さくら、ひらひら。

「梓、今日どっかよってく?」

終業のチャイムと同時にざわめき出す教室で、私は梓の机へ赴く。
入学式の日に、雨の中で式次第を見て顔をほころばせていた女の子は、あれから2年の月日を越えて私の親友になった。
入学式の時のあどけなさの残っていた顔は、今は程よく可愛らしい女性へと変わりつつある。
私自身もそうであることを望む。

梓の席まで行くと、その前の席で大きな体を丸くして眠っている小泉くんが視界に入った。
その姿はまるで猫がこたつで丸くなっているみたいで、大きな体とそのミスマッチが微笑ましい。


そんな彼を一瞬見遣り、気付かれないように、微かに目を細める。
間を置かず、すぐに視線を梓へ向けると朗らかな丸い笑顔。
その笑顔は、初めて見たあのときと変わらない温度で、私の心までまぁるくなるみたいだ。

「ハイ!ハイ!!お腹すいた!」

丸い笑顔から飛び出す、元気な声。
その声に誘われるように、私も元気な声をだす。

「そだね。ファミレスよってかえる?頭使ったからお腹すいたよ~!今日くらい、良いよね?!」
「うんうん、たまには休息も必要だよね!」

3年生2学期の中間考査期間。
今日はテスト最終日で午前中で終わり。
あははっと笑いながらかばんに筆記具をしまい込む。
周りもいそいそと、帰る支度を始めている。
早い人はすでにもういない。そのざわつく教室で、未だ昏々と眠りつづける小泉くんに自然目が行く。

「……ねぇ、小泉くんて、まだ部活やってなかったっけ?」

梓に向けて小さく問う。
進学校である我が校は3年生で部活を続ける生徒はごく限られている。
試合やコンクールに勝ち続けている部活、若しくは、推薦を受けるため。
彼は確か、スポーツ推薦で進学するためにまだ部活に顔を出していたような気がする。

「…ぅ、終わり?」

ふわぁ、と大きなあくびとともにその大きな体もむくりと起き上がる。

「終わってるよ。テスト中からずっと寝てたでしょ~?」

梓が、にこやかに答える。

「んー、でも問題はちゃんと解いたから問題無いだろ?」

まだ眠そうな目を擦りながら、梓に返して荷物をまとめはじめる。
そんな小泉くんと梓のやり取りを、微笑ましくも複雑な思いで見つめる。

支度を終えた小泉くんが、立ち上がり「じゃあ」と、挨拶を残して教室を後にした。
どうしていつも、報われない恋ばっかりしてるんだろう……?
これまでの自分の恋愛遍歴を思い返して、溜息が出る。

「ね、行こう!」

にこにこと、相変わらずの笑顔の梓が、私の報われない恋の答え。


大好きな友達。
大好きな、彼。

なんだか、心の奥がちょっと苦い。


いつか、解放されるんだろうか?
そんな誰にも言えない想いを抱えて、教室を出た。

テストが終わり、少し浮足立ち気味な生徒たちでにぎわう廊下を並んで歩く。

「テストが終わっても、これから受験だと思うとなんか解放感が少ないよね」

梓が、少し顔をゆがめてぼそっと言う。
確かに、二年生の時まではテストさえ終われば、後は部活に遊びに、解放感たっぷりでいられたけれど。
これから、まだ大きな壁があると思うとだんだんと心に余裕もなくなる。
これが、受験という名のプレッシャーだろうか。

「そうだね。だけど、今日だけはちょっと羽根伸ばそうね!」

プレッシャーに負けそうな、弱い自分を励ますようにおどけてそう言うと、梓がにっこりと笑ってくれた。

こっそりと溜め息を吐いて、抱えている不安や言えない想いを逃がしてみる。
そんなことしたって、何にもなりはしないのだけど。


受験のプレッシャーにも、誰にも言えない恋にも、私は耐えられるんだろうか?
いっそ、勉強に身を置けば恋なんて、忘れられるのだろうか?

楽しみながら、苦しみながら。
言えない恋を育てながら、笑いながら。



そんなプレッシャーを抱えた、18歳の秋―――…。
校庭の隅のあの桜は、裸で風に吹かれながらも、凛と立っていた。

「好きな人ができたんだ」と、他の誰でもなく、梓に相談したかった。
梓に相談できなくて、それなら他の誰かに打ち明けるつもりもない。

二年生になったとき、初めて同じクラスになった梓。
記憶の隅に、入学式の日のことを覚えていた私は、迷わず梓のもとへと話しに行った。

「くまのキャラクターが好きなの?」

取っ掛かりはなんでもよくて。
目についたことで話しかけた。
ビックリして目を丸くしていたけど、すぐにふんわりと笑顔になってその日の内にお互いに連絡先を交換した。

二年生の時のクラスは、グループなんて関係なくて、余計なしがらみもなくて私たちが仲良くなるには時間もかからなかった。

思った通りの女の子。
明るくて、元気で朗らかで。
笑顔が似合う、真っすぐな。

そして今では、親友だと思っている。
その親友に話せないなら、他の誰にも相談なんてできっこない。

梓と行動していると、どこからかくる視線を感じていた。
その先にあったのは、大きな身体を小さく丸めている小泉くんの姿。
ふてくされるように、机に頭を預けて気付かれないように静かに梓を見ていた。


当時の梓は、好きな人がいて、静かにじっと見守っていた小泉くんはもしかして気付いていたのかもしない。
報われない片思いをしていた小泉くんが何だか気になって、いつしか自然と目で追うようになっていた―――。


だけど、小泉くんの想い人である梓にこんな相談をできるはずもなく。
時間はただ流れて、私たちは変わらずの関係のまま。


だけど、歯がゆいような、もどかしいような思いを抱えているのは、多分、私だけ。


気になれば気になった分だけ、小泉くんを見てしまう。
見てしまえば見てしまう分だけ、小泉くんの気持ちがわかってしまう。

切なくて、苦しい。
そう、確かに、この時から私の片思いは、今もなお立ち止まったまま……



桜の木に生い茂る葉が、柔らかな風を受けて、さわさわと鳴る、17歳の初夏―――…。


とめどなく流れ行く時間に身を任せ、時にほろ苦い心に負けそうになりながら、初夏の風はいつしか過ぎ去り、紅葉を終えた木々達が寒さに震えるように風に揺らされている、ある日の放課後。
進路指導で担任に呼び出されていた私が、職員室から教室に戻ると、その日の日直だった小泉くんが一人日誌を書いていた。

「……小泉くん、まだ書き終わってなかったの?」

ガラリ扉を開けて、声をかけると、小泉くんがこちらを見る。

「…ん。さっき起きた」

そう言えば、HRの時に机に突っ伏していたことを思い出す。

「部活、良いの?」

クスッと笑いが漏れそうになるのをこらえて尋ねると「たまには休んでもいいだろう」と、少し笑って彼が答えた。


自分の席まで歩み寄ると、ガタッと椅子を引き、静かに腰を下ろす。
誰もいないこの空間に、ふたりきり。
たったそれだけのことが、嬉しくて。

けれど、この小さな気持ちも、あるいは梓への裏切りになるのかな?
と、そんな風に思うとまた苦くなる心。
自分のことが、一番わからない。

「帰らないのか?」

目線は日誌に預けたまま、手をせわしなく動かしながら声だけで質問を寄越す。

「ちょっとね、休憩」

クスッと笑ってそう返すと、彼はそっけなく「ふーん」と言うだけだった。
その姿を、そっと見つめる。


『お前、進路本当にこれで良いの?』

それはさっき担任に言われた言葉。
“本当に行きたい”学校は今からしっかりみっちり勉強を重ねてギリギリなライン。
狙えなくはない。
残り1年半の努力次第。


けれど、負けてしまうリスクを考えてしまう。
きっと、ダメだったときに、打ちのめされてしまうから。
弱い自分がそれを嫌がる。
確率の高い、志望動機もそれとなく言えるような、そんなところへと心が傾く。

それを見透かしたような、担任の言葉に、今さら私はなにも言えなかった。

「……小泉くんさぁ、梓のどこ好き?」

それは何気なく、口からこぼれた言葉だった。

こぼれた言葉は、私の本心?
梓の良いところなんて、知ってる。
この持て余している感情は、梓に対する、やきもちなのか。
それとも、小泉くんに対する、やきもちなのか。
小泉くんの答えを聞いてしまえば、私の恋は、幕を閉じてしまうのだろうか?
……解放される時が、やってくるのだろうか?

「まっすぐなとこ、かな。なんか、はっきり答えられないけど」

手を止めて、柔らかく微笑んで小泉くんは答える。
淀みなく。
『梓が好き』に対する否定の言葉でなく、肯定の言葉が返ってきて、少しだけ胸がきゅぅっとなる。
だけどその言葉が偽りなく温かみを帯びていて。


彼の表情が、穏やかで。

皮肉なことに、そういう小泉くんのことが、私は好きなんだ。
行きつく答えは、結局、同じか―――…




「ふーん」

そっけない返事を返すと、苦笑した小泉くんが日誌を書き終えたらしくパタンと冊子を閉じる音が聞こえた。

「じゃ、お先に」

ガタッと椅子から立ち上がり、鞄と日誌を持ち、教室を後にする小泉くんの後ろ姿を見つめると、ほんの少し、滲んで見えた。
私は動くこともできずに、しばらく誰もいなくなった廊下を見ていた。
突風のような木枯らしが、窓を揺らした。


三年生になった。
あの時、結果として流されるようにそのまま私立コースへと進級することにした私は、また梓と同じクラスになった。
そして、よもやの小泉くんまで同じクラス。

三年生に上がる始業式の日に「先輩に振られちゃったよ」と少しすっきりした表情で私に告げる梓の顔を見ると、なぜだか小泉くんの顔が頭をよぎった。


報われない恋をしているのは、私の方だ。
梓を憎むこともできず、小泉くんを嫌いになることもできず。

ただ、あのから日と同じ。
ここから動けないだけ。
誰にも言えない、報われない思いを抱えながら。

ぶつかって玉砕するのも、言えずに燻り続けるのも、すべては自分が出した答えだ。
ぶつかれる梓を潔いと尊敬するし、かといって、言えない想いを抱えている自分を悲観する気もない。
ただ静かに、消化するのを待つ。
それが私が出した結論だ。

二人とも、好きだから。
この関係が、とても、好きだから。
そう言い訳して、臆病な自分には見て見ぬふりをする。



三年生になってしばらく。
梓が、小泉くんの方をよく見るようになった。
その変化は、他の人からしたら、何でもないことかもしれないことで。
でも、私にとっては、大きなきっかけになったことは間違いない。

私の席は、二人と離れていて、二人から斜め線上の一番後ろの席。
小泉くんを視線で追えば、自然目に入る梓の姿。

もともと、窓の外を見つめているふりをしながらその奥を見つめていた小泉くん。
ふて寝していた理由の大半は、これだと言うことを、私は知っている。

けれど、最近はその後ろの席から、窓の外の桜をしょっちゅう見つめていた梓が、ちらりちらりと前を向くようになった。
きっと、受験のプレッシャーと戦う自信をつけるために勉強する、それだけじゃない。
先輩の姿を見るのが辛い、と言っていた梓は、不意に気づいたのだろう。

先輩以外の人の、自分に向けられた優しさに。

梓の気持ちの変化に気付いても、小泉くんの気持ちが変わらないことを知っていても……
私の気持ちもまだ変わらずに、いた。

相変わらず、誰にも何も言えない日々。
梓に、私の気持ちを先に言うのはフェアじゃない。
そんな風に、言い訳をして。

けれど梓も私に気持ちを話すわけでもない。
彼女はいつも、きちんと自分自身で答えを見つけてから真正面からぶつかっていくから。
先輩の時のように。
だから、今はあの子のタイミングが、私に話すときじゃないんだな、と思う。

けれどそれを良いことに、延び続けているのは私の執行猶予期間。

ぶつかって、砕けてしまえば、本当は楽になれるのかもしれない。
梓に言わずに、ぶつかって玉砕して、梓に何も言わなければ、それで彼女も真正面からぶつかっていけるのかもしれない。


だけど……
もし私が、振られたときに言わなかったら、梓はきっと怒るだろう。
一緒に泣くんだろう。
そういう子だから。

でも、その先の梓の行動がわからなくて。
それでも自分もぶつかりに行くのか、諦めてしまうのか。
分からなくて。
そしてそのときの自分が、背中を押してあげられるのか、が一番分からなくて。

本当は親友なんだから、背中を押してあげなきゃいけないのに、それができるかどうか、分からなくて。


そんな自分が本当に嫌でたまらない。
……だから、言えない。


誰にも気持ちを伝えることができない。
自然に消化できる時を、待つしかないんだ。

桜の花びらが、満開を通りすぎて次第にはらはらと散りだした、もどかしい愛しい苦みを覚えた、18歳、春―――…。



言えない想い、迫りくる受験。
プレッシャーがかかる毎日。
それでも、そんな日々をやり過ごして、勉強に打ち込む。
受験が近づいてきた、三年生の秋。
担任に呼び出されて、最終宣告を受けた。


『本当にこれで良いのか?』


二年生の時にされたのと、同じ質問だった。
あのときと同じ顔で先生は私に問う。
確実に近づいている私たちの将来。
それを形にするために、立ち向かっていかなくちゃいけない。
恋する気持ちも大切だけど、目の前にある受験も大切なことだから。

三年間を通して、先生は奇跡的にずっと担任として、私を見てきてくれた。
私がどういう性格で、どんな将来を見ていたいのか。
細かくはなくても、きっと大きな目で見守ってくれていたんだろう。
進学率を上げたい、ただそんな気持ちだけではないと思う。
先生、というのは、案外色んなところを見ているんだな、となんだか感心した。




そして私は一つ、大きな決断をした。



朝起きて、ご飯を食べて、学校に行く。
授業に打ち込みつつも、ちらりと梓や小泉くんを見て、また授業に戻る。
放課になれば、梓とくだらないおしゃべりをして、授業後はわからない問題を先生に質問しに行く。
家に帰ったら、着替えて、また勉強。
ご飯を食べて、お風呂に入って、少しリラックスして、また勉強。
キリがついたらベッドに入って、眠ればまた朝が来る。

毎日毎日、同じような日々を繰り返して。

いつの間にか、息は白くなり、吹きつける風は冷たさを増していた。

卒業式の日は、新たなる門出を祝うように、眩しい太陽に照らされていた。
式次第を見ると、あの桜が校舎と共に写っているのを見つけた。
そこにある桜は、入学の日から変わることなく、校舎を、学校を、私たちを見守ってくれていた。

梓たちは、受験のプレッシャーにもなんとか勝ちぬき、卒業を前にきちんと自分たちの進むべき道を決めた。
相変わらず、私も梓も、お互いの想いを口にすることはなく、小泉くんもその変わらない想いを梓に伝えることはしていないようだった。

式典が終わり、教室につくと、卒業アルバムが机の上に配られていた。
懐かしさに目を細め、パラリパラリとページをめくると梓がやってくる。

「……メッセージ、書いて?」

相変わらずの笑顔を携えて、アルバムを差し出された。

「私のも、書いて?」

そう告げて、梓と卒業アルバムを交換する。
今はまだ、何も書かれていないアルバムの最後のページは、これから、私たちの3年間の友情や思い出で、カラフルに彩られていく。


ペンのキャップをとり、梓に向けてメッセージを書く。


『大好きな梓へ。』


その書き出しとともに、懐かしく、苦しく、輝いていた私たちの過ぎ去りし日々を振り返る。

『いつもまっすぐにぶつかっていく梓を、とてもうらやましく尊敬してるよ。
卒業したら、別々の道だけど、これからもずっと親友でいてね!』

一年半の私の片思い。
誰にも言えずにいた、この気持ちにも、卒業する。

それは私の、第一歩。

「梓、私ね、小泉くんの事好きだったよ」

書き終えた卒業アルバムを手渡しながらきっぱりと言う。

「梓が、小泉くんの事好きなの知ってたよ。先輩に振られて、恋に臆病になってたことも。私も、梓の気持ち知ってたし、性格もわかってるつもり。だから、何にも言えなかった。梓にも誰にも言えなくてずっと苦しくて、でも……。今なら言える、かな」

ざわざわと騒がしい教室では、誰も私たちの話など聞いていない。

「小泉くんが、好き…だった」

にっこりと笑って言うと、梓の瞳が少し震える。

「そんな顔、しないの!梓の事、大好きだよ?笑った顔が」

ポンポン、と頭をなでると、ふにゃっと泣きそうな、それでも温かい笑顔を見せてくれた。
梓から、アルバムを受け取る。

「さ、他の人にも書いてもらおう!」

色々な人のもとへと足を運んではメッセージを書いてもらう。

私の受験はまだ続く。
けれど、今日この時ばかりは。
少し位、この感傷に浸ったってバチは当たらないだろう。

まっさらだったアルバムの最後のページは、あっという間にカラフルに彩られて埋め尽くされていく。

本当は、小泉くんにも書いてもらいたいけれど、今はちょっと無理。
小泉くんをチラッと見ると、眠そうに眼をこすりながら鞄を掴んで帰るとしている様子が目に届く。
まだ、気付いていない様子の梓。

「梓!行っちゃうよ?」

梓がキュッと、何かを決心するような顔で見つめてくる。
頑張れ、そのエールをもって小さく、こくんと頷くと、梓が小泉くんのもとへと駆け寄った。


「あ、小泉くん!書いて?」

梓の声が聞こえて、本当に、私のこの想いとも卒業だな、と、どこかに安堵ともいえるような気持ちがわく。


寂しくて、でも、温かい。


ガラリと開く扉から出ていく小泉くん。
まだまだ、教室内は騒がしくしているから、それに気づいた人はあまりいない。


けれど……

そんな中、梓が慌てて荷物をまとめて

「桜ちゃん、ありがとう!!」

そう言い残して、教室を出て駈け出した。
私は、笑顔でそっと見詰めていた。

走り出した梓の背中を―――…。



パラリ、みんなからのメッセージを確認する。
あ、先生にも、書いてもらいたいな。そんなことを思いつつ。

カラフルなみんなからのメッセージ。
その中の一つ。
堂々と大きな文字で書かれたメッセージ。



『大好きな、桜ちゃん。
あの桜みたいに、凛と立つ、その姿にずっとずっと、憧れていました。
これからも、ずっとよろしくね!!』


頬に何かが、伝った気がした。


*あの頃。/完

吉田桜、初めての彼氏ができました。
恋が叶えば、笑顔でいられると思ってました。
でもそれは、違うんだと、知りました。





片想いだって、両想いだって

嬉しいし、切ないし、幸せだし、苦しくもなる。
だから私は、決めました。

私一人で笑顔になるんじゃなくて。
みんなを巻き込んでたくさんの感情の中にある“幸せ”を大切にしていくことを。





桜がふわりと舞う4月。
目指した大学で、オリエンテーションを受けていた。
合格した、入学できた!という喜びや実感は、忙しさに流されていく。
梓も小泉くんもいない、この場所で。
私は新たな時間を過ごす。

“友達できるかな?”なんて心境は、この先何年も生まれるものじゃない。
楽しもう。
切なくて苦しくて、甘かった、あの恋はもう胸にしまって。
前を向いて歩き出そう。
少ししかなかった春休みの間、ほんのちょっぴり、前向きになれた自分に気が付いた。



大学に入ってから2ヶ月。
私は早々に誕生日を迎えて19歳になった。
友達できるかな?なんて心配は、この年頃の大半の子達には関係もないのか、同じような行動をとっている子達とわりとすんなりと馴染めた。
けれど、梓のような存在は中々なくて。
やっぱりあのインスピレーションは特別だったんだな、と改めて思う。

苦い想いも苦しい想いも確かにあったけれど、それは私の問題で。
そしてかけがえのない時間だったことも事実。
そういう関係を、これからここでも見つけられるのかな?
そんなことを頭の片隅に、そして同時に、小泉くんを忘れられる日が来るのかな?なんて想いながら日々をこなしていた。

そして、そうやって、よく一緒になるグループの中にいたのが名嘉山海斗という存在だった。


海斗とは話し出してすぐに仲良くなれた。
それは不思議な感覚。
梓とも違う、小泉くんとも違う。
親友?そう呼ぶには一緒に過ごした時間が短すぎる。
でも。
男の子、女の子、そんな枠を越えて仲良くなれる気がしていた。

きっかけは些細な会話。
もしかしたら海斗は覚えてないかもしれないくらい、些細な。
それでも私には目から鱗が落ちてしまうくらいの発想で。
すごいなって、素直に感じた。


大学に入ってから周りの子達がキラキラ輝いて見えていた。
そんな中でいつまでも梓や小泉くんのことでくすぶっている自分が不毛に思えてきて。
でもそれはもう、どうしようもなくて。
同性の友達には何も言えなくて。
それはきっと返ってくる答えがわかっていたからかもしれないけれど。
けど、海斗には何故か、バカみたいだよね?て、自然に相談できてた。

「でもさ、みんなそんなもんじゃない?だし、悩んでる時間が不毛なんてことはないよ」

悩んでいた私にそういってくれた。
とても優しい顔で、遠い目をして。
その脳裏に浮かんでいるのは、他の誰かなのかもしれないけれど。
私の抱える悩みに付き合ってくれる。



自分を肯定してくれる言葉が返ってくるなんて予想していなかった私は、ビックリして思わず自分自身の否定の言葉をこぼす。
それは、きっと、女友達が答えてくれただろう答え。

「え、でもさ、ほら。やっぱり悩んでる時間があるなら、女磨きとかそういうのに時間回した方が絶対綺麗になれそうじゃない?」

考えを巡らすように一拍置くと、海斗は言った。

「んー、そりゃ、スパッと切り変えてそうできるならその方がいいのかもしれないけど。でも、実際できないわけじゃない?つまり、悩んじゃうのが自分自身ってことだ。幸せってさ、気付いた瞬間から幸せになれるんだよ。悩みがなかったらそういうことにすら気付かずに通り過ぎちゃうかもしれないでしょ。俺は良いと思うけど?そういうの」



女の子ならきっと言ってくれないし、他の男の子も言ってくれるかわからない。
そんな言葉を、海斗はくれた。

その言葉は胸にストンと落ちてきたし、ビックリするくらい素直に涙が溢れてきた。
自暴自棄になっていた時間もある。
こんな自分には、なんて卑屈になってしまった時間もある。
もう恋なんてできなくて、梓のような親友にも会えないのかも、そんなことを思った時間もある。

けれど、その時間のどれも、ずっと燻り続けて、泣くことができずにいた。
それが今、本当に驚くほど素直に涙が出てくる。
欠けていた心を埋めるみたいに。
泣いてしまった私を責めるでもなく、ただそっと見守ってくれてた。

「泣かせちゃった?」

涙を拭って、顔を上げると、少しだけ困った顔。
クスッと笑って首を振る。

「泣かせてもらったんだよ。ずっと……泣けなかったから」

そう言うと、それは自分を大事にしてないね?ちゃんと泣きなさい。と、怒られた。
涙には浄化の作用があるって言うけど、それは本当なのかもしれない。
前よりも、もっとずっと、前向きになれたから。


海斗と過ごす時間は楽しくて、本当に男女の垣根を越えた友達になれたな、と思ってた。
自分の気持ちの変化に気づいたのは、それからまもなく。
誕生日の話題になったときだった。

「桜は春生まれ?」

私の名前から、そう思う人は少なくない。
けれど、実際はそうじゃなくて。

「残念。6月生まれ」

両親の馴れ初めに桜が関係していることから名前がついただけだった。
6月9日、誕生日。
その日を告げると、海斗の瞳が揺れたのが分かった。

「香澄先輩と同じ……」

“香澄先輩”その名前は何度か聞いたことがあった。
こう言うときの勘は、大抵当たる。
そして、ツキンと胸に痛みが走る。
そこで初めて自覚した。

どうしてまた、繰り返してしまうかなぁ……



私の中では、消化不良の気持ちが膨らむ。
気づいてしまった瞬間から、その気持ちは大きくなっていくのだから、しかたがない。
仕方がないから、やっぱり、好きなままでいるしかない。
そう思ったら、なんだか、諦めがついてきた。
私はきっと、こういう巡り合わせなんだろう、と。

「最近元気なくない?」

と、その原因の当の本人に言われた日には、笑ってしまう。
だからいっそのこと、と、名前を伏せて悩み相談。
バカみたいなことしてるなって、泣きたくなった。


「また同じ。好きな人には、やっぱり、好きな人がいたみたい」

泣きそうになりながら話す私に、見守るだけじゃなくて手を差し伸べてくれたのは海斗だった。
好きな人の胸の中、幸せなはずなのに、切なくて苦しくて。

「ねぇ、俺と付き合ってみる気はない?」

その言葉には同情と優しさだけがあったんだと思う。
けれど、それにすがってしまった。
好きな人から、付き合わないか?と問われて断れるだけの強さを、私は到底持ち合わせていない。
それが例え、誰かの身代わりだとしても。

「面倒くさい女だよ?」
「うん、知ってる。でも俺もしつこい男だよ?」
「海斗?」
「何?」
「私、幸せになれるかなぁ?」
「それは難しい質問だな?前も言ったろ?幸せは自分で見つけるもんだ、って」
「そっか」
「そうだよ」

そうして私たちは、付き合い始めた。



一緒に過ごす時間が増えると、今まで見えなかった海斗が見える。
優し、いだけじゃなくて、ちょっと面倒くさがりで。
本を読むのが好きなこと。
ジャンルは色々。
言葉の端々に香澄先輩がちらつくこともあった。
その度に胸はチリッと痛みを覚えたけれど、それを選んだのは私だ。

生まれて初めて、彼氏ができた。
それも、私が好きな人。
彼氏ができれば、嬉しい気持ちになれると思ってた。
だけど。
こんな気持ちにもなるんだね。


当たり前か。
だって、私は私のままなんだから。
自分が変わらない限り、次の日から変身できるわけじゃないんだから。



香澄先輩に紹介する、と言われたのは大学のハロウィーンパーティー。
不安なような、何とも言えない気持ちがめぐる。
それはたぶん、彼なりのけじめであり、誠実さを表してくれてるんだろう。
でも、彼女である私への彼の誠実さに、苛立ちを覚えてしまう。
知らない方が幸せってこともきっとあって。

もやもやや、ぐるぐるは胸の中に溜まっていく。
けれど、時間は抗いようもなく過ぎていく。
ハロウィーンパーティーで会った香澄先輩は、とても可愛い人だった。
彼女、と人に紹介されたのは初めてで、とても照れ臭くなった。
たったそれだけのことだけど、少しだけ海斗の彼女である自分に自信が持てた気がする。
香澄先輩は姿形が可愛いだけじゃなくて、“海斗の彼女”の私のことを可愛がってくれた。
でも、楽しい時間ばかりじゃなくて。
ねぇ海斗。
海斗にとって香澄先輩はまだ、大切な人ですか?
聞けないままの質問が、私の心を締め付ける。


ハロウィーンパーティーからしばらく経ったある日の午後。

「桜ちゃん!」

食堂で呼び掛けられて振り向くと、そこには香澄先輩がいた。
相変わらず可愛らしい姿で、ふんわりパーマが揺れる。
海斗の好きな人。
でも私は、この人を嫌いになれない。
何故だろう?
この人から私に向けられるのは、紛れもない好意でしかないからかもしれない。

「海ちゃんと会うの?」
「はい」
「そっか、デート?楽しみね」
「ありがとうございます」

嫌いにはなれないけれど、先輩の口から発せられる“海ちゃん”という名前には否応なく反応してしまう。

「海ちゃんたら、桜ちゃんに夢中なんだもん。私も彼氏ほしいー」

香澄先輩のその言葉には、流石に胸がグッとつまった。
だから何も言えずに、会釈だけを返して足早にその場を去っていった。

泣きたいのに、一人で泣けないのは、今も同じ。


待ち合わせ場所につくと、突然海斗は私を抱き締めた。
今までそんなこと無かったのに、それも外で、なんて。
動揺が広がる。
それと一緒に感じるのは不安。
海斗にこんな風に影響を与えるのはきっとあの人。
捨てられる、時が来るのかな?
海斗はあの人のもとへ、行っちゃうのかな?
そう思ったら、目頭が熱くなってきた。
どうやら、私の様子に気づいた海斗が私の顔を覗きこむ。

「……桜?何で泣きそうなの?」

その問いかけを合図に、私は、グッと海斗の胸を押し返した。
二人の間にできた隙間を風が吹き抜ける。

「海斗、の、大切な人のとこ、行っていいよ……」

振り絞るようにして、言った。
差し出されたあなたの手を、自分から離す時が来るなんて、信じられなかった。


「桜?」

怪訝そうに海斗は私を窺う。
イヤイヤ、と駄々っ子のように首を振るしかできなくて、これ以上の言葉を紡げない。

「桜、聞いて?」

それでもなお、首を振るしかできない私を、海斗は捕まえる。
付き合おう、と言ったあのときのように、その胸へ私を誘う。

「いるじゃないか。大切な人の、ところに」

その言葉を受け入れていいのか、分からない。
私には、海斗と香澄先輩の間に何があったのかなんて分からないから。
すべてそのまま受け入れていいのか、分からない。

「言ってよ、桜。ちゃんと思ってること。ねぇ、言って?」


「か、香澄先輩の、こと、好きだったんでしょ?」

海斗は意表を突かれたように目を丸くしている。

「なんで?」
「女の、勘はなめちゃダメ」

ははっと笑う。
そこには肯定も否定もない。
ねぇ、否定の言葉がほしいのに。
今付き合っている私は、ねぇ、何?

「……っ、だから、先輩のとこに、」

行っていいよ、って言う、私の嘘っぱちの声は、風に溶けた。
気がつけば、きつくきつく、抱き締められていた。

「先輩のことは、好きだったよ。それは否定しない。過去の自分のことだからね」

その言葉に胸がツキツキ痛みだす。
本人の口から聞くのが、こんなに痛いものだなんて。
かつて小泉くんから聞いたのとはまた違う。
何でこんなに苦しいんだろう?



「桜、分かってる?過去、だよ。……今じゃない。大切なのは今だし、今、付き合っているのは俺たちだろ?」

思いがけない海斗の言葉に、痛んでいた胸は、違う痛みを覚えた。
それは、きゅぅ、と締め付けられるような甘い痛み。
私の言葉より、態度より、この胸の痛みは素直だ。

「ねぇ、それよりさ。俺は自惚れても良いの?桜のそれは、やきもちだ、って」

紛れもない、私のやきもちを捕まえて海斗は嬉しそうに言う。
その笑顔が憎たらしくて、でも、愛しくて、幸せで。
不思議。
幸せって、こんな風にも見つけられるのね。
初めて知った。

「桜、良い機会だからちゃんと言う。桜の心がまだ、他の誰かに支配されていたとしても。……俺の心は、まっすぐ、桜だけに向いてる。だから、桜の気持ちがこっちに向くように頑張るから、一緒に前を向こう。俺と付き合って?」

抱き締められたまま、紡がれた愛の告白は、頑なな私の心を少しずつ溶かしだす。
完全に拭いきれない香澄先輩への劣等感は、憧れの裏返しなのかもしれない。
そして何より、まっすぐ向き合ってくれている海斗に私の心を伝えなくちゃ、いけない。

「私は、海斗が、好き」

まさに一世一代。
生まれて初めての、告白は……



パチパチ
ひゅーひゅー




いつのまにか集まっていたギャラリーに、祝福されて、終わった。
きっと、これからの笑い種にされるんだろう。




*今と未来を繋ぐもの。『桜咲く』/完


彼女は嘘つきだ。

とても分かりやすく、誰もが見破れるような嘘をつく。
その嘘は自分を守るための防御策。
それを知っていた。



だから僕は、彼女と“友達”であり続けることを、選択した。





「私、実は魔法使いなのよ」

ふふふ、と可憐に笑う彼女はどこか誇らしげだ。
肩まである、ふんわりパーマが彼女が動く度に揺れる。
揺れる度に、その髪から香る彼女の匂いにドキドキさせられていた。

「杖でも使って?」
「ちちんぷいぷい」

僕が話に乗っかると、人差し指を杖に見立てて呪文を唱える。
なるほど、その姿はどことなく様になっている気がする。



「今年のハロウィーンパーティーは、魔女のカッコで行こう」

うんうん、と頷きくるりと反転して僕のもとから走り去る。
後ろ姿の足取りは軽やかだ。
その姿、言動は、複雑で繊細な彼女の心の中とは真逆のようだ。

あのとき溢した『もぅ、嫌だ……』という言葉ひとつ。
ただそれだけが、僕に曝した本心だったのだと思う。



彼女は、僕の好きだった、人。


「桜、この魔女が僕の先輩。香澄先輩、僕の彼女の桜」
「はじめましてぇ!あなたが!噂の海ちゃんの彼女!」

きゃっきゃとはしゃぐ香澄先輩が、僕を肘でグリグリとして、可愛いじゃない、なんて言う。
先輩のこんな姿を見るのは久しぶりだ。
桜は照れているのかほんのり頬を桜色に染めて、それでも香澄先輩と目線をあわせて、こんばんは、と挨拶をする。


……うん、可愛い。


「……可愛いー!」

そう叫んで、桜をぎゅっと抱きしめたのは、僕ではなく香澄先輩。
髪がふわりと揺れる。
真顔で、海ちゃんなんてやめて私にしない?なんて聞くもんだから、桜は困惑したように目を泳がせては、えぇ?!と本気で驚いている。

べりっ、と桜から香澄先輩を剥がして、ブスッと小さくにらむと、香澄先輩は、えへっと笑う。
その間で桜は僕と先輩をキョロキョロと見ている。


桜が、僕の服の裾をちょんと引っ張ったことに、気づいた。

「やめてくださいよ、先輩が言うとシャレに聞こえません。桜が困ってる」

僕がそう言うと、香澄先輩はその唇を尖らせて、チェッと言った。
その姿は、とても女性らしく魅力的で、胸がきゅっとうずいた気がした。
それは、過去の傷。

気をとり直したように香澄先輩は桜と向き合い、何を言い出すのかと思ったら……

「私、女の子が好きなのよ」

と、桜の手をそっと握るものだから当の桜はまたしても困惑ぎみに固まる。

「桜、違うから。先輩ちゃんと彼氏いたから」

この言葉は先輩には酷だったかも、と気づいても桜を放置するわけにはいかない。
僕がフォローすると、あからさまにほっとする桜。
その様子がなんだか微笑ましい。
心が柔らかく、暖かくなる。

この気持ちは、桜が初めて僕にくれたものだ。

「先輩。だから、あからさまにすぐわかる嘘を言うのはやめてください」

もう一度たしなめると、はーい、と笑った。

ドラキュラの格好をした僕と、猫耳の桜、そしてワインレッドの魔女の格好をした香澄先輩。
他にも、仮面をつけたドレス姿の人に海賊、骸骨に……なぜか混じってる、メイド姿。

今日は大学のハロウィーンパーティーだった。

うちの学校は中学から大学までが隣接していて、学祭や体育祭に及ぶまで中学から大学まですべて合同で一斉に行われる。
いったい何に金をかけてるのか、というくらいお祭り好きで、それはもう参加人数も手伝ってド派手に。
そのために大学の大広間を造ったとまで聞く。
あくまでも、噂だけれど。

病気、怪我、冠婚葬祭以外、基本的に参加が義務というのは、どれだけ好きなんだ、という話だが。

人々の山を潜り抜けれは立食型のパーティーらしく、料理の数々が並ぶ。
唯一禁止されている仮装『黒い魔女』は、スタッフの衣装だ。
その中でも、ごく数人の『篭を持った黒い魔女』に「トリック・オア・トリート!」と合言葉を言えばお菓子をもらえる。
それも、コンビニなんかのものではなくて、ちょっと有名店のものだったりするから、さりげなく女性陣が目を光らせている。
僕と桜と香澄先輩は皿にいくつか料理を乗せて壁際に用意された椅子に座って、食事をとっていた。
スッと動いた人影からのぞいた黒い魔女が持つかぼちゃの篭。
ひょい、と体を傾けて確認すると、間違いない。

話に夢中になっている桜と香澄先輩はその魔女に気づく様子が全くない。

「…トリック・オア・トリート?」

僕が呟くと、香澄先輩がさっと顔を上げる。


ふわりと、その髪が揺れる。
続いて、桜も顔をあげて僕を見る。
その瞳が期待で満ちている。
僕は無言でスッと指差した。

「桜ちゃん、行こう!」

いつの間にか、仲良くなっていた二人は僕に料理を預けて、魔女のもとへと駆けていった。
香澄先輩が、魔女に向かって合言葉を言うと、魔女から返事がありお菓子が手渡される。
桜も同様に、手にしたお菓子に顔をほころばせている。
戻ってきた二人が、僕にそのお菓子を見せびらかす。
いや、正確には見せびらかしたのは香澄先輩だけで、桜は僕に見せてくれて「後で一緒に食べよう」と言ってくれたのだけれど。

「じゃじゃーん!ねぇねぇこれ、有名店のチョコだよ!ホントうちの学校は変なところにお金掛けるよねぇ」

先輩はしみじみと呟いて、そのチョコをカバンの中へとしまった。


お皿の料理もなくなったころ、僕は桜の手をとり立ち上がった。

「先輩、じゃぁ僕たちはそろそろ」

そう言った僕を一瞬、見つめて。
にこりと笑った。

「桜ちゃん、送り狼されないように気をつけるのよ~!」

香澄先輩のその言葉に、顔を赤くする桜はやっぱり……


「可愛い~~!」

香澄先輩に、抱きつかれていた。
先輩に先手を打たれた僕が葛藤を覚えたのは言うまでもない。



そして、本当に送り狼になったのかどうかは、ご想像にお任せすることにする。


パーティーから、数日たったある日のこと。


桜との待ち合わせに、大学構内のベンチに座って本を読んでいた。
人の気配がして、本に影が落ちる。
顔を上げると、ふんわりパーマの香澄先輩。

「なーにしてるの?」

にこっと笑顔で、しゃべりかけられる。
僕は本にしおりをはさんで閉じると先輩の顔をじっと見つめた。

「先輩。大丈夫。……僕たちは、ちゃんと幸せになれるよ」


ほんのちょっぴり、香澄先輩の顔がこわばる。

「海ちゃんて、意地悪よね。あと、ずるい」

先輩の言葉に苦笑する。
あなたの不器用さが、とても好きで。
繊細な心を愛しいと思っていた。

けれど先輩が僕を選ぶことがないことも知っていたし、何より、僕は桜と出会った。

だから僕は、先輩とずっと友達でいつづけることを選んだ。

「先輩、僕たちは、あの頃の先輩たちじゃないんだよ」


段々と強ばるその表情は、ぐっと、溢れそうになる物をきっとこらえているんだろう。

「先輩が、僕の近くにいても、いなくても。僕の気持ちは、今は、ちゃんと桜に向いてるから」

好き“だった”人に……先輩に、傾いたりは、しないから。

「僕の気持ちを試そうとしなくても、大丈夫だよ」

三角関係の末に、友達に彼氏を奪われてしまった先輩は、きっと桜と自分を重ねていたんだろう。
先輩は、とても優しいから。

僕の気持ちを、知っていたから。


「ちゃんと……。ちゃんと、幸せにしてあげてよね」

キュッと手を握り締めって、小さく言った言葉は。
それでも僕の耳にしっかりと響いた。

「うん、幸せに」

僕のその言葉に満足したのか、先輩はくるりと向きを変えて、歩き出した。
数十メートル離れた先で、またくるりとこちらを向いて、香澄先輩は大きな声で、叫んだ。


「海ちゃんなんか、不幸になっちゃえ!」

ニッと笑って、再び向きを変えて歩き出した香澄先輩はその後一度も振り返ることなく、まっすぐに帰って行った。




彼女は、嘘つきだ。
僕はその後ろ姿を、しばらく眺めていた。
彼女の最後の嘘は、まるで優しい魔法のようだった。



『海ちゃん、好きよ。ありがとう』











*卒業。『最後の嘘』/完