ただ、私を推すことをやめてくれたらと思っていたのに。これでは意味がない。

 視界にうつる鮮やかな色に、どんどん私の心は重くなる。

「あれ? なんか今あっぱれくんの声がしたんだけど」

 まるで学校に向かった時を再現するかのように、背後から声がかかった。

 振り返ればこの間の男子生徒と、女子生徒たちが立っている。思えば「行事全部蹴って打ち上げ前日に学校に来るとかキモ」と言っていたから、なにかの打ち上げかもしれない。どうやらカラオケ店へはいるところだったようで、中途半端に店の入り口に立ちながらこちらを見ていた。

「もしかして、あっぱれくんじゃない?」

 口々にクラスメイト達は縁川天晴に注目していく。その目に嘲りや、軽蔑、無関心は一切ふくまれていなかった。純粋で強い羨望の眼差しだけを、縁川天晴は集めていた。

「かっこよくない?」

「え、アイドルみたい。嘘でしょ? どうしよう」

「全然違うじゃん。なに……?」

 女子生徒は、頬を染め近づくか躊躇っている。男子生徒たちは、ただただ茫然としていた。まるで本当にアイドルが立っているかのように、縁川天晴を見て、いい意味での近づきがたさを感じていた。何人か勇気がある子たちがそろそろ近づいてきているところが、よりそれらしさが出ている。

「えーかっこいい……月曜日楽しみすぎる」

 そんな好意を隠さぬ声が口々に発せられ、縁川天晴をいじめていた生徒は顔を見合わせ、居づらそうにうつむく。こんなに評価が簡単に覆るほど、縁川天晴のクラスの大半は、彼に悪い印象を持っていたわけじゃなかったのだ。

「えっと、僕は重大な用事があるので、これで」

 だというのに、縁川天晴はさっとその場を後にしてしまう。もう少しクラスの前にいて、人の目を惹きつけたほうがいいだろうに。

「待ってよ。いいの? クラスの子かっこいいって言っていたけど……昨日変なこと言ってきたりとかしなかった、普通のひとも……」

「はい。どうでもいいです! それよりこれであかりちゃんのことを悪く言う人間を黙らせることができて幸せです! 美容室も怖いところだと決めつけてましたけど、いいもんですね。今度は夢の推しカラーコーデも揃えちゃいましょうかねぇ!」

 まるで、クラスの人間なんてどうでもいいような声色だった。

 私にしか興味がない。

 はっきりとそう言われているみたいだ。

「あかりちゃん?」

 顔をのぞき込まれ、私は思わずのけぞった。

「よ、洋服いつから買ってないの」

 私は取り繕うように訊く。彼は唸りながら考え込み、私を横目に見た。

「服代は全部推し活に投資して……えっと……雑誌とかグッズへ」

 グッズはライブに合わせてだったり、シーズンに合わせて販売することが多いけど、雑誌は毎月だ。

「じゃあ、今月以外ぜんぶってこと……?」

「もちろんです!」

 私が炎上したのが新刊の発売の少し後だったこともあり、代打が立てられ今月私が掲載される雑誌はゼロになった。

 売れないものを発売するよりも、ギリギリのスケジュールを切り詰めてでも、代打を用意するほうが傷が浅くて済む。雑誌に関わった人たちは、過酷なスケジュールを強いられるだろう。

 死ぬ前は思い浮かべることのなかった人たちの顔が浮かぶと同時に、どこまでも私を推すだけの生き方をしている縁川天晴に、どうしようもない気持ちになった。

「今日みたいに、私が選んでもいいし、ちゃんと外に出る服も買って」

「ぜひ! よろしくお願いします! 約束ですよ」

 フゥ! なんて声を上げて、彼はスキップで進んでいこうとする。

 かと思えば立ち止まり、こちらへ振り返った。靡いた黒髪の隙間から、かつて自分がメイン衣装として来ていた青と紫のグラデーションが見えて、胸が詰まる。

「今日、 最後にあかりちゃんと行きたいところあるんですけど、いいですか」

「別にいいけど……」

「やったあ! 絶対行きたかったんです!」

 絶対行きたいというわりに、行き先を明かそうとしないところに疑念が湧く。でもどうせ死んでいるのだ。危ないこともないかと、私は軽く承諾した。
 アイドルとしてステージに立っているときは、無敵だと思っていた。だってファンのみんながいる。ライブをするために尽力してくれたスタッフの人たちがいる。

 そんな人たちの期待を背負ってステージに立てるのだ、怖いものなんて何もない。

 けれど、ステージを降りたら違う。

 何もかもが怖い。期待を裏切ることも、自分の行動が誰かの人生に影響する可能性もすべて怖かった。

 そして今、自分の命を手放して、ある程度の行動に躊躇いは消えた。だから行き先を告げない縁川天晴にたいして、特に詮索をすることもなかった。

「推しと推しのCDが売られているショップに行けるなんて夢のようです! 俺神にでもなったんですかね」

 私は、CDショップに入った瞬間後悔した。

 縁川天晴(えんがわあまはる)に、私を推すのをやめてもらいたい。ほかにもこの世界には、彼のように私を推す稀有な人がいる可能性は否定できない。

 けれどこうして出会ったのだから、せめて彼には私を卒業してもらいたい。なのに。

「ほらここデビューから最新曲まで全部揃ってるんですよ。もうそれだけで大好きになっちゃって……僕とあかりちゃんの聖地に任命してるんです」

「そう」

「俺、 あかりちゃんのこと応援してくれる人、皆好きです。バイトオッケーだったら絶対この店でバイトするのに……」

 そう言って縁川天晴は、私のデビューシングルが並ぶ棚で嬉しそうに視聴機をいじり始める。

「それ持ってるんじゃないの」

「はい。今日ほかにお客さんいるなら、布教阻害にならないようじっと見つめるにおさめるんですけど、せっかくなので」

 縁川天晴は、視聴機の隣にあるヘッドホンを手に取った。スピーカー部分が回転するもので、わざわざ私にも聴かせてくる。

「推しの隣で推しの曲聴けるの、マジでヤバくないですか? ゲロ吐きそう」

 握手会のとき、目の前で吐かれたことはある。

 長きにわたる待機により気分が悪くなった人と、嬉しさや感動の反応がすべて内臓にいってしまった人、二人だ。どちらもすぐ介抱して医務室に誘導したけど、ここは普通のCDショップで医務室はない。トイレに行ってほしい。

「店汚さないで。営業妨害だから」

「やばい!」

 縁川天晴は声を荒げる。限界かと身構えれば、彼は口元を抑えた。

「推しの前で吐しゃ物とか言っちゃった! ごめんなさい忘れてください!」

「忘れるからおとなしくして。もうこの店出よう。吐かずとも営業妨害になってるから」

 私は縁川天晴の腕を引っ張った。私は、彼になら触れることが出来る。でも不思議とその服に触れることはできない。だから自然に肌が露出してる部分──手首をつかんだ。

「あっおてて……」

 手首を掴むと彼は急激に大人しくなった。初めからどこか掴んでおけば良かったと後悔しつつ、私は出口へ向かって歩いていく。

 今は夏だから縁川天晴は半袖で、特に掴む場所に困らない。でも冬で彼が長袖だったらどうだろう。指とか手を掴むことになるのだろうか。

 思えば誰かの手を自分から掴むなんて、身内以外なかった。ぼんやりもう片方の自分の手のひらを見つめていれば、縁川天晴は不自然に立ち止まり、つないだ手が離れた。

 彼は、じっと一か所を見つめている。そこには心霊特集とうたわれ、ホラー系の映画が所狭しと並んでいた。

「俺、幽霊は信じてないんですよね」

 縁川天晴は、静かに映画のパッケージを見据えている。

「隣に浮遊霊みたいなのいるけど」

「貴女は、ただ幽体離脱してるだけです。魂の休暇かなにかなんですよ。いずれ元に戻ります」

「意味が分からない」

「分かりますよきっと。貴女はこれからも、人を笑顔にし続けます。こういう人を怯えさせる存在にはなりません。俺が死んだら、たぶん大怨霊になりますけど。気に入らない奴ら、皆殺しにしちゃいます」

 縁川天晴は、今度は私の手を掴んですたすた歩いていく。人は未練があると幽霊になると言うけれど、私は一体どんな状態なんだろう。ホラーに出てくる幽霊は、惨い死に方をして誰かを道連れにしようとしたりするけど、私は別に誰かを道連れにしたいなんて思ってなかった。

 ただただ、この世界から消えたいだけだ。

 だというのに、私は今この世界で彷徨ってしまっている。死にぞこない、ここから離れた病院では身体に管を通して、延命している。

「いつかあかりちゃんは、俺のことなんて忘れて武道館に立ちます」

 そうして向けられた意思のある瞳は、わずかに寂しげだった。絵空事を語っているというのにやけに根拠を持っているように感じて、私は返事ができなかった。


●●●


 夕焼けを背に、帰り道を歩いていく。縁川天晴の家の周りは、都内にあるのが疑わしいほど、自然に恵まれている。最寄駅を降りた時点で、わずかに空気が澄んで涼しく感じられた。

「山の向こうには海があるんですよ」

 ほとんど車の通らない大通りを歩きながら、縁川天晴は、赤い夕陽に照らされ黒い影を残す木々を指す。

 鴉たちがオレンジ色の光に吸い寄せられるように飛ぶ光景を見るのなんて、いつぶりだろう。送電線が続く空を横目にあたりを眺めていれば、ふいに白い人影を見つけた。

「あれ……」

「どうしましたか?」

 立ち止まると、縁川天晴がすぐ声をかけてくる。一瞬だったけれど、反対側の道路、電柱の向こうに昼に会った女の人がいた気がした。

「今、知り合いがいた気がして……」

「エッご挨拶しなきゃ!」

「でも、気のせいかもしれない。本当に一瞬、ぱって消えるみたいに見えたから」

 本当に、ぱっと花火みたいな散り方で消えた。普通、そんなふうに人は消えない。

 どこか引っかかるものを感じながら歩いていると、すぐに縁川天晴の家に辿り着いた。けれど表には車が停まっていて、通りづらい。彼はじっと見た後私に振り返った。

「無縁仏の納骨だと思います。裏から入りましょう」

「無縁仏?」

「ええ。引き取り手のない人のことです。この辺りには刑務所があって、そこの受刑者の人で遺骨の引き取り手がない場合は、うちに納骨するんですよ」

 淡々と話す縁川天晴の隣を歩きながら、裏手から彼の家へ向かっていく。赤い空はなんとも禍々しく、まるで異界の様相を醸し出していた。

「死刑になった方が近々納骨予定だと父が言っていました。ニュースでよく取り上げられていた方で、変な人を見つけたらすぐ言うようにと」

 死刑になった人。私は縁川天晴の家で見た、憎悪の瞳を思い出す。あの人も、私も、死んだら火葬され、骨になってどこかに埋まるのだろう。

 この世への、未練は──、

「みつけた」

 冷ややかで無邪気な声に振り返る。

 裏手に広がる空地の向こうに、真っ白なワンピースを着た女性が立っていた。揺れる黒髪に浮世だった雰囲気を持つ彼女は、遠目からでも昼間会った彼女だとわかった。

 女性と私たちの間には車道がある。だというのに、女性は左右の確認もせずふらふらとこちらへ歩き出した。このままだと轢かれてしまう。制止しようと声をかけようとすれば、横すぐにワゴンが飛び出してきて、女性をすり抜け走り去っていった。

「車が……すり抜けたんですか、いま」

「違う。あのひと死んでるんだ。私と、同じ」

 私は慌てて縁川天晴の腕を掴んで、引き返そうとする。なのに女性は倍の速さでこちらに近づいてきた。

「ねぇ、私、さみしいの。でも今日の、お昼はさみしくなかったの。ねぇ、一緒にいましょう? まだ貴女はこちら側じゃないみたいだけど、一緒にいたらきっと楽しいわ。ねぇ」

 女性はふらふら、ふらふらと足を引きずりながら近づいてくる。縁川天晴は私を庇うように前に出た。

「もしかして除霊とかする気?」

「出来るわけないでしょう。寺生まれがみんな除霊できると思ったら大間違いですよ」

「じゃあなんで前に出てきたの」

「貴女を守るためです」

 縁川天晴はきっぱり言うけれど、死にぞこないの私を守ろうとするなんて間違っている。なんとか彼を引っ張り逃げようとするけど、彼は微動だにしない。

「寂しい。一人で、ずっと一人で寂しい。誰かに見てもらいたい。相手にしてもらいたい。つまらない。たすけて」

 女性は両手を前に出し、すがるようにこちらへ向かってきている。私は縁川天晴を引っ張った。

「ねぇ逃げてよ。なんか憑りつかれたりとかされるんじゃないの、こっちはもう死んでるし」

「何を言ってるんですか。あかりちゃんは生きてますし、それに僕は十六という短い生涯で貴女を守れるなら本望です。誇りです」

 そんなの全然誇っていいことじゃない。そんなこと望んでほしくない。

 もういっそ私が女性に飛び込めばいいのか。さっきの口ぶりからして、狙いは私だ。

 私は思い切って、女性へ向かって飛び込もうとする。けれど私の背後から、私より速く女性へ向かっていった人影が見えた。

「どけよ悪霊、ガキに群がってねえで寝てろっ!」

 ばしゃん! と凄まじい音がして、真っ白な粉が右方向から女性にかけられる。

 キラキラと光を纏って輝くそれは──塩だ。女性はさっと人魚の泡のようにさっと消え、見えなくなる。塩を飛ばした人影をよく見れば、灰色の作業着を着た、二十歳くらいの黒髪の青年が不機嫌そうに立っていた。さらさらした短めの髪からのぞく険しい瞳やその姿に、私は茫然と立ち尽くす。隣にいた縁川天晴も同じだ。

「何見てんだよてめえ」

 女性に塩を飛ばした青年──遠岸(とおぎし)(がく)は、こちらを睨みながら近づいてきた。しかしその剣幕も一瞬のことで、彼は私の目の前に立ち止まり、つま先から頭の先までじっくり観察した後、首を傾げた。

「……もしかして、俺のことも見えてる?」

「はい……」

 私はおそるおそる返事をした。相手は死刑囚、さらに犯行は猟奇的で短絡的、きわめて犯罪的な思想が強いと報道されていた、遠岸楽だ。

「そっちの男も」

 遠岸楽は、今度は縁川天晴に問いかける。

「見えてますよ」

 縁川天晴は、先ほどの女性への警戒からうって変わって淡々と返事をする。さきほどまで緊張した様子で私の腕をつかんでいた手も、いつの間にか離れていた。

「なら、俺がここにいるとか言いふらしたら、もう二度と外歩けねえようにしてやるからな。余計な事しなきゃ、手は出さない。覚えとけよ」

 遠岸楽は私に忠告すると、女性が消えていった方角へ歩いていく。何がなんだかわからないまま、私たちは家へと戻ったのだった。


●●●


 死に損なった為か、まだ私の器官が生きているからか、嗅覚はあった。

 出汁や焼けた香りのする食卓を横目に、私は机を囲む家族へ目を向ける。縁川天晴(えんがわあまはる)の家に帰ってきた私は、見えるところにいてほしいと頼まれ、夕食の席に同伴することになった。

 今まで夕食時は縁川天晴の部屋にいたけど、女性や遠岸楽の存在が不安らしい。特に不安なこともないけれど、言うことを聞いてくれないなら死ぬと言われ、一階に降りている。

 そして縁川天晴は怒鳴られるなんて言っていたけれど、彼のイメージチェンジを彼の家族は受け入れた。

「お父さん、手が空いてるなら麦茶ついでおいて! 白いふたのポットのほう! 赤いポットにめんつゆがあるから! よろしくね!」

「どこ行くんだ?」

「電球切れちゃったって、おじいちゃん今トイレで真っ暗なのよ! 大変!」

 そう言って縁川天晴のお母さんはトイレットペーパーを持ち、廊下を抜けていく。縁川天晴のお父さんは法衣を身にまとったまま、グラスに注いでいる途中だった赤いふたのクールポットの取っ手をつかんだ。

 グラスは家族でお揃いらしい。めんつゆは自家製らしく、見え辛いけれど『昆布、しいたけだけ!』と、油性ペンで書かれている。ただ、縁川天晴のお父さんは眉間にしわを寄せた。

「つけ皿大きいな……小さめの深皿は、割れてたか。めんつゆどっちのポットだ……?」

 事故が起きそうになっている。私は机のほうで箸置きを並べる縁川天晴に声をかけた。

「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆってお父さんに言って」

「え? どうしてですか」

 縁川天晴は、お父さんとお母さんのやり取りを聞いていなかったらしい。私が急かすと、彼は慌てて息を吸い込んだ。

「水色のグラスが麦茶で、透明なのがめんつゆだって!」

 彼が声を上げると、彼のお父さんの体がびくりとはねた。お父さんは「危ないところだった」と息を吐く。

 私も胸を撫で下ろして、きちんとめんつゆ、麦茶が混ざらずグラスに注がれていくのを見届けた。

 机の真ん中には、すり硝子の深い大皿が二つ並んでいた。水がはられた中に素麺が氷を纏うように盛り付けられ、青モミジが浮かんでいる。

「実はお父さんとは、週に一回しか一緒にご飯食べられないんです。いつもはお父さん、お寺のお弟子さんたちとご飯食べてて」

 そうめんの周りに所狭しと並ぶ料理を指しながら、縁川天晴は声を潜める。

 竹かごに山盛りにされた人参、茄子などの野菜の天ぷら。山菜の煮びたしに、胡瓜や大根の漬物。がんもどきに、胡麻豆腐。豆の煮しめに、味噌の焼きおにぎり。葡萄やりんごに西瓜と鮮やかな果物が並ぶ食卓。週に一度家族が全員そろうからという想いも込められているのだろう。

「精進料理って確か魚とか肉は無いって」

「はい。まぁ、俺は寿司とかも好きですけどね。揃えましたし」

 私は前に、お寿司チェーン店の一日店長を勤めたことがあった。その一環で、特定のセットを頼むと私の缶バッジが特典としてついた。そのことを言ってるのだろう。

「お刺身とかふつうにあったけど……」 

「はい。父は俺が色んな栄養を取ることを望んでるんで」

 お寺の息子なのに、それでいいのだろうか。縁川天晴を見れば、「それより」と彼は話を変えてくる。

「本当にいらないんですか夕食、美味しいですよ?」

「お供えにしかならないから」

「でも栄養取らないと……」

「なんか言ったか?」

 やはり、一人で壁に向かって話をするにも限度がある。お父さんは、ひとりでに話す息子に声をかけた。

「何でもない」

「そうか……? 一人で話をしたり、突然髪を染めたり……何かあるなら言いなさい?」

「本当に大丈夫。一人で話なんてしてないし。お父さんの気のせいだよ。お父さんこそ大丈夫? さっきめんつゆと麦茶間違えたり……」

 縁川天晴は、心配した声音でごまかすから、彼のお父さんは自分の幻聴を疑ったらしい。思いつめた表情で自分の耳に触れている。

「やめなよ。お父さん悩んでるじゃん」

 注意をしてから、後悔が湧き出す。

 立ち入ってしまった。髪を切るのも、洋服についても、口を出した理由がある。でも今の言葉は反射によるものだ。不快にさせたかと縁川天晴の顔色を窺えば、たいして気に留めない様子で笑みを浮かべていた。