かちかちと時計の針の音に耳をすませていれば、やがて病室の扉ががらりと開けられた。

「おにいちゃん!!」

 さくらちゃんが飛び出てきた。麻酔が切れたばかりだというのに、お母さんとお父さんの制止を振り切ったらしい。べたべたと地面に手をつきながらも懸命に私や縁川天晴を探している。

「ここにいるよ、病室に戻らないと…天」

「お姉ちゃん、どこにいるの!? ねえ!」

 彼女は声を上げる。

 私は目の前にいるのに。

「お姉ちゃん? どこ」

 さくらちゃんは、まるで私なんて見えていないかのように、辺りをきょろきょろ見回した。私は確かにここにいる。

 目が見えてない?

 手術の後遺症で?

 慌てて考えを巡らせる間に、縁川天晴がすっと私の前を横切った。

「お兄ちゃん、お姉ちゃんどこ?」

「お姉ちゃんも、実は入院してるんだ。でも大丈夫、きっとすぐに会えるよ」

「だいじょーぶ……?」

 さくらちゃんは安心した様子で、目を閉じた。

 手術は成功した。さくらちゃんは、私が見えなくなった。

 さあっと血の気が引いてきて、私は縁川天晴の横顔に視線を向ける。

 余命幾ばくもないらしい先生が、私について徐々に見えるようになったと言っていた。

 弁護士さんは私が見えなかった。

 遠岸楽のお婆さんは、彼や私の存在をうっすらと感じていた。

 寺の血筋で、なおかつ住職をしている縁川天晴のお父さん、そしてお弟子さんは、私は見えなかった。

 でも、縁川天晴だけは、最初から私も遠岸楽も、あの女性のことも見えていた。

 幽体は、誰かを助けたいという思いで物理的にものに触れられる。

 そんな幽体を見られる誰かは、みんな等しく死に近かった。

「うん。大丈夫だよ。あかりちゃんは生きてる」

 そう、縁川天晴は初めて会った言葉を繰り返す。

 繰り返してから、私を見る。

「嘘つき」

 私は咄嗟に、縁川天晴へ呟く。

 否定の言葉は返ってこなかった。

 私たちは、ゆっくりと病院の外を歩くことにした。さすがに中庭でぶつぶつ話をさせるわけにはいかない。聞きたいことはやまほどある。

「寺生まれだから、じゃないでしょ」

 落ち着いて、真実を知りたい。なのに力がこもって、責めるような口調になってしまった。縁川天晴の表情は、不気味なくらいいつも通りだ。

「さくらちゃんが私のことを見えてたのは、手術する前で死に近かったから。でも手術終わって死ぬ可能性がなくなったから、見えなくなった。先生は、始め見えなかったらしい。病気が進行していくにつれ、見えるようになったって聞いた」

「そうなんですか」

 しらばっくれる口ぶりに、嫌気がさした。空は雨が降り出しそうで、いつもいつもこの空は私の大切なものを奪っていくのだと、手のひらを握りしめる。

「貴方が私が見えるのは、病気だからじゃないの」

「恋の病、とか?」

 おそるおそるといった口ぶりなのに、本質ははぐらかしてくる。

 今までずっと私は縁川天晴のことを、弱気なわりに、変なところでこだわりが強いと思っていた。

 でも違う。こだわりが強いんじゃない。

 縁川天晴は、ずっと──、頑なに自分の秘密を守っていた。

「死に近いんでしょう。天晴が」

 彼は私に隠していたのだ。自分が病気だということを。そこだけは徹底していた。

「違うなら、違うって言って」

 返事がほしい。

 否定してほしい。そんなわけないって。自分はずっと生きてるって。

 でも、私のほしい言葉は、一つも音にならない。

「……なんで黙ってたの」

「推しに自分語りするなんて、厄介オタクの極みですよ。ろくでもないじゃないですか。困らせたくないし。ただでさえ、オフの推しに声かけてるんですから」

 あははと、軽く笑う。そして、私を諭すように語り始める。

「確信はあったんですよ。寺の人間に貴女の姿が見えないことや、先生が徐々に貴女を認識し始めたこと。きっと貴女が見えるのは、僕の時間が残り少ないからだろうなって。さくらちゃんの手術が成功したならば、きっと彼女は貴女が見えなくなるって」

 軽く笑ってしまえるほど、もう縁川天晴の中に死は確定事項としてある。

 まともに取り合ってくれていないことがもどかしくて、窒息しそうになった。

「よく子供は目に見えないものも見えるって言うじゃないですか。病院という立地のわりに、貴女を認識している人は少なかったし、霊感由来ということに賭けてたんですけどね……」

 自嘲的な笑みに、心臓の奥が痛くなる。喉が、焼けるように熱い。自分が今怒ってるのか、泣きたいのか分からない、ぐちゃぐちゃだ。

 彼は学校に通ってないと言っていた。学校に通えないけど、学校に問題があるだけだからネットにいたり、高校に行く準備をしている人はいくらでもいる。天晴も、いじめられたり友達が出来なかったりして、今の生活をしているのだとばかり思っていた。

「兄は、いないの」

「はい。嘘です」

 もしかしたら縁川天晴は、今日みたいに自分が暴かれる日を、想像していたのかもしれない。なにも動じず、彼は認めた。

「どこが、悪いの」

 黙ってたことに、憤りはある。嘘をつかれたことも。

 でもそれだけじゃない。気づけなかった自分が、一番憎い。

 今思えば、気付けるきっかけはいくつもあった。微塵もその存在が感じられない兄の存在に、先生の言葉。私の危険を感じたら必ずそばにいるよう言ってきたのに、病院では突然姿を晦ましたり別行動をしたがった。

 よく考えれば、調べようと動けた。

 気になったはずだった。

「心が悪いって言ってたけど、心臓のこと……?」

「酷いこと言いますね。心が悪いなんて心外ですよ。ショックです」

「話を逸らさないでよ!」

 怒鳴りつけて、ようやく縁川天晴の視線がこちらに向いた。その表情は、全部受け入れたあとみたいな、彼はもう、ただ死を受け止め、過ぎ行く時間を待つ人の顔をしていた。

「どれくらい……」

「え」

「あと、どれくらい生きていけそう……?」

 声が、震えた。立ってられない。苦しい。

 この世界から、縁川天晴がいなくなる。去年まで知らなかった。認識していなかった。

 でも耐えられない。彼が死ぬことが。

 彼はまだ生きている。でも耐えられない。彼の命がもう少ない事実が、どうしようもなく受け入れがたい。

「終わりなんてない、ただ明日を真っすぐに生きていこうって、貴女がデビューシングルで歌っていたんですよ」

 小さい子をあやすみたいに縁川天晴は、困った様子ではにかむ。

 まるで聞き分けがないことを私が言ってるみたいで、彼が死ぬことが絶対覆らないようで、ぼろぼろと涙がこぼれた。

「……短いってこと?」

「あらやだ。推しに心を読まれてしまいました」

 ふざけた声色なのに、悲しい。

 何も言えず涙ばかりが流れて、どうしようもないほどの無力さに、ただ手のひらを握りしめる。その手に、縁川天晴の手が重ねられた。

「別に、すぐ死ぬというわけじゃないですよ。手術の道も残ってるんです。ただ、決心が鈍るというか……」

「なんでよ。手術すれば治るんじゃないの? 何が問題なの」

「小さいころから、わりと全部……いろいろ未発達というか。客観的に言って、耐えられるか微妙なんですよ。ほぼ耐えられないと言っていい。さくらちゃんの手術は間違いなく彼女を生かす手術ですけど、僕の場合は殺す手術になりかねないんです」

 爪先から、どんどん体温が地面に吸われていくみたいに冷えていく。

 死んでほしくない。

 ずっと生きていてほしい。なのに、耐えられないなんて。

「……一生推すって言ったじゃん」

 不貞腐れた声色で、意味もなさない言葉を吐く。

 してない約束を、したと言いかがりをつける。

 私はどこまでも子供で、縁川天晴はどこまでも穏やかな態度を崩さない。

「はい。オタクは一生推しを推して、死んでいくんですよ。」

「そういうんじゃない。もっと長く、長く生きてよ。なんで……なんで……」

 どうして、貴方が死ななきゃいけない。

 そんなに悪いことなんてしてないはずだ。

「なんだか告白されてるみたいです。推しにリアコされる錯覚が見られるなんて驚きです」

「そうだよ」

 好きだ。

 私は彼のことが。

 ファンに恋をするなんてありえない。

 それは、ほかのファンへの裏切りだ。恋人なんて作らない。もし恋人ができたり結婚するようになったら、絶対に言わないし隠し通す。果崎あかりは、ファンの人が一番大切で、それ以上に大切な存在はあってはならないから。

 普通の恋人でいられない。相手に負担を強いる。

 だから好きな人なんていらない。そう思ってた。

「好きだよ。好きだから、生きてほしいんだよ。それだけでいい。それだけで十分なの。健康で、普通に生きててくれたら、それで」

「果崎あかりは、皆のアイドル、でしょう」

 そっと彼が、私の肩を押した。応援して、推してくれて、私の背中を押してくれた手で、線を引く。

「単推しオタクは一人に一途ですけど、アイドルは一人に固執しちゃだめですよ」

 優しい拒絶に、涙が出た。

 これ以上同情するな、自分に心を向けるなと静かに線を引かれている。

「別に、結ばれたいなんて望んでない。でも、生きててよ。何で、何で死んじゃうの」

 死に損なって出会ったのが、縁川天晴で良かった。でも、死んじゃうなら見えてほしくなかった。

 知り合いになれなくてもいい。推されなくていいから、私の知らないところでいいから、ずっと生きていてほしかった。

「生きててよ。なんで、なんでよ。なんで死んじゃうの」

 泣きながら欲しいものを強請る子供みたいだと自分でも思う。でも止められない。苦しい。生きててほしい。天晴がいない世界なんて考えられない。

「どうして、天晴は──」

「僕だって、そうですよ……」

 唸るような声に、追及の手が止まった。

 顔を上げると、縁川天晴は私をまっすぐ射貫いていた。

「僕だって、そうですよ!」

 押された肩を掴まれる。前を見れば縁川天晴が泣いていた。大粒の土砂降りのような雨と共に響く雷鳴のように、声をあげる。

「僕だって貴女に生きててほしい。生きてようとしていて欲しかった! 黙ったままでいい! 謝らなくていい! 何か言うのに絶対事務所通さなくちゃいけなくて、黙ってなきゃいけないってのも、ファン皆分かってますよ! 俺らが弁明して、信者が必死になってるからって貴方が悪く言われないようにって僕らは黙ってた! でも、自分から死のうとしないでほしかった!」

「天晴……」

 縁川天晴が喜び以外で感情的になっているところを、初めて見た。怒鳴りつけるように、彼は拳に力を込めた。

「貴女のことが好きで、でも説明してほしいって奴らも確かにいた! でも僕は貴女が黙ってても良かった! なんの説明が無くても、僕は貴女を信じる! 信じた! なのに、なのに自分から飛び降りたってなんですか。僕たちが気付けなかったのが悪いかもしれない。しつこいと思われても、コメントをもっと送ってれば良かった。ブロックされても好きだって、DМが罵詈雑言で埋まる前に、僕のコメントで埋めてれば良かったって、ずっと、ずっと思ってます! でも、僕らが反論して、貴女はそんなことしないって言っても、あいつら信者だからって聞く耳も持たない! どんなに説明してもバカ信者って言われて終わりですよ。貴女のことなんて何も知らない、アンチですらない浅い、あっさい奴らが! 僕たちが貴女を守ろうとすることを、貴女の為にならないなんて言う! 中立気取って正義気取って! 貴女を肯定することを咎めて! 挙句の果てに貴女が悪く言われる! どうしたらよかったんだろうって、貴女が自殺しようとしたって聞いてから、ずっと思ってます! 貴女を責めた奴ら全員、殺してやりたい。苦しめて、もう二度と貴女が視界に入れないように、ぐちゃぐちゃにして消してやりたい。でも、でもそうなったら果崎あかりのファンがって、貴女の名前が出されるじゃないですか。それしかないですよ殺さない理由なんて。法律なんて関係ない。人生なんてどうでもいい。それくらい、貴女に全部捧げられる! 責められると真っ暗になって、ひどい言葉ばかり目につくんだろうなって、分かりますよ。僕が想像も出来ないくらい、今までも酷いことされてたんだろうなって! だから僕は、貴女のしたことをとやかく言う筋合いなんてないのかもしれない! それでも!」

 縁川天晴は、私の手に触れる。そして、静かに私を見上げた。

「……それでも、生きようとして欲しかった。果崎あかりには、何があってもちゃんと応援してるファンがいるって、信じてほしかった。身勝手だって分かってます。貴女の絶望を、俺は本当の意味で知ることが出来ない。アイドルじゃないから。でも、死のうとなんて、しないでくださいよ……なんで、自分から……」

 縁川天晴は、しゃがみこむ。

 置き去りにされた子供みたいに。拳を握りしめて、苦しみを抑えながら俯いた。

「ごめん」

 私はそんな縁川天晴に近づく。涙が溢れて、視界が滲む。

「ごめんなさい……」

 死のうとしたことを思い出すたび、どうして死ねなかったんだろうと思っていた。

 両親を前にして、後悔に苛まれそうになった時は、死ななきゃ迷惑をかけてしまうからと誤魔化していた。

 でも初めて、死ぬ以外に選択肢はなかったのかと、思ってしまった。

 私はアイドルとして、彼の生きる希望になりたい。彼の支えになりたい。

 ただただ、縁川天晴に生きていてほしい。

「僕は、もうどうしていいかわからない」

「天晴──」

「僕は、自分の人生に後悔はありません。推しを推して死ねるなら本望だった。でも今は、分不相応にもほどがありますけど、貴女を孤独に追いやってしまうんじゃないかって怖いんです。でも、貴女がこの世界からいなくなるのなら、僕は死にたい。だからどう生きていいか、わからない。どうしていいか、わからない」

 彼は凪いだ瞳で淡々と自分の絶望を語る。その陰りは私の行動が与えたものだ。

 両親のもとへ行きたかった。

 痛いことは怖いけど、明日寿命ですと言われれば喜んで受け入れることが出来た。

 アイドルとして在ることが、存在理由でありこの世界で生きていていい赦しだった。

 炎上で、「生きていていい理由」と「死んだほうがいい理由」の比重が、簡単に逆転した。

「あいつらに復讐してやりたい。あいつらを踏み台にして貴女をどこまでも高く、ゴミみたいな奴らの手の届かない光の先に飛ばしたい。なのに僕は、その力がなにもない。なにもできない。僕はずっと、透明な、なにもない存在でしかない」

 あの時踏みとどまれていたら。

 目を閉じてあの日を思い出して、もう少し待っていたらと後悔に苛まれる。そうしたら、私は彼と出会うことはなかったけど、死ぬこともなかったかもしれない。

 私が死ねば全部好転すると思った。でも逆だ。何にもならなかった。

 彼から、生きる気力を奪ってしまった。

「私は──」

 何を言うかも決めてないままに、私は縁川天晴を呼びかける。でも、彼の後ろに建つ病棟の廊下に、見慣れた人の影が横切った。

 葬列に並ぶように生気の抜けた顔で歩くのは、遥だ。彼女は遠くからでも分かるほどうつろな瞳で歩いている。幽霊と見間違うほどの異質さに、私は言葉を止めた。

「あかりちゃん……?」

 ずっと病棟の窓を見つめる私に、縁川天晴も病棟へ振り向く。

「あいつ、何かする気じゃ……」

 縁川天晴が苦々しく唸りながら、病棟へ駆け出した。彼は、走っていい体じゃない。私は彼の名前を呼びながら慌てて駆け出す。

 でも縁川天晴は驚くほど速くて、追いつけない。今まで彼が走っているところを見たことは一度もなかった。こんなに足が速かったのかと思い知りながら、私は彼を追いかける。

 看護師さんが止めてくれればいいのに、病棟には誰もいない。

 人員不足を看護師さんが嘆いていて、話半分で聞いていたことを悔やみながら、私は腕を何度も振り上げる。

 私が花が好きと言ったら、花屋になろうとしたファンがいた。ライブで看護師さん大好きって言ってれば、少しくらい看護師さんになろうとしてくれた人がいたんじゃないかなんて考えてから、前まで見ないようにしていたファンのみんなの存在を意識していることに気付いた。

 それは間違いなく目の前の縁川天晴や、もう私が見えないさくらちゃん、ほかにもみんなのおかげだ。でも一番私を取り戻そうとしてくれた縁川天晴は、前を駆けていて手も届かない。

 私は胸に巣食う後悔を抱えながら走っていく。やがて病室に辿り着くと、遥が私のそばに立っているのが見えた。病室の外で、縁川天晴がその様子を窺っている。

「巻き込んでごめんなさい」

 遥は、私のベッドのシーツを握り締めていた。縁川天晴は声を潜めながら、「ずっと謝っているんです。貴女に」と耳打ちしてくる。

 遥が謝っている──?

「貴女は、私がリークの情報を流したと思っているんでしょうね……」

 彼女は今まで機嫌が悪いことはあれど、俯いたり、こんなにも虚ろだったことはない。

 何かある。

 私が一歩踏み出した、その瞬間のことだった。

「もう、終わりにしてあげる。巻き込んで、ごめん」

 遥が、私に繋がれた管へ手をかけた。

「今、楽にしてあげるから」

 優しい声に、引きずられそうになる。でも、「やめろ」と怒鳴りつける強い声が響いて、ハッとした。

「あかりちゃんに、触るな!」

 縁川天晴が飛び出し、とっさに遥の手を押さえる。血走った瞳をしながら、彼は遥にに怒りをぶつけた。

「なんなんだよお前っ、あかりちゃんの命まで奪わないと気が済まないのかよ!」

 自分に言われているとすら錯覚するほど、鬼気迫る叫びだった。

 責められた遥は、顔を歪めて首を横に振る。、

「違う! 私はそんなこと望んでなかった! あかりが私のことリークしたなんて思ってない! それに私はずっとアイドルを──!」

 遥は、言葉を飲み込んだ。彼女のスマホから、けたたましいほどの通知音が鳴り響く。ダイレクトメッセージの、通知音だ。

 一瞬、彼女と視線があった気がした。けれど彼女は手に持っていたスマホを壁に叩き付け、激情をぶつける。

「うるさい! うるさいよ全部! 全部嫌! みんな死んじゃえばいい! 私に指図しないで! みんな大っ嫌い!」

 遥は、思い切り縁川天晴を突き飛ばした。壁へと叩き付けられる形になった彼は、床に倒れこむ。

 私はとっさに縁川天晴の前に飛び出した。遥の勢いは収まらず、私のベッドに置いてあった松葉杖を掴んで振り上げる。

 このままだとすり抜けてしまう。手が届かない。嫌だ。縁川天晴が危ない。

 そんなの絶対に嫌だ。

 とっさに手を伸ばす。その瞬間、フラッシュのような強い閃光が周囲を遮った。

 そのまま激しい水流に飲み込まれる錯覚に陥る。

 とっさに手のひらを強く握りしめ、久しぶりに感じた布の感触に驚き目を開くと、ぼんやりと揺れ動く遥の背中が見えた。

 さっきまで、遥の目の前に立っていたはずなのに、まるでベッドに横たわりながら彼女の腕を掴んでいるような視界だった。

「あかり」

 遥が、私を見ている。

「戻った……」

 縁川天晴も、唖然としていた。

 私は、掴んでいる。手の中の感触で、今まさに私は自分の身体に戻ったのだと理解した。

 遥は、ただただ驚いて目を見開き、首を横に振った。

「違う。殺すつもりじゃなくて……私は、迷惑かけたから楽にしてあげたくて、だって、苦しいから、違うの……もう嫌……なにもかも嫌!」

 遥は、怯えているようだった。目には涙を浮かべ、ぽたぽたと滴が真っ白な床に落ちていく。

「私は、巻き込むつもりなかったの……違うの、こんなつもりじゃなかったのに!」

 鮮烈な訴えに、は騒然として動きを止める。やがてぱたぱたと人が駆けてくる音がして、遥は逃げるように病室から出ていく。

「あ、あ、あかりちゃん、も、戻って……」

 縁川天晴が近づいてくる。声が出ない。なんとか呼吸だけを繰り返した後、私はようやく言葉を発する。

「あ、あの子、私のこと……一瞬……見えて……」

「じゃあ寿命が近いってことですか?」

 それは分からない。もしかしてだけど、自殺しようとしてるのかもしれない。身体のタイムリミットだけじゃなくて、心が限界だったら、たぶん──。

 私はベッドから降りようとした。けれど、全然力が入らなくて転がり落ちる。縁川天晴が慌てて飛んできて、身体を支えてくれた。

「ありがとう……」

「ほら、ベッドに戻ってください! 今ナースコール押しますから!」

 縁川天晴は私をベッドに横たわらせようとするけど、私は首を横に振った。

「探しに、行かなきゃ……」

「無理です! 死んじゃいますって!」

「……もう死なない。後追いされると困るから。それに──」

 縁川天晴の腕を掴んだ。

「好きだから」

 だからこそ、遥が心配だ。大切な人間がある日突然いなくなる怖さを、やっと感じられるようになった。

「ごめん──見逃して」

 私は、さっき縁川天晴を傷つけそうになっていた松葉杖に手を伸ばす。すると、彼が松葉杖を取り、こちらに渡してくれた。

「二度目はないって言ったとき、うんって言ったのに。貴女こそ嘘つきじゃないですか」

「……ごめん」

「危ないと思ったら、僕は貴女を優先します」

「ありがとう」

 私たちは、病室を出ていく。寝ていたのは一か月と少し、それなのに歩くのすらままならない。

 幽体の時より地に足がついている感じがしなくて、松葉杖を握り進んでいくのがやっとだ。身体が重くて、吐き気が止まらない。

 病室の廊下は、しんと静まり返っている。真っすぐなはずなのに、ぐにゃぐにゃする。

 看護師さんたちは患者さんの対応をしているらしい。遠くの廊下で足を速める姿がちらりと見えた。

「看護師さんが見たら、たぶん声をかけると思うから……」

 遥はどうやって病室に入ってきたのだろう。診療中ならまだしも、こんな時間、病室まで来ることは出来ないはずなのに。

「どうして、遥は、病室に……」

「もしかして、夜間救急に紛れたのでは」

「あれ、でも夜間救急って……」

「第三土曜日だけは受け入れてるみたいです」

 なら、夜間救急の通路を使って……?

 視線を向けると、言葉に出さずとも縁川天晴は、「ですね!」と、夜間救急と直結しているエレベーターに視線を向けた。

 エレベーターがどこの階に止まっているかを示すランプは、八階、七階、六階……とどんどん下がっていっている。

「俺階段で行ってきます! あかりちゃんはエレベーターで来てください」

 縁川天晴は、そう言うなり非常口に向かって駆け出した。

 私は焦燥にかられながら、エレベーターのランプを見つめる。そばにはエレベーターを待っている間、目を通す為にか、掲示板があった。

 緩和ケアの相談会や、健康的な食事についてのポスターが貼られている。そして、今月からドクターヘリを受け入れるとのお知らせが目に入った。

 ドクターヘリは、一刻も早く治療が必要な患者さんのために出来たものだ。

 学校の屋上と違い、扉を開ける必要性が出てくる。

 そしていま、救急搬送が多く、夜勤は人出が少ないと看護師さんが言っていた。

 ふっと最悪の想像をして、私は非常口へ一直線に向かう。

 遥は、降りてない。おそらく上がっている。落ちるために。

 私は松葉杖を突きながら階段を上る。死のうとするまでは階段の上り下りなんて苦痛を感じなかったのに、鉛をつけているのかと錯覚するほど一段が重い。

 松葉杖が手から滑り落ちて、ガタガタと音を立てて落ちていく。

 拾いに行っている時間はない。私は手を突きながら、這いつくばるように一段一段上っていく。

 間に合ってほしい。

 それか、屋上の扉が立ち入り禁止のまま、閉じていてほしい祈るように何段も上っていく。やがて最上階に到着すると、扉は半開きだった。

 なんとか転がるように押し開いて飛び出すと、フェンスの向こうに遥がいた。

「遥」

 私は彼女の名前を叫ぶ。振り返った彼女は、私を見て驚いた顔をしていた。

「来ないで!」

「行くに、きまってるでしょ!」

 行くにきまってる。来ないでなんて言われて行かないわけない。

「それに、飛ぶ気なんでしょ? 私が行っても、行かなくても」

 私はそのまま、遥へ着実に距離を詰めていく。

「なんで、死のうとしてるの」

「それは……」

「なんで、私のこと殺そうとしたの」

 ずるい訊き方だけど、注意をそらすにはそれしかなかった。遥はしばらく俯いて、こちらに振り替える。