作った料理を食卓に運ぶまでの間、必死にこの状況を打開する策を考えていたが、結局なにが思いつくわけでもなく夕食の時間が始まってしまった。
ひとまずジュースを飲むことを後回しにして時間を稼いでいるものの、さきほどからちらちらとフィリアの不安そうな視線が私のコップに向いている。
落としてしまっただけあって、ずいぶんと気にしているようだ。
おそらく私がジュースを飲むまでは、彼女はずっとあの調子だろう。
このまま飲まずに夕食を終えてしまったら「私のせいでお師匠さまがお飲み物を楽しむ気持ちに水を差してしまって……」と、これでもかというほど落ち込んでしまう未来が目に見える。
だからと言って飲んだら飲んだで、なんというか、私がアレな感じになってしまう未来もまた目に見える。
飲むか飲まないか。選択肢は二つ。
ただしどちらを選んでもバッドエンド直行。
なんなのこのクソゲーは……。
いや、クソゲーとかそれ以前にそもそも私は事前の選択肢を間違えていたのだろう。
シミュレーションゲームでもそういうのはよくある。
終盤の決定的な選択の場面、しかしそれよりも前の段階で特定のフラグが立っていなければ、どちらを選んでも同じ結果に収束してしまう。
特定のフラグとは、例えば闇堕ちしたライバルキャラにトドメを刺すか刺さないかだったり、これまでの選択肢で特定のキャラの好感度を一定以上上げているかいなかったりだ。
私はその事前の選択を完全に間違えていた。
フィリアに薬を盛る……そんな自分本意な選択肢を選んでしまったせいで、今この瞬間、私の前にはバッドエンドルートしか残っていないのだ。
「お師匠さま……その、不躾、なんですけど……お飲み物は、飲まないのですか……?」
「うっ」
現実逃避したい欲求と、現実を直視しなければどうにもならないという事実、実際は直視したところでどうにもできない真理。
それらに板挟みになって苦しんでいると、ついにフィリアからの催促がかかる。
「あ、あー、いや……その、先にご飯を食べちゃおうかと。ほら、えっと、そう! 楽しみなものは最後に取っておくタイプなんだ、私は」
変な声が出てしまいながらも慌てて取り繕うと、フィリアはほっと息をついた。
「そうだったんですね。ごめんなさい、急かすようなことを言ってしまって……」
「気にするな。フィリアのせいじゃないと何度も言っただろう? せっかくフィリアが守ってくれた一杯分は……その、ちゃんと大事にいただくよ……」
どうする……本当に回避する手段はないのか?
なにか、こう、私がこれを飲まずにフィリアも落ち込まずにいられるような、そんな皆がハッピーになれるエンドは本当にないのか……?
私がこんなもの飲む未来なんて、誰も望まないと思うんだ。少なくとも私は望まない。
そして今この場には私とフィリアで二人だから、これによって私が薬を飲まない未来は五〇%の票を得たことになる。
これを四捨五入すれば一〇〇%。つまり、誰もが私が薬を飲む展開を歓迎していないことの証明にほかならないのではないだろうか。
ハッピーエンドはご都合主義とか言うけど、ご都合主義バンザイです。
なのでお願いします! 起こってご都合主義! 神様でも仏様でも勇者でも魔王でも淫魔でもいいから!
どうかこの局面を救って、私もフィリアもハッピーになれる未来をください……!
――なんて、必死に祈ったところで当然なにが変わるわけでもなく。
時間を経るごとに少しずつ少しずつ、着々とバッドエンドへの階段をのぼっていく。
たとえば突然窓から魔女が侵入してきて、ジュースに呪いでもかけてきたのなら、その魔女をジュースごと跡形もなく消滅させるだけで済むのに、ジュースは依然として変わらずそこにある。
「……ふ、ふふ……」
結局、この状況を打開する策など一つも思いつかなかった。
ついには夕食を食べ終えてしまって、私の前に悪の権化が立ちはだかる。
見た目は一見とてもおいしそうなミックスジュース。しかしそれは表の顔にすぎない。
表では良い顔をしてきながら、その裏には私の内側に眠る醜い欲望を解放させかねない邪悪なる力を秘めている。
わかるのだ。光を信じ、光の中で生きているフィリアには見えずとも、一度は闇に堕ちた私だからこそ、これがマジでしゃれにならないやばい代物だってことが。
私がジュースを飲まず、じっとして睨みつけていると、フィリアがおずおずと声を上げた。
「お師匠さま、お飲みにならないのですか……?」
……一旦、フィリアに視線を移す。
不安に揺れた瞳。申しわけなさそうな表情。胸の前で強く握られたその手は、かすかに震えている。
……ふぅ。
冷静に考えてみよう。
私は確かにフィリアとにゃんにゃんしたいがため、自然とそうなれる状況を作るべく、淫魔の液体薬を購入した。
しかしである。
普通に考えて、果たしてたったの一滴程度でそこまで大きく発情するだろうか?
今もまだ私の懐にあるこの薬。これは普通のそこら辺の雑貨店で購入したものだ。しかも無駄に高かった。
淫魔のエキスを配合だのどうだのと言うが、実はそういう薬に詳しくない私がただ単にぼったくられただけなのではないだろうか。
いや、そうに違いない。だってたった小瓶一個分の量で他の薬の三倍以上の値段は明らかにおかしい。絶対にぼったくられた。
そしてそうなると効果も大したことがないに決まっている。
しかも今回の摂取はミックスジュースで混ぜ込むような形でのものだ。
ミックスジュースのなんかいい感じの成分が薬のアレな成分をぶち壊し、至極無害な液体へと転化させてしまっている。そんな可能性も案外捨て切れない。
今回の薬は実はかなり蒸発しやすい性質があり、後回しにしたことによって薬の成分が空気中に飛んでしまって、もう効果がほとんど残っていないとか。そんな可能性だってあるだろう。
おお、どんどん未来に希望が持ててきたぞ。なんだか本当にご都合主義が起きそうな気がしてきた。
そうだよ。一滴程度で発情するとかどんなファンタジーな薬だよ。そんなものあるわけないじゃん。
見えてきたぞ……ハッピーエンドへの道筋が!
「……よし」
意を決してコップに手を伸ばし、それを口元に運ぶ。
口をつけて、コップを傾けて。
牛乳のしっとりとした味わいと、果汁の染み渡るような旨味が調和をなした、とろけるような甘さが口を通って喉に流れていく。
くどくなく、かと言ってあっさりしすぎてもいない。絶妙な味わい。
知らず知らず頬が緩み、次の一口が欲しくなる。
今までいろんな飲み物を口にしてきたが、これほどまでに甘く鮮やかなジュースを飲んだのは初めてだった。
「お師匠さま、お味の方はどうですか?」
「ああ。おいしいよ」
「本当ですかっ? よかったぁ……」
そう、おいしい。超おいしい。超おいしいだけの普通のミックスジュースだ。
私がエルフだから、果物がふんだんに使われたであろうこれをここまでおいしく感じるのだろうか?
こだわり抜かれた素材のよさ、そして果汁と牛乳のバランス。
甘美な冷たい感触が体の端にまで染み渡っていくようだ。
しかし言ってしまえばただそれだけで、当然、体の方になにか変化があるわけでもない。
ふふふ……やはりな。予想通りだ。
やはり、ぼったくられた薬のたった一滴程度では大した効果は発揮できないに決まっている。
しかも薬を入れてからかなり時間を置いていた。薬の成分も抜け切ってしまっているに違いない。
「ふふ、本当においしいな……」
安心して二口目、三口目と中身を飲んでいく。
薬の仕掛けをごまかすためだけに買ったつもりだったが、これはやばい。なかなか癖になりそうだった。
また買ってきてみてもいいかもしれない。
次は今度こそフィリアと一緒に飲みたいな。フィリアにもこのおいしさを是非知ってほしい。
本当、なんで私はあんな薬をジュースに入れちゃったんだろう。あんなことしなければ今頃一緒にフィリアとミックスジュースを飲んでいられたはずなのに。
もっとちゃんと反省しないといけない。今回は私のせいでフィリアに怪我までさせてしまったんだ。
回復魔法があったって、怪我をすると痛い事実に変わりはない。フィリアに痛い思いをさせるなんて言語道断だ。
……いやでも、フィリアって痛いの好きな疑惑があるんだよね……。
私はそういう趣味を否定するつもりはないけど……さすがに今回みたいにガラスで怪我をしたりとかはできるだけ排除する方向で動いていきたい。
気がついた時にはジュースを全部飲んでしまっていた。
おいしかっただけに、非常に残念だ。やっぱりまた今度同じものを買ってこようと思う。
次こそはフィリアと、一緒、に……?
「……ぅ……」
ふと覚えた、言いようのない体の違和感。
ミックスジュースを飲んで、冷え渡っていたはずの体が、少しずつ熱を持っていくような。
初めは胸。次に頭。そして少しずつ末端に、染み渡っていく。
「お師匠さま……?」
気がついた時には、その熱が全身を巡っていた。
血液そのものが脈打っているかのように、心臓の鼓動が近くに感じられて。
まるでサウナの中にいるかのごとく、体中が熱い。
「はぁ……ふ、ぅぅ……」
呼吸が荒い。体に力が入らない。
じっとしていることが、辛い。
「んっ――」
思わず少し身じろぎをすると、服と擦れた肌に、体感でいつもの何十倍もの感覚が走って、びくっと体を跳ねさせた。
しかしそれは逆に、全身の肌が衣服とこすれる余地を与えてしまう。
「ひゃ、ぅ……!」
快感にも等しい、さらなる強烈な感触が電撃のように体中を襲って、耐え切れず上半身をテーブルの上に投げ出した。
それによってテーブルと接した衝撃のすべてが、接した部位への刺激と直結する。
幾度となく高い声が意図せずして漏れて、一度として感じたことのない凶悪な未知の快楽に、怯えるように無意識のうちにきゅっと瞼を閉じていた。
「お師匠さまっ!?」
明らかに異常な私の様子に、がたっ! とイスを押しのけてフィリアが慌てて駆け寄ってくる。
「大丈夫ですかっ!? お師匠さま!」
「やっ! んっ、や、やめっ……!」
フィリアに触れられただけで苦悶の声が漏れる。
フィリアは私の異常な声を聞くとすぐに手を離し、しかしすぐになにかを決意したような顔になった。
「……失礼します、お師匠さま!」
「えっ? ひゃわぁっ!?」
フィリアは素早く私の背中と足の後ろに手を回したかと思うと、私を一気に抱え上げた。
「ごめんなさい! このままお師匠さまのお部屋までお連れさせていただきます!」
扉を開けて廊下に出て、私を抱えたまま、小走りでフィリアが移動する。
一歩一歩フィリアが移動するたび、その振動が全身を揺らす。それがわずかながらも確かな快楽を呼ぶものだから、それを最小限に収めるようにただ縮こまってじっとしていた。
「ふぃ、りあ……」
「大丈夫です、大丈夫ですから……」
とろん、とした眼でフィリアを見上げる。
フィリアは子どもをあやすようにささやきながら、急ぎ足で私の部屋に入り込んだ。
それからベッドに駆け寄ると、私をゆっくりとそこに下ろす。
「失礼します」
「っ――――」
急にフィリアが顔を近づけてきて、額と額がぴったりとくっつき合った。
すぐ真正面に、フィリアの顔がある。ほんの少し顔を上げれば、口と口が触れ合ってしまいそうな距離に。
ぱっちりとした瞳。
ほんの少し赤らんだ、柔らかそうな頬。
小さな鼻。ぷっくりと、おいしそうな桜色の唇。
フィリアって、こんなに可愛かったっけ……?
ドキドキが止まらない。心臓が痛いくらい鳴っている。
「……すごい熱です」
やがて顔を離したフィリアは、ひどく心配そうな表情で私を見ていた。
「お師匠さま。もしかして今日、本当はずっと調子が悪かったのですか……? こんな熱、普通は急に出るものじゃありません……」
フィリアは私が体調を崩したと思っているようだった。
しかしこれはどう考えても、ただ体調を崩しただけではないことを私は知っている。
「ひっ、ん……」
い、淫魔の液体薬……こ、こんなに効果あったの……?
口から漏れる息が、舌と唇を震わせる。
全身の感覚がひどく敏感になってしまっていて、動かすまいと努力していても、時折びくっと跳ねるように動いてしまう。そしてそのたびに、擦れた肌が少なくない快感を呼び寄せる。
自然と吐息に熱がこもる。顔は赤く、視界はぼんやりとしていた。
それでもやはり全身の感覚だけはいつも以上に、尋常じゃないくらいリアルに感じられる。
「私はお師匠さまの奴隷失格です……お師匠さまがこんなに苦しんでたのに気がつかなかったなんて」
「ち、が……ぅ……ふぃりあの、せい、じゃ……」
苦しみ始めたのは本当についさっきなのだが、あのミックスジュースに淫魔の液体薬が入っていたことを知らないフィリアがそれに気づけるはずもない。
私が否定しても、フィリアはどうやらそれを私が気を遣っているだけだと判断したようだった。
小さく首を左右に振って、ほんの少しだけ悲しそうな目で私を見つめた。
「お師匠さま……お師匠さまがお優しいことはわかってます。でも……」
「ひゃんっ!?」
ぎゅっ、といきなり手を握られて、声が漏れてしまう。
ま、待ってっ。ほんと待って。今触られるのはやばいんだって。
頭がおかしくなりそうなんです。ほんとに。
焦りまくっている私にフィリアは真剣な眼差しで、言った。
「私……お師匠さまの優しさに甘えるだけの人間にはなりたくないんです。お師匠さまのお役に立ちたい、お師匠さまの隣に胸を張って立てるような、そんな人間になりたい……もしかしたら、独りよがりなわがままな気持ちかもしれません」
「ふぃ、りぁ……」
「でも……でもどうか、お願いします。今の私は、お師匠さまからしたら全然頼りないかもしれませんけど……私を頼ってくれませんか? こんなに苦しんでるお師匠さまを、放ってなんておけません。私は……」
私の手を握っていた、フィリアの手。その上からさらに、もう片方のフィリアの手も重ねられた。
「いつも私なんかの世話を焼いてくれるお師匠さまの力になりたいんです。お師匠さまのためなら、私にできることならなんでもします。だから……」
私は今回図らずも瓦解してしまった計画の中、最後の方で「四。フィリアに薬を飲ませた後にいつも世話を焼いてくれるフィリアの力になりたいとかそんな感じのいい感じことを言ってベッドイン」などと考えていた。
完全に立場が逆転してしまっている。そしてこれは、想像以上にやばい。
力になりたい。なんでもする。
そんな言葉と一緒に、フィリアが私の手を強く握っていて。顔もすぐ近くにあって。
ベッドに横になる私を覗き込むような姿勢だから、下に垂れた大きな胸の谷間も視界にばっちり入ってしまっている。
淫魔の液体薬の効果も相まって、もう本当に、頭がおかしくなりそうだ。
フィリアは本当に、私のためならなんでもしてくれるんだろう。
どんな要求も。どんな欲望も。きっとフィリアは受け入れてくれて、一所懸命叶えようとしてくれる。
私が望んだことを、どんなことも、なんだってしてくれる。
なんでも――してくれる。
「……な、なら……」
だから私は口を開き、意を決して言った。
「ひと、りに……して、ほしい……」
わずかに残った理性で、私は確かにそう口にした。
「一人に……ですか?」
フィリアがきょとんとして、目を瞬かせる。
私はこくりと頷いた。
なんでもしてくれる――それは確かに、堕落に誘う魅惑の囁きだった。
きっとここでフィリアににゃんにゃんなことを要求すれば、戸惑いながらも、私のためを思ってしてくれるだろうと思う。
それはそれはとろけるような夜を過ごせるだろうと思う。
だけど、それではダメだ。
してくれるという、それ自体がもうダメなんだ。
特に今この瞬間だけは、絶対にそれを許すわけにはいかない。
いくら言うことを聞いてくれると言っても、やっぱりフィリアの心を無視しているだとか。無理矢理感が否めないとか……綺麗事はいくつも思い浮かぶ。
だけど別にそんなものは、ぶっちゃけこの情動を前にしたら大した理由じゃなかった。
だって、元々薬盛って襲おうとしちゃってたくらいだ。
その計画を思い立った時以上に情欲が湧き立っている今の状態では、残念ながらその綺麗事たちは余裕で蹴散らせてしまえる範囲にあった。
じゃあ他にどんな理由があるのかって言うと……。
――私の立場は、受けじゃなくて攻めがいい。
どういうことかと言うと……今、体をうまく動かせないんですよね。
だって服に肌が擦れただけでテーブルに倒れ込んじゃうくらいですよ。まともに動ける方がおかしい。フィリアに襲いかかるとか間違いなく無理だ。
こんな敏感状態でフィリアにえっちなことなんて要求してしまえば、えっちなことをするっていうか、むしろえっちなことをされるみたいな感じになってしまうだろう。
それはなにかが違う……。
そう……わかったんだ。
フィリアがなんでもしてくれるって言ってくれた時、確かに嬉しかったんだけど、なにか私が望んでたことと微妙に違うような気がした。
そしてその時、私は私を正しく理解した。
そう、私はR18なことをされたいんじゃない……R18なことをしたいんだ!
フィリアにされたいんじゃなくて、フィリアにしたい! 受けじゃなくて攻めがいい!
あのお胸さまをもてあそぶ立場にこそ私はなりたい! 極限状態に追い込まれることで、それこそが私の本当の望みだって気づいたんだよ!
ゆえにだ。ゆえにこそ、ここでフィリアにえろいことを要求するわけにはいかない。
だってそうなったら、今の状態だと絶対受けに回る羽目になる。
そして一度される側の立場になってしまったら、その後もずるずると同じような関係になってしまう危険性が極めて高い。
なにせフィリアは元々、結構世話焼きな性格だ。
私の着替えを手伝おうとしたり、料理を手伝おうとしたり、他にも色々と。
フィリアのことだ。本当は私と一緒にではなくて、私の手を煩わせずに一人で全部やってしまいたいとまで思っているかもしれない。
そんな彼女を相手に一度でもしてもらう立場になってしまってみろ。きっとその後も「お師匠さまのために!」って感じに私が受けに回り続ける羽目になるに決まっている。
それだけは絶対にダメだ。私は攻める立場がいい。
だから今だけは絶対に、ここでフィリアににゃんにゃんをお願いするわけにはいかないのだ。
そう。すべては理想のただれた未来のために……!
真に望む攻める側の関係をこの手に掴むためには、こんなところで一時の情欲に流されるわけにはいかない!
耐えるんだ私……! せめてフィリアがここからいなくなるまで! 私の本当の夢のために!
される側は、嫌だ……!
私は、する側がいい……!
「お師匠さま……」
本当の自分と向き合い、私が改めて決意を固めていると、ふと、フィリアが力なく顔を俯かせた。
それもしかたがないことかもしれない。
一人にしてほしい。その返事は、役に立ちたいと言ったフィリアを突き放したことと同義だ。
「ごめ、んね……ふぃりあ……」
少しだけ罪悪感を覚えたけれど、今回ばかりは、どうしても返事を訂正するわけにはいかなかった。
早くフィリアにはこの部屋を離れてもらわなくてはまずいのだ。
だって、ほら……。
その……今の私、発情状態ですよ?
今、めちゃくちゃ頑張って耐えてるんです。
こう、えっと……肉欲に身を任せたい欲求というか……疼きに触れたくなる衝動というか……。
で、その……フィリアがいるとできないじゃないですか。
……な、なにがとは言わないけど。
「……嫌です」
「え?」
「嫌って言ったんです」
私の手を握っていたフィリアの手に、さらに力がこもる。
そのせいで快感が増して、一瞬ビクッと震えてしまった。
そして気がついた時には、俯いていたはずのフィリアがひどく真剣な眼差しで私をまっすぐに見据えていた。
「お師匠さま……どうして一人で苦しもうとするんですか? 私は、そんなに頼りないですか?」
「え。い、いや……んっ、べ、別にそんな、ことは」
「私も……ちょっと前までそうでした。頼れる相手なんて誰もいなくて、心配してくれる人なんて一人もいなくて……ただがむしゃらに頑張るだけで、自分のことなんて顧みることをしませんでした」
え。あれ?
なんか語り始めたんですけど……。
なにがどうなっているんだ……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
あれ? でも今確かに嫌って……。
え? なんで?
待って。今なにが起こってるの?
なんで断られたの?
だ、ダメだ……熱と情欲で全然頭が回らない……。
「でも、私……お師匠さまと一緒に暮らし始めて、お師匠さまに何度も気を遣っていただいて……私の苦しみがお師匠さまの苦しみでもあるってことを知ったんです」
「……? そ、そうなんだ」
「今日の、私がコップを落としてしまった時だってそうです。お師匠さま、ものすごく慌てて心配してくれましたよね? 私あの時、それがすごく嬉しかったんです。あぁ、この人は私のことを本当に大切に思ってくれてるんだな、って……」
「へ、へえー……」
刺激を感じることが怖くてじっとしているのに、じっとしていると逆に全身の感覚がどんどん敏感になっていくようで、時間を経るごとに情欲が強まっていく。
体の芯が発する熱。脳がとろけるような、言いようのない陶酔感。確かに心地が良いのに、どうしてかまるで満たされることがなく、お腹の少し下辺りが妙に切なくて、耐え切れず足をモジモジと動かしてしまう。
それらが誘う情動に走りたい欲求に耐えることに本当に必死で、フィリアがなんかいい感じのことを言ってくれているのはわかるのだが、深そうな意味とかは全然理解できない。
そんな私に、フィリアはなおも続ける。
「一人が寂しかったって……私をお買いしたあの日、お師匠さまはそう言いました。私と同じ……お師匠さまはきっと、一人で苦しむことに慣れてしまっているんです。どうしても自分の存在に価値を感じることができない……」
「そう、なの……?」
「そうなんです」
そ、そうなんだ。知らなかった。
少しだけ悲しそうに、フィリアが顔を伏せる。
「自分の体を大切にすることの優先順位がなによりも低くて……だから熱があったことも、私に言ってくれなかったんだと思います。そして今も、自分が苦しい以上に、ただ私に手間をかけさせたくないから……」
「……え。あの……」
「違いますか? お師匠さま」
顔を上げたフィリアが、確認するような視線で私を射抜く。
お、おう……全然違うぞ……?
熱があることを言ってくれなかったとフィリアは言っていたが、熱は普通に直前までなかった。
手間をかけさせたくないのはあっているものの、その手間の内容はフィリアが考えているようなことではないしフィリアが思ってるような理由でもない。
お、おかしい……なんだか既視感があるぞ……。
前にもこんなことがあったような気がする……具体的にはフィリアを買った初日の夕食時。
あの日もこうやってフィリアがなんか突然語り出したかと思ったら、結局なにもかもが見当違いの方向にそれてしまったのだ。
あの時と同じ流れだとすれば……うまく頭は回らないにせよ、なんとなくこの状況が非常にまずいということだけはわかる。
とにかくこの状況を打開しなければ。
その思いで、必死に言葉を紡ぐ。
「ふぃ、りあ……おねがい……」
「お師匠さま?」
「どう、か…………ひと、りに……して……」
大きな声を発しようとすると、舌が口内を少なからず動く感触がわずかながらも快楽を呼び、うまく言葉を話すことができない。
それでも私はとにかく全身全霊で、ただただフィリアに自分の意志を伝える。
「せつ、ないんだ。ずっと……むねの、おく、が、んんっ……くるし、くて……ふぃりあに、だけは……みせられ、ないっ……わたしの……なさけない、ふうぅ……! みだ、れた……すがた、は……」
もしもここで欲望に負けてフィリアに見せてしまったら、例によって「お師匠さまのためなら……!」って感じで受けに回る羽目になる。
それだけはダメだ。私は攻めがいいんだ。
あのお胸さまを自由にできる立場……そこに至るためには、ここで流されるわけにはいかないんだっ……!
強い思いで理性を保つ。
強い思いが倫理観とか罪悪感とかそういうまともな感じじゃなくて、それがまた性なる欲に準ずる欲望であることがちょっとアレだが、むしろだからこそなのかもしれない。
理性を奪おうとする情欲と元を同じくする欲求が理由だからこそ、今もなおギリギリ理性が保てている。
……あれ? 保ててるよね? 理性。
元が同じ欲望を理由にしている時点で理性保ててないんじゃない、とか思っちゃったけど、そんなことないよね?
私が攻めの立場でフィリアとにゃんにゃんしたいからっていう情欲で今の快楽に走りたい衝動を耐えられてるのは、理性があるからだよね?
うん。そうに違いない。大丈夫。まだ私は正常だ!
「お師匠さま……大丈夫です」
フィリアはずっと握っていた私の手を離し、私の顔を覗き込むように前かがみにしていた体を起こす。
そして私に背を向けて、歩き始めた。
やっと出て行ってくれるか……。
せめて見送ってあげようと視線でフィリアを追うと、彼女は私の部屋にあるイスを両手で持ち上げて、ベッドのそばに戻ってきた。
「私、ずっとそばにいます」
そう言って、フィリアはベッドの横に置いたイスに腰掛ける。
……うん?
大丈夫って言ってたけど、それなにが大丈夫なの……?
全然大丈夫じゃないよ?
「お師匠さまは情けない姿を見せたくないって言いましたけど……お師匠さま。私はこんなことでお師匠さまに失望したりなんてしません。強くなくたっていいんです。たった一人で強くあろうとしなくたっていい……何度も言ってるじゃないですか。頼ってほしいって……」
「ふぃり、あ……」
「お師匠さまは私が苦しんでいると、一緒に苦しんでくれます。それと同じです。お師匠さまが苦しいと、私も苦しいんです……どうにかしてあげたい。そう強く思うんです。きっと、お師匠さまと同じように……」
フィリアは私の頭にそっと手を当てて、撫でるように動かしながら、言った。
「お師匠さま。お慕いしています。この先なにがあったとしても、この気持ちだけは未来永劫変わりません。だから、お願いです。そばにいさせてください。初めて会ったあの日、お師匠さまが私に温もりを教えてくれたように……私も、お師匠さまのためにできることをしたいんです」
「ふぃ……ふぃりぁあ……!」
違う……! 違うんだよっ……! そうじゃないんだよ……!
私別に体調を崩して苦しんでるわけじゃないんだよ! 自分を顧みてないわけでもフィリアに心配かけたくないわけでも失望されたくないわけでもないんだよ!
むしろめっちゃ自分顧みてる! 顧みて、少しでも興奮を治めなきゃ「もう別に受けでもいいかな……」とか思いかねないから、早く一人になって、その……したいんですよ……!
なのになぜ……? なぜこの子はそれをわかってくれないの……?
なんでもしてくれるんじゃなかったの?
どうして私を苦しめるの?
私の苦しみがフィリアの苦しみ……?
嘘だ……ありえない。
だって私の気持ち、まるっきりフィリアに伝わってないじゃないですかぁ……。
「うっ、うぐっ……ひっぐ、ぅう……」
なにを言ったところで、フィリアが出ていくことはないだろう。きっと彼女自身にもそのつもりはない。
心を深い絶望感が満たし、自然と嗚咽が溢れ出る。
涙がこぼれ落ち、頬を伝ってシーツに堕ちて、小さなシミを作っていく。
「お師匠さま……大丈夫です。大丈夫ですから。そばに、いますから」
フィリアは聖母のごときどこまでも穏やかで優しい顔で、いつまでも私の頭を撫で続けていた。
髪に別の誰かの手が触れて、そっとくすぐられるようなその感触は、まるで悪魔のように私の情欲を掻き立てる。
その日私はアンデッドの気持ちを知った。
人間には福をもたらすとまで言われている聖魔法を食らうと、苦悶の声を上げる彼ら。
あぁ、浄化されるゾンビやグールたちってこんな気持ちだったんだな――と。
窓から朝日が差して、部屋の中を照らしていた。
外からは鳥のさえずりも聞こえてくる。
客観的に見れば実に心地の良い朝の風景だろうが、目覚めの気分は最悪だった。
「……昨日は散々な目にあったな……」
結局あの後、フィリアにずっと看病されながら一晩を過ごした。
その最中、「もう受けでもいいんじゃない?」「フィリアにしてもらうのも悪くないと思う」「見られてても関係ない。むしろ見られてる方が興奮するのでは?」などという悪魔の囁きが聞こえ、流されそうになることが幾度もあった。
しかしそれでも何十分、何時間と、必死に情動を抑えられていたあの時の自分は本当に頑張ったと思う。
最後には結局、むしろそうやって精神を張り詰めすぎて体力を使い切ってしまったのだろう。
いつの間にか眠ってしまって、気がついたら朝になっていた。
これだけ時間が経てば、さすがにもう薬の効果は抜けている。
時間が経ったことで今こそ渇いてはいるが、つい数時間前まで衣服やベッドのシーツは汗まみれでぐしょぐしょだった。
渇いた今でも、汗をたっぷりと吸っていたそれらは気分がいいものではなく、どれもこれも早急に洗う必要があるだろう。
「水……」
のそのそとベッドから這い出る。
昨日夜遅くまで看病してくれていたフィリアは、起きた時にはもういなかった。
「……体が重いな……」
まるでアンデッドのように一歩ずつ鈍重に、台所を目指して廊下を進んでいく。
台所の近くまで来ると、なにやらジュージューと焼けるような音が聞こえてきた。
台所に入ってみれば、エプロンを身につけたフィリアが悪戦苦闘しながら朝食を作っている。
「あ、お師匠さま! おはようございます! お体の方はもう大丈夫なんですか……?」
私に気づいたフィリアが無邪気な笑顔を向けてくる。
「あぁ、おはよう。体は、まぁ……少しだるいくらいだ」
「無理はなさらないでくださいね……? 朝食は私が作りますから、お師匠さまはテーブルの方でお休みになっててください」
これまでは私一人か二人一緒にしか料理をしたことはないのだが、見たところフィリア一人でも作れそうな簡単なものしか作っていないようだったので、ここはお言葉に甘えることにした。
「ありがとう。でも、少し水をもらおうかな」
「わかりました。ちょっと待っててくださいね」
フィリアがコップを取り出して水を注いでくれる。
コップか。そういえば昨日は私のせいでフィリアが私のコップを落として割れちゃったんだったな。
フィリアだけ専用のコップがあるとフィリアは気にするだろうし、また近々買いに行く必要があるかな。
水を汲み終えたフィリアが、そのコップを私に差し出してくる。
「はい、どうぞっ! ……って、あれ?」
「ん。ごくごくっ……どうかした?」
「いえ、なにか落ちたみたいですけど……これは……?」
私の足元に転がっていたものを、フィリアが持ち上げる。
「なにか小さく貼ってありますね。えぇっと……淫魔のエキス……配合……夜のお供……」
それは二、三立方センチメートルくらいの小さな小瓶で、中には濃厚な桜色の液体が――。
「っ!?」
「あっ、お師匠さまっ!?」
素早くフィリアからその小瓶を奪い取り、懐に隠す。
しかしフィリアには瓶のラベルに書かれていたことまでばっちり見られてしまったようだ。
少し気まずそうに、頬を朱に染めている。
「あ、あの……い、今のって、その……もしかして、媚や――」
「ま、魔道具用だっ!」
「魔道具、ですかっ?」
「私は冒険者だって前に言っただろうっ? その、そういう薬は魔物をおびき寄せる使い捨て魔道具の材料になるんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ! ちゃ、ちゃんとあるべき場所にしまっておいたつもりなんだが……うっかり持ってたままだったみたいだなっ? すまない、朝から変なものを見せてしまって」
「い、いえっ! こちらこそ変に騒いでしまってごめんなさい!」
勢いよくぺこりとフィリアが頭を下げる。
あ……危なかった。なんとか誤魔化せたようだ。
……ほ、本当に誤魔化せたのかな。フィリア、実はちょっと変に思ってたりしないかな……。
だって、フィリア今ちょっとちらちらと顔を赤くしながらこっち覗いてきてるし……。
「その……ごめんなさい。実は私……一瞬、お師匠さまが昨日のお料理かお飲み物にいれてたんじゃないかって、そう疑ってしまったんです」
「うぇっ!? そ、そそそそんなわけないだろうっ?」
「そうですよね。お師匠さまがそんなことするはずありません。ごめんなさい……一瞬でも変な誤解をしてしまって」
「あ、ああ。気にしてないよ」
そんなことしたんだよなぁ……。
「で、でも……えっと、あの……」
顔を真っ赤に染め上げて、もじもじとしながら、ちょこちょことしおらしくフィリアが近づいてくる。
そしてそうっと顔を近づけてきたかと思うと、耳元でささやくように、彼女は。
「――お、お師匠さまとならそういうこと……あ、あんまり悪くないかもって……」
「――――」
ばっ! と素早く離れたフィリアが、ぶんぶんと激しく首を横に振った。
「ご、ごめんなさいっ! 変なこと言っちゃってっ……い、今のは忘れてくださいっ! 朝食の続き作りますから、お師匠さまはお先にテーブルの方へ行っててくださいっ!」
フィリアに背中を押されるように、急かされるようにして台所を出ていく。
無言。半ば放心状態で歩いて、いつもの食卓までやってきた。
座るでもなく、他になにをするでもなく、ただただそこで立ち尽くす。
そうして一〇秒くらい経った頃だろうか。
さきほどの囁きは紛れもない現実だったと、そう理解した私は静かにため息をついた。
「……私もうダメかもしれんな……」
吉報……うちの奴隷が可愛すぎる件について。
もう薬の効果はないはずなのに、ばくばくと激しく鼓動を打っている心臓。
そして今更になって、これでもかというほど紅潮し始めた顔を自覚しながら、私は天井を仰いだのだった。
端的に自己紹介をしたいと思います。
私の名前はフィリア。
偉大なる魔法使いであらせられるお師匠さまの一番弟子であり、お師匠さまの奴隷でもあります。
奴隷とは言っても、奴隷らしい扱いをされたことは一度もありません。
隷属契約の術式でいつでも私を従えられるはずなのに、お師匠さまは私を買ってから一度だってその術式を行使したことはありません。
お師匠さまはいつも私を気遣ってくれて、まるで家族みたいに扱ってくれます。
さて、そんなお師匠さまと暮らす私の一日は日の出とともに始まります。
窓から差し込む日差しで目を覚ますと、手早く着替えを終えて、身だしなみを整えます。
そうしてすぐにお師匠さまのお部屋に向かいます。
お師匠さまはまだこの時間は起きていません。
日の出から大体二〇分くらい経ってから目を覚まします。
それまでの間、お師匠さまのベッドの前で膝を立てて座って、お師匠さまの寝顔を眺めているのが私の日課です。
こうして眠っているお師匠さまは、まるでお人形さんのようです。
十代前半ほどの小さな体躯に、白く傷のない美しい肌。さらさらと一本一本が細やかで艶やかな銀の髪は、鼻を近づけると本当に良い匂いがします。
あぁ……お師匠さま。今日もとっても可愛らしいです……。
こうしてお師匠さまの寝顔を拝見することで、深い幸せを感じるとともに、今日も一日頑張ろうという気になれます。
「ん……フィリア……」
あ、お師匠さまが起きたようですね。
「おはようございます、お師匠さま」
「ああ、おはよう」
眠そうに半分だけ目を開いているお師匠さまも、寝ている姿と同様にとても愛らしい。
瞼から覗く翠色の瞳は、まるで大らかな自然のように、見つめているだけで心が癒やされます。
「ふわぁ……フィリアはあいかわらず早いね」
お師匠さまのあくびシーン……!
これは貴重ですね。具体的には三日に一回くらいしか見られません。脳内にきっちり保存しておきましょう。
「お師匠さまのお手伝いをするためですから!」
私はそう言って、お師匠さまの今日のお洋服を掲げます。
以前、お師匠さまと一緒にオーダーメイドをした服です。この前ようやく製作が完了したようで受け取ることができました。
お師匠さまは放っておくといつも同じような服を着ようとするので、お師匠さまのお洋服を選ぶのは私の役目です。
決して、そう決して! その日の私の好みで選んでいるわけではありません!
その日のお師匠さまの予定を考慮して、最適だと思われるお洋服を選んでいるだけです! 他意はありません!
「……フィリア。前にも言ったと思うけど、別に着替えまで手伝わなくてもいいんだよ?」
「ダメです! お師匠さまの身の回りのお世話は私の役目ですから!」
「しかし」
「ダメですっ!」
そう、ダメなんです! もしもお師匠さまのお着替えを手伝わないとなれば、朝こうしてお師匠さまのお部屋に入る口実がなくなってしまいます……!
そうなるとお師匠さまの寝顔を拝見することができません! 私の一日の活力の源がなくなってしまうんです! それだけは絶対に嫌ですっ!
「そ、そうか。その、無理はしなくていいからね……?」
「はいっ。お気遣いありがとうございます、お師匠さま」
お師匠さまのお世話が無理なはずがありません。お師匠さまに関係することならなんだってできる自信があります。
「それじゃあ早速、今日もお着替え手伝わせていただきますね」
「……ああ」
お師匠さまのネグリジェを脱がすと、それだけで大事なところ以外はすべてあらわになります。
それはそれは一種の絵画や芸術品のように美しい光景で、いつまでも眺めていたい気分に駆られるのですが、お師匠さまに寒い思いをさせるわけにもいきません。
丁寧に、お師匠さまの手を煩わせないよう、素早く新しい服をお師匠さまの袖に通していきます。
「終わりましたよ、お師匠さま」
「ああ。ありがとう」
それからはお師匠さまがお顔を洗いになっている間、私は一足先に台所へ向かって、朝食の準備を始めます。
本当は私一人で全部作ってしまいたいのですが、ろくに料理のことを知らない私ではまだお師匠さまを満足させるような料理を作ることができません……。
今はまだお師匠さまから技術を盗んでいる最中です。
朝食を作り終えると、次は当然それを食べる時間です。
お師匠さまはエルフなので、野菜や果物が大好物のようです。なので、うちは野菜を使った料理が多いです。
でも私のことを考えてなのか、最近は少しずつ肉や魚などのバリエーションも増えてきたように思います。
お師匠さまのそうやって私のことを一所懸命考えてくれるところ、本当に大好きです。
朝食の後は、少しゆっくり過ごしてから魔法の特訓の時間が始まります。
「魔法に魔力を繋いだまま操ることにも大分慣れてきたね」
「はい! お師匠さまのお教えのおかげです!」
「私はなにもしてない。フィリアの筋がいいんだよ」
魔法の特訓は大変ですが、お師匠さまに少しずつでも近づいている実感は他のどんなものにも代えがたい充足感があります。
それに、もとより私はお師匠さまの弟子になるために奴隷として買われた身です。
この時間こそがお師匠さまへ恩を返せる一番の時間であり、それをめんどくさいなどと思うことは絶対にありえません。
どんなに無理そうに見える課題でも、どれほど同じことの繰り返しでも、一秒たりとも集中は欠かしません。ここで怠けることはお師匠さまへの思いがその程度だったと認めることと同義ですから。
「少し休憩にしようか」
お師匠さまは時折本を読んだりもしていますが、私が辛そうにしていると必ずこうして声をかけてくれます。
「はいっ!」
私のことをちゃんと見てくれているからこそのお声は本当に嬉しくて、いつも元気に返事を返すようにしていました。
「お師匠さま。お師匠さまはいつ頃から冒険者としての活動を再開するつもりなんですか?」
木陰になるガーデンベンチでお師匠さまとの二人で涼む時間はまさしく至福です。
「そうだね。実は、あと一週間もしないうちに再開しようと思ってる」
「そうなんですか……」
お師匠さまが冒険者活動を再開するとなると、当然、一緒にいられる時間も減ってしまいます。
私がしょぼくれていると、ふと、私の頭の上に心地のいい温もりが置かれました。
「大丈夫。私はSランクっていう結構すごい冒険者だからね。そんなに頻繁に活動しなくても、お金はじゅうぶん稼げる。フィリアをほったらかしになんてしないよ」
「お師匠さま……」
そうです。いつまでもお師匠さまに甘えているわけにもいきません。
初めて会った日、お師匠さまは一人が寂しかったと言いました。
それなのに熱を出したあの夜は、一人にしてほしいと言いました……。
それはきっと、私がお師匠さまにとってただ守るだけの対象で、頼れる相手ではなかったからなのでしょう……。
だから私は決めたんです。
お師匠さまに甘えるだけじゃない。逆にお師匠さまに甘えられて、頼られるような、そんな人間になるんだ、って。
「お師匠さま……! 私、頑張ります! いつか必ず、お師匠さまを支えられるようになりますから!」
「フィリアにはもう大分支えられている気がするけど」
「足りないんです! もっともっと、お師匠さまのためになれることを勉強します! というわけで、特訓を再開しましょう!」
そうして休憩や昼食を挟みつつも魔法の特訓を続けていると、やがて日も沈んできます。
本当は午後は自由時間にしていいと言われているのですが、お師匠さまがお出かけになる時以外はいつも魔法の特訓を自主的にやっています。そしてお師匠さまも、そんな私をいつも見ていてくれるのです。
日が沈むと、お風呂の時間です。
お師匠さまはお優しいので、訓練で汗をかいていた私に一番風呂を勧めてくださいます。
しかし私ごときがお師匠さまよりも先に入るわけにはいきません。先にお風呂に入るのは絶対にお師匠さまです。
以前、恐れ多くも一緒に入ろうとお師匠さまから誘われたこともありました。
その時は本当に、ほんっとうにとても非常にこれでもかというほど葛藤したのですが、やはり私ごときがお師匠さまのあられもない姿を見ることなどできないという結論に至りました……。
それに、お師匠さまの完璧に美しいお体と違って、私はアンバランスに胸にお肉が大きく詰まった浅ましい体です。
こんなものをお師匠さまに無遠慮に見せることなどできません……。
でもお着替えは手伝わせていただきます。
お風呂に入り終えると、一緒に夕食を作ります。
私の常識では一日は二食が基本だったのですが、お師匠さまは朝と昼と夜で三食を食べることを好みます。
なんでも、その方が健康にも成長にもいいとのことです。さすがお師匠さまは物知りです!
「フィリア。今日もお疲れさま」
夕食の時間になると、なんとお師匠さまがいたわってくれました!
「いえ、お師匠さまこそ!」
「……その、フィリア。別に魔法の特訓、一日とか二日とか休んでも私はなにも言わないよ?」
「ダメです! お師匠さま、努力は毎日こつこつと積み上げることが重要なんですよ? お師匠さまも言ってくれたじゃないですか。積み上げたものは裏切らないって。怪我や病気などの特別な理由がないなら一日だって欠かすことはできません!」
「そ、そうか。フィリアは真面目だね」
えへへ……真面目っ! お師匠さまに褒められちゃいました! 今日は本当に良い日です!
夕食の後のお師匠さまはお部屋で読書か、魔導書をお書きになります。
私はいつもそんなお師匠さまと同じお部屋で、同じように魔法の基礎の本を読み込んでの読書か、魔導書の執筆を後学のために横から拝見させていただいています。
お師匠さまいわく、魔導書の執筆はただの小遣い稼ぎだそうですが、今の私には書いてあることの二割も理解できません……。
そういえば以前またお師匠さまと本屋に寄った時、お師匠さま著作の魔導書の複製本が売られていて、思わず欲しくなったのを覚えています。でもありえないくらい高額でした。
お師匠さまにとってはあれが小遣い稼ぎなんですね……。
このお屋敷も私を買う上で広い家が欲しかったから買ったとのことでしたけど、明らかに広すぎますし、他にもいろいろと……なんだかお師匠さまの金銭感覚って私とはかけ離れてそうです。
お金が少なくなってきたから活動を再開するって言っていましたが、私からしてみたらまだ全然大金だったりしそうです……。
「ん……そろそろ寝ようかな」
「そうですか? ではお師匠さまがお眠りになるまで、ご一緒します」
「……いつも思うんだが、そのご一緒は必要なのだろうか」
「必要です! 絶対に!」
朝にお師匠さまの可愛らしい寝顔を見て、夜にまた同じ寝顔を見る! そうして私の一日が終わるんです!
これだけは譲れません! たとえお師匠さまのお言葉でも無理です!
「そ、そう。必要ならいいんだ。じゃあ、その……おやすみ、フィリア」
「はい。おやすみなさいです、お師匠さまっ」
お師匠さまがベッドに潜り込んだことを確認して、明かりを消します。
暗闇の中、私は小さな光の魔法を使って、あらかじめベッドの横に設置しておいたイスに腰を下ろします。
……ふむ。お師匠さま……まだ寝れてませんね? いつもの寝顔とはまだちょっと違います。
でも、そうして寝ようと努めているお師匠さまもとても愛らしいです……!
…………あ、段々と朦朧としてきて……寝ました。今寝ましたね。私にはわかります。今寝ました。
えへへ、やっぱりお師匠さまの寝顔は最高です。これで今日も気持ちよく寝られそうです。
「……また明日です、お師匠さま」
小声で呟いて、そっと部屋を出ます。
自室に入ったら、私はすぐに机に向かって日記を書きます。
今日のお師匠さまのご様子と、お師匠さまとのやり取りをページいっぱいに書き記します。記憶力はいい方なんです。
「できましたっ。えへへ、私も明日のために寝ましょう」
日記帳を閉じて、しまって、明かりを消してベッドに入ります。
明日も日の出と一緒に起きましょう。それからすぐに着替えて顔を洗って、お師匠さまが目を覚ます前にお部屋に向かうんです。
そうしてお師匠さまの寝顔を見られれば、明日もいくらだって頑張れます。
「おししょ、う……さまぁ……」
お師匠さまのことを考えながら、やってきた睡魔に身を任せます。
今日は、本当に良い日でした。お師匠さまのあくびが見られて、お師匠さまに心配してもらえて、お師匠さまにいたわってもらえて、お師匠さまに褒めてもらえて……。
あぁ、これならきっと、今日は素敵な夢が見られることでしょう。
まあ一番素敵なのは、現実のお師匠さまなんですけどね。
「それじゃあ、行ってくるよ。フィリア」
「はい! いってらっしゃいませ、お師匠さま!」
フィリアに見送られて、屋敷を出る。
フィリアを一人にするのは少し心配ではあるが、しょせん遅かれ早かれの違いだ。
フィリアは頑張りすぎる面があるので、私がいない間でも無理な魔法の訓練をしないよう口酸っぱく言い含めてある。
台所には火事防止の魔法を念入りに仕掛けてあるし、フィリアはまだ回復の魔法が使えないため、それ単体で軽い回復魔法を行使できる鐘の魔道具も用意した。
屋敷を囲うように、屋敷内の物や人へ悪意を持つ人物は入れないような結界も張ってある。
悪意を持つ人物は入れなくとも、中に入ってから悪意を持たれては意味がない。なので念のため、来訪者は絶対に中に入れないようフィリアにこれまた言いつけてある。
他にも、それでも万が一フィリアが危険にさらされた時のために防犯ブザー的な魔道具も渡したりしておいた。栓を引き抜けば、私の持つ受信用魔道具にびびっと連絡が来る仕組みだ。
……ちょ、ちょっと過保護すぎるかな……? そんなことないよね?
でも心配なんですよ。フィリアって無自覚無邪気無防備の三点セットに加えて純真無垢で健気な子だからなぁ。
これが子を心配する親の気持ちなのか……。
まあ親は子とにゃんにゃんしたいとか思わないだろうけど。
今日は私が冒険者活動を再開する日だ。
活動を休止してから、なんだかんだでもう一ヶ月以上経ってしまっている。
フィリアを購入する以前は欲求不満な日々が続いていたのでヤケクソ気味に魔物を狩りまくっていたものだが、今はさっぱりである。
まあ欲求不満なのは変わりないけど……むしろフィリアが四六時中そばにいるせいでひどくなっているかもしれない。というか、なっている。
薬盛って襲おうとした時とか本当にピークだった。
今はそこまででもないけれど、一人の時間が取れず長いこと欲求を解消できていないので、いつまた暴走してもおかしくない。
……うん? ずっと一人の時間が取れなくて嘆いてたけど、よくよく思い返したら、今は一人じゃ……?
フィリアは家にいるし。言いつけを守っているはずの彼女はまず追いかけてこない。
い、いや、一人って言っても外だしな。うん。外はダメだよ。
いくら欲求不満だからって外はよくない。さすがに変態がすぎる。
……で、でもなぁ。一ヶ月以上もお預けされ続けてたんだよ? あの御本山さまを備えたフィリアの前で。
一度は淫魔の液体薬だって飲んでしまって、なおかつなにもしないで耐え続けた。
…………見つからなきゃ、いいんじゃない?
よしんば見つかっても、ほら、魔法でどうこうすれば。
許可なしにそういう魔法かけるのが犯罪でも、ばれなきゃいいわけですし?
こう、どこか人気のないところで――。
「だ、ダメだっ」
ぶんぶんと頭を横に振って危ない思考を振り払う。
今のだよ。そう、今のが欲求の暴走ってやつだよ。フィリアに薬盛ろうとしてた時もこんな感じだった。
見つからなきゃいいとかじゃないって。外の時点でもうダメなんだって。
私はこんな体でもちょっと女の子が好きなだけであって、外であんなことやこんなことをしちゃうような変態じゃないです。
これ以上考えているとまた悶々としてしまいそうだったので、必死になにも考えないように足を進めていく。
そうしていると、やがて冒険者ギルドが見えてきた。
冒険者ギルド。魔物が出没する危険区域での活動を専門とする職業、冒険者を管理する組織だ。
建物の中に入っていくと、中にいた冒険者たちの視線が私に集まり、少しだけ場が静まった。
その後すぐに、ひそひそと内緒話をする者が出始める。
冒険者にはSを最高として、その次にAからFの合計で七のランクが存在する。
その頂点に君臨するSランクは世界でも両手両足の指で数えられるくらいしか存在しないとのことで、その一員である私もそれなりに有名だ。
ふふ、そう。
最近はフィリア関連でいろいろとドジをやらかしてしまっているものの、私は本来《至全の魔術師》というすごい魔法使いなのだ。
全に至りし者とか呼ばれているのだ。
それ聞くたびに全ってなんだよって毎回思うけど。
「さて、どうするかな」
依頼が貼り出された掲示板の前に立って、顎に手を添えて唸る。
掲示板はその難易度によって、FからDで一つ、CとBで一つ、AとSで一つで計三つに分かれている。その中で私が見ているのはAランク以上の依頼が貼り出された掲示板だ。
FからDならばともかく、A以上の依頼ともなると遠出しなければいけないものばかりだ。
そんなに強力な魔物が街の近くに頻繁に現れるわけもないので、当たり前と言えば当たり前なのだが。
うーん……でも、今回は日帰りで終わらせたいんだよね。
フィリアをあんまり一人にしたくないし。
いずれは何日もかかるような依頼を受けるつもりではあるけど、しばらくは日帰りでやっていきたい。
とは言え、報酬がいいAランク以上の依頼はやはりどれも遠出が必須なわけで……。
だからまあ……転移の魔法、使おうかな。
あれなら一瞬で移動して一瞬で帰ってこれる。
ちょっと味気ないが、遠すぎるのでしかたがない。最短の依頼で往復五日ですよ。遠いわ。
とりあえずAランクのファイアドラゴン討伐でも受けておこうかな。
竜の肉はおいしいらしいから、持ち帰ればきっとフィリアも喜んでくれるはずだ。
そう思って貼り出された依頼の用紙の手を伸ばしかけた。その瞬間、背後からギルドの扉が開く音が聞こえる。
それだけなら気にしないのだが、問題は私が入ってきた時と同じように、いやそれ以上の静寂がギルド内部を支配したことだ。
あ……これあの子来たわ……。
掲示板に伸ばしかけた手を引っ込めて、半ば確信しながらも、恐る恐るギルドの出入り口を振り返る。
するとそこには、私が予想した通りの人物が立っていた。
背丈は私と同じくらいだろう。しかし比較的落ちついたような雰囲気だろう私とは打って変わって、彼女は実に凄惨だ。
渇いた血がこびりついたかのような赤黒い髪をツインテールにまとめて、なびかせる。闇の中でさえ、否。闇の中でこそ爛々と輝くであろう真っ赤な瞳には、獣のごとき縦に開いた瞳孔が窺える。
徹底的に動きやすさを重視した服装と、背と腰にそれぞれ二本ずつ携えた合計四本の小剣。幼気ではあるが、むしろだからこそ彼女の狂気的な雰囲気をかきたてる。
この街を拠点として活動するSランク冒険者は私と、もう一人。
それがこの少女、《鮮血狂い》ことシィナだった。
「……!」
シィナは初め、受付に向かって歩いていたが、私を見つけると、途端に足先をこちらに変えてくる。
彼女自身の鮮烈な存在感も相まって、思わず、ちょっとビクついてしまった。
「…………」
私のすぐそばまで来たシィナだが、なにも言葉は発さない。
ただし獣人である彼女の頭に生えた二つの猫耳はぴこぴこと動いていて、尻尾も心なしか少しはしゃいでいるように見える。
どうやら、私と会えたのが嬉しいようだ。一ヶ月以上来てなかったからな。
「シ、シィナ。久しぶりだね」
シィナは無口、無表情がデフォルトではある。が、反応がないわけでもない。
私が声をかければ、彼女はこくりと首を縦に振った。
……正直に言うと、私はこの子がちょっと苦手だ。
別に、無口だから苦手なわけではない。
むしろ、無口な子がにゃんにゃんする時に声を出して乱れるとかそそるじゃないですか。猫の獣人だけににゃんにゃん的な?
それを思えば無口は一種のチャーミングポイントだとも言える。
見た目だって掛け値なしに可愛い。私を見つけてすぐに駆け寄ってくる辺り、まさしく懐いた子猫のようだ。
フィリアのように大きなお胸さまこそないが、じゅうぶんにストライクゾーンの範疇である。
……ただ、その。
この子、なんていうか、ちょっと病んでるというか……。
一度手を出してしまったら、ずぶずぶと泥沼に沈んでいってしまいそうで、その……。
「シ、シィナ?」
ふと、シィナが不思議そうに首を傾げたと思ったら、さらに一歩近づいてくる。
ちょっと顔を動かせば、顔と顔が衝突してしまいそうな距離。
そんな近さの中、シィナは私の肩辺りですんすんと鼻を動かし始めた。
そして口を開くと、耳元で、静かに言った。
「…………ほかの……」
「ほ、他の?」
「…………ほかの……おんなの……においが、する」
ひえっ。
見れば、シィナはぷくぅーっと頬を膨らませて、明らかに不満げな様子を表していた。
「……あなた、は……わたし、だけの……もの……」
「シ、シィナ、だけの……?」
「……だれにも、わたさない。ぜったいに……」
これですよ、これ……。
シィナさん、めっちゃ怖いの。
滅多に口を開かないのに、いざ開いたと思ったら、毎回めっちゃ怖いことばっか言うの。
シィナは、ともすれば今にも剣を引き抜いて斬りかかってきてもおかしくない、そんな危険な空気さえ纏っているように見える。
見開かれた、その真っ赤な血の色をした眼が、じーっと私を見つめている。
Sランク冒険者である彼女が放つその重圧は、周りにいた冒険者が巻き込まれまいとそそくさと逃げ出すほどだ。
「…………かまって」
「う、うん。おいで、シィナ……」
逃げたり怯えたりしたらなにをされるかわかったものではない。なんとか平常心を装いながら、シィナを抱き寄せて頭を撫でる。
ふにゃあ、とわずかに頬を緩めたシィナは、確かに可愛い。可愛いのだけども……。
「あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……」
ぽっと頬を朱に染めて、すりすりと猫のように頬や顎を寄せてくるシィナ。
それはさながら、私についていた「ほかのおんなのにおい」を、自分のそれで上書きするかのように……。
……う、うん。や、やっぱ怖いなこの子……。
これがフィリアなら狂喜乱舞するところなのに、シィナだと気を抜くとなにをされるかわからない不安で、そんな余裕がない。
よしんばにゃんにゃんするような関係になれたとして、だ。この子だと、その、めっちゃ痛くてグロいこととかされそうな危険がある。
だってこの子の二つ名、《鮮血狂い》ですよ? 魔物の血しぶきを浴びながら笑顔で惨殺し続ける姿から取られた二つ名なんですよ、これ。
絶対やばいって……シィナさん、好きな人が泣き叫ぶ姿とかで興奮するタイプだって……。
そんな子に手を出してしまったら、最悪、その後の人生が簡単に終わってしまいかねない。
「シ、シィナはアマエンボウダナー」
若干片言になってしまいつつも、甘えてくるシィナに応え続けた。
猫にするみたいに顎の下を撫でてあげれば、彼女は本当に気持ちがよさそうに、ほんの少しだけその無表情を崩して笑みを見せる。
そうしながら、私はかつてのことを思い返していた。
シィナと出会い、そして懐かれた、あの日の過ちのことを……。
女の子といちゃいちゃしたい。
あわよくばにゃんにゃんしたい。
明確にそんな思いを抱くようになったのは、冒険者としての生活が順風満帆となってきた頃だった。
冒険者にもなっていなかった初めの頃は、ただ単に魔法への興味ばかりが胸の内にあった。
なにもないところから火を出したり、水を出したり、そういったことが楽しかった。
前世では空想の産物でしかなかった力。それをこの手で確かに使えるという感覚は、私に大いなる興奮をもたらしてくれたものである。
しかし、それはまだ魔法が未知だった頃の話だ。
魔法を知れば知るほど、どんどん学ぶものがなくなっていく。できることとできないことの区別がついて、やがて私にとって魔法はただの常識の一部となった。
そして魔法の次は、冒険者になってからの新しい生活が大変で、単に余計なことを考える暇がなかった。
初期の慣れない頃の冒険者生活は本当に大変だった……。
人の手が入っているわけでもない森や山の中。帰り道がわからず、幾度となくさまよい。
現地で食糧を調達しなければいけないことが多いため、毒の有無を知らなければならず植生などについて勉強したり。
冒険者にとって一番怖いのは狼などの動物型の魔物よりも、小さな虫型の魔物だ。
気づかないうちに這い寄られていて、うっかり刺されたり噛まれたりして即効性の毒なんて食らったりしてしまったら、仲間がいなければその時点でもうお陀仏である。
魔法があるおかげで、ただ強いだけの魔物程度なら容易に対処できたけれど、そういった地味な部分への対処は本当に面倒だった。
というか、その強い魔物への対処だって別に楽しいわけでもない。
ぶっちゃけ戦いなんて無駄に疲れたり怖かったり痛かったりするだけだ。
ゲームでやるぶんには楽しいけど、残念ながらこれは現実である。
魔物の絶叫、悲鳴。懸命に子を守ろうとする魔物さえ、人類にとって害になるのなら手を下さなくちゃいけない。
どんなに取り繕ったって、殺しは殺しだ。そんなものが楽しいはずもない。
そんな私が、人並みな一つの願望にたどりつくことはもはや必然だと言えただろう。
そう。その願いこそ――女の子といちゃいちゃしたい……あわよくばにゃんにゃんしたい!
ただれた生活を可愛い、あわよくば胸も大きい女の子と過ごしたい!
胸焼けしそうなくらい甘ったるい日常を過ごしたい!
それを叶えるためにはどうすればいいのか……。
最近はずっとそればかりを考えていた。
今の私は前世とは違って、ほんの一〇代前半がいいところの小さな少女だ。
普通なら同性と付き合ったり、R18なことをしたいなんて思わない……はずだ。
こんな私が自分の願いを叶える方法があるとすれば、大雑把に分けて二つになるだろう。
片方は、ギブアンドテイク――お互いに利益がある関係をつくること。
たとえば、私の気が向いた時にえっちなことをさせてもらう代わりに、その生活のすべてを養うとか。
ただこれはちょっと……正直、あんまり気は進まない。
言い換えれば弱みを握っているだけだ。
しかもにゃんにゃんできるにしても、いちゃいちゃの方ができない可能性が高い。
にゃんにゃんもしたいけれど、いちゃいちゃもしたいのだ。
できれば、恋人みたいな甘くてハッピーな関係が好ましい。
……とは言え、元々まともではない望みだ。妥協しなければいけない時もいずれは来るかもしれない。
そして、それとは違うもう一つの案。
こちらは至ってシンプルだ。私と同じ趣味嗜好の人を見つけ、その人と交流を深めて、付き合っちゃえる関係まで持って行っちゃえばいい。
これならいちゃいちゃもにゃんにゃんも好きなだけし放題だ。後ろめたい気持ちを抱く必要もない。
ただこちらの案の唯一にして絶対的な問題として、どうやってそんな人を見つけるかどうかということが挙げられる。
私の趣味嗜好を公言するのが一番手っ取り早いけれど、さすがに恥ずかしすぎる。
最悪の場合、社会的に死んでしまいかねない……心配しすぎかもしれないけど。
いずれにせよ、私だって今はもう有名なSランク冒険者。変な噂が立つのは勘弁だ。
しかしそうなると、私の方から同じ性癖の仲間を見分けて、それを探っていくという気長な方策を取らざるを得なくなる。
だけど、その方法で見つけるのは至難の業だ。下手な手を打てば気持ち悪がられる危険だってある。
好意を抱いていた相手から、そんな目や思いを向けられる。その時の心理的ダメージはきっと相当なものだ……。
……しかし、しかしだ。
至難の業というだけで、可能性が〇であるわけではない。
「…………」
今、私は冒険者ギルドの隅っこのテーブル席に腰を下ろしている。
そしてそんな私の視線の先には、一人の少女がいた。
彼女はランクAとS、上位二つのランクの高難易度依頼しか貼られていない掲示板の前に、ぽつねんと突っ立っている。
猫耳と尻尾があるから、獣人だ。
そんな少女を眺めながら、私は思っていた。
……やばい。
あの子めっちゃ可愛い。
噂程度には聞いたことがあった。この街には私と同じくSランクの、《鮮血狂い》の二つ名を持つ冒険者がいる、と。
むしろ私の方が新たにSランクになったくらいで、本当は彼女の方が先輩だ。
ただ、Aランク以上の依頼はそのどれもが遠出しなければいけないものばかりのため、その事情で街にいることが少ない彼女と鉢合わせる機会がこれまでなかったのだ。
むしろAランク以上の冒険者ともなると、一つの街を拠点に活動するスタイルの方が珍しい。高ランクでは、転々と街を移動していくスタイルが基本である。
いや今は別に高ランクがどうとかはどうでもいい。
とにかく、可愛いのだ。
剣を身につけているのに、彼女の体はそれを扱う者とは思えないほど華奢で女の子らしい。
動きやすさを重視した結果、露出が多くなっただろう衣装から覗く白く傷のない肌は、一種の聖域のよう。
胸の大きさこそそこそこ程度だが、それ以外の部分は完璧に私の理想とマッチしていた。
ツインテールもよく似合っていて……あれほどまでに可愛いと感じた女の子を私は今まで見たことがない。
「……ふふふ」
そしてそんな彼女を見た時、私は思ったのだ。
今の私がまともに女の子と付き合うのは至難の業? もしかしたら気持ち悪がられるかもしれない?
だからどうしたというのだ!
私はやってみせる……! なんと言っても、それが私の本当の望みなのだ!
ならばいくら可能性が低かろうとも、やらずして諦めるわけにもいくまい。
だからひとまずは、とりあえずあの子に声をかけてみようと思うんです。
うむ、それがいい。
ほら、同じSランクだから話しかけやすいしね。他意はない。
別に一目惚れとかしたわけではない。うん……まだ惚れてはない。気になってるだけだから。
そういえばあの子、なんかいろいろ危なそうな噂とかもあるらしいけど……まあ、その辺は問題ないか。
だって、あんなに可愛いのだ。
見てみてくださいよ、掲示板を眺めてる、あのボーッとした横顔。
すごく可愛い。
あんな子が噂のような危険人物のはずがない。
思い立ったが吉日だ。席を立ち、あの子の方に向かう。
「ごめんね。少しいいかな」
「……!」
私が横から声をかけると、彼女は今気づいたと言わんばかりに私の方に顔を向けた。
うむ……やはり可愛い。遠目で見ても可愛かったけど、近くで見るともっと可愛い。
「突然すまない。私はハロと言う。少し前にSランクになった者なのだけど……君は、Sランク冒険者の《鮮血狂い》で間違いないかな」
「……」
一拍の間を置いて、こくりと頷かれる。
無口。無表情。これに関しては噂で聞いていた通りの特徴だった。
聞いていた通りなのだが……うぅむ、これは思っていた以上にとっつきづらいな……。
突然話しかけてきた私のことを、単に疑問に思っているのか、それとも警戒しているのか。
表情からではまったく判別がつかない。
少し臆してしまうが……ここは一つ、想像してみるのだ私よ。
いつか来るべき未来……そう。この目の前にいる人形のような少女が、まるで照れているような赤い顔で、懸命に私を求める姿を……!
おお……これはいける! 俄然やる気が湧いてきた!
人間なせばなる! 勢いさえあれば割とどうにかなる! 私人間じゃなくてエルフだけど!
「この街を拠点に活動するSランクの冒険者が私以外にいると聞いて、ずっと気になってたんだ。それで、よかったらなんだけど……少し、話をしていかないかい? その、君と親睦を深めたい、仲良くなりたいんだ」
「……!」
「もし時間がないなら、次に受ける依頼を私も手伝うから。これでも私は《至全の魔術師》なんて大層な名前で呼ばれていてね、魔法の腕には結構自信がある。足を引っ張ったりはしないし、報酬だって、全部君に上げよう」
「…………」
「どう、かな」
相手がなにもしゃべらないことをいいことに、一気にまくしたてた。
とは言え、言い終わった後で少し不安にもなってくる。
いきなり声をかけられたかと思えば、依頼を無償で手伝おうとまで言って関わろうとしてくる。見方によってはかなり怪しい。
なにか変なことを企んでいると思われてもおかしくはない。
そう思うと、依頼のことにまで言及したのは余計だった。親睦を深めたい、というだけでよかったはずだ。
自分の行いを少し後悔していたのだが、幸運なことに、しばらく待った後の少女の返答は頷き――私の提案への了承だった。
嬉しさを抑えきれず、私は思わず笑顔になる。
「ありがとう」
「……いら、い……これ……」
お礼の言葉に、少女はさっと私から目線をそらす。そして歩き出したかと思うと、掲示板の一枚の貼り紙を指差した。
ただし指差した掲示板はAランク以上のものが貼られた掲示板ではなく、CとBランク用の掲示板。そのうちのCランク、日帰りで行けるような近場の草原でのレイジウルフの討伐依頼だった。
「これは……わかった。それを一緒にやろうか」
ここでCランクの日帰りが簡単な依頼を選んだということは、私が言った言葉をそのまま受け入れてくれていることの証明だろう。
一緒に依頼をこなして、親睦を深める。私の提案通り、彼女はそういうつもりでいる。
まだ警戒はされているかもしれないが……少なくとも悪感情は抱かれていないようで、内心ほっとした。
「じゃあ、行こうか」
依頼を受けて、軽く支度を済ませて、少女と一緒に街を出発する。
草原自体はすぐそこなので、移動は徒歩だ。
大変なのは草原につくことではなくて、その広い草原で狼を見つけることにある。
とは言っても、ある程度はすでに冒険者ギルドの方で場所を絞り込めている。私たちは今回、その場所付近で狼を見つけ出し、倒すことが仕事だ。
少女は獣人としての優れた五感を、私は魔法で狼の存在を探査しながら、二人で草原を歩く。
その間、親睦を深めると言った通り、私は少女と会話を重ねていた。
まあ、この子は無口だから私が一方的に話をしているだけなのだが。
「――そういうわけで、この辺の料理はちょっと口に合わないものが結構あってね。自分で料理の勉強をして、自分の舌に合う料理を作れるようにしたんだ」
「……」
「まあ、まだ全然レパートリーは少ないんだけどね。エルフだから、あんまり肉とか魚とかは食べられなくて……あぁ、《鮮血狂い》は」
「し」
「し?」
「シ、ィ……シ、ィ……ナ。シ、ィナ…………シィナ……」
「シィナ?」
聞き返すと、少女はこくりと頷く。
「もしかして……君の名前?」
これまた、こくりと。
「そうか。ありがとう、教えてくれて」
「……」
今度は頷かなかったが、ぴこぴこと猫耳が反応していた。
私の思い込みかもしれないが、どことなく嬉しそうにも見えた。
その様子があまりに可愛らしく、思わず手を伸ばしてさわりかけて、直前で引っ込めた。
あ、危ない危ない。まだ会って数時間だ。いきなり耳をさわったりなんてしたら嫌われてしまう。
そういうのはもっと進んだ関係になってからだな、うん。
「シィナは、獣人なんだよね。肉とか魚の方が好きなのかな、やっぱり」
「……」
話を続ければ、さきほどまでと同様、彼女はしっかりと頷いてくれた。
ただそれだけではなくて、わずかに口を開こうとして、声を出して自分の声も示そうとしてきてくれている。
「く……だ、もの……も」
「ん」
「きらいじゃ……ない……」
「そうか。それは嬉しいな。今度、一緒になにか食べに行きたいね」
「……う、ん……」
うん、って! うんって言った!
了承してくれたこともそうだけど、それだけじゃない……動作だけじゃなくて、ちゃんと口で応えてくれたのだ!
これは好感度が相当上がってる証拠なのでは!?
そんな内心の興奮をどうにか抑えて、にやつきそうになってしまいながら会話を続ける。
「でも、これまで時間が全然合わなくて会えてなかったからね。次に会って一緒に行けるのはいつになることやら……」
「……つく……る。じかん……」
「作る……時間を? それは……一緒に食べに行くために?」
「…………ん……」
今度は少し恥ずかしそうな返事と、小さな首肯。
ほんの少し頬が赤らんでいるようにも見える。
……ふぅー……。
…………やばいこの子可愛すぎる。
これは完全に惚れてしまったかもしれないな。
胸が大きい方が確かに好きだけど、私ではない別の誰かのものであることが重要なのであって、シィナくらいのものでも私はありだと大声で言える。
いややっぱ大声は無理。でも言えることは確かだ。ベッドの上でだけど。
それにしても、シィナのこの態度……これ、もしかしてワンチャンある?
い、いや、さすがに穿ち過ぎか。友達と一緒にご飯を食べに行くくらい誰でもする。
しょせんは友情の直線上。そもそも、この子が私と同じ性癖の可能性なんてほとんどないのだ。
それでも……うん。
それでも、やっぱり可愛いよなぁ……。
友達でもいいからそばにいたい。もっといっぱい話をして、一緒に街を歩いたりしてみたい。
いつか、この子の笑顔が見てみたい。
やばいな……本当に恋をしてしまった可能性がかすかだが大いにあるとかなり思われる。
「なら、私もその日を楽しみにしてるよ」
なんとか平然を装って、そう告げた。
シィナは猫耳をぴこぴこと動かして、やはり心なしか嬉しそう。
ふふふ……あぁ、やっぱりな。
《鮮血狂い》。風の噂によると彼女のこの二つ名は、血しぶきを浴びながら猟奇的な笑顔で魔物を惨殺していた姿からついた二つ名だということらしいが、やはりこれは出鱈目に違いない。
いや、最初からわかっていたけどね。こんな子がそんなことするはずないって。
不名誉な二つ名を与えられて、きっとシィナも内心ではさぞ不満に思っているかもしれない。二つ名のせいで避けられて、気味悪がられて……。
くっ、シィナはこんなに可愛いというのに。こんな子のどこが不気味だと言うんだ。シィナに不名誉な二つ名を与える原因をつくったやつらを全員張り倒してやりたい。
そんな風に思っていると、ふと、魔法の探知にあるものが引っかかる。
あるものというか、今回の討伐対象なのだが。
「――シィナ」
名前を呼ぶ頃には、彼女も私と同様にそれに気がついていたようだ。
前を見据え、四本の小剣のうち、両腰のそれぞれに佩いていた二本の剣を引き抜いた。
私も自分の中の魔力の流れに集中し、すぐにでもどんな魔法でも使える状態に持っていく。
「二〇、二一、二二……まだいるか。聞いていたより数が多いね。まあ、私たちなら問題はないけれど……」
もしもこれが本来のCランクの冒険者が受けていたなら、あるいは命の保証がなかったかもしれない。
こういうミスは本当に危険だからできるだけなくしていただきたいものではあるが……低ランクの依頼だと、目撃証言を資料と照合して依頼レベルを設定するのが基本のため、元の情報が曖昧だとしかたがない部分もある。
魔物に追われていて慌てていたり冷静を欠いていたりして、情報が間違ってしまっていたり。
なにはともあれ、今ここにいるのはSランク冒険者二名。
まかり間違っても敗北はありえない。
「右半分、任せるよ。左半分を私が――」
前に出ようとしたところで、不意にシィナに手で静止を促される。
「シィナ? いったいどうし……」
シィナの顔を見て、言葉が止まってしまった。
シィナは笑顔だった。
ついほんの少し前に望んだ、いつか見たいと思ったはずの顔。
だけどそれは想像していたやわらかいものとは、まるで異なっているように感じた。
それはまるで、これから始まる殺しを楽しもうとしているような、そんな表情に……。
……い、いや、妄想だな。うん。あまりに妄想がすぎる。
ちょっと笑顔が想像より外れてたからって、なにもそこまで思うなんて薄情だ。
私最低だな。
「……わ、たし……が……やる……」
「っ……わ、わかった。後ろで見ているよ……」
妙な威圧感に気圧されて、知らず知らず後ずさってしまっていた。
呆然とシィナの後ろ姿を眺めていると、狼の群れが近づいてきて。
ふと、シィナの姿がかき消えた。
そして次の瞬間、シィナはすでに狼の群れの真ん中に立っていて、その直線上にいた狼はすべて真横に一閃されていた。
――まったく見えなかった。
きっと彼女は魔力の循環による身体強化に空恐ろしいほどの適性があるのだろう。そしてその莫大な身体能力を完璧に使いこなす技量と感性も兼ね備えている。
これがSランクの剣使いの力なのかと瞠目しながら、シィナの戦闘を見守る。
シィナは、やはり笑顔だった。
襲いかかってきた狼二体を一瞬で粉微塵に切り刻み、まだ温かい血やバラバラになった臓器が降り注ぐ。
それを浴びるようにして足を踏み込みながら、さらなる狼の首を断ち。
その血しぶきを浴びながら、やはり次の獲物へ。
近接戦闘が得意なものでも、あれほどまでに激しく戦うことなど稀だ。
群れの中心。わざわざ囲いの中に飛び込んで、一歩間違えば命の保証がない中、ひたすらに敵を斬り刻む。
楽しそうな笑顔で。生き物の血を、無残な死に様を見るのが楽しくてしかたがないように。
まるで舞うように、踊るように、遊ぶように。彼女は三〇秒とせずにすべての狼を斬り伏せた。
その頃には彼女の全身は、ひどく凄惨なものになっていた。
元々赤黒かった髪は返り血でさらなる深い色となり、全身も同じように血だらけ。
体の節々に臓器の欠片が付着していて、ツインテールの左側には目玉の断片が、肩辺りには狼の胃かなにかが絡みついている。
「シ……シィナ……?」
とても戦闘とは呼べない惨殺が終わった後、彼女はその中心で笑みを浮かべたまま狼たちの無残な死骸を見下ろし、静かに佇んでいた。
しかし私が名前を呼んだ途端、突如ピタッと動きを止める。
かと思えばその直後、ぐりんっ! と一気に首を動かして、見開いた目でこちらを凝視してきた。
さきほどまでは確かに笑顔だった。猟奇的ではあるが、楽しそうな笑顔だった。
なのに今の彼女は完全な無表情で、なにをするでもなく、ただただ私をジーッと見つめてきている。
そんな光景を眺めながら、私は思っていた。
……やばい。
あの子めっちゃ怖い。
「…………」
「…………」
え……え? なんなのこれは……。
あれぇ? あっれぇ?
おかしいな……さっきまでラブコメ的な波動を感じてたはずなのに……。
私、友達でもいいからそばにいたいとか、恋する乙女的な思考をしてたはずなのに……。
なんで急にジャンルホラーになってるの?
こんな子のどこが不気味だと言うんだ、じゃないよ私。
この子やばいって……マジでやばい子だったって。
ど、どうしよう……こ、これ、どうしたらいいんだ……?
「……」
「……」
シィナはあいかわらず、無表情で私を凝視してきている……。
……に、逃げる? 逃げるか?
でも、本当に逃げて大丈夫か……? 急に逃げたりなんてしたら、逆に後ろからぶっ刺されたりするんじゃないか?
一緒に依頼を受けようって誘ったの私だぞ? その私がいきなり逃げ出して、シィナがなにもしないとでも?
に、逃げるのはダメだっ。
仮にここで逃げ切れたとしても、その後また鉢合わせた時のことも考えると悪手だ。
だが、このまま沈黙してるのが好ましい選択だと言えないのも事実だ。
私は割とシィナの好感度を稼いだはず……その私がここで中途半端な態度を取ってしまえば、せっかく私のことをわかってくれたと思ったのに、みたいな感じで刺されかねない。
だとしたら……いや、でも……。
…………くっ、やるしかない!
逃げるのがダメなら……!
「シィナ」
「……!」
一歩、踏み出す。シィナもまたそれに呼応するように、ぴくりと体を震わせた。
胸の内の逃げ出したい衝動を全力で押さえながら、シィナに一歩ずつ歩み寄る。
正直、近づくたびにシィナの見開いた目が近づいてきてガチで怖いのだが、今はとやかく言っている場合ではない。
シィナの目の前に立つと、私は……そっと、シィナを抱きしめた。
「シィナ」
臓器とか血とかが付着して半端なく気持ち悪いのだが、今はとやかく言っている場合ではないんだ!
シィナの名前を耳元で囁くと、彼女は少しだけ身じろぎをした。
そんな彼女に、私はできる限り優しい声音になるようにして、言った。
「大丈夫」
子どもをあやすように。なぐさめるように。
泣いている子どもにするように、優しく背中をさすって。
「大丈夫だから……」
「…………ハ、ロ……ちゃ……?」
からん、と音を立てて、シィナが持っていた二本の小剣が落ちる。
動揺か困惑かはわからないが、シィナは少し震えているようだった。
これはいけると確信した私は、そこでシィナを思い切り、ぎゅーっと力強く抱きしめる。
「大丈夫……大丈夫、だから」
そう、大丈夫。
なにが大丈夫なのかまったくわからんけど、とにかく大丈夫なんだ。
逃げるのがダメなら、発想を逆転させればいい。
つまり逆に近づいて、抱きしめる。この大胆な策なら逆に襲われることはないと、私は踏んだ。
とは言え、それだけではなにか足りない感じもする。抱きしめるのに加えて、なんかいい感じの言葉があるともっといい感じになるはずだ。
そうして私があの短時間で必死に考えた言葉が『大丈夫』。
この大丈夫という言葉は非常に汎用性が高い。
相手がどんな心理状態であろうとも、とりあえず抱きしめて大丈夫って言っておけば大体のことは丸く収まる……気がする。
よしんば的外れだったとしても、私がシィナのことを心配している風なことは伝わってくれるはず。
つまり、シィナに悪感情を抱かせてしまう可能性が激減するのだ。
現に、シィナはなんか武器を取り落として、私の抱擁を受け入れてくれている。
何度も何度も、大丈夫という単語を繰り返す。
シィナの震えが止まるまで、ずっと。
そうしていると、やがてシィナは彼女の方から、私を抱きしめ返してきた。
彼女の力なら私の細い体くらい、へし折ることができる。
しかしシィナはそれは決してしようとはせず、むしろ壊れ物を扱うように、そうっと……。
ふっ……。
よし。やったな。
シィナがなにを考えてたのか、まるでまったくこれっぽっちもわからないが、どうやら私は正解のルートを導き出すことができたようだ。
この様子なら、シィナが私を殺そうとすることはまずありえない。
あとは適当に話を流して、依頼を終えて、この子と別れることさえできればミッションコンプリート……!
もう恋がどうとかはどうでもいい。初恋は実らないものだと学んだ。
というかね? あんな惨殺ホラー凝視劇場を見せられて、まだこの子に恋をしてるとか言う方がどうかしてますよ。頭おかしいんじゃねえの。
吊り橋効果で恐怖を恋と勘違いすることもありえるかもしれないが、それにしたって限度がある。というか危険をもたらした吊り橋に恋なんてするわけがない。
容姿は確かに可愛い。それは認めよう。
だけどですね。あんなものを見せられて、まだ手を出す勇気があるかと言われると、私にはないです。
ないんです。
……早くお家帰りたい。
もういちゃいちゃとか二の次でいい。
同じ性癖の仲間探しとかも、いい。
もう、にゃんにゃんさえできれば、それだけでいいから……。
「……ハ……ロ……ちゃ、ん」
「ひっ、んんっ! ど、どうかした?」
耳元での呟きに心臓を跳ねさせてしまいながら、平然を装う。
そんな私に、シィナは言う。
囁くように、この後の私と彼女の関係のすべてを決定づける言葉を、言う。
「…………あな、たは……もう、わたしの…………もの……」
「ぇ」
「ぜったい。きょぜつ……させない」
とろけるように、心地のいい声音だった。
たとえるのなら、それはまるで悪魔の誘いのごとく。
「はじ、めて。あなた、が……はじめ、て。わたしを……うけ、いれて……くれた……」
「は、初め……て?」
「う、ん…………あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……」
ぽっと頬を朱に染めて、スリスリと猫のように頬や顎を寄せてくるシィナ。
それはさながら、猫が自分のフェロモンを擦りつけて、その所有権を主張するかのように……。
…………あ、あれ?
これはもしや……正解どころか、かなりやばいルートを導き出してしまったのでは……?
「……ずっと……いっしょ……」
「…………うん」
ここでもし逃げ出す選択をすれば、今度こそ間違いなく切り刻まれる。
もはや私には逃げ道など残されていないのだ。
足を踏み出し、シィナを抱きしめた時点で、もう……。
渇いた笑いを浮かべながら、血の海の真ん中でシィナに抱きつかれ続ける。
その日、私はまるで悪魔とでも契約してしまったような気分だった。
「……どう、か……した……?」
不意にそんな声をかけられて、はっとする。
昔の過ちに思いを馳せているうちに、猫にするようにシィナの顎の下を撫でていた手を止めてしまっていたらしい。
シィナの顔が目の前にあり、私の目を覗き込むようにしている。
妖しいほどに綺麗な、血の色をした瞳。
思わず「ひっ」と声が漏れかけたものの、ぎりぎりで耐えることができた。
あいかわらず不思議そうにしているシィナに、私は慌てて取り繕う。
「いや、シィナと初めて会った時のことを思い出していてね。確かあの日、私がここでシィナに声をかけたのがすべての始まりだったな、と……」
……そう、あれこそがすべての始まりにして最大の過ち……。
元々、私はシィナの評判や噂は小耳に挟んでいた。
二つ名がついた由来も、彼女がどういう人柄なのかも、事前に聞いていたのだ。
いわく、生き物を惨殺することが趣味。
いわく、血を見ると途端に笑顔になる。
いわく、ともに依頼に行った者は皆恐怖で顔を引きつらせながら逃げるようにして街を出ていく。
いわく、元々髪は白かったが返り血を浴びすぎて赤黒く染まった。
いわく、いわく、いわく……。
うわぁ、やばいなそいつ。絶対関わり合いになりたくない。
噂を聞いた当初はそんな風に思っていたものだ。
だというのに私はシィナを見た瞬間、そのあまりの見た目の可愛さに「百聞は一見に如かず……だな!」的な感じに、それまで聞いていた話をすべて出鱈目として思考の外に放り投げてしまった。
その結果があれである。
もうアホかと。なんで外見しか見なかったのかと。
百聞は一見に如かず? まあ確かにそうなったな? 百聞を信じなかったからシィナのアレな面を一見して全部理解したな? よかったな?
いや、これっぽっちもよくないけどね?
……まあ、その、正直に言うと、懐かれていること自体は嬉しかったりする。
こんなにもはっきりと好意の感情を向けられて悪い気がするわけがない。
ましてやシィナは一度は恋もしかけた相手だ。すぐさま急転直下だったが。
そんな子にこうして抱きつかれて、猫のように甘えられる今の状態が嬉しくないかと言われれば嘘になる。
ただ、そんなかすかな嬉しささえ余すことなくかき消してしまうくらいに恐怖の方が大きいのが現状だ。
以前の、完全に気を許していた直後に惨殺ホラー凝視劇場を見せられた出来事。あれが私の中で軽くトラウマになってしまっていて、どうにもシィナに苦手意識を持ってしまっている。
初恋は特別だのなんだのと言うが、マジで初恋の失恋はアレな意味で特別かつ強烈に私の胸の奥に刻まれてしまっていた。
恐怖症。トラウマ。患ったことがない人にはピンとこないものだろう。
しかしこれがマジで厄介な代物だ。
写真越しだとか映像越しならなんともなくとも、いざ相対すると猫が虎にもライオンにも思える。
足ががくがく震えるし、じっと見られるだけで思わず泣きたくなってくる。
シィナが友好的な態度を取ってくれているから今はまだ平気だが、戦闘モードのシィナはもうマジで洒落にならないレベルでやばいし怖いし逃げ出したい。
無論、手を出そうだなんて思えるはずもない。
「……い、らい」
ふと、私から少し離れたシィナが、掲示板の方に顔を向けた。
「うけ、る……? ……あの……とき、と……お、なじ…………い、っしょ……に……」
苦手ながらも一所懸命に口を開いて、自分の意志を示そうとしてくれる。
あんなに大胆に頬や顎を擦りつけてきたりしていたのに、こんな時ばかりは断られるのが不安なのか、無表情に浮かぶ瞳がほんのわずかに揺れているように見えた。
その姿は控えめに言っても可愛い。
あぁー……これでシィナがアレな性癖じゃなければなぁ……。
いや私が言うなって話だけど。
これまで、何度そんな風に思ったか数知れない。
「一緒に、か。実は、ファイアドラゴン討伐を受けようとしてたんだ。転移魔法を使っての日帰りでね」
「……とぶ、とかげ…………にがて……」
「シィナが得意なのは近接戦闘だからね。しかたないよ」
だから一緒には行けませんね?
「……で、も……この、まえ……ハロ、ちゃん……が、おしえ、て……くれた……まほう…………すこ、し……つかえる、よう、に……なった、から……」
そう言うシィナはかすかに自慢げに見える。
私は魔法で遠距離攻撃やら浮遊やらできるので無問題だが、近接戦闘主体のシィナはどうしても空中の敵とは戦いづらい。
これまでどうしていたのかと聞くと、超人的な跳躍で一気に近づいて一撃で仕留めたり、剣を思い切り投げたりして倒してきたらしい。力技すぎる。
シィナが剣を四本も装備しているのは、そういう投擲への使用のためや、剣が折れた時の予備の意味合いがあるそうだ。
そんなシィナに以前教えたのが空中に足場を一瞬だけ作る魔法だった。
獣人は身体能力に優れる代わりに魔法的能力に低い傾向がある。シィナも同じように魔法は得意ではないそうだが、私が教えたその魔法はシィナの魔力や感性に合わせて専用にカスタマイズを施した特別製だ。
他の人が使うならばひどく不安定で発動すら難しくとも、シィナに限ってはファイアボルトなどの下級魔法と同程度の難易度で発動できる。そういう風に私が作った。
教えた当初は、それでもまったく使い物にならない程度だったが、どうやら彼女は地道に練習を重ねていたらしい。
「そ、そうか。使えるようになったのか……」
ねえ……なんで私、シィナにあんな魔法教えたの?
いや、なんか不便そうだなって軽い気持ちで作って教えたんだけどさ……。
くっ、これではシィナの同行をやんわりと断ることができない!
シィナが一緒なら確かに依頼は楽になるが、例によって惨殺ホラー劇場を見る羽目になってしまう……。
これまでなんだかんだ言いくるめてきて、一緒に食事に行ったりすることはあれど、依頼に行ったことは初めて会った時以来一度もなかった。
と、ここで袖を引っ張られたような感覚がして、そちらを向くと、シィナがなにやら物欲しそうな目で見つめてきていることに気がついた。
「え、偉いね。シィナ」
たぶん、魔法を使えるようになったことを褒めてほしいのだろう。
そう思い、よしよし、と頭を撫でる。
するとシィナはされるがまま、気持ちがよさそうに目を細めた。
……ふぅ。
冷静に考えてみるんだ、私よ。
思い返してみれば、かつての惨殺ホラー劇場でシィナを抱きしめた時、シィナは壊れ物を扱うように慎重に私を抱きしめ返してきた。
あれはつまりシィナにとって、私は傷つけたくない対象であることの証明にほかならないのではないだろうか。
それに、今のシィナを見てみるんだ。
撫でられて気持ちがよさそうにしている今の彼女が、私を望んで傷つけようとするような子に見えるか? いや見えないっ!
初対面でそう見えなかったから後々やばい一面を目の当たりにすることになったことなんて今は置いておく。
シィナは確かにちょっと心が病んでそうな部分はある。
けれども、私が常に友好的な態度を取ってさえいれば、危害を加えてくるようなことはしないはずだ。
大丈夫。そう、大丈夫だ。
大丈夫は世界一汎用性が高い言葉だから。大丈夫、きっと大丈夫。
何度も自分にそう言い聞かせ続けながら、私はファイアドラゴン討伐の依頼用紙をはがした。
「じゃあ、一緒に行こうか。ああ、討伐証明部位以外にも料理用にお肉をある程度持って帰るつもりだから……その、斬り刻まないようにお願いしたい……」
「……」
惨殺ホラー劇場が少しでもマシになりますように、という思いも込めて釘を刺すと、こくり、とシィナが頷いた。
イメージ的には「まかせて」って風に自信満々な感じだ。むんっ、と胸を張って言っているようなイメージ。実際にはただ頷いただけ。
……よし。このぶんなら今回はトラウマレベルのホラー劇場にはならないだろう。
そもそもとして、いくら魔法を使えるようになったとは言っても、たかが足場を作るだけの魔法で空中を飛び回るドラゴンを追いかけるのは難しいはずだ。
今回は前回と違って、私の魔法が主力になる。そしてその私が速攻で終わらせることでシィナの出番をなくしてしまえば、シィナのアレな一面も解放させることなく万事解決だ。
ふっ、さすが私。完璧な作戦だな。
これから先の明るい未来に思いを馳せながら、私は依頼用紙を受付へと持って行ったのだった。
――なお、その後のファイアドラゴン討伐にて、ドラゴンを捕捉したのち、私が魔法を放つよりも早くシィナが飛び出して超立体的な機動により一瞬でドラゴンを粉微塵にしたのは余談である。
そうして降ってきた血と臓器の雨にさらされながら、笑顔で「ほめてほめて!」と言わんばかりに駆け寄ってきたシィナに、がくがくと震えていたことも余談である。
斬り刻まないとはいったいなんだったのか。
シィナいわく「たの、しく……て……つい……」とのことらしい。
ふ、ふぅん……たの、楽しかったんだぁ……。
あ、あああれが……あれ、ああ、あれ、あれが、た、たの、あれ、たのし。
うぅわあああああああぁもうやだぁああああああ! たすけてふぃりぁあああああっ!
それは、もう二度とシィナと一緒には討伐依頼を受けないと固い誓いを立てるような、そんな半日間だった……。
お友達が欲しい。
なにがなんでも、とにかくお友達が欲しい。
明確にそんな思いを抱くようになったのは、同世代の子がわたしを見た途端に叫び声を上げて逃げ出す出来事を一〇回ほど経験した時だった。
元々、わたしは自分が妙に誤解されやすいたちであることは自覚していた。
感情表現がかなり苦手で、ちょっとした感動や嬉しさなんかでは、このダイヤモンドのように固い表情筋さまはまったく動いてくれない。
目つきもかなり悪い。別にいつも睨んでいるようだとかそういう感じではなく、その逆。いつも見開いているような目つきで、いわく『見られただけで足がすくむような恐ろしい目』をしているとか。
声だっていつも小さくて、全力で一所懸命声を出そうと意識して、ようやく途切れ途切れの言葉を口に出せる。
そのくせして恐怖にさらされた時だけは顔が引きつって笑ってしまい、いわく『血を見ることだけが楽しみな悪魔の顔』になるという。
誰が悪魔だ。泣くぞ、いいのか泣くぞ。
…………うぅ、ほんとに泣きたい……。
終いには大人たちからも怖がられるようになって、特になにもしていないはずなのになぜか異様に故郷に居づらくなってしまったわたしは、逃げるようにしてそこを出た。
故郷を出る時の、泣き笑いで抱き合う同族たちの光景が今でも忘れられない。
旅に出てから一週間くらいは、くるまりながら夜に一人ですすり泣いていた。感情表現の不得手具合が極まっているわたしでも、その時ばかりはあまりに悲しすぎて普通に涙が出た。
そしてその時に誓ったのだ。
いつか必ず、わたしのことをわかってくれる大親友を作ってみせるんだ! と。
ひとまず、故郷を出たわたしが選んだ職業は冒険者だった。
冒険者は犯罪者でさえなければ誰でもなれる、自由な職業だ。荒くれ者が多く集まるというそこなら、わたしに怖がらずに接してくれる人もいるかと期待していた。
……いや、冒険者を選んだとか期待していたと言ったけれど、他人に誤解されやすいわたしには他に選択権などなかったのが本当のところ。
ほんとは戦うのとか疲れるし怖いし痛いしで嫌なのに……。
幸いなことに戦う才能は故郷で一番というくらいにはあったので――それが怖がられる要因でもあったので、幸いと言うにはいささか複雑だけれど――、冒険者として成り上がることはそう難しくはなかった。
しかし、わたしにとって重要なのは成り上がりだとか冒険者ランクだとかそんなものではなくて、わたしのことを理解してくれるお友達を作ること。
幼い頃の記憶が頭をよぎる。
幼い頃の辛い日々。ひとりかくれんぼをしたり、ひとりおにごっこをしたり、毎晩ぬいぐるみと話す練習をしたり。
お友達さえできれば……そう、お友達さえできれば、もうそんなことしなくていいのだ!
わたしは……わたしはぼっちを脱却する! この冒険者ギルドなら、きっとそれができる! わたしはそう信じてる! というか信じさせて!
そんな願いが通じてくれたのだろうか。
冒険者の多くはわたしのことを怖がらず、むしろ一緒に依頼をやろうと進んで声をかけてくれた。
初めて声をかけられた時はそれはそれは嬉しかった。いつもは声をかけられることなんてほとんどなくて、こちらから声をかけたりなんかしたら、震えて泣いて逃げられる。そんな日々だったから。
初めてのお友達ができるかもしれないチャンスに、今までにないくらい心躍ったものである。
…………まあ、初めの頃は、という注釈がつくけれど……。
張り切って、少しでも良いところを見せようと一人で全部の魔物を倒してみせたのが悪かったのだろうか。
戦うのなんて本当は嫌で、命を狙われる恐怖に引きつった顔になってしまいながら、それでも初めてお友達ができるかもしれないチャンスを逃したくなくて、一所懸命とにかく全力で魔物を倒した。
なのに、そんなわたしを待っていたのは、故郷と同じ、わたしを恐怖の目で見る冒険者たち。
悲鳴を上げて逃げられて、お友達になることを諦め切れなくて追いかければ、途中でコケた人がわたしが近づいただけで白目を剥いて気絶して……。
二度、三度、四度。
今度こそは怖がらせまいと奮起しているのに、どうしてかいつも同じ結果に収束してしまって、やがてわたしにパーティを組もうと言ってくれる人は一人もいなくなってしまった。
そればかりか、なにやら不名誉な噂までもが流れ始めてしまっているようだった。
いわく、生き物を惨殺することが趣味。
いわく、血を見ると途端に笑顔になる。
いわく、ともに依頼に行った者は皆恐怖で顔を引きつらせながら逃げるようにして街を出ていく。
いわく、元々髪は白かったが返り血を浴びすぎて赤黒く染まった。
いわく、いわく、いわく……。
生き物を惨殺することが趣味って、違うよ。戦ってる時って大体死にたくないって恐怖でいっぱいで自制がきかなくて、気がついたらああしちゃってるだけで、他意はないんだよ……。
血を見ると途端に笑顔になるって、それ、恐怖で顔が引きつって笑っちゃってるだけだよ。
一緒に依頼に行った人が逃げるようにして街を出ていくとか、普通にショックだよ。
元々は髪は白かったが返り血を浴びすぎて今みたいになったって、全然違うよ。これ地毛だよ。
ねえ、なんで? なんでこんな噂流れるようになったの? わたしなんにも悪いことしてないよ……?
ただただお友達が欲しくて、そのために頑張って恐怖に耐えて、必死に冒険者として活動してきただけなのに……。
……気がついた時には、わたしは故郷と同じように孤立してしまっていた。
誰もがわたしを恐怖の目で見て、誰もがわたしを避ける。
Sランクに上がる頃には、街の人も冒険者の人もギルドの人も、誰もがわたしを腫れ物にさわるように扱うようになった。
あぁ、どうしてこうなっちゃったんだろう……。
わたしはただ、お友達と楽しくおしゃべりしたり遊んだり買い物したり、一緒にお食事とかもしたり、そんな当たり前の幸せが欲しいだけなのに……。
もういっそ、どこか遠く、誰もわたしのことを知らないところへ拠点を移そうかな……。
……でもそっちでもまた同じように怖がられちゃったら、どうしよう。
また拠点を移して……それで? そこでもまた怖がられたら?
そんな悪い想像ばかりが膨らんで、結局わたしは故郷にいた時と同じように、毎日を一人で過ごし続けて。
そんな時だった。彼女が私に声をかけてきたのは。
「ごめんね。少しいいかな」
やはりどこか遠くの方に拠点を移そうと思い、遠方での討伐依頼を掲示板の前で吟味していた時、そんな声をかけられた。
「……!」
驚いて、顔を向ける。
そこには、今まで見たことがない一人の少女が立っていた。
背丈はわたしと同じくらいだ。耳が少し尖っているから、エルフであることは一目でわかった。
白く傷のない美しい肌。さらさらと一本一本が細やかで艷やかな銀の髪が、彼女の宝石のような瞳を彩る。
ほんの一瞬だけ、見惚れてしまう。
そうして固まっているわたしに、少女は言った。
「突然すまない。私はハロと言う。少し前にSランクになった者なのだけど……君は、《鮮血狂い》で間違いないかな」
「……」
《鮮血狂い》……うぅ、そうだよ。わたしがその二つ名の持ち主です。
あぁ、なんでわたしそんな二つ名なんだろう。血なんて好きじゃないのに。お友達欲しいだけなのに。名付けた人絶対許さない……。
って、恨み言呟いてる場合じゃなかった! 返事、返事しないと!
慌ててわたしが頷いてみせると、ハロ……ちゃん? は少し安心したように頬を緩めた。
「この街を拠点に活動するSランクの冒険者が私以外にいると聞いて、ずっと気になってたんだ。それで、よかったらなんだけど……少し、話をしていかないかい? その、君と親睦を深めたい、仲良くなりたいんだ」
「……!」
な、仲良くなりたい!? わたしとっ!?
え!? 本気で言ってくれてるの!?
今度は驚きで固まっているわたしに、さらに彼女は続けた。
「もし時間がないなら、次に受ける依頼を私も手伝うから。これでも私は《至全の魔術師》なんて大層な名前で呼ばれていてね、魔法の腕には結構自信がある。足を引っ張ったりはしないし、報酬だって、全部君に上げよう」
「…………」
「どう、かな」
依頼を手伝うと言っているのに、報酬は要求しない。怪しいと言えば怪しいが、彼女の表情を見て、そんな思いはすべて霧散する。
まるで断られることを不安がるかのような表情。そして、声音も。
それはつまり、彼女は本当にわたしと親睦を深めるという、ただそれだけの目的で声をかけてくれたのだろう。
こ、この人……わたしのこと知ってるんだよね……?
だって二つ名のこと知ってたし。それなら噂のことだって……。
なのに声をかけてくれてる? もしかして……わたしが一人なことを気にして……?
え、なにその聖人さん……。
って、戸惑ってる場合じゃない! 早く返事しないと!
了承か拒絶か。そんなもの、どっちにするかなんて考えるまでもなく決まっている。
わたしが必死に頷き返すと、ハロちゃんは不安そうな顔から途端に嬉しそうな表情になった。
「ありがとう」
「……い、らい……」
こっ恥ずかしくなって、さっと目線をそらし、誤魔化し気味に適当な依頼を指し示した。
うぅ、ばかばかばか! なんでこんな愛想ない反応しちゃったのわたし!
せっかく諦めかけてたお友達ができるチャンスかもしれないのに、こんな態度取っちゃ嫌われちゃう……!
そう思いながら恐る恐るハロちゃんの顔色を窺ってみるが、彼女がわたしを嫌うような様子は一切なかった。
「これは……わかった。それを一緒にやろうか」
少し驚いたような、けれども悪意なんかは一切ない、それでいてほんの少しほっとしたような。
そんな顔で、彼女はそう答えた。
「じゃあ、行こうか」
依頼を受けて、軽く支度を済ませて、一緒に街を出発する。
依頼は近場の草原でのレイジウルフという狼の魔物の討伐だ。
文字通り近場なので、移動は徒歩である。
……本当に、何者なんだろう、この人……。
最初に親睦を深めると言っていた通り、こうして街を出てから、ハロちゃんは幾度となくわたしに話しかけてくれている。
わたしは愛想があまりよくない方だと自覚している。無口で、無表情で……自分から話せることなんて全然ない。
なのにハロちゃんはそんなこと一切気にしないで、いろんな話をしてくれる。
まるでお友達みたいに。
「――そういうわけで、この辺の料理はちょっと口に合わないものが結構あってね。自分で料理の勉強をして、自分の舌に合う料理を作れるようにしたんだ」
「……」
夢のような時間。でもだからこそ、一つだけ不満なことがあった。
「まあ、まだ全然レパートリーは少ないんだけどね。エルフだから、あんまり肉とか魚とかは食べられなくて……あぁ、《鮮血狂い》は」
「し」
「し?」
「シ、ィ……シ、ィ……ナ。シ、ィナ…………シィナ……」
「シィナ?」
一所懸命、自分の名前を伝える。
《鮮血狂い》の二つ名は好きじゃない。
それに友達ならきっと、お互いのことは名前で呼び合うだろうから。
「もしかして……君の名前?」
「……」
「そうか。ありがとう、教えてくれて」
「……」
い、言えた! わたし、言えたよ! 自分の意思をちゃんと伝えられたよ!
正確に伝わったよ!
思わず、ぴこぴこと猫耳が動いてしまうのがわかる。
でも嬉しいのだからしかたがない。しかたがないったらしかたがない!
これは……これはもしや、もしや本当にお友達ができるチャンスなのではっ?
今までも、わたしと仲良くしようとしてくれる人たちはいた。
でも大抵はわたしが無口のせいで話が続かなくなる。そうでなくとも、どうしてかわたしを恐れるようになる。
誰も、わたしを理解してくれない。
いや。自分の気持ちを口に出さない、出せないのだから、理解できるはずもない。
でもハロちゃんはきっと、わたしの噂も承知の上でこうして声をかけてくれて、一緒に話までしてくれている。
ろくに相槌も打てていないのに、本当に楽しそうに。
「シィナは、獣人なんだよね。肉とか魚の方が好きなのかな、やっぱり」
「……」
頷いて、肯定した。
でも、今回はそれだけでは終わらない。ハロちゃんはこうまでわたしに真摯に接しようとしてくれているんだ。
わたしだって、頑張って自分の意思を示すんだ。
「く……だ、もの……も」
「ん」
頑張って、口を動かす。
「きらいじゃ……ない……」
「そうか。それは嬉しいな。今度、一緒になにか食べに行きたいね」
「……う、ん……」
一緒!? 一緒に食べに行く約束!?
一緒に食べに行くほどの仲って、つまり友達ってことでは!?
やばい! すごい! 夢の一つが叶いそう!
わたし今これまでの人生の中で最高にリアルが充実してるんじゃ!?
わたしリア充してる! やばい! すごい! 語彙力がアレだけどそんなことどうでもいい!
やばい! 嬉しいよぉー!
そんな内心の興奮をどうにか抑えて、心の中で思いっ切りうへへへとにやつきながら、会話を続ける。
「でも、これまで時間が全然合わなくて会えてなかったからね。次に会って一緒に行けるのはいつになることやら……」
「……つく……る。じかん……」
「作る……時間を? それは……一緒に食べに行くために?」
「…………ん……」
当然作りますよ! だってお友達とお食事だよ? お友達とお食事だよ? 大事なことだから二回言った!
でもちょっと恥ずかしくて、興奮も相まって、少し顔が赤くなってしまう。
そんな私に、ハロちゃんは笑顔でこう言ってくれた。
「なら、私もその日を楽しみにしてるよ」
……うわぁあああああああああああ!
なにこの良い人ぉぉぉぉおおおおおっ!
なんでハロちゃんこんなに優しいの? もしかして天使? 天使なの?
天使みたいに綺麗な髪してるもんね? じゃあやっぱり天使か! 天使だったのか! ハロちゃんこそが天使だったのか! 天使はハロちゃんだった! ハロちゃんイコール天使! 歴史的発見しちゃったよわたし!
ああ、もう嬉しすぎてにやついちゃいそう! ダイヤモンドの表情筋をぶち壊してにやついちゃいそう!
あぁ、世の中にはこんな人もいるんだなぁ……。
わたしの評判も気にせず、こうして近づいてきてくれるハロちゃんみたいな人が……。
感動が体中を駆け巡って、ぴこぴこと猫耳が動く。
幸せだ。幸せな時間だ……。
お友達とおしゃべり。そういえばこれも夢の一つだったんだよ……。
……でも、そんな幸せな時間は、そう長くは続いてくれなかった。
「――シィナ」
ハロちゃんも気づいたらしい。
討伐対象であるレイジウルフの気配がこちらの方に迫ってきている。
わたしは剣を引き抜いて、ハロちゃんはなにやら意識を集中させている。
「二〇、二一、二二……まだいるか。聞いていたより数が多いね。まあ、私たちなら問題はないけれど……」
ハロちゃんもやっぱりSランクだけあって、きっとすごい強いんだろう。余裕綽々って感じに見える。
でも。
「右半分、任せるよ。左半分を私が――」
ハロちゃんが前に出ようとしたところで、わたしはハロちゃんに手のひらを見せて静止させた。
今回の依頼、報酬はわたしがすべてもらうことになっている。
だとしたら、ハロちゃんが手を出す必要なんてない。
わたしが全部終わらせる。
それに、ハロちゃんにわたしの活躍してるところ見てもらいたいし……!
「シィナ? いったいどうし……」
うぅ、でも、やっぱり戦うのって怖いなぁ……。
レイジウルフ程度なら負けることはないってわかってるのに、もしかしたらって想像が頭の中にこびりついてしまって、顔が引きつってしまう。
「……わ、たし……が……やる……」
いや、行ける! 今はハロちゃんもいるんだ! ハロちゃんをわたしが守らないと……!
ほんの少しでも、ハロちゃんには危険な目には遭わせられない!
行くよぉ! うわぁああああああああっ!
全力で踏み込んで群れの中に突入し、そこからがむしゃらに剣を振るっていく。
血や臓器が体に降りかかることを、気持ちが悪いと思う暇もない。
死にたくない、そしてハロちゃんを危険にさらしたくない一心で、全速力で狼たちを打倒していく。
……そうしてすべてのレイジウルフを討伐し終えて、わたしは小さく息をついた。
ふぅ……なんとか全部無事に倒せた。や、余裕ではあったんだけど……。
やっぱりわたし、討伐依頼って嫌いだなぁ……。
かと言って採取依頼は雑草と区別がつけられなくて苦手だし、護衛はギルドの重鎮らしい護衛相手を怖がらせちゃって以降やらせてもらえないし……他もいろいろ……。
以前までなら、やりたくもないことをやらなきゃ生きていけない世の中に、このままぶつぶつと不平を言っていた。
でも今日は違う。わたしにはハロちゃんがいる。これからまたハロちゃんとお話ししながら街に――。
「シ……シィナ……?」
と……そこでわたしは、ハロちゃんが少し怯えたような顔でわたしを見ていることに気がついた。
思わず、一気に顔を向けてしまう。
そこには、故郷の人たちや冒険者ギルドの人たちと同じ、まるで化け物を見るような目でわたしを見るハロちゃんがそこにいた。
……あ、あぁああ……ま、またやっちゃった……。
自分のアホさ加減に、もういっそぶん殴りたい気分だった。
わたしが戦う光景を見られて逃げられることなんて何度もあったはずなのに。
いくらわたしの噂のことを知っていたって、しょせんは噂。
きっとハロちゃんはわたしのことを信じて、近づいてきてくれた。
わたしがそんなことするはずないって、そう思っていてくれたんだろう。
でもわたしは今、安易にそれを裏切るようなことを……。
自分が誤解されやすいことなんて知っていた。なのに初めてお友達ができるかもしれないチャンスに浮かれて、頭から抜けてしまっていたのだろうか。
今になって、レイジウルフを相手にやり過ぎていたのではないかという自覚がこみ上げてきた。
……きっとハロちゃんもこれから、これまでわたしと関わろうとしてきた人たちと同じように……逃げ出すんだろうな……。
でも、わたしにそれを引き止める権利はない。だってそれは普通の反応だ。普通の……。
あぁ……せっかく、初めてお友達ができるかもしれないチャンスだったのに……結局わたしは、いつもみたいに……。
「……シィナ」
「……!」
でも、そんなわたしの予想を裏切るように、ハロちゃんは一歩を踏み出してきた。
それに思わず、びくりと体を震わせる。
一歩ずつ、一歩ずつ。確かに彼女はわたしに近寄ってくる。
むしろわたしの方が後ずさりしそうになってしまった。
お友達になれたかもしれない人から拒絶の言葉を至近距離から言われたりしたら。そうしたらもう、立ち直れなくなるかもしれないと、そう思って。
でも目の前までやってきたハロちゃんは、そんなわたしの弱ささえ全部包み込むように。
そっと、わたしを抱きしめた。
……は、ハロちゃん……?
「シィナ」
耳元で響く、優しい声。泣いている子どもにかけるような、安心するような声音。
くすぐったくて、身じろぎをしたわたしに、彼女は続けて言った。
「大丈夫」
子どもをあやすように。なぐさめるように。
泣いている子どもにするように、優しく背中をさすって。
「大丈夫だから……」
「…………ハ、ロ……ちゃ……?」
思わず、手に持っていた剣を二本とも落としてしまった。
……だい、じょうぶ?
大丈夫って……ハロちゃん、わたしが怖くないの……?
「大丈夫……大丈夫、だから」
一度でも怯えてしまったことを申しわけないと言うように。
近づいてくるハロちゃんに逆に怯えてしまったわたしを、まるで安心させるように。
彼女は何度もその言葉を繰り返す。
……ああ……そっか……。
ハロちゃん……わたしがずっと寂しがってたこと、きっと最初からわかってくれてたんだ……。
一人が辛くて、寂しくて……そんなわたしをどうにかしてあげたいって、そう思って、声をかけてくれたんだね。
本当にハロちゃんは優しいなぁ……。
ハロちゃんも……同じだったのかな。
わたしとおんなじように、ひとりぼっちで……それが辛くて、寂しかったから、わたしが苦しんでることがわかったのかな。
そう思うと、途端にハロちゃんのことが愛おしく思えてきて、わたしは彼女を抱きしめ返してしまっていた。
決して壊さないよう、傷つけないよう、そうっと……。
ハロちゃんの髪……やわらかくて、気持ちいいなぁ……。
…………って、あ、あれ?
な、なんでわたしこんなにどきどきしちゃってるの……?
こ、これってまさか……いやいや! 違う違う違う!
ハロちゃんはわたしと同じ女の子だよ? だから常識的に考えて今の想像は違う!
これはきっと年甲斐もなく子どもみたいにあやされちゃってるのが恥ずかしいってだけ! きっとそれだけだから! うん!
「……ハ……ロ……ちゃ、ん」
「ひっ、んんっ! ど、どうかした?」
自分の気持ちを誤魔化すように、すぐそばにいる少女の名前を呼ぶ。
とにかく今は、伝えなくちゃいけないと思った。
今のこの感謝の気持ちを。そして、これからもお友達として一緒にいてほしいことを。
「…………あな、たは……もう、わたしの…………もの……」
――あなたのことを、もうわたしは友達だって思ってるの。
「ぜったい。きょぜつ……させない」
――お願い。離れないでほしい……これからも一緒にいてほしい。
「はじ、めて。あなた、が……はじめ、て。わたしを……うけ、いれて……くれた……」
「は、初め……て?」
――あなたが初めてのわたしのお友達なの。わたしを怖がらないで、受け入れてくれた。
「う、ん…………あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……」
――あなただけが、今まで生きてきたすべての中で、唯一わたしを理解してくれた人……。
――だから、ありがとう。わたしのお友達になってくれて。
……伝えたいことが多すぎて言い切れるか不安だったので、ちょっと省略しすぎた気もするが、ハロちゃんならきっと理解してくれるはずだ。
だってハロちゃんは元々、一人でいたわたしの寂しいって気持ちを理解して近づいてきてくれた。
そんなハロちゃんなら、きっと簡単に読み取ってくれる。
ふと、故郷にいた頃に聞いたことがある、相手に深い親愛を伝えるための仕草が頭をよぎった。
わたしがやることなんて、生涯ないだろうと思っていた。
でも……。
かぁーっ、と頬が赤くなってしまうことを自覚しながら、覚悟を決めて、すりすりと頬や顎をハロちゃんに擦りつけた。
まるで本当の猫がするように、わたしがハロちゃんに大きな親愛の情を覚えているということを、言葉ではなく仕草で一所懸命に伝える。
……うぅ、やっぱり恥ずかしいかも。
でもわたし、しゃべるの苦手だし……。
それに……ハロちゃんになら、ちょっと悪くない気分、かも。
「……ずっと……いっしょ……」
「…………うん」
ハロちゃんはやっぱりわたしを優しく受け入れてくれる。
どんどん勢いを増す心臓の高鳴りは、きっと全部恥ずかしさのせいなんだと。
そう思いながら、わたしはまるで幼子みたいにハロちゃんに甘え続けた。
最近、ハロちゃんと会えてないなぁ……。
冒険者ギルドに足を進めながら、わたしは心の中で小さくため息をついていた。
あの日、ハロちゃんという念願のお友達ができたことで、わたしは遠くへの移住を取りやめることにした。
故郷ですら、誰もわたしの本心に気づいてくれる人はいなかった。
でも、ハロちゃんは初めて会ったはずのわたしの寂しさをすぐに察して、抱きしめてくれた。
ハロちゃん以上にわたしのことを理解して、受け入れてくれるような存在なんて、後にも先にも誰も現れないような、そんな気がしていた。
でも、最近はそのハロちゃんにあまり会えていない。
ハロちゃんに会うために、毎日みたいに冒険者ギルドに通ってるのに……。
採取も護衛もその他諸々も苦手なわたしが受けられるのは討伐依頼くらいで、その討伐依頼だって別に好きでもなくて、その好きでもないものを毎日みたいにこなしてるのに……。
むぅ、と少し不機嫌な雰囲気が漏れてしまう。
そのせいで威圧的なものが漏れて周囲の人たちが小さく悲鳴を上げて走り去っていく。
なんにもしていないのに怖がられる。昔ならかなり落ち込んでいたものだが、今はちょっとしょんぼりするだけで済む。
ふふんっ、なんたって今のわたしにはハロちゃんがいるからね!
……って、今はそのハロちゃんに会えてなくて落ち込んでるんだって!
うぅ……どうしたんだろう、ハロちゃん。もしかして、昔のわたしみたいに遠くに移住しようと考えてて、もう街を去った後とかなのかな……。
もしそうならどうしてわたしに言ってくれなかったんだろう。
…………もしかしてわたし、ハロちゃんに避けられて……?
……あ゛ぅ゛ぁ゛ー! うわぁぁああああああああっ!
だ、だめだ……ハロちゃんに嫌われてるかもなんて考えたら……心が折れそう……。
っていうかあの優しいハロちゃんがわたしを避けてるとかあるわけないからっ! わたしのこと怖がってるとかもあるわけないから! ハロちゃんに失礼だよわたし!
うぅ、友達を信じられないなんて……わたし最低だ……。
と、とにかく、ハロちゃんがもし移住を考えてるとしたら、わたしにそのことを教えてくれたはず。
でもそれはなかったってことは、もっと別の個人的な用事でギルドに来れないか……それとも、まさかなにかの事件に巻き込まれてたり、とか……?
じ、事件!? もしそうだとしたら、早くハロちゃんを助けてあげないと……!
ハロちゃんはすごく魔法が得意みたいだけど、わたしと違って身体能力が高いわけじゃない。不意を打たれて背後から眠らされたりとかしたら、きっと簡単に捕まってしまう。
そして変な人たちから、あんなことやこんなことをされて……。
だ、だめっ! それは絶対だめ!
確かにハロちゃんは同じ女のわたしでも見惚れちゃうくらい綺麗で! あの普段はクールなハロちゃんが乱れるところとか想像しちゃうと、なんだか胸がどきどきしてきて、ちょっと変な気持ちになっちゃうけど!
無理矢理はだめなの! ハロちゃんを泣かせるなんて絶対許さない……! そんなことする人はこのわたしが八つ裂きにしてやる!
ちゃんと合意がなきゃ、そういうことはしちゃいけないんだから!
……合意? 合意があれば、別にそういうことも許すかと言われれば……。
…………やっぱりだめぇ! お友達は許しませんよ! ハロちゃんとそういうことしたいなら、わたしを倒してからにしなさい!
「……!」
ハロちゃんのことを考えているとどんどんじっとしていられなくなって、いつの間にか足早に冒険者ギルドへ向かっていた。
冒険者ギルドの出入り口の扉を若干乱暴にこじ開ける。
するとギルド内の視線がわたしに集まって、そこにあった喧騒が一瞬にして無に帰すという珍事が発生するが、わたしにとって重要なことはそんなものではない。
訪れた静寂を不思議に思ったのか、掲示板の前に立っている一人の少女が、わたしの方に振り向く。
この一ヶ月間ずっとずっと会いたくて、ここに来るまでの道中もずっと考えていた女の子。
その名は……!
「……!」
ハロちゃん! いたぁああああああああ!
ギルドに入った勢いのまま、ハロちゃんの方に向かう。
「…………」
ひゃあああ! ハロちゃん久しぶりぃー!
もう、今までどこ行ってたの? 全然音沙汰ないから心配しちゃったよっ?
ハロちゃんのことだから無事だろうとは思ってたけど、友達としては心配になっちゃうの!
でもよかった! ハロちゃんに会えて! 一ヶ月も会えなくて寂しかったんだよ?
けど今日は会えたし、えへへ、しかたないから全部許してあげるー。
……というようなことを一気にまくし立てるような気持ちで、ハロちゃんを見つめる。
猫耳も思わずぴくぴくと動いてしまって、尻尾もちょっと忙しなく動いちゃってるのがわかる。
その割に声は出ないが、そんなのはいつものことなので気にしない。それにハロちゃんならきっと言わなくたってわかってくれる。なんたってハロちゃんだもん。
「シ、シィナ。久しぶりだね」
ほらぁ! わたしの久しぶりって心の中の挨拶に返してくれた!
えへへ、やっぱりハロちゃんはすごい! 故郷の人たちですらわかってくれなかったわたしのことを、こんな簡単に……。
……ん?
「シ、シィナ?」
なんだかいつものハロちゃんと少し匂いが違うような気がして、不思議に思ったわたしは、一歩さらにハロちゃんに踏み込んだ。
ハロちゃんとわたしの身長は同じくらい。肩辺りで鼻をすんすんと動かして、以前までのハロちゃんと今日のハロちゃんとの違和感の正体を探る。
わたしは獣人だから、鼻とか耳とか、そういう五感が他の種族の人と比べて優れている。だからこうすれば、大抵のことは嗅ぎ分けることができる。
……むっ、これは……。
「…………ほかの……」
「ほ、他の?」
「…………ほかの……おんなの……においが、する」
ほんの少しだけど、ハロちゃんの匂いに、ハロちゃん以外の女の人の匂いが混じっている。
匂いが混じるなんて、よほど近くで接触しなきゃ起きるはずがない。それも偶然じゃなくて、故意的なものでない限りほぼありえないことだ。
ハロちゃんとそれだけ近くにいる関係……少なくとも、知り合い以上。
つまりハロちゃんはこの一ヶ月間、わたし以外の誰かと一緒にいた可能性が高いってことになる。
むぅー……!
思わず、不満げな態度を取ってしまう。
確かに、確かにですよ?
ハロちゃんはすっごい魅力的だから、いろんな人に好かれるのもわかる。
こんなわたしを理解して、救ってくれて、あまつさえ友達にもなってくれた。そんな天使なハロちゃんが、わたしみたいに一人ぼっちで友達がいないわけがない。
わたしみたいにハロちゃんのことを好いているような人が、いっぱいいるんだろうと思う。
わたしは正直……自分にはあんまり自信がない。
いっつも誰かに怖がられてばっかりだし。ハロちゃんにだって甘えてばっかりで、手間をいっぱいかけさせちゃってるだろうし……。
そんな面倒なだけのわたしを受け入れてくれるハロちゃんには本当に頭が上がらない。
だから、そんなわたしにハロちゃんの交友関係に口を挟む権利なんてないことはわかってる。
わかってるけど……。
「……あなた、は……わたし、だけの……もの……(……ハロちゃん……あのね、今日はわたしだけのハロちゃんでいてほしいの)」
「シ、シィナ、だけの……?」
「……だれにも、わたさない。ぜったいに……(わたしの友達は、ハロちゃんだけなの……だから、今日だけは他の人のところには行かないで? わたしと一緒にいてほしいの……)」
……うぅ、やっぱり迷惑……かな。
いくら友達がハロちゃんだけだからって、ちょっと依存しすぎだよね……。
…………嫌われたりとか……しちゃうのかな……。
「…………かまって(お願い、ハロちゃん……)」
最後の思いを込めて、そう呟く。
するとハロちゃんは、急に甘えたがり始めたわたしにちょっと戸惑いがちに、だけど確かにその返事をくれた。
「う、うん。おいで、シィナ……」
そう言って、わたしをぎゅって抱きしめてくれる。
ああ、やっぱりハロちゃんは優しいなぁ。優しくて、温かい。
いつもは鉄面皮なわたしの顔も、この時ばかりはすっかり緩んでしまっていた。
「あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……(ありがとう、ハロちゃん。あなただけがわたしの唯一の、そして一番の友達だよ……)」
かつてのように、顎や頬をすりすりと擦りつける。
故郷でのわたしの一族に伝わる、親愛の情を伝えるための仕草。
やっぱり恥ずかしいけど、これまたやっぱり、ハロちゃんになら悪くない気分。
「シ、シィナは甘えん坊だなぁ」
ひゃわぁっ!?
は、ハロちゃん!? そ、それはすごい! それはやばいってぇ!
あぅ……く、くすぐったくて……で、でも……ふみゃあぁ……。
まるで普通の猫みたいに顎の下を撫でられて、あまりの気持ちよさにすっかり全身が弛緩してしまう。
体をハロちゃんの方に倒して、寄りかかる。
うぅ……は、恥ずかしいぃ……。
「…………」
……あれ? ハロちゃんの手が止まった?
あ、今の沈黙はわたしじゃないからね? ハロちゃんの沈黙だからね?
「……どう、か……した……?」
「……いや、シィナと初めて会った時のことを思い出していてね。確かあの日、私がここでシィナに声をかけたのがすべての始まりだったな、と……」
ハロちゃんがどこか少し遠い目をして、そんなことを言う。
ハロちゃんと会ってからの日々はわたしにとって夢のようだった。
一緒にお食事に行ったり、街を出歩いたり。ずっとずっとお友達としたかったと思っていたことを、ハロちゃんは叶えてくれた。
あの日、ハロちゃんに出会えたから。
わたしも同じように昔のことを思い出して、気がついたら、ハロちゃんから離れて掲示板の方に体を向けていた。
「……い、らい……うけ、る……? ……あの……とき、と……お、なじ…………い、っしょ……に……」
もしかしたら断られるかも、なんて不安げに提案してみると、ハロちゃんはほんの少し困ったような顔をする。
え、まさか本当に……こ、断られ……?
「一緒に、か。実は、ファイアドラゴン討伐を受けようとしてたんだ。転移魔法を使っての日帰りでね」
よかった違ったぁああ!
わたしが飛行する魔物を相手にするのが苦手だから困ったような顔したんだね! 本当によかった……。
「……とぶ、とかげ…………にがて……」
「シィナが得意なのは近接戦闘だからね。しかたないよ」
ふふふ……しかしですよ、ハロちゃん。
「……で、も……この、まえ……ハロ、ちゃん……が、おしえ、て……くれた……まほう…………すこ、し……つかえる、よう、に……なった、から……」
ハロちゃんが教えてくれた、なんか空中で足場を作れるようになる魔法、やっとまともに使えるようになったんだよ!
魔法は苦手だけど頑張ったの! ハロちゃんがわたしのために作ってくれた魔法だもん!
友情パワーってやつだね!
「そ、そうか。使えるようになったのか……」
わたしは少し期待の眼差しを向けてみるが、ハロちゃんはそう言ったきりで、なにもしてくれない。
……むぅ。
それとなく袖を引いてみると、ハロちゃんはわたしが欲してくれていることを察してくれたらしい。
「え、偉いね。シィナ」
はみゃわぁ……。
ハロちゃんが頭を撫でてくれて、胸の内がぽかぽかと温かくなる。
いっぱい手間をかけさせちゃってるはずなのに……ハロちゃんはいつもわたしを拒絶せず、受け入れてくれる。
「じゃあ、一緒に行こうか。ああ、討伐証明部位以外にも料理用にお肉をある程度持って帰るつもりだから……その、斬り刻まないようにお願いしたい……」
お肉? ハロちゃんお肉あんまり食べられないんじゃ……?
あ、もしかして身長とか、それともその……胸の大きさとか、気にしてるの……?
うぅ、その気持ちちょっとわかるよ……。
で、でも、ハロちゃんくらいのもわたしは好きだよ! わたしと同じで揉めるくらいはある感じだもん! だからそんな気にしないで!
「……」
とにかくハロちゃんのためにもそのお願いは果たそうと、こくりと首肯しておく。
イメージ的には「まかせて」って風に自信満々な感じだ。むんっ、と胸を張って言っているようなイメージ。実際にはただ頷いただけ。
よーし! ハロちゃんのためにも今日は気合い入れて頑張ろう!
ハロちゃんがわたしのために作ってくれた魔法も、どれだけ使えるようになったのか見せてあげたいしね!
戦いは嫌いだけど、これもハロちゃんのため!
頑張るぞぉー! おー!
――その後、どうやらほんのちょっと張り切りすぎちゃったみたいで、誤ってファイアドラゴンをいつもみたいに斬り刻んじゃったのはご愛嬌ってことで……。
ハロちゃんと久しぶりにおしゃべりしたり依頼受けたりが楽しすぎて、ついやっちゃったんだよ……許してハロちゃん……。
頑張って二体目も見つけて、そっちはほら、ちゃんとお肉のぶんは残したから、ね……?
西の空に半ば太陽が沈んだ頃。
ファイアドラゴン討伐の依頼もなんとか無事に終わり、ようやく自分の屋敷の門の前まで帰ってきた私は、シィナと別れの挨拶を交わしていた。
「それじゃあ、またね。シィナ」
「……(またねハロちゃん! 今日は楽しかったね……!)」
しばらく会えていなかったからか、いつも以上に私にべったりだったシィナも、ここまで来ればようやく素直に身を引いてくれた。
もしかすれば家の中にまでついてくるかも、なんて心配もしていたけれど、どうやら杞憂だったようだ。
軽く手を振って見送ると、それに返事をするようにシィナは猫耳をぴょこんと一瞬だけ動かして、踵を返して去っていく。
「……行ったか……」
シィナの姿が完全に見えなくなったところで、私はシィナと会ってからずっと入れていた肩の力を抜いた。
あぁー、つ、疲れたぁ……。
一ヶ月以上ぶりなのに、偶然とは言えシィナと依頼を受けようとする日が重なってしまうとは……。
門を開けて、ふらふらとした足取りで玄関に向かう。
「ただ――」
「お師匠さま! おかえりなさいませっ!」
玄関の扉を開けると、私が「ただいま」と帰還を知らせるよりも先に、正面に立っていたフィリアが真っ先にお出迎えの挨拶をしてくれた。
がちゃ。一秒後「お師匠さま!」って感じだ。
さすがに早すぎて一瞬びびった。
「た、ただいま……えっと、フィリア……いつから玄関に……?」
「ほんの二〇分くらい前です」
それはほんのと言えるのだろうか……?
フィリアの背後にぶんぶんと勢いよく揺れる尻尾が幻視できる。
それはさながらご主人さまの帰宅を心待ちにしていた子犬のよう。というか、ほぼそのものだ。
「その、お疲れだろうお師匠さまを一秒でも早く労って差し上げたくて……ご迷惑、でしたか……?」
フィリアの瞳が不安げに揺れる。
私を労りたい。彼女は本当にきっと、ただそれだけを思って待っていてくれたのだろう。
「そんなことはないよ。とても嬉しい。ほら、おいでフィリア」
「え? はい……えっ!? お、お師匠さまっ……?」
フィリアを手招きして、近づいてきた彼女の頭に手を伸ばして、よしよしと撫でる。
私の方が頭半分くらい背が低いので、自分の頭より上に手を上げないと届かないのが難点だ。
……あ、違う!
これは対シィナ用兵器の一つだった!
私普段はフィリアにこんなことしてないっ!
はっとして、慌てて手を引っ込める。
今日はずっとシィナといたせいで、ちょっとばかり感覚が狂ってしまっていたようだ。
「す、すまない。まるで子どものような扱いをしてしまって……」
「い、いえっ! 大丈夫です! えっとっ、その、う……嬉しかった、ですからっ……!」
私がおろおろと弁解すれば、フィリアもおろおろと私をフォローしてくれる。
フィリアの顔が赤いのは、明らかにフィリアより身長が低い私から頭を撫でられたことが恥ずかしかったからだろう。
……私の手が頭から離れた時、フィリアがどことなく残念そうな顔をしていたのは、きっと見間違いだ。
「あ、お師匠さま、お風呂入れてありますよっ! どうぞお先にお入りください!」
少しでも私の役に立てるように、ということで、フィリアは生活の中で使うような魔法を他の魔法よりも優先して覚えるようにしている。
お風呂にお湯を入れるくらい、今のフィリアなら朝飯前だ。
「ああ、ありがとう。でもフィリア、こういう時は先に入ってくれていてもよかったんだよ? もしかしたら、今よりももっと帰りが遅くなったかもしれないからね」
「で、でも、私はお師匠さまの奴隷ですし、その私が先になんて……」
「フィリア。フィリアと私は奴隷とその主人である前に、家族だ。それは前にも言ったはずだよ。家族に遠慮なんていらない」
「お師匠さま……」
それにフィリアが先に入っていてくれたら、気づかなかったとかなんかそんな感じの言い訳してドサクサに紛れてお風呂に突入できるかもしれないじゃん?
フィリアのお胸さまの真の姿をこの目に収めるチャンスと正当な口実ができる……これ以上にフィリアに先に入ってほしい理由はない!
「わかりました、お師匠さま。もしもお師匠さまのお帰りが遅くなりそうなら、僭越ながらお先に入らせていただきます」
「ああ」
「えへへ……その……ごめんなさい、お師匠さま」
「ん?」
なぜ謝られたのかわからず、首を傾げる。
見れば、フィリアは笑いながらも、ほんの少し申しわけなさそうな、小さないたずらを告白する子どものような顔をしていた。
「私……お師匠さまに家族だって言ってもらえるのが嬉しくて……たまにちょっとだけ、わざと卑屈なことを言っちゃってるんです。今のもたぶん……半分はそれが理由でした。お優しいお師匠さまなら、先に入ってもいいと言ってくださることなんてわかってましたから……」
「わざと、か……」
「はい。だから、ごめんなさい……怒り、ましたか……?」
俯きながら、ちらちらと私の方を盗み見てくるフィリア。
きっとフィリアは、私が「怒ってないよ」と答えると半ば予想しているのだろう。
そんなフィリアに、私も少しばかりいたずらをしてみたくなる。
「ああ、怒った。まさかフィリアがそんなことするなんてね」
「っ、お、お師匠さまっ……ご、ごめっ、ごめんなさ――」
「悪い子にはお仕置きをしないと、ね?」
私がにやりと笑ってみせると、フィリアがぎゅっと目を閉じて縮こまる。
そうしてフィリアが見ていない隙に、私は魔法で異空間からファイアドラゴンの肉を取り出した。
「目を開けて、フィリア」
「は、はいっ……ふぇっ? こ、これは……?」
「竜の肉さ。お仕置きとして、フィリアにはこれを後で私と一緒に調理してもらう。そしてその料理を二等分したものを余さず食べて、おいしいって言ってもらう。それがフィリアへのお仕置きだよ」
「…………」
フィリアは目をぱちぱちと瞬かせた後、ぷっ、と小さく吹き出した。
「ふ、ふふっ、お師匠さま……わかりましたっ! そのお仕置き、誠心誠意受けさせていただきますっ!」
……そう答えるフィリアの目尻には、しかしながら、ちょっとだけ涙が滲んでしまっている。
その理由は明白だ。
「……フィリア。さっきはその、すまない。一瞬でも怒ったなんて言ってしまって……念のために言っておくけれど、あれは嘘だからね?」
「ふふ、わかってます。ちょっと怖かったですけど……でも、お茶目なお師匠さまなんて滅多に見られませんからっ。えへへ……新しいお師匠さまの一面を知られて、実は今、ちょっと嬉しいんです」
そう答える、きらきらとした笑顔が眩しい。
あぁ……ほんとフィリアは無邪気で純粋ないい子ですわ……。
まあフィリアがこんなだからなかなか手が出せないわけなんだけど……。
「それじゃ、私はお風呂に入ってくるよ」
「はい! お着替えをお持ちしてすぐ外で待ってますね」
「ああ」
すぐ外で待ってる必要あるのかという疑問はもう何度も感じて何度も問いかけたものなので今更である。
脱衣所で服を脱いでいく。
今日は血の雨にさらされたりと、汚れは結構浴びてしまった。しかし大抵は魔法ではじいてきたので服に跡はなく、匂いもないはずだ。
事実、フィリアは私が帰ってきても外見や匂いに関してはなにも言わなかった。気を遣われた可能性もあるけど。
魔法があるとは言っても、お風呂が不必要なわけではない。
血のように明らかな異物ならともかくとして、時間をかけて自然に付着した汚れは通常の清潔の魔法では落ちない。汗も同様だ。
そういう汚れを落とすことができる高性能な清潔の魔法も存在するが、下手をすると皮膚を傷つけたり体調が悪くなってしまう危険があるので、よほど環境が悪く切羽づまっていない限りは素直に風呂に入った方がいい。
あと単純にお風呂は気持ちいいし。
「今日は大変だったな……」
石鹸で体を洗った後、お湯に浸かって、ふわぁー、と脱力する。
ぽかぽかとした温もりが全身を包み込んで、溜まった疲労を少しずつほぐしてくれるようだ。
普通にファイアドラゴンを討伐するだけだったなら、ここまで疲れたりはしなかっただろう。
原因は、やはり。
「……シィナ、か」
ギルドについてから依頼の間、そしてこの屋敷に帰るまで、ずっと一緒だった少女の名前。
シィナ。猫の耳と尻尾、可愛らしいツインテールと、綺麗な真っ赤の瞳が特徴的な少女。
浴槽の端に背を預け、天井を見上げながら、シィナのことを考える。
シィナに懐かれている今の現状は、前世の価値観で例えるなら虎に懐かれているようなものだ。
甘えてくれることは素直に嬉しい。甘える姿だって確かに可愛い。
だけど私は虎の扱いのプロじゃない。完璧な意思疎通ができない以上、いつ噛まれるかわからない不安が付き纏い、もし噛まれた時のことを思うと身が竦んでしまう。
もっと長い時間、それこそ家族のように一緒に過ごしていればもう少し慣れることができそうだが……うーん……。
私はね、虎の手懐け方を知りたいんじゃないんだよ。
私はただ、可愛い女の子とにゃんにゃんしたいだけなんだ……。
無論、第一候補はフィリア。あのお胸さまを蹂躙する夢はまだ諦めていない。
第二候補は…………。
…………シ……シ、シィ…………。
……う、うぅん……。
…………正直……。
正直……痛いこととかグロいこととかされないなら……シィナも割とアリかな……とは思う。
だって見た目はめちゃくちゃ可愛いし。
甘えてくる姿も、怖いけどやっぱり可愛い。
ただシィナとそういう関係になるためには問題がいくつかある。
一つはトラウマを克服しなければいけないこと。
そしてもう一つ……それは、どうやってシィナの性癖……サディストに対処すればいいのかというものだ。
サディスト、つまりは他人が肉体的、精神的苦痛を感じている姿に性的興奮を覚えるという性質のことである。
シィナ自身がサディストと言っていたわけではない。だけど、あのシィナだぞ?
普段はほとんど無表情なのに、魔物を八つ裂きにする時だけ悪魔のような笑みを浮かべるシィナのことだぞ?
もはや確定的だろう。明らかだろう。確定的に明らかと二重に証明してもいいくらいだろう。
私は痛いのとか苦しいのとか全然これっぽっちも好きじゃないので、そういうことされるのは普通に嫌だ。
ましてやシィナは私なんかよりもはるかに膂力がある。押し倒されたりなんてされれば容易には抵抗できない。
フィリアなら痛いの好きな疑惑があるから問題なかったかもしれないけど……。
……いや、待てよ。
シィナがサディストだとして……どうして私は今もまだ無事でいられているんだろう。
シィナと出会ってから、これでもそれなりに経つ。
一緒に街を歩いたり、散歩したりもした。シィナを刺激しないようにすることに手一杯だったから、具体的なことはあんまりよく覚えてないけど。
私はシィナに懐かれている。これは自惚れなどではないはずだ。
シィナは好きな人が泣き叫ぶ姿を見て喜ぶサディストで……だけど、私は未だ一度もそういうことをされたことがない。
むしろ私に触れる時だけは、まるで壊れ物を扱うように気を遣ってくれていたような気も……。
……シィナは言っていた。いわく「あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……」と。
おそらくシィナには、これまで私しかまともに交流したことのある相手がいないのだろう。
それはつまり、誰ともにゃんにゃんしたことはないを意味する。
そうなると……。
……もしや……。
もしやシィナはまだ……自分がサディストだということを、明確に自覚はしていないのでは?
たとえどんな天才でも、それを知る機会がなければ、一生知らないままでいることだってある。
性癖だってそうだ。いざそういう場面になって、初めて自分の価値観を自覚することもあるだろう。
つまりなにが言いたいのかというと、だ。
私が常に攻めの立場でシィナとにゃんにゃんしてしまえば……シィナのサディストが覚醒することはないのでは?
……これはもしや、いける……?
なんやかんや言いくるめて、シィナを受けで満足させ続けることができれば……私の華麗なるテクニックによる攻めの虜にしてしまえば……!
……いける……! いけるぞ! これはいける……!
大分リスクは高い……! 一歩間違えば崖っぷちから転落する危険はある!
しかし、しかしだ!
シィナが可愛いのは確かなのだ!
怖くたって可愛いものは可愛い! ほんとマジ怖いけど!
あのシィナが恥じらいながら服をはだけさせる様子とか想像してみるんだ私よ!
私の服の袖を引きながら「……しよ……?」みたいな感じで甘えてくるシィナを想像してみるんだ!
とても……素晴らしいっ……!
「ふむ……もう少しシィナとも、ちゃんと向き合わないといけないな」
まずは時間をかけてトラウマと向き合いつつ、シィナという虎の手懐け方を知る。
別に私は虎の手懐け方を知りたいわけじゃないとは言ったが、その結果として安全にシィナとにゃんにゃんできる可能性があるのなら話は別だ。
ぶっちゃけシィナはめっちゃ怖い。ほんとマジで怖い。現状では襲おうとすら思えない。
だがそれはシィナのことをよく知らないからだ。
なにに対して怒って、なにに対して喜ぶのか。どこまでならセーフでどこからがアウトっぽいのか。
それらの境界の確信を得て、シィナの生態を把握し、危なげなく付き合うことができるようになれば……!
……いける!
恐怖がなんだ! その果てにシィナと安全にいちゃいちゃにゃんにゃんできる未来が待っていると言うのなら、私は必ず恐怖を克服してみせるぞ……!
よし……第一候補はフィリア。そして、第二候補はシィナ。
うむ。決まりだな。次からはこれらを念頭に置いて動こう。
あわよくば片方だけじゃなくて両方とそういうことできたらいいな。この世界は一夫多妻制も受け入れられてるしワンチャンいけるって。一夫っていうか今生私女だけど。
ふふふ……。
シィナに初恋したと思ったら粉々に打ち砕かれた上にトラウマを植え付けられ、フィリアにとんだ勘違いをされて一ヶ月以上ものお預けを食らい。淫魔の液体薬事件やファイアドラゴン惨殺事件、その他諸々……。
もうほんと最近は散々なことばっかりだなと思っていたが……やはり最後に笑うのは私なのだ!
必ず、必ず可愛い女の子といちゃいちゃにゃんにゃんしてやるんだっ!
私は絶対に諦めんぞ!
夢は見るものじゃなくて叶えるものだって前世でもなんか有名な人が言ってたしな!
ふふふ……ふふふふふ。
ふぅーっはっはっはっはっはっはっ! はーっはっはっはっはっは!
…………なお。
知らず知らず笑い声が漏れてしまっていて、のちにフィリアから微笑ましげな目線を向けられ、非常に恥ずかしい思いをすることになるとは、この時の私は思いもしていなかったのだった……。