「シィナ……? もう帰ったはずじゃ……どうしてここに?」
暗闇の中で爛々と輝く真っ赤な瞳に一瞬怯んでしまったが、すぐに、風呂場で固めた決意のことを思い出す。
シィナの生態を理解し、恐怖さえ克服することができれば、シィナと安全ににゃんにゃんする可能性があるというあれだ。
思い出せ……! 今までの過酷な経験を……!
女の子といちゃいちゃしたい一心で勇気を出してシィナに声をかけたのに、とんでもないヤンデレ風味な少女であることが判明したあの日……!
ついぞ我慢し切れなくなってフィリアを買ったはずなのに、なんだかんだあったせいで容易に手を出すことができなくなってしまい、むしろ事あるごとに生殺しをさせられる日々……!
媚や……こほん。淫魔の液体薬を誤って飲んでしまい、その衝動と快感に一晩中耐え忍んだあの日……!
この悲しい過去たちのことを思えば、今更諦めるなんてありえない。
夢の実現には困難が伴うものだ。しかしだからこそ目指すだけの価値がある。
やるぞ……! 私は必ず、絶対、女の子といちゃいちゃにゃんにゃんしてみせるんだ!
シィナは可愛いシィナは可愛いシィナは可愛い……大丈夫怖くないっ!
いける!
「……(うぅ、どうしよう。なんて言ったらいいんだろう……)」
「……ん? シィナ……?」
「…………あけ、て……(えっと、とりあえず入れてくれる……? ここじゃ言いづらくて……)」
がしっ! と音を立てて門の鉄格子を両手で掴み、たった三文字だけを呟いて、見開いた赤い瞳で私を凝視してくる。
たとえ私がここからいなくなっても、ずっとそこにしがみついて私の方を見続けているような光景を幻視してしまい、思わず顔が引きつる。
……や、やっぱ怖……いや怖くない!
これも見方によっては可愛いって!
信ずるものは救われるんだ! なんか偉い人がそんなこと言ってた気がする! 誰かはわからない!
「わ、わかった。少し待っててくれ」
門には錠が取りつけられているが、実のところただの飾りだ。飾りというか、むしろ錠を外そうと試みた不届き者を麻痺させる術式が錠に入っている。
本当はすべて魔法によって管理されていて、その魔法に魔力を登録された者だけが好きに開けられる仕組みになっている。魔力にも指紋のように人それぞれの性質があるのだ。
今のところ、この門には私とフィリアの二人しか登録されていない。
そんなこんなで門に私の魔力を流し込み、ロックを外す。
気分的には虎を檻から解き放ったような感じだ。
するとすぐにシィナが外と内の境界を越え、私のところまでやってくる。
「……ありが、とう(ありがとう、ハロちゃん)」
「礼には及ばないよ。それで、いったいどうしたの? なにかあったのかい?」
私が問いかけると、しかしシィナは黙り込んだ。
「…………(ハロちゃんを心配させたくないなぁ……でも、言わないと……)」
「……し、シィナ?」
「……(でもでも、うぅ……あんなに悲しい思いをしたのは久しぶりだよ……せっかく直前までハロちゃんと一緒にいれて、今日はいい日だったなって思ってたのにぃ……)」
「えっと……」
質問には答えず、ただただ佇んだまま見つめてくる。
そんな状況が十秒くらい続いた後、突如シィナが私に飛び込むような勢いで抱きついてきた。
「し、しししし、し、シィナっ?」
声が震えているのは照れであって恐怖ではない照れだ照れ、オーケー?
「……ハロ、ちゃん……(宿屋の人に『あなたさまが泊まっている噂が広まって客が全然来なくなってずいぶんが経ち、生活がもう本当に苦しいんです。どうか出て行ってください、お願いします』……なんて土下座されたの初めてだよ。この宿の人は優しいなって思ってたのに、ずっと迷惑だって思われてたなんて……)」
「ど、どうかした、の……?」
「……うごか、ないで(ごめんねハロちゃん。でもちょっとだけ、寂しさを紛らわさせて……?)」
「は、はい」
今日最初に会った時にもされたように、すりすりと頬や顎を擦りつけてくる。
シィナにとっては挨拶のようなものなのか、これは会うたびに割とされるのだが……どうにも今は少し様子がおかしい。
いつもは頬を少し染めて、若干機嫌がよさそうにしてくるものなのだけども、今はまったくの無表情だ。
むしろ普段の時とは真逆の、負の感情が彼女の心を支配しているようにも思う。
……真逆? つまり機嫌が悪い……?
なんで? やっぱりなにかあっ……た――――はっ!
その時ふと、今日初めにシィナからかけられた言葉を思い出した。
『…………ほかの……おんなの……においが、する』
「っ――!」
ま、まさか……。
まさかシィナは、私がフィリアと一緒に暮らしていることを察して、フィリアを始末しに来たのでは……!?
今不機嫌なのは、さっき私がフィリアに抱き寄せられた影響できっとフィリアの匂いが色濃く残ってしまっているから。
だからこんなにも執拗に、すべてを自分の匂いで上書きするかのようにすり寄ってきているのだ。
まずい。フィリアを守らなければ……! シィナに過ちを起こさせてしまうのもダメだ!
だが、シィナはまだなにもしていない。それなのに厳しい態度を取ってしまえば、彼女の不興を買ってしまうに違いない。
ここはそこはかとなくやんわりと優しげに、諭すような感じでいくんだ!
大丈夫、私ならできる!
口のうまさなら結構自信があるし!
シィナだって私の言うことならそこそこ聞いてくれる……はず!
「シィナ」
「……!(ハロちゃん……?)」
まずは不機嫌な彼女の心をほぐし、なぐさめるために、そっと抱きしめ返してから、よしよしとシィナの頭を撫でた。
すると、シィナの動きが止まる。
シィナの頭が横にあるので顔は見えないが、少し驚いたような反応をしていることだけはわかった。
「ねえ、シィナ。私はシィナのことをとても大切に思っているよ」
「……(大、切……?)」
「シィナになにがあったのかは知らない……言いたくないなら、言わなくてもいい。誰かに受け入れてもらうことが、必ずしも救いとは限らないからね」
シィナはもう凄まじく悲惨な過去があるに違いない。
もう見た目からしてそんな雰囲気がにじみ出ている。隠し切れない狂気的な雰囲気があるというか……。
きっと私なんかには到底想像できない悲しい過去があるのだろう。
だってそうじゃなきゃ、十代前半くらいの歳で魔物を八つ裂きにして悪魔みたいに笑うような性格になるわけないし……。
相当悲惨な幼少期送ってるってこの子……。
「誰にでも知られたくないことの一つや二つはある。それにそれはもしかしたら……私のために言わないでくれているのかもしれない」
そう言うと、シィナはわずかに顔を伏せる。
「……(……ハロちゃんにはかなわないなぁ。ハロちゃんを悲しませたくないからって誤魔化そうと思ってたけど……ハロちゃんはもう、わたしが悲しい思いをしたって気づいてるんだね……)」
シィナが再び顔を上げて、少し顔を離して私の方を向いた時、その瞳は疑問の色を宿していた。
「……ハロちゃん、も……?(ハロちゃんにも、そういう言いたくないことってあるの?)」
「ああ……私にもあるよ。誰にも言えない秘密が……」
まあ、元は男だったなんて言えるわけもないな。
よく知らない人には言う気にもなれないし、同じく親しくなった人にだって変な態度を取られるのは嫌だから言う気にならない。
過去がどうであれ、私は今、ハロという新しい名前を持ってここにいる。だから私は以前の世界でのことを前世と言って区切りをつけているのだ。
……ん?
あれ? 私ってもしかして、割と本当に悲しい過去持ってた?
でもなぁ、前世は前世だからなぁ。もうほんとに区切りをつけて、懐かしいだけであんまり未練とかないし。
そんなことより可愛い女の子とにゃんにゃんしたい。いちゃいちゃもあればなおよし。
「……(ハロちゃん、すごく遠くを見るみたいな……儚い目をしてる。なにか……あったのかな。でも……言いたくないって言ってたし……)」
なにはともあれ、今はシィナが過ちを犯すことを止めるのが先決だ。
「でもね、私がシィナのことを大切に思っている。その言葉と思いに嘘はないよ」
「……ハロ、ちゃん……」
「信じてほしい。私のことを。私は、私の大切なものを傷つけようとするものを許さない。誰であろうと……だから、シィナ。言いたくないなら言わなくてもいい。でも、もしなにか力になれることがあるのなら、遠慮なく言っていいからね。私はシィナの味方だ」
「……(ハロちゃん……)」
これは一見、シィナを傷つけようとするものを許さないと言っているように見えるかもしれないが、それはほんの一部分の意味合いでしかない。
私が許さないのは私の大切なものを傷つけようとするもの。
つまり、大切なもののカテゴリに属するシィナ以外の誰か、すなわちフィリアを傷つけるものを許さないという裏返しでもある。
フィリアが私にとっての大切なもののカテゴリに属していることなど、匂いが移るほど近くにいることを知っているシィナはお見通しのはずだ。
シィナを気遣う姿勢を見せつつ、同時に牽制をする。
これによって、この牽制はシィナが私の気遣う姿勢で覚えた感情と同程度の自制心をシィナに植えつける効果を得られる、はずだ。
あくまでシィナのフィリアを始末しようとする心には気づいていないふりをして、なんとなく「なにかあったのかなー?」的な感じに心配する風なふりをして牽制。
私はシィナの内心に気づいていないという設定なので、さしものシィナでもここで反論はできないし、容易にフィリアに手を出すこともできなくなったはずだ。
ふふ……やはり天才だな。さすが私。
もしかしたら口先のうまさは魔法より上なんじゃない?
そんな私の思惑もつゆ知らず、シィナは私の目をまっすぐに見つめてきたかと思うと、
「……ありがとう(ハロちゃんってわたしのことこんなに大切に思ってくれてたんだ……すっごく嬉しいっ。えへへ、嬉しすぎて宿屋の人に追い出されたのなんか全然へっちゃらになっちゃったよ!)」
そう、小さく微笑んで。
また、すりすりと頬と顎を擦り寄せてきた。
最初の時のように不機嫌さはなく、いつものように……むしろ、いつも以上に機嫌よさそうにさえ見える。
少なくとも今の彼女から負の感情は一切感じられない。
「ああ。礼には及ばないよ」
よし、クエストクリアだ! ミッションコンプリート!
甘えてくるシィナをよしよしとあやしながら、心の中でほくそ笑んだ。
ふっふっふ……どうよ。私、結構うまく口が回るでしょ?
なんと言っても《至全の魔術師》だからな。全に至ってるからな。
全がなにかは知らないけど単語からして凄そうだから凄いに違いない。
というか、今回初めて私の思った通りの展開にできたんじゃないの?
フィリアを買った時はお師匠さまとか慕われて手が出しづらくなってしまった。淫魔の液体薬を飲んでしまって、一人にしてほしかった時もなぜかそばにいるとか真逆のことを言われてしまった。
シィナとの出会いの日の初めての惨殺ホラー劇場でだって、ちょっと落ちつかせたらそそくさと距離を取るつもりが、いつの間にか完全に懐かれて。
それが今回はどうだろう。
きちんとスムーズにフィリアの暗殺計画を阻止できた。
どうやらついに確率が収束し始めたようだな……。
これまで不幸な失敗が多かったぶん、これからは幸運な成功が続くに違いない。
これは女の子といちゃいちゃにゃんにゃんできる日も近いぞ……!
「……ハロちゃ、ん……おね、がい……ある(ただ、それはそれとして一つだけお願いが……)」
「お願い?」
しばらくすりすりし続けて満足したのか、体を離したシィナが、不意にそんなことを言い出した。
フィリアを始末することに代わるお願いなのだろうか?
でも今のシィナからは、そこまで物騒なことを言い出す気配は感じられない。
不思議に思って首を傾げていると、しばらく黙り込んでいたシィナが、ゆっくりとその口を開いた。
「……いっしょ、に……くらしたい(えっとね、追い出されてからいろいろ巡ったんだけど、どこの宿も泊めてくれないの……お願いハロちゃん。今日だけでいいから泊めて……)」
「一緒に、暮らすっ?」
そんなシィナの思わぬ申し出に、私は素っ頓狂な声を上げてしまったのだった。
暗闇の中で爛々と輝く真っ赤な瞳に一瞬怯んでしまったが、すぐに、風呂場で固めた決意のことを思い出す。
シィナの生態を理解し、恐怖さえ克服することができれば、シィナと安全ににゃんにゃんする可能性があるというあれだ。
思い出せ……! 今までの過酷な経験を……!
女の子といちゃいちゃしたい一心で勇気を出してシィナに声をかけたのに、とんでもないヤンデレ風味な少女であることが判明したあの日……!
ついぞ我慢し切れなくなってフィリアを買ったはずなのに、なんだかんだあったせいで容易に手を出すことができなくなってしまい、むしろ事あるごとに生殺しをさせられる日々……!
媚や……こほん。淫魔の液体薬を誤って飲んでしまい、その衝動と快感に一晩中耐え忍んだあの日……!
この悲しい過去たちのことを思えば、今更諦めるなんてありえない。
夢の実現には困難が伴うものだ。しかしだからこそ目指すだけの価値がある。
やるぞ……! 私は必ず、絶対、女の子といちゃいちゃにゃんにゃんしてみせるんだ!
シィナは可愛いシィナは可愛いシィナは可愛い……大丈夫怖くないっ!
いける!
「……(うぅ、どうしよう。なんて言ったらいいんだろう……)」
「……ん? シィナ……?」
「…………あけ、て……(えっと、とりあえず入れてくれる……? ここじゃ言いづらくて……)」
がしっ! と音を立てて門の鉄格子を両手で掴み、たった三文字だけを呟いて、見開いた赤い瞳で私を凝視してくる。
たとえ私がここからいなくなっても、ずっとそこにしがみついて私の方を見続けているような光景を幻視してしまい、思わず顔が引きつる。
……や、やっぱ怖……いや怖くない!
これも見方によっては可愛いって!
信ずるものは救われるんだ! なんか偉い人がそんなこと言ってた気がする! 誰かはわからない!
「わ、わかった。少し待っててくれ」
門には錠が取りつけられているが、実のところただの飾りだ。飾りというか、むしろ錠を外そうと試みた不届き者を麻痺させる術式が錠に入っている。
本当はすべて魔法によって管理されていて、その魔法に魔力を登録された者だけが好きに開けられる仕組みになっている。魔力にも指紋のように人それぞれの性質があるのだ。
今のところ、この門には私とフィリアの二人しか登録されていない。
そんなこんなで門に私の魔力を流し込み、ロックを外す。
気分的には虎を檻から解き放ったような感じだ。
するとすぐにシィナが外と内の境界を越え、私のところまでやってくる。
「……ありが、とう(ありがとう、ハロちゃん)」
「礼には及ばないよ。それで、いったいどうしたの? なにかあったのかい?」
私が問いかけると、しかしシィナは黙り込んだ。
「…………(ハロちゃんを心配させたくないなぁ……でも、言わないと……)」
「……し、シィナ?」
「……(でもでも、うぅ……あんなに悲しい思いをしたのは久しぶりだよ……せっかく直前までハロちゃんと一緒にいれて、今日はいい日だったなって思ってたのにぃ……)」
「えっと……」
質問には答えず、ただただ佇んだまま見つめてくる。
そんな状況が十秒くらい続いた後、突如シィナが私に飛び込むような勢いで抱きついてきた。
「し、しししし、し、シィナっ?」
声が震えているのは照れであって恐怖ではない照れだ照れ、オーケー?
「……ハロ、ちゃん……(宿屋の人に『あなたさまが泊まっている噂が広まって客が全然来なくなってずいぶんが経ち、生活がもう本当に苦しいんです。どうか出て行ってください、お願いします』……なんて土下座されたの初めてだよ。この宿の人は優しいなって思ってたのに、ずっと迷惑だって思われてたなんて……)」
「ど、どうかした、の……?」
「……うごか、ないで(ごめんねハロちゃん。でもちょっとだけ、寂しさを紛らわさせて……?)」
「は、はい」
今日最初に会った時にもされたように、すりすりと頬や顎を擦りつけてくる。
シィナにとっては挨拶のようなものなのか、これは会うたびに割とされるのだが……どうにも今は少し様子がおかしい。
いつもは頬を少し染めて、若干機嫌がよさそうにしてくるものなのだけども、今はまったくの無表情だ。
むしろ普段の時とは真逆の、負の感情が彼女の心を支配しているようにも思う。
……真逆? つまり機嫌が悪い……?
なんで? やっぱりなにかあっ……た――――はっ!
その時ふと、今日初めにシィナからかけられた言葉を思い出した。
『…………ほかの……おんなの……においが、する』
「っ――!」
ま、まさか……。
まさかシィナは、私がフィリアと一緒に暮らしていることを察して、フィリアを始末しに来たのでは……!?
今不機嫌なのは、さっき私がフィリアに抱き寄せられた影響できっとフィリアの匂いが色濃く残ってしまっているから。
だからこんなにも執拗に、すべてを自分の匂いで上書きするかのようにすり寄ってきているのだ。
まずい。フィリアを守らなければ……! シィナに過ちを起こさせてしまうのもダメだ!
だが、シィナはまだなにもしていない。それなのに厳しい態度を取ってしまえば、彼女の不興を買ってしまうに違いない。
ここはそこはかとなくやんわりと優しげに、諭すような感じでいくんだ!
大丈夫、私ならできる!
口のうまさなら結構自信があるし!
シィナだって私の言うことならそこそこ聞いてくれる……はず!
「シィナ」
「……!(ハロちゃん……?)」
まずは不機嫌な彼女の心をほぐし、なぐさめるために、そっと抱きしめ返してから、よしよしとシィナの頭を撫でた。
すると、シィナの動きが止まる。
シィナの頭が横にあるので顔は見えないが、少し驚いたような反応をしていることだけはわかった。
「ねえ、シィナ。私はシィナのことをとても大切に思っているよ」
「……(大、切……?)」
「シィナになにがあったのかは知らない……言いたくないなら、言わなくてもいい。誰かに受け入れてもらうことが、必ずしも救いとは限らないからね」
シィナはもう凄まじく悲惨な過去があるに違いない。
もう見た目からしてそんな雰囲気がにじみ出ている。隠し切れない狂気的な雰囲気があるというか……。
きっと私なんかには到底想像できない悲しい過去があるのだろう。
だってそうじゃなきゃ、十代前半くらいの歳で魔物を八つ裂きにして悪魔みたいに笑うような性格になるわけないし……。
相当悲惨な幼少期送ってるってこの子……。
「誰にでも知られたくないことの一つや二つはある。それにそれはもしかしたら……私のために言わないでくれているのかもしれない」
そう言うと、シィナはわずかに顔を伏せる。
「……(……ハロちゃんにはかなわないなぁ。ハロちゃんを悲しませたくないからって誤魔化そうと思ってたけど……ハロちゃんはもう、わたしが悲しい思いをしたって気づいてるんだね……)」
シィナが再び顔を上げて、少し顔を離して私の方を向いた時、その瞳は疑問の色を宿していた。
「……ハロちゃん、も……?(ハロちゃんにも、そういう言いたくないことってあるの?)」
「ああ……私にもあるよ。誰にも言えない秘密が……」
まあ、元は男だったなんて言えるわけもないな。
よく知らない人には言う気にもなれないし、同じく親しくなった人にだって変な態度を取られるのは嫌だから言う気にならない。
過去がどうであれ、私は今、ハロという新しい名前を持ってここにいる。だから私は以前の世界でのことを前世と言って区切りをつけているのだ。
……ん?
あれ? 私ってもしかして、割と本当に悲しい過去持ってた?
でもなぁ、前世は前世だからなぁ。もうほんとに区切りをつけて、懐かしいだけであんまり未練とかないし。
そんなことより可愛い女の子とにゃんにゃんしたい。いちゃいちゃもあればなおよし。
「……(ハロちゃん、すごく遠くを見るみたいな……儚い目をしてる。なにか……あったのかな。でも……言いたくないって言ってたし……)」
なにはともあれ、今はシィナが過ちを犯すことを止めるのが先決だ。
「でもね、私がシィナのことを大切に思っている。その言葉と思いに嘘はないよ」
「……ハロ、ちゃん……」
「信じてほしい。私のことを。私は、私の大切なものを傷つけようとするものを許さない。誰であろうと……だから、シィナ。言いたくないなら言わなくてもいい。でも、もしなにか力になれることがあるのなら、遠慮なく言っていいからね。私はシィナの味方だ」
「……(ハロちゃん……)」
これは一見、シィナを傷つけようとするものを許さないと言っているように見えるかもしれないが、それはほんの一部分の意味合いでしかない。
私が許さないのは私の大切なものを傷つけようとするもの。
つまり、大切なもののカテゴリに属するシィナ以外の誰か、すなわちフィリアを傷つけるものを許さないという裏返しでもある。
フィリアが私にとっての大切なもののカテゴリに属していることなど、匂いが移るほど近くにいることを知っているシィナはお見通しのはずだ。
シィナを気遣う姿勢を見せつつ、同時に牽制をする。
これによって、この牽制はシィナが私の気遣う姿勢で覚えた感情と同程度の自制心をシィナに植えつける効果を得られる、はずだ。
あくまでシィナのフィリアを始末しようとする心には気づいていないふりをして、なんとなく「なにかあったのかなー?」的な感じに心配する風なふりをして牽制。
私はシィナの内心に気づいていないという設定なので、さしものシィナでもここで反論はできないし、容易にフィリアに手を出すこともできなくなったはずだ。
ふふ……やはり天才だな。さすが私。
もしかしたら口先のうまさは魔法より上なんじゃない?
そんな私の思惑もつゆ知らず、シィナは私の目をまっすぐに見つめてきたかと思うと、
「……ありがとう(ハロちゃんってわたしのことこんなに大切に思ってくれてたんだ……すっごく嬉しいっ。えへへ、嬉しすぎて宿屋の人に追い出されたのなんか全然へっちゃらになっちゃったよ!)」
そう、小さく微笑んで。
また、すりすりと頬と顎を擦り寄せてきた。
最初の時のように不機嫌さはなく、いつものように……むしろ、いつも以上に機嫌よさそうにさえ見える。
少なくとも今の彼女から負の感情は一切感じられない。
「ああ。礼には及ばないよ」
よし、クエストクリアだ! ミッションコンプリート!
甘えてくるシィナをよしよしとあやしながら、心の中でほくそ笑んだ。
ふっふっふ……どうよ。私、結構うまく口が回るでしょ?
なんと言っても《至全の魔術師》だからな。全に至ってるからな。
全がなにかは知らないけど単語からして凄そうだから凄いに違いない。
というか、今回初めて私の思った通りの展開にできたんじゃないの?
フィリアを買った時はお師匠さまとか慕われて手が出しづらくなってしまった。淫魔の液体薬を飲んでしまって、一人にしてほしかった時もなぜかそばにいるとか真逆のことを言われてしまった。
シィナとの出会いの日の初めての惨殺ホラー劇場でだって、ちょっと落ちつかせたらそそくさと距離を取るつもりが、いつの間にか完全に懐かれて。
それが今回はどうだろう。
きちんとスムーズにフィリアの暗殺計画を阻止できた。
どうやらついに確率が収束し始めたようだな……。
これまで不幸な失敗が多かったぶん、これからは幸運な成功が続くに違いない。
これは女の子といちゃいちゃにゃんにゃんできる日も近いぞ……!
「……ハロちゃ、ん……おね、がい……ある(ただ、それはそれとして一つだけお願いが……)」
「お願い?」
しばらくすりすりし続けて満足したのか、体を離したシィナが、不意にそんなことを言い出した。
フィリアを始末することに代わるお願いなのだろうか?
でも今のシィナからは、そこまで物騒なことを言い出す気配は感じられない。
不思議に思って首を傾げていると、しばらく黙り込んでいたシィナが、ゆっくりとその口を開いた。
「……いっしょ、に……くらしたい(えっとね、追い出されてからいろいろ巡ったんだけど、どこの宿も泊めてくれないの……お願いハロちゃん。今日だけでいいから泊めて……)」
「一緒に、暮らすっ?」
そんなシィナの思わぬ申し出に、私は素っ頓狂な声を上げてしまったのだった。