「なるほど……俺なんかでも誰かを助けることが出来るものなんですね……」
まるで他人事のような返答に、少し呆れた。
いじめられて、自己評価が低くなってしまったのだろうか。それともただの謙遜か。
「私も、救われてるところがあるよ」
救われては、いけない。本当は私が を救わなきゃいけない。
「全然救えてないですよ。ずっと僕が、貴女に救われてます」
縁川天晴が、ぽつりと呟く。返事が出来ない。
私はもう歌で元気づけることも、アイドルとして彼の背中を押すこともできない。
だからこそ手遅れになる前に、果崎あかりへの信仰を、羨望を私から逸らさないと。
「どこまででも、応援します。ついていきますから」
かけられた声にハッとした。縁川天晴のほうを見ると、暗がりの中こちらを見つめている。黒い瞳は常夜灯に反射して、猫みたいだった。ただ猫だと茶化せる隙間はどこにもない、真剣なまなざしだ。
だからこそ、果崎あかりを忘れてほしい。
●●●
引きこもりに週休二日は厳しい。
その言葉通り、縁川天晴は学校に行こうとしなかった。不登校であることを否定するために向かった一回目と、イメージチェンジをして学校へと向かった二回目は、彼の心に大きな負担をかけたようで、縁川天晴は木曜日を境に通学することはなかった。
両親は、そんな彼を責めることなくそっとしている。食卓に集えば笑って会話をし、踏み込まないようにしていた。
そして──、
「蝉うるせえなぁ。全部燃えちまえばいいのに」
辟易した顔で遠岸楽が空をにらむ。
彼は成仏することなく、墓地にいた。自分についても弁護士さんについても話をしない。歩積さんは、雨の日に墓参りに来るようになった。遠岸楽はその様子を遠くで見届けることを習慣としていた。
私はまだ死に至ってない。
晴れて私の心臓が止まれば、きっとこの存在は消えると信じていた。
でも、遠岸楽は違う。死に、炎によって骨となりしかるべき場所へ弔われてもなおこの世界にいる。おそらく、私を追いかけてきたあの女性も。
私は、縁川天晴が私を推さなくなるよう尽力すると決めた。ある程度親しくしていれば、身近に感じて夢が覚め、私を推すまではしなくなるんじゃないかと期待していた。
なのに縁川天晴は放っておけば、私の公演映像を見たり、CDを聴く。さりげなくほかの映画を見たいとか、ほかのアーティストを勧めても、「最後にあかりちゃんを見ないと締まりませんね」なんて、私の出演作を出す。
これから、どうすればいいんだろう。
ただ単に離れてしまえばいいのか。
縁側で悶々と考えていれば、ばたばたと足音が聞こえてきた。
「今から、一緒に病院に行きませんか」
縁川天晴が、私の出演映画のDVDを片手に隣に立った。
「病院……?」
彼と、初めて出会った場所だ。あの日彼は兄のお見舞いに来たと言っていたけれど、家族は彼のお兄さんの話をしていない。何かしら、重い事情があると想像して、病院に関することについて触れなかった。
「お見舞い?」
「はい。それに……あかりちゃんのお身体の様子も気になりますし」
縁川天晴は意味ありげに私を見つめた後、躊躇いがちに視線を落とした。お兄さんのお見舞いではない?
なにか、病院で──私に何かあったのだろうか。居間のテレビでワイドショーが映ることはなく、彼の祖父母が教育チャンネルか朝のドラマ、家庭菜園、料理などを放映するひとつのチャンネルが流れている。
「うん。行く」
「俺も行く」
縁川天晴の提案に、遠岸楽が立ち上がった。
「病院なら、死人も出るだろ。このままじゃ怠いし、やってられねえから」
「えぇ、来るんですかぁ……?」
縁川天晴は露骨に嫌がる。遠岸楽は、「うるせえな」と悪態をついた。
「ずっとここにいても飽きるんだよ」
ここにいると飽きる。
なのに留まっているのはきっと、歩積さんの様子が気になるから。
遠岸楽は、夜に病院へ行くという話になっていたら、ついて来ようとしなかったはずだ。
縁川天晴はそのことに追及しない。
私は縁川天晴の兄について触れない。
遠岸楽は、私の炎上に興味を示さない。
私たちは、一定の境界線を保ちながら、縁川天晴の部屋を後にしたのだった。
●●●
十四階建て。そのうちの五階までは吹き抜けで、柔らかな日差しで患者さんを照らすことが出来るよう建設された病院は、海に近いこともあり薬品と潮の香りが混ざった不思議な香りに包まれている。
ふたりと私は、早々に分かれた。縁川天晴は、お兄さんのお見舞いへ行き、私は自分の身体の確認をする。遠岸楽はどうするのかと思っていれば、幽霊を探すなんて言っていなくなった。
幽体を探し地獄への行き方を模索したいみたいだけど、生者と死者の区別も危ういところがある。
手伝いを提案しようか悩んだものの、自分の身体とは一人で向き合いたかった。
私の身体が、どうなっているのか。
回復の見込みがあるのなら、たぶん縁川天晴は嬉々として報告してくる。でもそうじゃなかった。
きっと逆だ。
私は日差しの差し込む廊下を歩いて、自分の身体が置いてある病室へ向かう。中にはマネージャーと、その上司である統括チーフが話をしていた。遠目でも、統括チーフと私のマネージャーがスマホで私のアカウントを確認しているのが分かった。
「メンタルのフォローをしておけと言っただろう」
統括チーフが呟く。
なんとなく、スマホをのぞき込むと私の事故に関するコメントが視界にうつった。
『元々メンヘラだったのかー! わりと好きだったけど、もういいや』
『手首切らせておいてまだ叩いてる人いて流石に引く』
「すみません。まさか、果崎あかりが死のうとするなんて思っていなくて……」
統括チーフの言葉に、マネージャーは頭を下げた。病室内にいるのは二人だけで、廊下にも人の気配はない。
「十分気質を持っていただろう。責任感が強くてストイックな人間ほど極論に走る。君は前に、果崎は徹底していて自分がマネージャーとして必要なのか分からなくなると言っていたじゃないか」
統括チーフは、そんなことを思っていたのか。やがてチーフは、「CМの件だが」と、話題を変えた。
「先方の会社は果崎の代わりに、七星を起用したいらしい。話をすすめておけ」
「え……七星は売り出し中なのは分かります。でも、早すぎるんじゃ」
「話題性はあるだろ」
統括チーフの言葉に、マネージャーはこんこんと眠る私を見て、「果崎さんの夢だったのに」と肩を落とした。
CМ出演は、私の夢だった。
CDはお金を払う分、ファンの人の中でも買う人と、ほしくても買えない人が出てくる。ライブも行けない人がいる。
でもCМなら、私がファンの皆のおかげでここまで来れたと皆に伝えることができると思った。
「話題になったとしても、商品の売り上げは……」
マネージャーは食い下がる。統括チーフはため息を吐いた。
「見込めない。七星を話題にしている層と、今回のCМの購買層は完全に異なっている。化粧品だからな。果崎は20代〜30代の働くOLの人気もある。七星を支持している年齢層は20代と40代の男だ。だがスポンサーは傷のある果崎より無傷の七星が売れると思っている。私たちはそれに従うだけだ」
「なら、賛美遥はどうですか。彼女は」
「無理だ。社外に賛美が出演するかもしれないと情報を流した者がいた。そもそも賛美の熱愛情報も、その社員が流した可能性が高い。処分が決まるまで、賛美には何もさせられない」
賛美遥の炎上は、社員の人によるもの……?
大きく目を見開いていると、マネージャーが「どうして」と狼狽えた。
「なんで自社のアイドルにそんなこと……」
「犯人は七星のマネージャーだ。七星の人気を確立させるため、上位互換である果崎と賛美が邪魔だと思ったようだ。懲戒解雇にしたいところだが、裁判を起こされれば果崎と遥の検索のサジェストに名前と裁判が出る。他人の憧れになるような、広告の仕事は来なくなる。完全に証拠を押さえてその余地すら残せぬようにしなければいけない」
アイドルの名前が、裁判の隣に出る。それだけで印象がもう悪くなってしまう。「ああ、裁判起こされたアイドルでしょ」なんてイメージは、絶対についてはいけない。
静かな病室に、バイブレーションの音が響く。
統括チーフは「もう行く」と、足早に去っていく。マネージャーも私を一瞥して、病室を後にした。誰もいなくなったこと、病室はしんと静まり返っている。
時間が止まっているみたいだ。まぎれもなくこの世界がまわっている証拠は、横たわる私の隣にある心拍数を知らせる機械しかない。
もう目覚めるのは絶望的なのかもしれない。両親が臓器を移植すると決断するのは、いつになるだろう。
私はそっと病室を出る。はじめにここで目が覚めた時より、落ち着いた気持ちだ。目を閉じると、縁川天晴の顔が浮かぶ。私の選択は正しかったはずだ。正しい。正しいはずなのに、迷いが生じているのがはっきり分かる。
──ついていきます。
縁川天晴の声が離れない。今も果崎あかりの存在によって、誰かが死んでいるんじゃないかという想像が消えない。
「あかりちゃんだ!」
手首を切った日を再現するかのように、私を呼ぶ声が響く。幻聴かもしれないと振り返ると、薄い水色のパジャマを着た幼い女の子が、点滴をつけたまま私を指さして走ってきた。
危ないと手を差し出せば、柔らかい感触があった。
触れる。
思わずまじまじと見てしまう。女の子は五才……六歳くらいだろうか。点滴に繋がれた腕の脇にスケッチブックを挟んで、片手で私にぺたぺたと触れている。
「あ、あかりちゃん!」
声のする方向に視線を向ければ、縁川天晴と遠岸楽が歩いてきた。この子は縁川天晴の知り合いかもしれない。
「この子、もしかして の──」
「いえ、知らない子です。どうやら遠岸が見えるみたいで、俺が用事済ませてる間に彼のお守りしてたみたいです」
「誰が構うんだよ。逆だろ、こいつがバカみたいに懐いてきて」
女の子は、「おにいちゃん」と、遠岸楽の手を掴む。
じゃあどうしてこの子は私たちを認識できるんだろう。縁川天晴は寺の血筋か何かが関係しているだろうけど……。
「この子、さくらちゃんっていうんですけどあかりちゃんのファンなんですよ! 将来有望ですよね」
縁川天晴は、さくらちゃんのスケッチブックを指さした。
「あのねえ、いっぱい描いてるんだよ」
彼女が笑みを浮かべながら、厚い用紙のページをゆっくりめくる。足し算の勉強もしているようで、あどけない計算の跡があった。
傍らには四角ばった花丸がある。やがてページは擦られ、クレヨンで描かれたイラストが現れた。
ぐるぐると薄橙の楕円に、二つの黒丸がついている。広々と伸びた手足に、紫と青のグラデーション。私の、CDデビューの衣装だ。
「ありがとう……」
さくらちゃんは、スケッチブックを切り取ろうとしていて、私の変化に気づかない。
意識的に呼吸をして、心に降り積もる想いをなんとか流そうとしていれば、目の前に一枚の絵が差し出された。
「あげる! あとね、 サインほしい!」
私は切り取られたページを見つめる。私は彼女に触れられる。でも、その紙に触ることは出来ない。ペンも握れない。なんとか理由を選んでいれば、縁川天晴が目の前に立った。
「あのね、さくらちゃん、あかりちゃんおてて痛い痛いなんです。だから僕が代わりに受け取っておきますね」
「そうなの? じゃああかりちゃんも手術するの?」
あかりちゃんも。
さくらちゃんは、手術をするのだろうか。縁川天晴は受け取って、「後で事務所に郵送しますね!」と、大切そうに絵を抱えた。
「治ったらサインちょーだい!」
「うん」
叶えられない。
さくらちゃんの笑顔が、苦しい。
無いはずの心臓がずきずきして、痛い。私はすべて隠すように笑みを浮かべる。縁川天晴は、「ほんとうにいい子!」と、さくらちゃんの頭を撫でていた。
「将来有望ですよね。幼稚園のダンスであかりちゃんの曲が使われたらしくて、そこからずっとファンらしいですよ」
縁川天晴は、すごく嬉しそうだ。「来期の総理大臣は決まりだ」なんて話を続ける。
「僕、自作グッズの作り方を教えてあげようと思うんです。まだ小さいし、お金で解決できない年だから。たくさん教えてあげなきゃ」
「いかれてるだろ」
遠岸楽は、露骨にいやな顔をした。縁川天晴は、まじめな顔でさくらちゃんのそばにしゃがむ。
「あのね、切り取りあるでしょ? それをラミネートして、立てるようになるとスタンドができちゃうんだよ。買うと1500円くらいするけど、そのやり方だと100円くらいで出来るの。でもみんながそれするとあかりちゃんのスタンド出来なくなっちゃうから、大人になって自分でお金の管理できるようになったら買おうね。世界が変わって見えるから。推しとどこへでも行けるようになるよ。一緒にねんねもできるんだ。デコクッキー知ってる? 推しを食べられちゃうんだよ」
「う〜ん」
さくらちゃんがきょとんとしているのを見て、私はあわてて止めた。
「しゃべり方が早いしそこまでしなくていいから」
「えーコンビニコピーでも作れる等身大パネル編に続いていくんですよ? エへへ、俺バレンタインの等身大パネル抽選外れちゃって……あったら毎晩一緒に寝ちゃう。アッ、へ、変な意味じゃないですけどね!」
「もういい。たぶん小さい子の前では黙ってたほうがいいよ」
おそるおそるさくらちゃんを見ると、遠岸楽が彼女の耳を押さえてあげていた。
「お兄ちゃん? どうしたの?」
「どうもしねえよー……あ、お前いっこ約束しろよ」
遠岸楽は、さくらちゃんのそばでしゃがんだ。
「おいちびすけ。俺と似てるやつ、本とか新聞とかテレビで見ても絶対言うなよ」
「なんで?」
「俺は、すげえ悪いことして捕まったやつと顔がそっくりだから、それでいじめられたりしてる。だから俺と会話したってお前がほかのやつに言ったりすると、俺はぼっこぼこにされる。お前もぼっこぼこだ。黙っててくれるな?」
「わかったー!」
さくらちゃんは両手を挙げて笑みを浮かべた。遠岸楽は「約束な」と彼女の頭をぽんぽん撫でる。
「さくらちゃーん? お熱はかるよー」
後ろのほうで看護師さんがさくらちゃんの名前を呼ぶ。しかしさくらちゃんは、肩を震わせると反対方向へ走っていった。
「やあだー!」
「さくらちゃん! もう脱走しないって約束したでしょ」
看護師さんはあきれ顔でさくらちゃんを追っていく。点滴をつけているから危ないんじゃないかとハラハラしたのも束の間、さくらちゃんはすぐ捕まった。
「やだー! あかりちゃん、おにーちゃんたち助けてー!!」
「よしよし、病院は人を助けるところだからね。大丈夫だから。……すみませんでした」
看護師さんは縁川天晴に頭を下げると、さくらちゃんを連れて行く。脱走は日常茶飯事なのかもしれない。
看護師さんは、さくらちゃんが目に見えない二人の人間にも助けを求めていることに気付いてない。
運ばれていく小さな背中を見届けながら、私は呟いた。
「私も遠岸さんみたいにすれば良かった」
「何がですか? スーパー素晴らしいあかりちゃんが、ロリコンの何を見習う必要があるんですっ?」
「お前ぶっ殺すぞ」
縁川天晴に、すぐ遠岸楽が噛みついた。私は二人を横目に、光の差し込む廊下を見つめる。
「私は、アイドルの果崎あかりじゃなくて、ただ似てる人だって言えばよかった」
隠すこともしなかった。出来ない約束までしてしまった。
「テレビの奴見たって言ったっても、アイドルとかアニメのキャラなら親も心配しないだろ」
遠岸楽が、あっけらかんと言う。
「どこまでも想定の人ですねえ」
縁川天晴が、ひやかし交じりに笑った。
「俺は誰も信じてねえから。出来ることは全部しておく」
また始まった二人の問答を眺めながら、私は細長い廊下を眺めた。さくらちゃんはまだ幼い。遠岸楽はこの短時間で彼女に名乗ることへのリスクを想像して、対処をした。誰も信じない彼は、不審者騒動の時、私たちに助けを求めた。
縁川天晴は、遠岸楽や歩積さんを救った。
人のために。
私はファンの為に頑張ってきた。でもそれは、つもりでしかなかった。
──貴女がいなくなるのなら、僕はその後を追います。
私は縁川天晴や──人の為に、何が出来るだろう。
●●●
縁川天晴は、「週休二日は引きこもりにはきつい」と言ったその口で、「さくらちゃんがさみしがっているし英才教育が必要だから」なんて言って病院へ向かうようになった。遠岸楽も、「さくらちゃんが喜ぶから」と連れられている。
私はなんとなく、彼らと別れ、自分の病室にいた。私の身体は相変わらず、起きる気配も死ぬ気配もない。
しばらくしていると、マネージャーがやってきて、そばにあった水差しを手に取った。そのままぼんやりと窓を開くと、ひとりでにうなずいた。
「よし、記者もいないな」
マネージャーは水差しを片手にその場を後にする。前より儚い背中を見送っていれば、こちらに向かってくる男の人が視界に入る。
友人でも、事務所の人でもない。
古びたジャケットに靴底が減り切ったブーツを履いた男の人──伏見さんは、辺りを伺いながら私の病室に滑り込んできた。
「よう。おじさんが来たぞう〜」
彼は眠る私の身体を一瞥して、目を細める。