部屋に視線を向ければ、ブロマイドに重ならないよう、真新しい制服がクリーニング店のタグを付けられたままかけられている。
おそらく新学期からそのまま学校に行ってないのだろう。
男の挙動不審な態度は、ファンとしてだけじゃなく元々人付き合いが得意じゃないからなのかもしれない。
「知り合いで、このこと知ってる人はいるの」
「このこと?」
「貴方が私を推してるって、知ってる人」
「家族とかいろいろ……?」
含みのある声に、不安を抱いた。
今私を応援していて叩かれてる人も、もちろんいるだろう。その人たちに私はどうすることもできない。死ねていれば同情されて、なんとかなったはずだけど。
でも。
「ひ、引きました?」
沈黙が長すぎたせいで、彼は不安に思ったようだ。ちらちら私を見ている。
「なんていうか、すみません、普通のファンじゃなくて……」
「別に」
特に、ファンの生活に引いたりとかはない。普通にごはん食べて、健康に生きてくれたら嬉しいと思う。あと飽きないでほしいとか。でも飽きさせないのはこちらの仕事だし──と思いつつ、私が今アイドルとしての目線でものを考えていることに気付いて、喉のあたりが苦しくなった。
「やっぱり引いてますよね!?」
「引いてないから。まぁ、学校に通ったほうがいいとは思うけど、私が言えた義理じゃないし」
アイドルの中には、高校に通わず通信制の高校を受験したり、高卒認定試験を受ける子も多かった。
仕事が忙しくて通えないという理由以外にも、通えたとしても休みがちになってクラスから浮いてしまうとか、早い話がいじめられるとか。芸能系の高校に行くのが一番だけど、どうしたって定員はある。中々ままならないようだった。
「あかりちゃんはあれですよね。高校すごく偏差値高いところですよね! 俺そこに編入したかったんですけど、頭悪くて駄目で……」
私は、普通科の高校を入学していた。芸能系に行く手もあったけど、色んな経験をしてアイドル活動に役立てるべきだと前のマネージャーがずっと話をしていて、私もそう思って受験した。
勉強と仕事の両立は大変だったし睡眠不足とかのレベルじゃなかったけど、歌詞を書いたり作曲するとき、普通の学校生活を観察できるのはありがたい。通えてよかったと思っている。友達は……うっすら、移動教室の時に話しかけてくれる子はいるし、仕事が忙しくなるにつれ芸能活動に無関係な知り合いはどんどん減っていったから、新鮮で楽しかった。
「でも、まさか兄のお見舞いに行ったら、あかりちゃんに会えるなんて」
縁川天晴は私ではなく、壁には一面に並べた私に語り掛けた。コラボした栄養剤が飲まずに並べられ、CDはそれぞれ五枚ずつ本棚にしまわれている。
「これ全部バイト代で?」
「いえ、バイト禁止されてるんで」
バイトが禁止の高校は珍しくない。お小遣いで買っているのだろうか。親がいるし、下のリビングの様子から見ても食事はきちんととっているだろうけど、不安にはなった。
不登校だから、その分買い食いとか学校のあとどこかへ出かけたりしない分、浮くものはあると思う。
でもなんとなく、働いてもない、バイトも禁止となると──。
「お小遣いとかお年玉を、全部グッズ代にしたりしてない……?」
「もちろん! 全投入です! 俺あかりちゃんと会うまで欲しい物とか趣味とか全然なくて、全部貯金してたので!」
そうガッツポーズをするパーカーの袖は、だぶだぶに伸びきってしまっている。私が陰気そうだと思っていた悉くが、推し活動の犠牲故だった。
心苦しくなって、私は「少しは自分に使えば」と呟く。
「えっ……ああ確かに握手会とかライブの時は整えてますけど……生きてる分にはいいかなって……あっでも、今目の前にいるんですよね……き、緊張してきた」
彼は私の言葉を別方向に受け止めたのか、顔を青ざめさせた。なんだか致命的に間違えられている。
「もうさ、これからは自分の為にお金使いなよ」
「そんなことありませんよ! これからも俺は推し続けますよ! 一生! 次のライブに向けてお金もまた貯めますし!」
縁川天晴は、長い前髪をたらしながらも、屈託のない顔で言ってのけるせいで、どう返していいか分からない。
「あっ、寝るときはこのべ、ベッド使ってください! や、疚しい意味は当然ありません! 俺はえっと廊下とかで寝るので!」
黙っていれば彼は効果音がつきそうな挙動でベッドをすすめてくる。私は首を横に振った。
「ある日突然自分の家族が廊下で寝たら怖いでしょ。普通にベッドで寝て。私は適当にしてるから」
「推しを適当に寝かせるなんて、お、オタク失格ですよぉ!」
縁川天晴は泣きつくように首を横にふる。彼は果崎あかりが絶対なのだろう。
果崎あかりに未来はない。この先なんてない。
私を推してても、彼は傷つくだけなのに。
延々と。
●●●
毎朝、一杯の水を飲むことから始めていた。太らないよう体型維持の為に、食事はあまりしない。
でも栄養が偏っても見目に響くから、サプリで補強しつつ野菜を食べる。
好きか嫌いかで言えば、野菜は全般的に苦手だ。でも食べる。小さい子のファンもいた。私の真似をして食べないなんて言わないように、旅番組やCМが来ても大丈夫なように、苦手も嫌いも絶対表に出さない。
筋力と体力がないと、完璧なライブは出来ないから、時間があるときは走っていた。
家の周りを走ると家バレして近所の人に迷惑がかかるから、事務所と提携している会員制のジムへ行ったり、家の中でストレッチしたり。
出演するバラエティ番組の資料を見たり、過去の放送分を見ることも欠かさない。他の出演者の人に迷惑をかけたりしないよう、出演する人たちのことはちゃんと調べる。
ドラマの仕事がなくても、いつどんな仕事が来ても大丈夫なよう演技の練習だってするし、自分の関わるCDのパッケージのデザインのチェック連絡を返信したり、トークメッセージのやりとりで忙しい。
朝はいつもばたばたしていて、忙しない。だからやっぱり、疲れてしまうときはある。
そんな時にファンレターを読んだり、応援コメントを見ると元気になった。良かった、頑張ろう。応援してもらった分、恩返しが出来るように、皆に元気になってもらえるように、尽くそうと思う。
コメントに返事をする時は、誰かを特別扱いしてるように見えないよう注意した。だって誰かを特別扱いしてると知ったらいい気はしないだろうし、それに「果崎あかりに特別扱いされている」とその人が標的になってしまう。何度も何度も見直してから、返事を送るようにしていた。
炎上してから、朝のルーティーンはめちゃくちゃになった。
家から出ることは許されず、本当にこの先必要になるのか分からないまま映画やドラマを見て、更新されるかも分からないブログを書いて、止まないダイレクトメールの罵詈雑言を眺める。
自分のアイドルの終わりが、はっきり見えた。
でも炎上の終わりは見えなくて、そのわりに走ることやストレッチの習慣は抜けなくて、きょう一日自分が何をしたか分からないまま、一睡も眠れず朝を迎える。
気が付いたら寝ていて、気が付いたら起きている。その繰り返しだった。
でも、縁川天晴の部屋では何もかもが出来ない。結局あれから、彼は私の為に布団を持ち出して敷き、そこで寝た。
私はベッドで寝ることになったけれど、そもそも死にぞこなった私に睡眠が必要なのか分からず、適当に目を閉じていたら「推しの寝顔だァ」なんて声が聞こえてきて、気づけば朝になっていた。
それから朝ご飯を食べるため一回に降りた縁川天晴を見送り、窓の外を眺めていた。今日も変わらず世界は霧雨に包まれていて、泥混じりの雨の匂いがきつい。
「お待たせしましたぁ!」
しばらくして戻ってきた彼は、昨日クローゼットのふちにかけられていた学ランに身を包んでいる。
「行くの、学校」
「はい!」
彼は勉強机に並べていた教科書やノートをせっせとリュックに入れていた。ぼさぼさの髪で、スラックスをギリギリまで上に上げた格好をしている。
私は学校に行く機会が少なかったけれど、それでも同い年のクラスメイトを見たことがないわけじゃない。男子たちは少なからずワックスで髪を整えていたし、仮に同じクラスに彼がいたら、浮いていたんじゃないかと思う。
ただでさえ私を推しているのだ。
いじめられないか、不安だ。
「私も行っていい?」
「え……」
縁川天晴は、戸惑いを見せた。彼についてまだ全然知らないけれど、「推しが学校に!?」くらいは言いそうな気がする。
拒否を示しているということは、なにかあるんだろう。
「学校、興味があって」
正しくは、縁川天晴の生活だ。学校で嫌な目にあってないか気になる。そこだけ確認すれば、さっと立ち去る。彼は考え込んだ様子で、「でも、学校に行ってる間ここからいなくなっても嫌ですもんね」とぞっとする声色を発した。
「はい?」
「あかりちゃん、なんだかぱっと消えちゃいそうですもん。桜に攫われるタイプですよね。今この時間だって、奇跡みたいなものですし」
縁川天晴は暗い顔で呟くと、うっそりと微笑みかけてきた。私は一抹の不安を抱えながら、学校へと向かったのだった。
●●●
縁川天晴の通学路は、ほぼほぼ畑と獣道だった。彼はそれなりに顔が知られているようで、畑で作業をしているおじいさんやおばあさんに声をかけられ、照れながら会釈で返していた。
この辺りは、自然豊かで田舎に近しい性質を持った土地なのだろう。
前に地方ロケへと行ったけれど、そこと雰囲気が似ている気がする。小道にはさらさらと湧水が流れ、空も高い。まれに見る自販機は古びていて、瓶の飲み物が売られている。別に幼少期こういった場所に住んでいないのに、懐かしさを覚える。
田畑を区切るよう伸びたアスファルトの道を歩きながら、私は縁川天晴へ振り向いた。
「このあたり、いいね」
「そうですか? 娯楽も少ないですし、食べ物は商店街にありますけど、ほかの買い物はみんな電車ですよ」
縁川天晴の言う通り、確かに買い物は大変そうだなと思う。歩いている限りスーパーやコンビニも見ない。立ち並ぶ店の代わりに木々が茂り、蝉たちが大合唱をしている。
「どっか遊びに行ったりも出来ませんし、僕の救いは貴女です」
真剣な声に、聞こえないふりをした。
だって、果崎あかりに、彼は救えない。
「あれ、もしかしてあの建物が学校?」
私は道の先に見えた、四階建ての建物を示した。彼は「はい!」と元気な返事をする。
「結構生徒数多いんですよね、いろいろ芸術科とか音楽科とか、進学科とかあって」
「貴方は何科なの?」
「僕は普通科ですよ。何のとりえもないので。本当は進学科入りたかったんですけど、普通科ですら結構ギリギリだったんですよね。だから進級も危ういくらいで」
私は仕事で勉強の時間が取れていない。空き時間になんとか詰め込む形だから、人と比べて劣っている。でも、縁川天晴があまりにも偏差値が低いなら教えられることはあるんじゃないかと思った。
悩んでいると、下駄箱に到着した。