してみせます……!」
「……?(……? なんの話? よくわかんないけど……わかりましたって言ってくれたし、泊まっていっていいってことなんだよね?)」

 力強いフィリアの発言に、ほんの少し目をぱちぱちとさせた後、面白い、と言わんばかりに、シィナはわずかに口の端を吊り上げた。
 二人の間に、ばちばちと火花が散っている。そんな光景さえ幻視できる。

「……たのしく、なる……ふふ…………(やった! 今日はハロちゃんの家でお泊り! なんだかわくわくするなぁ。せっかくだし夜はハロちゃんのお部屋にお邪魔して、ちょっと夜更かしとかしちゃおうかな? ハロちゃんならきっと笑顔で許してくれるもんっ。えへへ、それからそれからー……)」

 ……おかしいな。

 もてもてだぞ? 両手に花だぞ?
 片方はマシュマロなんかとは比較にならないくらい心地いいお山さまの持ち主で、片方は一応と頭につきはするものの初恋の相手なんだぞ?
 そんな二人に取り合いっこされてる夢のような瞬間が今ここにあるんだぞ?

 なのに、なんで……なんでこれから先のことを思うと、こんなにも胃が痛むのでしょうか……。
 教えてください、誰か………。