卒業というと、学校ですごそうな卒業式をしたりとか、なんかでかい看板の前で写真を撮ったりとか、そういうのがあるかもしれないけど、それは僕の場合はなかった。

 それは、なぜかというと、僕が卒業したのは予備校だからである。

 僕は浪人していたのだ。

 いろいろとあった。

 まあまず、予備校代がかかってしまったのはそうだけど、その問題とともに、メンタルの問題があった。

 やはり落ちたことによる自信喪失と情けなさに負けて、どうやってもポジティブにはなれない。

 そんな風な状態だったから、僕は母校の高校に、調査書をこっそり事務室に取りに行く以外、一年間顔を出さなかった。

 一方、進路が決まった人たちは、進路講演をしたり、学校行事を見に行ったり、またさらにはTAや学習相談員としてバイトしたり。

 まあそれこそいろいろとあり、一回は、後輩とかにも会って挨拶したりするもんなのかもしれない。



 だから僕は予備校に合格報告した帰り、後輩の真紀に会って、そこで怒られてしまったんだろう。

「先輩! ど、どうして、音信不通状態みたいになってたんですかあ!」

 電車の中で、僕は真紀にそう強く言われていた。

 あったのはたまたまで、でもすぐにお互いに分かった。

 真紀は制服を着ていなかった。

 そっか。もう卒業したんだもんね。高校。

 僕はう心の中で真紀を祝福しつつ、でも圧倒されていた。

 だって怒ってるんだもん。真紀。

「浪人しててさ、僕」

 そして言い訳。

 落ちたことに対する言い訳はたくさんしたいと思ったし考えたりしたけど、真紀と連絡を取らなかったことの言い訳は、必要なこと自体が想定外。

 だから随分と単純なものになってしまった。

 そんな僕に、真紀は荷物を見せびらかしながら言う。

「一緒に釣り行ってくれるなら、許しますよ」

 真紀の足元にはクーラーボックス、肩には数本の釣り竿が入っていると思われるケースがあった。



 真紀に許してもらうために僕は真紀と海へ向かった。

 電車で終点まで行き、そこから三浦半島の方へと向かうバスに乗る。

 途中の小さな漁港の前で降りる。

 懐かしい。

 そう、ここは活動場所だった。

 僕と真紀が所属していた、生物部の。

「さて、最後に後輩のために、魚を採りますよ」

「ほい。手伝うな」

「ありがとうございます」

 そう言いながらもう準備を五パーセントほど進める真紀。

 僕たちは魚を食べるために採るのではない。

 飼うために採るのだ。

 そこがおそらく、普通の釣り人とは違う。


 水槽で飼うために、生物部は、たまに、ここに魚を釣りに来ている。

 そして、何匹か魚を持って帰り、生物部の部室で飼うのだ。

 たまに、地域の水族館に寄付したり、個人で海水魚飼育が趣味の人に譲ったり。

 あと、残念ながら亡くなってしまう魚もいるので、飼いすぎる状態になることはない。

 真紀はそんな生物部での思い出を振り返りながら、ここで釣りをして、そして最後に後輩に卒業の挨拶がてら魚を持っていこうと思ったのだろう。

 それに僕が同行しているということは。

 これは、僕もあいさつに行く流れなのだろうか。

 一年以上ぶりに。


 
 準備を整えた真紀と僕は、並んで漁港の堤防に座った。

 真紀も随分とリラックスしていて、地面にあぐらをかいている。

 後ろに折りたたみいすが置いてあるけど、使わないみたいだ。

「釣れるかな……」

「どうだろうね。さっき波が静かな時のぞいたら結構いた気がするけど」

「結構いましたねー」

 真紀はうなずく。

 そんなに大きい魚は飼えないから、狙ってるのは小さい魚。

 小さい針で小さい魚を釣ろうとしてるから、当然引きも強くはない。

 だけど、ウキ釣りだから、ウキを見てれば……。

 わかる。ほら今真紀のウキが。沈んだ。

 真紀は慌てず、かかった手ごたえまで感じてから引き上げる。

「お、それは……」

「何かのハゼですね。サビハゼかな。飼える種類ですね」

「だね。一匹ゲットじゃん」

 真紀はハゼを外して、エアーポンプと水の入った水汲みバケツに入れた。

 食べられるかではなく飼えるかが基準。

 小さくてもなかなか飼えない種類かもしれないから、釣ってみないと、成功かどうかはわからないのだ。

「先輩のウキも動いてますね」

「これ餌つつかれてるね……カワハギの小さいのかな」

「あーつついて餌とっていきますもんね」

「あでもかかった」

 僕は引き上げる。おお。懐かしい小さい引き。思い出も一緒に引きあげられてきた。

 そして何を釣ったかと言えば……。

「小さいフグですね! 生物部ではなかなか飼えません」

「だなー。クサフグかな」

 僕はフグをタオルで触り、針をすぐに外して海にリリースした。

 

 そしてそれから、三時間ほど釣りを続ければ。

 小さな魚がバケツを泳ぐ、水族館の体験コーナーのような空間がバケツにはあった。

「いいですねー。いい感じです」

「持って帰る準備するか」

「そうですね」

 真紀と僕は準備を進める。

 魚を入れる袋に海水を入れ、そして酸素缶で酸素を吹き込む。

 袋の口を縛りながらどんどん吹き込んで、泡だらけになる。

 こうして魚が酸欠になりにくい、水ができるのだ。

 そしてそこに魚を移して、また酸素を追加して。

 そうして、小さな魚たちがほんのちょっとだけ住む、袋の家が出来上がる。

 透明度が高い海水を魚が泳ぐのがよく見える。

「うーん。生物部の水槽で暮らすのを想像してしましますね」

「そうだな」

 今いる魚たちと仲良くできるかな。

 まあそんなことを考えてしまうけど、もしやばそうだったら別の水槽にするとか、ちゃんと対策をしてくれるだろう。

 僕は袋をクーラーボックスに入れた。

 真紀も一つ、入れた。

 そしてクーラーボックスを閉じた時、真紀が言った。

 「先輩も今から一緒に、高校行きませんか?」



 真紀に一緒に高校に行かないかと問いかけられた三時間後。

 僕と真紀は、魚とは別れて、二人で電車に乗っていた。

「先輩。あの、みんな先輩が来てすごくテンション上がってましたね」

「そうかなあ。たぶんみんな真紀に喜んでたんだと思うけどなあ」

「いいえ……あ、でも私も人気でしたかね」

「人気だったと思うよ」

「ま、先輩も人気でした」

「はい、ありがとう」

 なんかよかったなと思う。

 久々に部活の後輩と会えて。

 水槽の様子とか、今の活動の様子も見れて。

 あと。

 もう一つそれとは別に考えて、よかったなと思うことは。

 真紀と会えて、今日色々できたことだ。

 たくさん話せた。

 釣りに行けた。

 許してもらえた? かもしれないし、たくさんの瞬間、真紀は楽しそうにしていた。僕もそう。

 どうしてそれが別のことかというと、今は久々でちょっと色々急な気持ちでもあるけど。

 高校生の時、僕は真紀に恋をしていて。でも何にも、伝えられなかった。想いとか。

 出会ってちょっと経って、真紀は素敵な女の子だって知れて。

 思い出すなあ。今隣に真紀がいるから、結構鮮明に。

  ✰   ○   ✰
 
 初めて真紀が生物部の部室を訪れたのは、僕がちょうど一人だけ部室にいるときだった。

 なんか人の気配がするのに、ノックとかはないなと思っていたら、真紀がとまどいながら部室の前にいた。

「あ、あの見学……」

 この時の真紀は、高一になったばかりのおとなしくて、だけど、ものすごく興味津々さは出てる、女の子だった。

「あ、はいはい。今僕しかいないんだけどね。どうぞどうぞ」

「ありがとうございます……」

 真紀は部室に入った瞬間、色々なものに視線がどんどんと移っていた。

 僕も初めて来たときは同じ目の動きだったかなあ、と思う。

 いろいろな水槽がある。

 川辺の環境の水槽、ペットショップみたいな熱帯魚の水槽、あとはカエルばっかりいる水槽、サンショウウオがいる水槽も。

 そして一番大きいのは、海水魚を買っている水槽で、水族館よりはだいぶ小さいけど、でもかなり海みたいな空間を味わえる。

「これ、全部飼ってるってことですよね……?」

「そうだよ」

「すごい……!」

「しかも生態とか、行動とか観察している記録もあるんだよ。読む?」

「読みたいです」

 かなりやる気がありそうな女の子だ。

 もっと僕以外に人がにぎわってるときに来れば、入部即決だったかもな。

 そんな風に考えながら、僕は、眺めた。

 この部室にいるどの生き物でもなくて、女の子を。

 ページをめくろうとして、でもそれをやめて、瞬きして。

 ちょっとその時僕は、今までだらだら部活をしてきたけど、この女の子の今みたいに、なりたいなって思った。
 
 ✰    ○    ✰

 そしてその初めて真紀が部室に来てくれた時から、僕は真紀に惹かれて、そのまま、好きになった。

 電車はとても静かに橋を渡っている。

 晴れてて水も澄んでるときは、電車から川の魚が見えたりするところだ。

 今日は少し曇ってて見えないと思う。

 川を渡り切ると、すぐに駅に停車する。

 僕と真紀の駅はまだ先だ。

 最寄り駅が隣同士なのだ。僕と真紀は。

 たくさん人が乗ってきた。

 けど、席が埋まるほどではない。

 人が詰めて座る感じになったので、僕と真紀の距離がとても小さくなって、腕が触れて、ちょっと見つめ合った。

「なんか、先輩、大きくなりました?」

「浪人時代で太ったんだよ。ごめんね」

「ああ……でも、背もちょっと伸びたんじゃないですか?」

「そうかもね。まあでも太った方がでかい」

「そうですか。ふふ。でもあんまり変わりません、先輩は。良かったです」

 かなりほっとしてる風で、でも少しだけ細い声な気がした。

「そうだ。浪人時代の暇つぶしにはまってた、生き物クイズアプリがあるんだけど、一緒にやろうよ」

「え、そんなのあるんですか? やりますやります」

 生物部らしい、電車での過ごし方を提案したら、真紀が乗り気になってくれた。

 声が細かったのは、たまたまかな。

 僕はそう思いながら、スマホを出してアプリを起動した。



「フジツボが何の仲間か? なんて余裕ですね。節足動物ですね。貝に見えるけど軟体動物ではありません」

「だね。まあ正解していくうちにレベル上がっていく仕様だから」

「そうなんですね。ならもう楽しみです。どんどん難しい問題こいこい」

 真紀は楽しそうに僕のスマホを操作して、僕は、それを眺めていた。

 なんだかんだで圧倒的に、真紀の方が生き物に詳しいよな。

 僕は受験で生物を使いはしたけど、受験の知識がついただけで、まあ、むしろ生き物に触れる機会も知識を使う機会も減ってしまった。

 真紀はどうなんだろうか、ていうか、真紀、受験で生物使ったのかな。それも知らないし、あとそれ以前に、真紀がどういう進路に進むのかも知らない。

 でも、なんかその話になる雰囲気ではない気がした。
 
 二人で片方ずつつけているイヤホンから、正解の軽い音がリズムよく流れる。

 その正解の音は、尽きることはなく、真紀はいったい何問連続で正解してるんだって感じだ。

 僕はその音を聴きながら、外に目を向けた。

 春だと思う。今は。

 だけど、春を感じられると宣言するには、少し早い気がして。

 だからかな、冷房が入ってるからのかな、少し車内は涼しかった。

 いったんイヤホンを外し、鞄から上着を出して着る。

「真紀は……寒くない?」

「寒いですね。ちょっと先輩にバトンタッチです。上着私も着ますんで」

「え、わかった。連続正解記録途切れたらごめんね」

「別にいいですよ。先輩のアプリじゃないですか」

「たしかに。いや、でも、真紀のすごさを消滅させるわけにはいかない」

 僕はクイズを解いていった。

 お、正解続きだ。

 よかったよかった。思ったよりも解けるぞ。



 まず、真紀の最寄り駅が近づいてきた。

 どうしようかな。

 僕は少しためらいながらも、真紀にまたすぐに会いたいと思ったから。

 電車が高台の上を走り、桜が少し咲いているのが見える。

 車が小さくどんどんと走っているのが見える。

 人が歩いているのも見える。

 そんな景色を見ながら、でもちゃんとちょっとは真紀を見て、僕は訊いた。

「また、会いたいな」

「……ですね」

 真紀はうなずいた。

「次、いつくらいなら会えるかな」

「そうですね……」

 真紀は考えていた。

 高台は過ぎ、桜の木は見えなくなり、建物と踏切が見える。

 電車がどんどんと減速して、駅のホームが近くなるのを示す。

 そして真紀は口を開いた。

「ごめんなさい。一年後にしましょう」

「……うん」

 ぼくはうなずいた。やっぱりそうだったか。

「私、あれなんで、大学受験、全部落ちちゃったんで」


 ✰    ○    ✰

 
 一年後の三月中頃。

 僕はふと思い出して、ちょうど、真紀と前に会ってから一年であることを思い出した。

 そして僕は、電車に乗って、小さな港を目指した。

 小さな港っていうのは、真紀と前に会った時、釣りに行った場所である。

 そこに真紀がいる気がして、真紀と連絡を取ることもなく、勝手に僕は出かけていた。

 海はあの時よりも静かで、そしてあの時よりも光を反射していた。

 漁港へと近づくバスの中、僕はそんなふうに景色をみていた。

 やがて一年前と変わらないバス停に降りる。

 すぐに目を遠くにやり探す。

 いた。

 女の子がいて、一年前と違った。

 だけど、どんなに違うように見えても、絶対、好きな女の子っていうのは、同じような雰囲気をまとっている。

 それが感じられたから僕は走った。

 釣り竿を出すこともなく、ただ堤防に座っているだけ。

 のんびりとしたおじいさんのような姿勢と視線の先で、僕は、僕が隣について座るまで、絶対振り向かないな、と思った。

 だから声をかけることもなく、一番最初に届くのは手で、手が少しだけ肩を触るように、最後まで走った。

 そして海に落ちないように急ブレーキ

「あ、あぶない……」

 やっぱり堤防で走るのは危険だ。もう今後はやめよう。

 そう反省しながらも、僕は、真紀の横顔をみた。

「先輩……今から会いに行こうと思ってたのに」

「そうか。まあ、一年後ってことで、勝手に来てしまったな」

「……ありがとうございます」

 そして、魚を釣ることもなく、魚をのぞくこともなく、海を眺めた。



 小さな穏やかな港だけど、時折大きな波が来る。

 ……隣の真紀に僕は言った。

「高校生の時からさ」

「……はい」

「僕、ずっと好きだった」

「わたしを……?」

「そう」

「……」

「……」

「あの、私も好きだったんです。ずっと先輩ともう会えなかったらどうしよって思ってました。あ、あの、私……北海道の大学に行くことになったので……」

「北海道? あ、でもそうだよな。高校生の時からそうだったな。水産やりたいって言ってたもんな」

「……はい」

 そしたら、これが遠距離恋愛か……。

 不安になってきた。

 けど、僕は絶対、真紀が好きだから。

 言葉にすると軽っぽいけど、海を眺めている今、少しでもそれを伝えなきゃ。

 だから……僕は、真紀に寄り添った。

 嫌がられるかもしれないと思ったけど、嫌がられなかった。

「……先輩! 今からいっぱいデート行きましょう! あと二週間くらいで!」

「おお」

 つまりは、あと二週間くらいしかこのあたりにはいないということだけど、だけど……思い切って、楽しむのが一番真紀も僕も、やりたいことかもな。

 だから僕は……

「いっぱいデート行こうな」

 僕からもそう言った。



 そしてそれからたくさんデートした。

 お泊りにもいってしまった。

 そして……真紀は北海道へと行く。

 飛行機ではなくてフェリーで行くらしい。

 海が好きな真紀らしい行き方だと思った。

「先輩、また、戻ってきますからね」

「おお」

 ぼくはうなずいて、真紀を見た。

「……」

「なんだかんだ、新生活、楽しみだな」

「あ……いえ、私は寂しいです……」

「でも、目が、楽しそう」

 確かに涙はあるけど。

 だけど楽しそうなのだ。

 その楽しそうな真紀が好きで、好奇心がある感じも、なんかやる気がある感じも好きで。

 だから高校の部活見学に来た時から、僕は真紀を意識していて、そして好きになった。

 だから、楽しそうに僕から離れて行くのは、僕も楽しかった。

「……わかりました。楽しんできます!」

「そうだそうだ! いいぞ! ぼくも楽しむからな」

「じゃあ楽しい電話、いっぱいしましょう」

「いいよ。いっぱいしよう。電話」

 そして真紀はフェリーに乗った。

 感動的な別れでみたいな話ではない。

 けれど、とにかく、楽しそうな雰囲気で別れられたのが、真紀と僕にとっては、一番大切だったのではないかと思う。

 だから僕は満足して。

 そして、フェリーが動くのと、海を眺め。

 真紀に寄り添う仕草だけしてみてから、家に帰るために、海と反対方向にある駅に歩き出した。