「それじゃあ、行ってくるよ。フィリア」
「はい! いってらっしゃいませ、お師匠さま!」

 フィリアに見送られて、屋敷を出る。
 フィリアを一人にするのは少し心配ではあるが、しょせん遅かれ早かれの違いだ。

 フィリアは頑張りすぎる面があるので、私がいない間でも無理な魔法の訓練をしないよう口酸っぱく言い含めてある。
 台所には火事防止の魔法を念入りに仕掛けてあるし、フィリアはまだ回復の魔法が使えないため、それ単体で軽い回復魔法を行使できる鐘の魔道具も用意した。
 屋敷を囲うように、屋敷内の物や人へ悪意を持つ人物は入れないような結界も張ってある。
 悪意を持つ人物は入れなくとも、中に入ってから悪意を持たれては意味がない。なので念のため、来訪者は絶対に中に入れないようフィリアにこれまた言いつけてある。
 他にも、それでも万が一フィリアが危険にさらされた時のために防犯ブザー的な魔道具も渡したりしておいた。栓を引き抜けば、私の持つ受信用魔道具にびびっと連絡が来る仕組みだ。

 ……ちょ、ちょっと過保護すぎるかな……? そんなことないよね?
 でも心配なんですよ。フィリアって無自覚無邪気無防備の三点セットに加えて純真無垢で健気な子だからなぁ。
 これが子を心配する親の気持ちなのか……。
 まあ親は子とにゃんにゃんしたいとか思わないだろうけど。

 今日は私が冒険者活動を再開する日だ。
 活動を休止してから、なんだかんだでもう一ヶ月以上経ってしまっている。
 フィリアを購入する以前は欲求不満な日々が続いていたのでヤケクソ気味に魔物を狩りまくっていたものだが、今はさっぱりである。

 まあ欲求不満なのは変わりないけど……むしろフィリアが四六時中そばにいるせいでひどくなっているかもしれない。というか、なっている。
 薬盛って襲おうとした時とか本当にピークだった。
 今はそこまででもないけれど、一人の時間が取れず長いこと欲求を解消できていないので、いつまた暴走してもおかしくない。

 ……うん? ずっと一人の時間が取れなくて嘆いてたけど、よくよく思い返したら、今は一人じゃ……?
 フィリアは家にいるし。言いつけを守っているはずの彼女はまず追いかけてこない。

 い、いや、一人って言っても外だしな。うん。外はダメだよ。
 いくら欲求不満だからって外はよくない。さすがに変態がすぎる。

 ……で、でもなぁ。一ヶ月以上もお預けされ続けてたんだよ? あの御本山さまを備えたフィリアの前で。
 一度は淫魔の液体薬だって飲んでしまって、なおかつなにもしないで耐え続けた。

 …………見つからなきゃ、いいんじゃない?
 よしんば見つかっても、ほら、魔法でどうこうすれば。
 許可なしにそういう魔法かけるのが犯罪でも、ばれなきゃいいわけですし?
 こう、どこか人気のないところで――。

「だ、ダメだっ」

 ぶんぶんと頭を横に振って危ない思考を振り払う。

 今のだよ。そう、今のが欲求の暴走ってやつだよ。フィリアに薬盛ろうとしてた時もこんな感じだった。
 見つからなきゃいいとかじゃないって。外の時点でもうダメなんだって。
 私はこんな体でもちょっと女の子が好きなだけであって、外であんなことやこんなことをしちゃうような変態じゃないです。

 これ以上考えているとまた悶々としてしまいそうだったので、必死になにも考えないように足を進めていく。
 そうしていると、やがて冒険者ギルドが見えてきた。

 冒険者ギルド。魔物が出没する危険区域での活動を専門とする職業、冒険者を管理する組織だ。
 建物の中に入っていくと、中にいた冒険者たちの視線が私に集まり、少しだけ場が静まった。
 その後すぐに、ひそひそと内緒話をする者が出始める。

 冒険者にはSを最高として、その次にAからFの合計で七のランクが存在する。
 その頂点に君臨するSランクは世界でも両手両足の指で数えられるくらいしか存在しないとのことで、その一員である私もそれなりに有名だ。

 ふふ、そう。
 最近はフィリア関連でいろいろとドジをやらかしてしまっているものの、私は本来《至全の魔術師(シュプリームウィザード)》というすごい魔法使いなのだ。
 全に至りし者とか呼ばれているのだ。
 それ聞くたびに全ってなんだよって毎回思うけど。

「さて、どうするかな」

 依頼が貼り出された掲示板の前に立って、顎に手を添えて唸る。

 掲示板はその難易度によって、FからDで一つ、CとBで一つ、AとSで一つで計三つに分かれている。その中で私が見ているのはAランク以上の依頼が貼り出された掲示板だ。
 FからDならばともかく、A以上の依頼ともなると遠出しなければいけないものばかりだ。
 そんなに強力な魔物が街の近くに頻繁に現れるわけもないので、当たり前と言えば当たり前なのだが。

 うーん……でも、今回は日帰りで終わらせたいんだよね。
 フィリアをあんまり一人にしたくないし。
 いずれは何日もかかるような依頼を受けるつもりではあるけど、しばらくは日帰りでやっていきたい。
 とは言え、報酬がいいAランク以上の依頼はやはりどれも遠出が必須なわけで……。

 だからまあ……転移の魔法、使おうかな。
 あれなら一瞬で移動して一瞬で帰ってこれる。
 ちょっと味気ないが、遠すぎるのでしかたがない。最短の依頼で往復五日ですよ。遠いわ。

 とりあえずAランクのファイアドラゴン討伐でも受けておこうかな。
 竜の肉はおいしいらしいから、持ち帰ればきっとフィリアも喜んでくれるはずだ。

 そう思って貼り出された依頼の用紙の手を伸ばしかけた。その瞬間、背後からギルドの扉が開く音が聞こえる。
 それだけなら気にしないのだが、問題は私が入ってきた時と同じように、いやそれ以上の静寂がギルド内部を支配したことだ。

 あ……これあの子来たわ……。

 掲示板に伸ばしかけた手を引っ込めて、半ば確信しながらも、恐る恐るギルドの出入り口を振り返る。
 するとそこには、私が予想した通りの人物が立っていた。

 背丈は私と同じくらいだろう。しかし比較的落ちついたような雰囲気だろう私とは打って変わって、彼女は実に凄惨だ。
 渇いた血がこびりついたかのような赤黒い髪をツインテールにまとめて、なびかせる。闇の中でさえ、否。闇の中でこそ爛々と輝くであろう真っ赤な瞳には、獣のごとき縦に開いた瞳孔が窺える。
 徹底的に動きやすさを重視した服装と、背と腰にそれぞれ二本ずつ携えた合計四本の小剣。幼気ではあるが、むしろだからこそ彼女の狂気的な雰囲気をかきたてる。

 この街を拠点として活動するSランク冒険者は私と、もう一人。
 それがこの少女、《鮮血狂い(ブラッディガール)》ことシィナだった。

「……!」

 シィナは初め、受付に向かって歩いていたが、私を見つけると、途端に足先をこちらに変えてくる。
 彼女自身の鮮烈な存在感も相まって、思わず、ちょっとビクついてしまった。

「…………」

 私のすぐそばまで来たシィナだが、なにも言葉は発さない。
 ただし獣人である彼女の頭に生えた二つの猫耳はぴこぴこと動いていて、尻尾も心なしか少しはしゃいでいるように見える。
 どうやら、私と会えたのが嬉しいようだ。一ヶ月以上来てなかったからな。

「シ、シィナ。久しぶりだね」

 シィナは無口、無表情がデフォルトではある。が、反応がないわけでもない。
 私が声をかければ、彼女はこくりと首を縦に振った。

 ……正直に言うと、私はこの子がちょっと苦手だ。

 別に、無口だから苦手なわけではない。
 むしろ、無口な子がにゃんにゃんする時に声を出して乱れるとかそそるじゃないですか。猫の獣人だけににゃんにゃん的な?
 それを思えば無口は一種のチャーミングポイントだとも言える。

 見た目だって掛け値なしに可愛い。私を見つけてすぐに駆け寄ってくる辺り、まさしく懐いた子猫のようだ。
 フィリアのように大きなお胸さまこそないが、じゅうぶんにストライクゾーンの範疇である。

 ……ただ、その。
 この子、なんていうか、ちょっと病んでるというか……。
 一度手を出してしまったら、ずぶずぶと泥沼に沈んでいってしまいそうで、その……。

「シ、シィナ?」

 ふと、シィナが不思議そうに首を傾げたと思ったら、さらに一歩近づいてくる。
 ちょっと顔を動かせば、顔と顔が衝突してしまいそうな距離。

 そんな近さの中、シィナは私の肩辺りですんすんと鼻を動かし始めた。
 そして口を開くと、耳元で、静かに言った。

「…………ほかの……」
「ほ、他の?」
「…………ほかの……おんなの……においが、する」

 ひえっ。

 見れば、シィナはぷくぅーっと頬を膨らませて、明らかに不満げな様子を表していた。

「……あなた、は……わたし、だけの……もの……」
「シ、シィナ、だけの……?」
「……だれにも、わたさない。ぜったいに……」

 これですよ、これ……。
 シィナさん、めっちゃ怖いの。
 滅多に口を開かないのに、いざ開いたと思ったら、毎回めっちゃ怖いことばっか言うの。

 シィナは、ともすれば今にも剣を引き抜いて斬りかかってきてもおかしくない、そんな危険な空気さえ纏っているように見える。
 見開かれた、その真っ赤な血の色をした眼が、じーっと私を見つめている。

 Sランク冒険者である彼女が放つその重圧は、周りにいた冒険者が巻き込まれまいとそそくさと逃げ出すほどだ。

「…………かまって」
「う、うん。おいで、シィナ……」

 逃げたり怯えたりしたらなにをされるかわかったものではない。なんとか平常心を装いながら、シィナを抱き寄せて頭を撫でる。
 ふにゃあ、とわずかに頬を緩めたシィナは、確かに可愛い。可愛いのだけども……。

「あなた、が……わたしの、すべて……あなただけ、が……」

 ぽっと頬を朱に染めて、すりすりと猫のように頬や顎を寄せてくるシィナ。
 それはさながら、私についていた「ほかのおんなのにおい」を、自分のそれで上書きするかのように……。

 ……う、うん。や、やっぱ怖いなこの子……。
 これがフィリアなら狂喜乱舞するところなのに、シィナだと気を抜くとなにをされるかわからない不安で、そんな余裕がない。

 よしんばにゃんにゃんするような関係になれたとして、だ。この子だと、その、めっちゃ痛くてグロいこととかされそうな危険がある。
 だってこの子の二つ名、《鮮血狂い》ですよ? 魔物の血しぶきを浴びながら笑顔で惨殺し続ける姿から取られた二つ名なんですよ、これ。
 絶対やばいって……シィナさん、好きな人が泣き叫ぶ姿とかで興奮するタイプだって……。
 そんな子に手を出してしまったら、最悪、その後の人生が簡単に終わってしまいかねない。

「シ、シィナはアマエンボウダナー」

 若干片言になってしまいつつも、甘えてくるシィナに応え続けた。
 猫にするみたいに顎の下を撫でてあげれば、彼女は本当に気持ちがよさそうに、ほんの少しだけその無表情を崩して笑みを見せる。

 そうしながら、私はかつてのことを思い返していた。
 シィナと出会い、そして懐かれた、あの日の過ちのことを……。